古文 吉野。 古文勉強法【完全版】偏差値44から京大に合格!

東進の講座について質問です古文の自信がないので古文の講座を取...

古文 吉野

開花時期の景観。 山上から金峯山寺方面 吉野山は頃から桜が植え続けられてきた。 特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。 植えられている桜の種類は、ほとんどがであり、その数は約3万本にも及ぶという。 これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。 この時期の吉野山は花見客で大変、賑わう。 下千本 - から山上へ上がる七曲坂周辺にあたる。 中千本 - 五郎兵衛茶屋からにかけての一帯。 上千本 - 火の見櫓から花矢倉にかけての坂周辺にあたる。 も含むとする説と、吉野水分神社は奥千本とする説がある。 奥千本 - 高城山付近・付近と苔清水・西行庵付近。 かつては高城山から金峯神社にかけても数多くの桜樹があり名所であったというが、現在は自然災害や、戦前の一時期に杉桧への配置植林を行ったため、高城山や苔清水・西行庵付近に僅かに残る桜の林以外は、杉桧の林に変わっている。 金峯神社参道の坂道の両側の桜は2010年頃にそれまでの木を伐採して植え替えられたもので、既に花を咲かせるようになっている。 苔清水・西行庵付近が従来奥千本で最も大規模なの桜の林であったが、それでも桜の木は100本以下であった。 周辺は杉林であったが2015年頃から伐採して、代わりに桜が1000本植えられたため、将来は名実ともに奥 千本となる。 かつての名所 [ ]• 長峯の桜 - 鉄道が今の吉野駅まで延長されるまでは、(当時の吉野駅)から柳の渡し(または美吉野橋)で吉野川を渡り、東尾根筋に沿って六丈平(吉野神宮辺り)を経て下千本に出る道が、吉野山へ至る参道であった。 この道の両側には桜並木があり古くから長峯の桜と呼ばれていたが、現在は参道から外れたことや道路拡幅などにより、これらの桜は失われた。 桜が多い理由 [ ] 吉野山に桜が多いのは、桜がの 神木であるとされたことによる。 の開祖とされるは、(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。 その時に用いられた木材が桜樹であった。 以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。 これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたという。 そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。 また大海人皇子(のちの)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられる。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 信仰登山の吉野山 [ ] 吉野山は、を経てへ続く山岳霊場・修行道の北端にあたる。 ()に活躍した呪術者・役小角は、葛城山(・)、大峰山で修行を重ね、金峰山(大峰山系)で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とするや修行道である大峯奥駈道を開いたとされる。 大峯奥駈道は、南端の熊野を発して吉野に至るのを順峯といい、北端の吉野から熊野に至るのを逆峯と呼んだ。 途中には神仏が宿るとされる拝所・行場が設けられ、これらは靡(なびき)、古くは宿と呼ばれ、多い時は120宿があったというが、近世に75の靡となった。 そのうち吉野山は6つの靡の範囲となる。 75靡 柳の宿 - 柳の渡し(美吉野橋)付近• 74靡 丈六山 - 辺り。 かつては丈六山一の蔵王堂があったとされる。 73靡 吉野山 - 銅の鳥居や金峯山寺蔵王堂など。 72靡 吉野水分(子守)神社• 71靡 金精大明神 - 金峯神社• 70靡 愛染宿 - 吉野の奥の院(安禅寺)とも呼ばれた。 明治初年まで寺院宝塔があったとされる。 愛染宿より南はであったが、現在の大峯奥駈道の女人結界は五番関に移されている。 なお、付近に現在も女人結界跡として残る。 歴史に登場する吉野山 [ ]• 、大海人皇子(のちの)は、当時の大津の都を離れて出家して吉野山に隠棲したが、兄のの死の知らせを受けて美濃へ脱出し兵を上げ、天智天皇の子のを倒して政権を握った。 「よきひとのよしとよくみて、よしといひし、よしのよくみよ、よきひとよくみつ」(『』)は有名。 (元年)冬、の討伐を受け、・らは吉野山に身を隠したが、ここでも追討を受けてと別れ、東国へ脱出したと言われている。 吉野山内には、いくつかの旧跡が残る。 (2年)、討幕運動であるの際、(後醍醐天皇の皇子)が一時、吉野山()を拠点として活動した。 しかし、翌(3年)には幕府方、率いる軍勢に攻め入られ陥落。 この時、が大塔宮の身代わりとなって蔵王堂で自害し、宮は方面へと逃れたとされる。 (3年)、は神器を持って京都を逃れ、吉野山に別の朝廷(または吉野朝とも呼ばれる)を置いた。 このあと・の南朝側天皇が続いた。 のちに東花坊(の一人、)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠んだ。 (3年)、が吉野山で花見を行った。 この時の一行は5千名ほどであったという。 太閤が花見を行った場所として太閤の花見塚が残っている。 吉野山と芸術 [ ] 山中に咲く桜 雪の吉野山 [ ] 吉野山が現在のような桜のイメージで知られるようになったのは、後期あたりからと考えられている。 それまでは、「春の訪れが遅く雪深い」イメージが強く、において、の「み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(春歌上)と詠まれているのが桜についての初見ではあるが、この頃はまだ、にも選出されている、の「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(冬歌)に代表される雪の歌が優勢であった。 雪から桜へ [ ] 平安期に修験道が発達するにつれ、開祖である役小角の奉じた蔵王権現の神木として桜が尊重されたことから、吉野山の桜が徐々に名を上げ(積極的に植樹を行い、爆発的に数が増えたという説もある)、の時代になると、桜と雪はすっかり立場が逆転してしまっていた。 新古今集の代表的歌人で「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」と詠ったも吉野をたびたび訪れ多くの秀歌を残した。 山上には「西行庵の跡」もある。 歌舞伎舞踊 [ ] 江戸時代に初演された・の『』は大当たりとなった。 劇中の『道行初音旅』(みちゆき はつねの たび)は、単独でこれを上演する際には『 吉野山』と通称する。 本来はだが、・・に書き直された作品もある。 吉野山を歌った詩歌 [ ] 短歌 [ ] み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ。 :- 『』冬、 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき - 敵である頼朝を前にして、義経との別離をが歌ったもの。 「吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい」。 (現代語訳は『』訳)上の壬生忠岑の歌を本歌とする。 鉄道唱歌 [ ] (明治33年)に作詞された「第五集 関西・参宮・南海篇」(作詞)では、3番に渡って吉野山が歌いこまれた。 ・と共に、作者の歴史・景勝好みが影響しているものと見られている。 ふたたび渡るの 水上とおく雲ならで 立てるは花の吉野山 見て来んものを春ならば 47. あわれ暫(しばし)は南朝の 仮の皇居となりにけり の月のかげ 曇るか今も夜な夜なは 48. 