いい国つくろう鎌倉幕府。 日本史年号 語呂合わせ123選

源頼朝のエピソード!奥さんに愛人の家を破壊された!?

いい国つくろう鎌倉幕府

歴史は常に不変ではない……研究が進んで定説が改められ、新説にとって代わられることは少なくありません。 最近では 鎌倉幕府の成立年がその好例とされ、かつて学校で「 いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせで教えられた従来の 建久三1192年から、「いい箱(1185)……」とする 文治元1185年に変えられつつあるようです。 しかし、その根拠にはいささか疑問が残るものであり、とかく奇を衒(てら)って新儀を巧み出そうとする言説には注意が必要です。 そこで今回は、 鎌倉幕府の成立年に関する諸説を紹介したいと思います。 どうしていい国(1192年)?鎌倉幕府の成立年に関する諸説を紹介 まず、鎌倉幕府の成立年について、建久三1192年の定説を含めた諸説を、簡単な理由つきで時間順に並べてみましょう。 治承四1180年……挙兵(謀叛)した頼朝公が鎌倉に入り、 勢力基盤を固める• 寿永二1183年……朝廷より頼朝公の「謀叛」が許され、 東国の支配権を公認される• 文治元1185年……平家が滅亡、朝廷より 全国の支配権(地頭の設置)を公認される• 建久元1190年……頼朝公が 右近衛大将(常任武官の最高位)に任じられる• 建久三1192年……頼朝公が 征夷大将軍に任じられ、 名実ともに「武家の棟梁」となる• 承久三1221年……承久の乱で後鳥羽上皇に勝利、 朝廷権力も掌握する こうして見ると、まだ「謀叛人」の状態である治承四1180年説は、 後世から見た結果オーライ(荒唐無稽)な言説に過ぎないことが分かります。 併せて承久三1221年説は、上皇とは言え朝廷との対立によって権力を掌握・強化していることから、これをもって(朝廷の承認を前提とする)幕府の成立とするのは無理があるでしょう。 さて、時代を戻して頼朝公の謀叛が許されて東国の支配者となった寿永二1183年、全国の支配者となった文治元1185年の両説はまだ説得力を感じられますが、 支配体制の拡充を以て幕府とするなら、その体制が形骸化(実質的に破綻)した時点で幕府の滅亡としなくてはなりません。

次の

日本史年号 語呂合わせ123選

いい国つくろう鎌倉幕府

歴史は常に不変ではない……研究が進んで定説が改められ、新説にとって代わられることは少なくありません。 最近では鎌倉幕府の成立年がその好例とされ、かつて学校で「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせで教えられた従来の建久三1192年から、「いい箱(1185)……」とする文治元1185年に変えられつつあるようです。 しかし、その根拠にはいささか疑問が残るものであり、とかく奇を衒(てら)って新儀を巧み出そうとする言説には注意が必要です。 そこで今回は、鎌倉幕府の成立年に関する諸説を紹介したいと思います。 治承四1180年……挙兵(謀叛)した頼朝公が鎌倉に入り、勢力基盤を固める• 寿永二1183年……朝廷より頼朝公の「謀叛」が許され、東国の支配権を公認される• 文治元1185年……平家が滅亡、朝廷より全国の支配権(地頭の設置)を公認される• 建久元1190年……頼朝公が右近衛大将(常任武官の最高位)に任じられる• 建久三1192年……頼朝公が征夷大将軍に任じられ、名実ともに「武家の棟梁」となる• 承久三1221年……承久の乱で後鳥羽上皇に勝利、朝廷権力も掌握する.

次の

【検証】やっぱりいい国(1192年)鎌倉幕府…その成立年に関する諸説を検証してみた

いい国つくろう鎌倉幕府

それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。 源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には 関東の武士団の勢力が関係してきます。 そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。 当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。 しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。 当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。 そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。 特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。 しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。 武士団の願いは 「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。 源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。 「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由 では、江戸幕府滅亡まで約 680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。 このような地形は 守りやすく攻めにくい地形であると言えます。 源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。 その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。 鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。 また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。 地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。 当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。 このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。 その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。 武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。 鎌倉幕府と切り通し 最後に、鎌倉幕府が作った 「切り通し」について説明します。 鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。 本来、切り通しは道幅が広いものもありますが鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。 切り通しについて理解を深めていきましょう。 本来、切り通しは道幅が広いものもありますが、鎌倉の切り通しは一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。

次の