夕べ悲しき梟(ふくろう)の 声より猶(なお)も身にしむは 如意輪堂の宝蔵に のこる鏃(やじり)の文字の跡 名所・旧跡 [ ] 長峰 [ ]• 峯の薬師堂跡• の墓 下千本 [ ]• 昭憲皇太后立碑 - 下千本駐車場あたり。 下千本が一望出来る。 七曲り坂 中千本 [ ]• 黒門 - 金峯山寺の総門。 明治以前は大名といえども、馬を下りなければならなかったと伝えられる。 弘願寺• - 重要文化財• 藤尾坂 - 義経と別れた静御前が吉野衆徒に捕らえられたと伝えられる• - 世界遺産• 仁王門 -• 蔵王堂 - 国宝• 二天門跡• 脳天大神龍王院(吉野脳天神社) - 金峯山寺の西側の谷の底にあり、金峯山寺からは石階段で下りることが出来る。 - 跡• - 世界遺産• 五郎兵衛茶屋• 桜展示園• 後醍醐天皇陵 - 如意輪寺内• 太閤花見塚• 「」を参照 交通アクセス [ ] 公共交通機関 [ ]• の終点駅下車。 山上へは吉野駅近くにある(千本口-吉野山:が運行)を利用するか、徒歩で七曲がりと呼ばれる坂道を上がる。 近鉄吉野駅からロープウェイ吉野山駅へは徒歩で約30分。 ロープウェイ吉野山駅から金峯山寺・蔵王堂へは徒歩約10分。 (途中にある黒門・銅の鳥居付近は急な坂道である)• または吉野大峰ケーブル自動車の奥千本まで走るバスと、吉野山を巡回しているコミュニティバスが、桜のシーズン以外に運行されている。 桜のシーズン中には奈良交通の臨時バスが吉野駅から中千本公園口まで運行される。 自動車 [ ] 吉野山の道路は狭く急な坂道が多く、また山上には駐車できるスペースが少ない。 そのため下千本地域の「吉野山観光駐車場」(約400台)または中千本地域の「如意輪寺駐車場」(約300台、未舗装)から徒歩の方が都合が良い場合もある。 この2つの駐車場は桜のシーズン以外は無料。 その他の中心部の民営駐車場はほとんどが通年有料。 下千本駐車場から金峯山寺・蔵王堂へは徒歩約15分 如意輪寺駐車場から金峯山寺・蔵王堂へは徒歩約30分• 吉野山へは… 線から、吉野川に架かる吉野大橋を渡り南詰の信号のある交差点を直進、大きく左にカーブして、吉野警察署の前を通り過ぎ、しばらく行くと丁字路に突き当たる。 この丁字路を右折すると坂道と急なカーブが続き吉野神宮の前に出る。 さらに進むと下千本駐車場が見えてくる。 また丁字路を左折しすぐに右折(実質的には直進)し近鉄吉野線の踏切を渡って、すぐの交差点を右折すると吉野駅を経て如意輪寺駐車場へと至る(観光車道と呼ばれている道)。 丁字路・踏切付近には桜のシーズン中の日中には誘導員が立っている。 踏切は近年改良工事がなされ通りやすくなった。 桜のシーズン中 [ ]• 桜の時期(3月末から5月初め)には交通規制がなされ、中心部の道路は早朝や夜間以外は歩行者天国となる。 この期間に自動車で来訪した場合には吉野山観光駐車場・如意輪寺駐車場・中千本公園地区にある各民間有料駐車場、または吉野駅周辺等に設けられた臨時駐車場から徒歩となる。 この期間は駐車場はすべて有料となる。 また4月上旬の土日には有料の郊外駐車場が設けられ無料のシャトルバスが運行される()。 この期間は吉野山観光駐車場および如意輪寺駐車場までの道路も、早朝や夜間以外は交通規制され、規制時間中は観光目的の車は吉野山周辺へは進入出来ない。 また、吉野山観光駐車場はピーク時の週末は観光バス専用となる。 なお、早朝に吉野山の各有料駐車場まで到達し駐車した場合、帰り(下山)の通行は規制時間中でも認められている。 もちろん歩行者天国の道路は通行できないので、それ以外の道を経由して下山することになる。 歩行者天国内の駐車場に早朝に駐車した場合は、例年19時までの歩行者天国解除まで缶詰となる。 関連項目 [ ]• - のの1番艦。 艦名は本山に因む。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 国指定文化財等データベース().

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吉野敬介は大腸がんで死亡?東進やめてただよび転職の実力派講師

古文 吉野

人物 出身。 、二部文学科 を経て代々木ゼミナール講師となる。 では、長時間のでも知られる (ただし、ビートたけしの著書に登場するエピソードもある)、の繰り返しが多いという特徴がある。 90年代は多くのバラエティ番組 に下記の経歴を伴って出演して全国的に有名となる。 同時に、自伝風の著書が売れ、化されるほどであった。 、授業中に生徒を殴り傷害容疑で書類送検された。 、のブログが自著の内容に酷似していたとして「杉村さんは確信犯じゃないか」と怒ったことが話題となったり 、差別発言が問題視されたりした。 1月末に代々木ゼミナールを退職。 その際への出馬の可能性を報道され、本人も「今の教育の荒廃には目をつぶっていられない」と意欲を見せていた が、出馬しなかった。 同年、個別指導の吉野塾を設立。 自身のを伝えたアルバイト学生に指導させる方針であったため、自身は講師業から退く形となったが、翌年には東進ハイスクールで講師として復活し、芸能プロダクションとも業務提携を結んだ (現在は解消)。 当初は港区の月40万円のマンションに校舎を構え 、塾の方針を伝える著書も出版した。 しかし、10月に校舎をに移転した後はHPに「準備中」と表記され、開講不明の状態が続き、3月に募集の中止を発表した。 その後、まもなくHP自体が削除された。 に起きたのゴーストライター問題で、のは吉野の経歴との類似点を指摘した上で、佐村河内氏の経歴の「元ネタ」である可能性を主張した。 講師業以外にも、自己啓発本・教育論も執筆するほか、教育評論家としてでの講演活動も行っており、地方公共団体主催の講演においても下記の経歴で紹介され 、道徳の授業でも題材として採り上げる中学校もあるほどである。 現在も、タレントマネジメント会社に所属している。 個人ブログも開設しており、東進時代に公開授業でほぼ毎回同じような内容になっていたが 、これらは大筋の内容を先に書いていると述べている。 ネット上での自己に関する書き込みに対しては、「匿名で一方的に文句をたれるというのは、卑怯者のすることだ。 (中略)一方的に文句をたれているだけのようなヤツは、相手にするつもりはない」 「そんなヤツらをまともに相手にしたら、自分がそいつらと同レベルに落ちてしまうだけだ」 と述べている。 著作物 自身の経験を引き合いにした(ただし、 )自己啓発本が多い。 そこではおおむね 暴走族の特攻隊長であった高校時代を経て、卒業後に中古車販売店で働くも20歳の9月に失恋を機に大学受験を決意し、9月から12月で国語の偏差値を25から86に上げて大学に合格し、代々木ゼミナール採用試験に史上最年少・最高得点で合格したという経歴が示され 、2020年現在も同様のプロフィールで活動している。 しかし、以下で示すように、経歴の内容が 著書や授業中の発言ごとに変化しており、喫煙姿の写真や使った教科書・参考書などの写真は載せてあるものの、暴走族姿(特攻服姿)の写真や模試の成績表など 経歴を裏付ける資料は載せられていない。 上記の角田は、「吉野氏の経歴の偽りには僕も失望している」 として、「報われないのが、『吉野先生を見習って第一志望の明治に合格したけど国学院に入学した』とか『自分も国語の教師になろうと思った』という人々。 失望感とか絶望感とかどうにもならないのではないか」と述べている。 受験勉強について• 20歳の( 1986年9月20日)に受験を決意したという肩書きであるが、1998年の著書には、 1986年1月1日(高校卒業10か月後、大学合格の1年以上前)の日付がついた写真でこたつで勉強している姿が載っているものがある。 同著は、1991年の著書を加筆訂正したものである ところ、1991年の著書での当該写真はズームしており日付部分は切られていたが、1998年の著書では写真全体が載っており日付部分が現れた。 ほとんどの著書では当初の偏差値を25と称しているが 、中には当初の偏差値を28と称している著作もある。 現代文の勉強法として、「朝の2時間。 俺はの社説をノートに書き写していった。 (中略)4カ月間、毎日必死にそれを続けたんだ。 (中略)その時のノートをいまだに捨てずに取ってあるよ」 と述べて、当該ノートの見開き写真を載せている著書が複数あるが、 ノート左上に書いてある日付が1991年の著書 では 昭和58年4月15日、1998年の著書 では 昭和58年4月30日であり、いずれも吉野が 高校2年生のときの日付である(いずれも日付は不鮮明だが、書き写されている内容がその日の朝日新聞の社説と一致。 その後も2007年著書と2011年著書で「朝日新聞の社説を毎日写したノート」としてノートの見開き写真を載せている が、写真のピクセル処理が粗く判読不能)。 複数の著書で、9月23日の模試では国語の偏差値が25で 12月17日の全国総合模試(代ゼミの模試と述べている )は86で全国3位と述べられている が、模試の成績表は示されておらず、その年の代々木ゼミナールの全国総合模試は12月21日に開催されており、 そもそも1986年12月17日は平日(水曜日)であり、代ゼミで模試は開催されていない。 上記以外の模試では、 の模試で92、の模試で87~88を取った とも発言しているが、吉野が受験生だった年の 旺文社と駿台の私大型全国模試は11月9日と11月16日に終了している。 他方、当初の著書では「11月の模試では、国語が65」 と述べていた。 1日の勉強時間について、90年代、「 22時間」 および「 20時間は勉強」 と表現していたが、2006年の著書では「 一日20時間勉強した日も少なくない」となり 、2008年の著書では「 一日20時間近い日もあった」という表現になっている。 また、連続で寝なかった時間についても、 86時間 と書かれているものと 70時間 と書かれているものがある。 当初の著書では、大学受験を決意したときには小学校で扱う内容のことも知らなかったことが書かれている(例「『?誰ですか、それ』『1192年?何かあったんですか』。 ふざけているわけじゃなく、ほんとうに知らないのだ」 )が、2008年の著書では「小学校のときは天才と言われていた」 、2009年の著書でも「小学校までオレはものすごく成績が良かった。 クラスのいちばんっていえば、オレか、もしくはその藤田って、まあそういう関係だった」として小学時代には成績が良く中学受験(と述べている )をしたエピソードが書かれている。 12月の最終模試が終わっても学力が伸びることを述べる際、自身の学力について「12月の時点で、日本史の偏差値は55。 (中略)最後の模試といったって、それで終わりじゃない。 そこからが勝負だ。 今から思えば、もし2月に模試を受けていたら、日本史も偏差値75は超えていたはずだ」 と 仮定に基づいて推測していたが、別の機会では「日本史なんか、最後75までいった」 「日本史もね75,6はいったんだよね、最後」 と発言するなど 既成事実になっている。 なお、「日本史は、はあまり出ないから教科書くらいしかやらなかった」とも述べている。 上記の12月17日の模試で国語が全国3位だったと書かれている が、最近の著書では「生まれて初めて書いた小論文が全国で3番だった」 とも書かれている。 1月15日の成人式のパーティに参加せず勉強したというエピソードに関して、90年代の著書では「アキノブの家に行って、パーティのことを忘れるように、ただ勉強に打ち込んだ」 「15日には、オレはパーティのことを忘れるために、塾で友だちになった伊藤章伸のところで勉強することにした」 と 友人宅で過ごしていた内容であったが、2008年の著書では「おれは成人式に行くのをやめた。 (中略)近くの図書館に向かった。 (中略)夜の8時まで図書館にいて家に帰った」 と 図書館で過ごしていた内容に変化している。 上記エピソードの中にあるパーティに行かなくて済むようにスーツを破ったことに関して、そのスーツの値段を 30万円としているもの と 20万円としているもの がある。 上記のエピソードについて、90年代の著書では「1月14日、前日になってふと考え込んでしまった。 (中略)オレは20数万円のスーツをビリビリに破いて燃やしてしまった」 「1月14日、20万円の新調のスーツをズタズタに引き裂く」 と、 1月14日にスーツを破ったことになっていたが、2007年の著書では「1月15日に、おやじとおふくろにダーバンのスーツを買ってもらった。 (中略)気がつくと、オレはおやじとおふくろが買ってくれたスーツをハサミでズタズタに切っていた」 と書かれ、 1月14日時点でそのスーツは持っていなかったことになっている。 さらに、その2年後の著書では「スーツも20万円ほどするような高級品を 数カ月前から新調していた」 と再び変化している。 大学について• 1991年著書(1998年改訂)では、「 オレは8校受けたが、 全部文学部だった」 として、1993年著書では「 オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」 と書いている。 しかし、2006年以降の著書では 3校に合格したことになり 、2009年に出版された1993年著書の改訂版では、上記の記述が「 オレは結局、ほとんどの大学に受かっていたのだ」という記述に変わっている また、2008年著書では、専修大学の受験に失敗した記述もある。 國學院大学に関して、上記の通り8校全部文学部を受験した記述と、「国学院の試験を受け終わった直後、オレは血を吐いて倒れた。 (中略)まだの入試が残っている」との記述がある ところ、吉野が受験した年の入試日は國學院(文・一部)、早稲田(一文)、早稲田(二文)、國學院(文・二部)の順序である ため、國學院(文・一部)が前提とされている。 ほか、「各大学の入試がすべて終わった 2月、とうとう第一志望の国学院大学の合格発表の日がやってきた。 (中略)俺の受験番号がある」 とその年の2月26日 に合格発表がある國學院(文・一部)に合格したことが前提となっている。 しかし、吉野が卒業したのは二部であり、吉野が受験した年は出願締切が2月28日、入試が3月9日、合格発表が3月14日である。 ほか、「うちから大学まで1時間以上(中略)9時から朝1限始まるんで7時半には出ないと苦しい(中略)7時に目覚ましかけとく」と発言し 、また、緊張して学校を早退したという話では「今日の夜の10時、俺の一生が決まるんだと思うと、学校にいられなくなっちゃう。 そわそわしちゃって。 で、かーえろとか思って。 速攻で家に帰るんだ。 と、昼間の2時くらいに家に着いちゃうんだよ」 と発言していたが、彼が卒業したのは二部であり、授業は夕方開始である。 また、彼の著作をVシネマ化した作品は「ノンフィクションドラマ」と銘打たれているところ 、その中で合格発表の際に映る受験票には一部にマルがついているが、彼が卒業したのは二部である。 また、著書で、「国学院やの場合、合格最低ラインは190点から高くても200点くらいだと思うが(中略)日本史で90点以上は取れると思っていたし、国語では絶対に95点以上いくと思っていた。 そうすると、2科目で190点くらいにはなるので、英語でほんの少し加えれば大丈夫という計算ができた」 と書かれているが、吉野が受験した年の国学院(文・二部・文学科)の合格最低点は125点であり 、そこまでの得点は必要ではない。 國學院以外の合格大学名について、「 ・ 明治・ ババババーっと合格の嵐だ」 「立教の文B(小論文の試験)を受かった」 「実際、 、明治、法政(すべて文学部の日文や国文)など、国学院よりも偏差値が高く、有名な大学にも受かった」 との記述があり、ほか具体的な大学名として、 と にも合格した旨を公言している。 しかし、上記の通り2006年以降の著書では合格した大学数は3校となっており、2009年3月著書で、受験のきっかけとなった元交際相手を呼んで「『これ明治大学の合格通知なんだよね』と俺は言って、びりっと破った。 立教の合格通知も同じように破ってやった」と述べている。 早稲田大学について、1993年の著書では、「国学院の試験を受け終わった直後、オレは血を吐いて倒れた。 そのまま病院に運ばれ、即入院した。 (中略)まだ早稲田の入試が残っているが、もうこの状態じゃちょっとムリかもしれない。 (中略)オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」 と、早稲田の受験を断念したか又は合格したかのような記述があるが、2006年以降の著書では「早稲田の一文には落ちた」 「おれは受験のときに早稲田に落ちた」 「俺だって受験時代、早稲田に落ちた」 「英語がまったくできなかったオレは、むかし早稲田を受験して落ちた」 と書かれ、1993年著書の改訂版でも「心にいつまでも残っているのは早稲田に落ちたことのほうが大きかったりする」 との記述を追加している。 学習院大学に関して、上記の通り国学院(文・一部)と学習院(文)の両方に合格したことになっているが、そもそも 1987年の国学院(文・一部)と学習院(文)(二部は存在せず) の入試日はともに2月17日であるため 両方を受験することは不可能である。 さらに、 吉野が大学に入学した1987年の逗子開成高校も、学習院大学の合格者が0人であると発表している。 第一志望に関して、90年代の著書では「第一志望だった、この国学院大学」 「オレは、何がなんでも国学院と思っていたから、もし国学院がダメだったら、絶対に来年も受験しようと考えていた」 「早稲田や東大には行けなかったけど、行けなくてよかった」 など、國學院に対して強いこだわりを見せる記述が随所にあったが 、最近の著書では、「オレは大学生活が終わったとき、なんか悔しかったね。 それはやはり、国学院よりもいい大学に行きたかったからだ」 「本当は早稲田に行きたかった。 でも行けなかったから國學院に行った」 「本命である早稲田の一文」 と書かれている。 大学時代、成績が1番で 特待生だったと述べており 、授業料を免除されているにもかかわらず親から授業料として70万円預かってそれで豪遊した 旨を述べているが、國學院大學学報に記載されている昭和62年度から平成2年度の各年度における 特待生の欄 に吉野敬介の名前は存在しない。 また、父兄会が表彰する成績優秀者の欄にも名前が存在しない。 大学時代に古文を特に勉強したことに関して「大学にはいっても、テニスだスキーだコンパだと、青春を謳歌するといえば聞こえがいいが、いまさらそんなバカをやる気はなかった」 と述べていたが、別の機会では、4人のグループ交際でテニスに行ったという話 や、クラスで中の良い男女5人ずつ計10人で毎週のように飲んだり長期休暇には毎回のように軽井沢やスキーに行ったりした話 をしている。 代々木ゼミナールでの経歴について• 1991年の著書では「 ふつう、代ゼミ講師になるのにテストはない。 (いまは簡単なテストがある。 ただしみんな落ちているが)」 「代ゼミはふつう、新卒の採用はしない。 採用するとき、テストをすることもない」 とされ、「あとから聞いた話だが、代ゼミの竹村副理事長も、元暴走族のオレを採用するにあたり、不安があったらしい。 テストを受ければ落ちるかもしれないから、それで不採用を納得してもらおうと思っておられたそうだ」 という経緯が書かれているが、2年後の著書では他に受験生がいる描写となり 、その後も「オレが代ゼミの採用試験を受けたときも、 300人くらい受けて受かったのは俺1人」 「古文の試験で300人」 と述べるなど、現在に至るまで代ゼミ史上最年少・過去最高得点で合格した肩書き となっている。 上記と併せて、1991年の著書では「話はそう都合よく進まず、オレは講師採用のテストを受けなければならなくなった」 と書かれていたが、2009年の著書では「じつは試験を受けなくても講師になることはできた。 オレはあくまで採用試験にこだわったのだ」 と、試験を受ける必要はないものの採用試験合格という肩書きを得るためにあえて受けたという旨が書かれている。 大学4年時に代々木ゼミナールでチューターをやっており、開講したチューターガイダンスでは「200人入る教室は満席」 と書かれていたが、別の本では「300人の教室が満杯」 と変更されている。 また、チューターガイダンスの時期も「大学4年の8月の終わりごろ」 以降の話だったのが、別の機会では大学3年のときの話としている。 また、その開始時刻も「午後1時20分から」 としていたのが、別の機会では「3時10分から4時40分」としている。 さらにチューターを経験した影響として、「正式に代ゼミに採用されるまえから、チューターをやっていたことなどもあり、オレの授業を選んでくれる生徒も多かった」 と書かれていたが、2008年の著書では「吉野敬介なんて、誰も聞いたことがない」 と、チューターとしての影響が無くなっている。 さらに初めての授業の描写についても、「1年目の、初めての授業。 400人を収容する教室で、おれの目の前にいる生徒はたったの 5人だった」 となっていたが、別の著書では「第1回目の授業は、 15人ほどの小さな教室だった」 「第1回目の授業は、教室にわずか 15人ほどしかいなかった」 と、教室の規模が大幅に縮小し、受講生の人数が10人増えている。 2008年著書では、「代ゼミ時代の16年間で休講は3回」 と述べていたが、11か月後に出した著書では、「休講は2度あるが、一度は病欠、もう一度は親友の結婚式である。 この2つの例外を除けば、授業はまったく休んでいない」 と休講回数が1回減っている。 窃盗について• 当初の著書では、以下のように窃盗の経験をきわめて頻繁に登場させていた。 1991年の著書では、「金がなくなると、とかみたいなスーパーマーケットに行って、いろいろなものを万引きしてくる。 それを友だちや後輩に売って、遊ぶ金を手に入れるのだ。 ただ万引きするんじゃ面白くないから、誰がいちばん高いものをかっぱらってくるか競争する」 「ゲームセンターでは、(中略)カギを盗んで、タダで何度もやる」 「腹がへると、近くの店にパンを盗みに行く」 と、窃盗の経験を具体的に記述している。 1993年の著書でも、以下のように窃盗の記述をしている。 「ケンカや万引きはしょっちゅう」• 「バイクを盗んで乗り回したり」• 「そのままケンカをやりに行ったり、万引きで誰がいちばん高価なものを盗めるか競争したり」• 「バイク、ケンカ、シンナー、万引き……勉強するヒマなんてない」• 「オレは半端なワルじゃなかった。 シンナー、万引き、盗み、暴走族、ヤクザがらみのかけマージャン、鑑別所・・・・・・」• 2001年の著書でも、「バイク、シンナー、ケンカ、万引き・・・・・・、それがオレのすべて」 と記述している。 ほか、大学入学前、金がなくてで弁当を窃取したことを公言している。 また、温泉旅行に行くために、セブン・イレブンの深夜のアルバイトで弁当を盗んで友人に売ってお金を稼いでいたと述べている。 また、代々木ライブラリーのアルバイト中にレジにある飴やホールズがよく無くなっていたところ、心当たりがあるという。 2013年の著書では、「浮いた交通費などは、『』や『』に寄付したりしている。 逆境に見舞われた子どもたちに、勉強や進学をあきらめないで欲しいから。 」と書いている が、他方で、大学時代彼女に高価な誕生日プレゼントを渡すために、セブン・イレブンのアルバイト中に店内の募金箱から金を窃取したことを公言している。 ところが、2009年の著書では「 物を盗むというのは、お店の人の生活に迷惑がかかるから、そういうことは俺はめったにやらなかった」 と記述し、その5か月後に出版した1993年著書の改訂版では、以下のように 窃盗・万引きに関する記述をすべて削除している。 以下、左が改訂前、右が改訂後。 「オレは半端なワルじゃなかった。 シンナー、暴走族、ヤクザがらみのかけマージャン、鑑別所・・・・・」。 同様に、2001年の著書では「バイク、シンナー、ケンカ、万引き・・・・・・、それがオレのすべて」 と書かれていた部分は、2011年にそれを大幅に加筆修正した著書では「バイク、集会、ケンカ、夜遊び・・・・・・」 と変更されている。 なお、ジャーナリストとして長年セブン・イレブンのオーナーへの取材を続けていた角田裕育は、吉野のコンビニでの窃盗話について、「オーナーの苦労など何も知らないのだろう」と述べている。 高校時代以前のエピソードについて• 2001年の著書では、実家が「貧乏だった」 として「オレにとって住まいとしての『家』の原風景は、四畳半一間に一家4人で暮らしていた家だ。 もちろん、風呂はナシ」 など貧しかったエピソードが紹介されているが、2006年以後の著書では、父親のことは「慶應を出て、ある一部上場企業の部長」 、母親のことは「月収150万、ボーナス300万もザラって人だった」 と書かれている。 2001年の著書では「ただし、いじめっていうのはやらなかった。 だって、いじめって卑怯だろ」 、2007年の著書では「およそ考えられる人間の行為の中で、この『いじめ』ほど、愚かで恥ずかしい行為はない」 、2008年の著書では「だけど、イジメなんてものはしたことがなかった」 、と書かれている。 しかし、別の機会には以下のような経験を述べている。 1991年の著書で「技術家庭の作品や美術の絵は、パシリ(遣いっぱしりをやるヤツのこと)にやらせて、自分は名まえだけ書いて提出する」と書いていた。 小学校時代、クラスにいた大嫌いな金持ちの同級生に対して、「授業中も先生が黒板に書いてる隙を狙って、消しゴムちぎって後ろからカーンと投げてやる。 飯田に当たったら勝ちなんていうゲームあってな」と述べている。 また、その同級生について、「大嫌いなんだけど、1年に1回仲良くするんだ。 いつ?飯田の誕生日な。 なんで?うめぇもん食えるから」と述べ、その際「飯田の部屋からラジコンはかっぱらう、ドカベン全巻かっぱらう」という話を述べている。 1991年の著書では、自身が高校で3回停学になったエピソードが随所に登場していた が、2009年の著書では「俺の母校は3回停学をくらうと退学になる、という決まりがあった」として、友人が3回停学になって退学になったエピソードが書かれている。 暴走族の特攻隊長として、 3000台 ・ 6000人 のトップであったと当初は述べていたが、数年後には 1500台・ 3000人 となり、さらに数年後には、「最大時は 1000台以上」 との表現になっている。 なお、3000台を率いていたときの状況として、高校3年生( 1984年)の9月に神奈川県中の暴走族が集まると述べている が、神奈川県の暴走族構成員数はピークの 1992年でも4841人である。 「行ける高校がなくて入ってくる、そんな高校だ」 「当時神奈川県でも最低ランクの高校」 など、自身の出身高校がいかに落ちこぼれているかを著作で語っているが、1987年の逗子開成高校は、早稲田5人・1人・2人・7人・明治5人・立教3人・法政9人・2人・2人との合格実績がある。 ほか、自身の高校時代について「専門学校に行くだけで、『すげえな、おまえ』という世界だった」と述べている が、吉野の卒業年における同校の進路状況も、「進学(各種専修学校含む)80%、就職10%、その他10%」である。 1991年の著作には『空手を習っていて結構強かった。 空手の方では幾つかの強豪大学空手道部から特待生のお呼びが来た。 』とある。 しかし彼が在籍したのは直接打撃制だが顔面へのパンチは禁止のいわゆるフルコンルールの極真会神奈川支部(渡辺十也支部長)の大船道場。 緑帯であった。 そして、・・日大・・・など大学空手道部は皆、日本体育協会傘下で文科省認可の公益財団法人・全日本空手道連盟傘下の国体空手道競技も行われている寸止めのポイント制の伝統空手である。 特待生で招かれる高校生は皆、公益財団法人・全日本空手道連盟傘下の伝統空手をやる高校生でインターハイや国体などの全国規模の大会で成績を残した選手である。 日本体育協会傘下でないルールも柔道とレスリング位に違う極真空手の道場に通う高校生が特待生で大学から招かれる事は有り得ない。 『パクった』騒動 2006年、杉村太蔵がブログに掲載した自殺未遂の内容が自著の内容に酷似していたとして、吉野が怒ったことが話題となり 、マスコミで「パクった」 と報道され、直後の吉野の著書では杉村本人が寄稿文を寄せ釈明している。 他方で吉野の著書では以下のような点がある。 金持ちの同級生の後頭部に消しゴムをぶつけたりしたという話 は、ビートたけしの著書に登場するエピソードである (その同級生の頭がデカい という部分も重複 )。 金持ちの同級生の誕生日のときだけ美味しいものが出てくるからという理由でその同級生と仲良くなってその同級生の家に行ったという話 、アーモンドチョコレートの存在を知らずにアーモンドチョコレートを食べて種が入ってるという話をした人がいた という話も、ビートたけしの著書に登場するエピソードである。 小学校時代に、最悪の犯罪が学校でウンコをすることだとして、同級生がウンコをしているときや漏らしたときのエピソードは、ビートたけしの著書に登場するエピソードである。 また、吉野がテキストのまえがきで書いたり、それをアレンジした著書(『オマエだけの言葉で話してみろよ』(2011年)16-17頁)の内容も、ビートたけしの著書に登場するエピソードである。 「中学のとき、担任からしょっちゅう『お前はうちの学校のゴミだ』って言われてたんだけど、その担任とこの前ばったり街中であったとき、『お前は私のホコリだ』ってほめられちゃった。 『ゴミからホコリかよ。 まあ、似たようなもんじゃねえの』とか言いそうになった」 と述べているが、その話はと同一である。 彼女と同棲していた際の、「彼女が『お弁当代ないんじゃないの』と言って金をくれようとしても、『昼飯は会社から出してくれるからいいよ』と断わった」 というエピソードは、の「女房には 中略)『お昼どうするの?』って聞かれると『いいからいいから、会社で給食みたいのが出るんだよ』」 というエピソードと同様である。 大学受験を決意した際の、「勤め先の中古車屋に行った。 そして平澤社長に、『オレ、大学受けます。 勉強するんでやめさせてください』と言った」 というエピソードは、矢沢永吉の「社長に言った。 『オレは、実が歌がやりたくてこっちに来た。 やめさせてくれ』」 というエピソードと同様である。 上記の通り、矢沢永吉の著書『成りあがり』と同様のエピソードがあるが、吉野自身も「矢沢永吉じゃないが、結構成り上がってきたという思いはある」 と、矢沢永吉を引き合いに出している。 その他• 2008年8月の著書で「俺はインターネットはやらない」と述べている が、2007年2月から個人ブログを開設している。 大学時代から予備校講師最初の頃まで通算7年半ほどサオリという女性(1浪して1歳年下の同じ学年でミス青学になったという )と付き合ったと述べている が、該当する1987年から1990年まで(その前後も)ミス青学(正確にはミス青山)の中にサオリという名前の女性はいない。 「株も嫌いだね。 だって、誰かがトクをすると、誰かがソンするわけだろ。 人を泣かして手にするカネなんて、おれはいらない」 と述べていたが、翌年の著書では「オレは昔から株と為替をやっていて、じつは今まで損をしたことがない」 と述べている。 大学時代にやった家庭教師のエピソードに関して、「生徒は常時、5、6人。 時給応談。 また、「家庭教師料は『時価』。 (中略)成績に比例して、自分で納得する程度の月謝を払ってくれればいいことにしていた」 と書かれているが、別の機会では、駅から遠くボロボロの家で水しか出ず時給を値切られ生徒も宿題をやらない家庭教師先を5回目で辞めたという話をしている。 自身の経営する塾の授業料(基本料金90分15,000円、医学部・歯学部受験コース90分30,000円)について、「おれはどんなに言われても絶対に授業料をまけない。 内容に絶対的な自信があるからだ」 と述べていたが、その翌々年には「90分12,000円~」と値下げした。 当初は「24歳で年収3千万を超えた予備校講師というのはオレ以外いない」と書いていた が、別の著書では講師1年目から(24歳、25歳、26歳時)の年収について「1年目600万、2年目1800万、3年目3600万」と書いている。 2007年と2011年の著書では、「オレは『10分間睡眠』をとるようにしていた。 (中略)何も考えないフワっとした状態で10分間過ごすと、すごくいい気分になる。 頭もシャキッと冴えてくる。 1時間も寝てしまったら、逆に頭がボ~ッとしてしまう。 (中略)これはなかなかオススメだ」と書いていた が、2012年の著書では、時間の有効的な使い方を語る際、電車内での「椅子に座って幸せそうにいびきをかいているオヤジ」について、「新幹線などでまとまった時間休むなら、有意義な休養にもなるだろうけどさ。 10分やそこら、電車の中で醜態さらして意味あるのって思うわけだ」と書いている。 インタビュー記事で、紹介欄に「趣味は競馬」 と書かれているが、その2頁後には、人生がギャンブルだからという理由で「賭け事はほとんどやらない」 と書かれている。 以上、カギ括弧内は著作からの引用。 ただし算用数字に統一し、中略部分はその旨表示。 著書一覧 (太字は本件記事の脚注内での略語) 単著 学習参考書• 『吉野のピタリとでる古文単語』(、1996年)• 『吉野のパロディ的中爆走古文"パテ古"(Part. 1)Yozemi TV-net』(、1998年)• 『吉野のパロディ的中爆走古文"パテ古"(Part. 2)Yozemi TV-net』(、1998年)• 『吉野の古文 スーパー敬語法』(、1999年)• 『吉野の古典文法 スーパー暗記帖』(、1999年)• 『吉野のセンター古文』(、2002年)• 『吉野の古典文法 スーパー暗記帖 改訂版』(、2007年)• 『吉野式 スーパー古文敬語 完璧バージョン』(、2007年)• 『吉野式 爆走古文単語 完璧バージョン』(、2007年) 一般書• 『暴走族から予備校講師になったオレが言うんだ「 おまえはバカじゃない」やればかならず合格する』(、1991年7月)• 『 だからおまえは落ちるんだ、やれ! 』(ロングセラーズ、1993年7月)• 『 やっぱりおまえはバカじゃない(小学館文庫)』(、1998年2月)• 『 自分で決められないヤツは受験するな! (PHP文庫)』(、2004年7月)• 『 よく聞け! おまえはバカじゃない(小学館文庫)』(、2006年11月)• 『 そこのバカ親! あんたの子供じゃ受からない』(、2007年5月)• 『今、 頑張れないヤツは一生頑張れない。 』(世界文化社、2008年6月)• 『 大好きに生きろ! 』(、2008年8月)• 『半日で読む 源氏物語』(世界文化社、2008年10月)• 『熱血! 吉野塾勉強法』(ロングセラーズ、2009年3月)• 『今、変わらなければ いつ変わるんだ、やれ! 』(ロングセラーズ、2009年4月)• 『 ROOKIES勝利学』(、2009年4月)• 『爆走道化師 暴走族特攻隊長からカリスマ講師へ』(、2009年5月)• 『 紫式部にケンカは売るな! 吉野流「古典で学ぶ人生論」講義』(、2009年7月)• 『 だからおまえは落ちるんだ、やれ! 決定版』(ロングセラーズ、2009年8月)• 『学校では教えない古典』(、2009年8月)• 『1日で読める源氏物語』 PHP文庫 』(、2010年9月)• 『 オマエだけの言葉で話してみろよ! 人をその気にさせる、吉野流会話術100』(、2011年1月)• 『だからおまえは落ちるんだ、やれ! 決定版(ロング新書)』(ロングセラーズ、2011年3月)• 『 砂漠から芽を出せ! PHP文庫 』(、2011年7月)• 『一日で読める平家物語』(、2011年12月)• 『20代で受けておきたい 仕事の授業』(小学館集英社プロダクション、2012年3月)• 『一日で読める徒然草』(、2012年10月) 共著 一般書• , 吉野敬介『 今日から始める「やる気」勉強法』(ロングセラーズ、2007年6月)• , 吉野敬介『 驚くほど伸びる! 5日間「やる気」改革プログラム』(ロングセラーズ、2008年3月)• , 吉野敬介『 何のために勉強するのか ロング新書 』(ロングセラーズ、2011年3月)• , 吉野敬介『 今やれよ! 』(ロングセラーズ、2013年5月) 出演 コマーシャル• ・( - )- 「生徒への檄文」篇 テレビ• (テレビ東京系列、)- VTR紹介 講演• 早稲田大学企画集団便利舎主催 吉野敬介トークライブ「特講〜未然形からの脱却〜」(早稲田大学大隈大講堂、)• 学生団体SMPY主催 第59回 東京大学駒場祭 吉野敬介講演「今、頑張れないヤツは一生頑張れない」(東京大学駒場キャンパス、)• 教育委員会(2009年 、2010年 、2011年 、2012年 )• 中央大学学術連盟証券研究会主催「今、未来を変えろ! 」(中央大学多摩キャンパス8201教室、)• 主催・吉野敬介講演『今頑張れないヤツは、一生頑張れない』(福島県立いわき光洋高等学校、) 脚注 []• Business Journal. 2020年4月12日閲覧。 週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト] 2020年4月10日. 2020年4月12日閲覧。 國學院大學学報平成3年3月10日第4面(縮刷版第4巻1839頁)における新卒業生氏名一覧で、「文学部(二部) 文学科」の欄、1組の20番目(当該第4面の最下部の段落、いちばん左の行)に「吉野敬介」(ただし「吉」は「士」の部分が「土」)という記載がある。 また、吉野の大学時代の友人として著書『おまえはバカじゃない』195頁に登場するTとY(著書ではフルネームで実名)も、同じ学報において文学部二部の1組と3組にそれぞれ名前の記載がある。 長いときで30分を超える場合もあった(代ゼミTVネット『吉野のパロディ的中古文(読解編)第12回』)。 繰り返しの理由について、本人は「特に女子校出身の女の子は、男言葉になれていないものだから一回聞いただけじゃ、何を言ってるのか理解できない。 だから二、三回繰り返す」と述べている(『さらば』93頁、『自分で決められない! 』95頁、『砂漠』84頁)。 『』、『』、『』など。 毎日新聞2002年7月10日夕刊第9面• 部落解放同盟本部. 2020年4月12日閲覧。 日刊スポーツ• 本人によると、「当時の安倍内閣はいろんな問題が噴出して、おれが代ゼミを辞めたときには支持率はガタガタになっていた。 そんな逆風の中、いろいろ検討した結果」であるという(『大好きに』164頁)• 日刊スポーツ. 2020年4月12日閲覧。 『大好きに』98頁、『吉野塾』81頁• 扶桑町立扶桑北中学校. 2020年4月12日閲覧。 [ ]• 吉野敬介オフィシャルブログ. 2020年4月12日閲覧。 『砂漠』197~198頁• 『ルーキーズ勝利学』133頁• 『頑張れないヤツ。 』143頁• にも同様のプロフィールがある。 『やっぱりおまえは』25頁• 『やっぱりおまえは』223頁• 『よく聞け』54頁• 『吉野塾』77~79頁• 『おまえはバカじゃない』51頁• 『やっぱりおまえは』53頁• 『今日から始める』155頁、『何のために』162頁• もっとも、毎日続けた旨の記述はほかの著書でもある(『今日から始める』154頁、『何のために』162頁)一方で、図書館で古い新聞を写したと記述している著書(『おまえはバカじゃない』86頁、『やっぱりおまえは』91頁)もあり、後者であれば古い日付でも矛盾しない• 『やっぱりおまえは』27頁• 『おまえはバカじゃない』22~28頁、『やっぱりおまえは』23~28頁、『だからおまえは』31~36頁、『だからおまえは決定版』33~39頁• 『おまえはバカじゃない』28・46~47頁、『やっぱりおまえは』29・48頁、『だからおまえは』98頁、『だからおまえは決定版』46頁• 1986年12月に開催された代々木ゼミナールの模試は、12月6日・7日に東大模試、12月14日に共通1次プレテスト、12月21日に第6回全国総合模試、12月31日に南山大模試である(蛍雪時代1986年11月臨時増刊号A197頁の代々木ゼミナールの広告より)。 1986年の旺文社の模試は、11月9日の「第5回全国模試」と11月30日の「共通1次最終模試」が最後である(蛍雪時代11月号23頁直前の広告より)。 また、同年の駿台の全国模試は、11月2日(共通一次型)と11月9日(二次私大型)に「公開全国模試」があり、11月16日に「私大全国模試」があるのが最後で、残りは11月30日に早大模試、12月に東大・京大・東工大・一橋大の各模試があるだけである(蛍雪時代11月号210頁直後の駿台予備校の広告より)。 『おまえはバカじゃない』82頁、『やっぱりおまえは』88頁• 『おまえはバカじゃない』32頁、『やっぱりおまえは』34頁• 『よく聞け』123頁• 『頑張れないヤツ。 』28頁• 『だからおまえは』41頁、『だからお前は落ちるんだ、やれ! 決定版』43頁• 『おまえはバカじゃない』43頁、『やっぱりおまえは』44頁• 『だからおまえは』38頁• 『驚くほど』15頁• 『だからおまえは決定版』230頁• 『だからおまえは』44頁、『だからおまえは決定版』47頁• 『吉野塾』137頁• 『だからおまえは』44頁、『大好きに』46頁• 『何のために』163頁• 『大好きに』70頁• 『おまえはバカじゃない』46~47頁、『やっぱりおまえは』48~49頁• 『だからおまえは』47頁、『だからおまえは決定版』50頁• 『今日から始める』74頁• 『いつ変わるんだ』221頁。 『おまえはバカじゃない』98頁、『やっぱりおまえは』103頁• 『だからおまえは』136頁• 『よく聞け』54頁、『頑張れないヤツ』28頁、『大好きに』46頁、『いつ変わるんだ』188頁• 『だからおまえは決定版』154頁• 『大好きに』47頁• 『だからおまえは』136頁、『だからおまえは決定版』154頁• 『おまえはバカじゃない』29~30頁、『やっぱりおまえは』30頁• 國學院大學学報昭和62年2月10日第3面(縮刷版第4巻1625頁)• , だからおまえは落ちるんだ、やれ! DVD• 『おまえはバカじゃない』94頁、『やっぱりおまえは』99頁• 國學院大學学報昭和62年5月10日第3面(縮刷版第4巻1641頁)• 『やっぱりおまえは』63頁• 『やっぱりおまえは』99頁• 『やっぱりおまえは』102頁• (丸善インタビュー。 リンク切れ)• 『吉野塾』86頁• 『だからおまえは』136頁• 『よく聞け』86頁• 『大好きに』39頁• 『ROOKIES』62頁• 『紫式部』35頁• 『だからおまえは決定版』193頁• 晶文社出版編集部編「高校受験案内首都圏昭和63年度用」(晶文社出版)768~769頁、声の教育者編集部編「高校受験案内昭和63年度用」(声の教育社)330頁• 『おまえはバカじゃない』31頁• 『おまえはバカじゃない』61頁、『やっぱりおまえは』63頁• 『おまえはバカじゃない』62頁、『やっぱりおまえは』65頁• ほか、『おまえはバカじゃない』53頁、『やっぱりおまえは』55頁、『だからおまえは』45頁、『だからおまえは決定版』48頁• 『今日から始める』54~55頁、『何のために』57頁• 『仕事の授業』167頁• 『よく聞け』86頁• 代ゼミTVネット『吉野のパロディ的中古文(読解編)第2回』• 國學院大學学報昭和62年6月10日第4面(縮刷版第4巻1648頁)計42名、國學院大學学報昭和63年6月10日第4面(縮刷版第4巻1704頁)計47名、國學院大學学報平成元年6月10日第3面(縮刷版第4巻1753頁)計45名、國學院大學学報平成2年7月10日第2面(縮刷版第4巻1808頁)計42名• 國學院大學学報平成3年3月10日第6面(縮刷版第4巻1842頁)• 『おまえはバカじゃない』172頁• 『おまえはバカじゃない』49~50頁。 カッコ書きの中は、文庫化・加筆修正した『やっぱりおまえは』52頁で付け加えられた記述。 『おまえはバカじゃない』167頁、『やっぱりおまえは』175頁• 『おまえはバカじゃない』168頁、『やっぱりおまえは』176頁• 『だからおまえは』191頁• 『ROOKIES』145頁• 代ゼミTVネット『吉野のパロディ的中古文(読解編)第6回』• 『だからおまえは決定版』ほか、多数の著書の著者紹介欄• 『おまえはバカじゃない』166頁、『やっぱりおまえは』174頁• 『おまえはバカじゃない』184頁、『やっぱりおまえは』190頁• 『さらば』103頁、『自分で決められない! 』105頁• 『砂漠』93頁• 『大好きに』54頁• 『紫式部』133頁• 『おまえはバカじゃない』113頁• 『おまえはバカじゃない』114頁• 『おまえはバカじゃない』116頁• 『だからおまえは』13頁• 『だからおまえは』15頁• 『だからおまえは』16頁• 『だからおまえは』21頁• 『だからおまえは』114頁• 『さらば』41頁、『自分で決められない! 』43頁• 代ゼミTVネット『吉野の古文「単語&敬語」第7回』、『吉野のパロディ的中古文(読解編)第12回』• 今やれよ69頁• 『ROOKIES』31頁• 『だからおまえは』13頁• 『だからおまえは決定版』15頁• 『だからおまえは』15頁• 『だからおまえは』16頁• 『だからおまえは決定版』18頁• 『だからおまえは』21頁• 『だからおまえは決定版』23頁• 『だからおまえは』114頁• 『だからおまえは決定版』120頁• 『さらば』41頁、『自分で決められない! 』43頁• 『砂漠』26頁• 『よく聞け』26頁• 『驚くほど』160頁• 『さらば』38頁、『自分で決められない! 』40頁• 『そこのバカ親』174頁• 『大好きに』195頁• 『おまえはバカじゃない』115~116頁、『やっぱりおまえは』123頁• 『おまえはバカじゃない』3頁、121頁、151頁、『やっぱりおまえは』3、128頁、159頁• 『ROOKIES』38頁• 『おまえはバカじゃない』159頁• 『やっぱりおまえは』159頁• 『だからお前は落ちるんだ、やれ! 』74頁• 『さらば』72頁• 『仕事の授業』3頁、『オマエだけの言葉』2頁• 代ゼミTVネット『吉野の古文「単語&敬語」第12回』• 『だからおまえは』15頁• 『やっぱりおまえは』17頁• 声の教育社『首都圏63年度用高校受験案内』330頁、晶文社『高校受験案内首都圏昭和63年度』768~769頁』• 『今やれよ』18頁• 学力増進会『高校受験案内:東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬・山梨昭和61年度用』954~955頁• 『よく聞け』211頁• 『よく聞け』211-218頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)13-14頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)13頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)13-14頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)16-17頁• そのテキストの一例として、2005年代ゼミ夏期講習会単科ゼミ『SUPER POWER-UP 古文』がある。 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)212-214頁• 『驚くほど』155頁、『今やれよ! 』157頁• 『おまえはバカじゃない』19頁• 矢沢永吉『矢沢永吉激論集成りあがり』189頁• 『おまえはバカじゃない』28頁• 矢沢永吉『矢沢永吉激論集成りあがり』86頁• 『おまえはバカじゃない』208頁• 『頑張れないヤツ』143頁• 青山学院大学新聞21号1987年11月20日、29号1988年11月15日、38号1989年11月15日、48号1990年号11月15日• 『大好きに』140頁• 『紫式部』140頁• 『大好きに』139頁• (リンク切れ)• 『今日から始める』20頁• 『大好きに』97頁• 『今日から始める』179頁、『何のために』185~186頁• 『仕事の授業』99頁• DENiM(小学館)1993 3月号127頁• DENiM(小学館)1993 3月号129頁• デジタルハリウッド大学と東京大学駒場祭における講演は、TSUTAYAビジネスカレッジからDVDとして発売された。 外部リンク• - 公式ブログ.

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吉野 敬介

古文 吉野

人物 出身。 、二部文学科 を経て代々木ゼミナール講師となる。 では、長時間のでも知られる (ただし、ビートたけしの著書に登場するエピソードもある)、の繰り返しが多いという特徴がある。 90年代は多くのバラエティ番組 に下記の経歴を伴って出演して全国的に有名となる。 同時に、自伝風の著書が売れ、化されるほどであった。 、授業中に生徒を殴り傷害容疑で書類送検された。 、のブログが自著の内容に酷似していたとして「杉村さんは確信犯じゃないか」と怒ったことが話題となったり 、差別発言が問題視されたりした。 1月末に代々木ゼミナールを退職。 その際への出馬の可能性を報道され、本人も「今の教育の荒廃には目をつぶっていられない」と意欲を見せていた が、出馬しなかった。 同年、個別指導の吉野塾を設立。 自身のを伝えたアルバイト学生に指導させる方針であったため、自身は講師業から退く形となったが、翌年には東進ハイスクールで講師として復活し、芸能プロダクションとも業務提携を結んだ (現在は解消)。 当初は港区の月40万円のマンションに校舎を構え 、塾の方針を伝える著書も出版した。 しかし、10月に校舎をに移転した後はHPに「準備中」と表記され、開講不明の状態が続き、3月に募集の中止を発表した。 その後、まもなくHP自体が削除された。 に起きたのゴーストライター問題で、のは吉野の経歴との類似点を指摘した上で、佐村河内氏の経歴の「元ネタ」である可能性を主張した。 講師業以外にも、自己啓発本・教育論も執筆するほか、教育評論家としてでの講演活動も行っており、地方公共団体主催の講演においても下記の経歴で紹介され 、道徳の授業でも題材として採り上げる中学校もあるほどである。 現在も、タレントマネジメント会社に所属している。 個人ブログも開設しており、東進時代に公開授業でほぼ毎回同じような内容になっていたが 、これらは大筋の内容を先に書いていると述べている。 ネット上での自己に関する書き込みに対しては、「匿名で一方的に文句をたれるというのは、卑怯者のすることだ。 (中略)一方的に文句をたれているだけのようなヤツは、相手にするつもりはない」 「そんなヤツらをまともに相手にしたら、自分がそいつらと同レベルに落ちてしまうだけだ」 と述べている。 著作物 自身の経験を引き合いにした(ただし、 )自己啓発本が多い。 そこではおおむね 暴走族の特攻隊長であった高校時代を経て、卒業後に中古車販売店で働くも20歳の9月に失恋を機に大学受験を決意し、9月から12月で国語の偏差値を25から86に上げて大学に合格し、代々木ゼミナール採用試験に史上最年少・最高得点で合格したという経歴が示され 、2020年現在も同様のプロフィールで活動している。 しかし、以下で示すように、経歴の内容が 著書や授業中の発言ごとに変化しており、喫煙姿の写真や使った教科書・参考書などの写真は載せてあるものの、暴走族姿(特攻服姿)の写真や模試の成績表など 経歴を裏付ける資料は載せられていない。 上記の角田は、「吉野氏の経歴の偽りには僕も失望している」 として、「報われないのが、『吉野先生を見習って第一志望の明治に合格したけど国学院に入学した』とか『自分も国語の教師になろうと思った』という人々。 失望感とか絶望感とかどうにもならないのではないか」と述べている。 受験勉強について• 20歳の( 1986年9月20日)に受験を決意したという肩書きであるが、1998年の著書には、 1986年1月1日(高校卒業10か月後、大学合格の1年以上前)の日付がついた写真でこたつで勉強している姿が載っているものがある。 同著は、1991年の著書を加筆訂正したものである ところ、1991年の著書での当該写真はズームしており日付部分は切られていたが、1998年の著書では写真全体が載っており日付部分が現れた。 ほとんどの著書では当初の偏差値を25と称しているが 、中には当初の偏差値を28と称している著作もある。 現代文の勉強法として、「朝の2時間。 俺はの社説をノートに書き写していった。 (中略)4カ月間、毎日必死にそれを続けたんだ。 (中略)その時のノートをいまだに捨てずに取ってあるよ」 と述べて、当該ノートの見開き写真を載せている著書が複数あるが、 ノート左上に書いてある日付が1991年の著書 では 昭和58年4月15日、1998年の著書 では 昭和58年4月30日であり、いずれも吉野が 高校2年生のときの日付である(いずれも日付は不鮮明だが、書き写されている内容がその日の朝日新聞の社説と一致。 その後も2007年著書と2011年著書で「朝日新聞の社説を毎日写したノート」としてノートの見開き写真を載せている が、写真のピクセル処理が粗く判読不能)。 複数の著書で、9月23日の模試では国語の偏差値が25で 12月17日の全国総合模試(代ゼミの模試と述べている )は86で全国3位と述べられている が、模試の成績表は示されておらず、その年の代々木ゼミナールの全国総合模試は12月21日に開催されており、 そもそも1986年12月17日は平日(水曜日)であり、代ゼミで模試は開催されていない。 上記以外の模試では、 の模試で92、の模試で87~88を取った とも発言しているが、吉野が受験生だった年の 旺文社と駿台の私大型全国模試は11月9日と11月16日に終了している。 他方、当初の著書では「11月の模試では、国語が65」 と述べていた。 1日の勉強時間について、90年代、「 22時間」 および「 20時間は勉強」 と表現していたが、2006年の著書では「 一日20時間勉強した日も少なくない」となり 、2008年の著書では「 一日20時間近い日もあった」という表現になっている。 また、連続で寝なかった時間についても、 86時間 と書かれているものと 70時間 と書かれているものがある。 当初の著書では、大学受験を決意したときには小学校で扱う内容のことも知らなかったことが書かれている(例「『?誰ですか、それ』『1192年?何かあったんですか』。 ふざけているわけじゃなく、ほんとうに知らないのだ」 )が、2008年の著書では「小学校のときは天才と言われていた」 、2009年の著書でも「小学校までオレはものすごく成績が良かった。 クラスのいちばんっていえば、オレか、もしくはその藤田って、まあそういう関係だった」として小学時代には成績が良く中学受験(と述べている )をしたエピソードが書かれている。 12月の最終模試が終わっても学力が伸びることを述べる際、自身の学力について「12月の時点で、日本史の偏差値は55。 (中略)最後の模試といったって、それで終わりじゃない。 そこからが勝負だ。 今から思えば、もし2月に模試を受けていたら、日本史も偏差値75は超えていたはずだ」 と 仮定に基づいて推測していたが、別の機会では「日本史なんか、最後75までいった」 「日本史もね75,6はいったんだよね、最後」 と発言するなど 既成事実になっている。 なお、「日本史は、はあまり出ないから教科書くらいしかやらなかった」とも述べている。 上記の12月17日の模試で国語が全国3位だったと書かれている が、最近の著書では「生まれて初めて書いた小論文が全国で3番だった」 とも書かれている。 1月15日の成人式のパーティに参加せず勉強したというエピソードに関して、90年代の著書では「アキノブの家に行って、パーティのことを忘れるように、ただ勉強に打ち込んだ」 「15日には、オレはパーティのことを忘れるために、塾で友だちになった伊藤章伸のところで勉強することにした」 と 友人宅で過ごしていた内容であったが、2008年の著書では「おれは成人式に行くのをやめた。 (中略)近くの図書館に向かった。 (中略)夜の8時まで図書館にいて家に帰った」 と 図書館で過ごしていた内容に変化している。 上記エピソードの中にあるパーティに行かなくて済むようにスーツを破ったことに関して、そのスーツの値段を 30万円としているもの と 20万円としているもの がある。 上記のエピソードについて、90年代の著書では「1月14日、前日になってふと考え込んでしまった。 (中略)オレは20数万円のスーツをビリビリに破いて燃やしてしまった」 「1月14日、20万円の新調のスーツをズタズタに引き裂く」 と、 1月14日にスーツを破ったことになっていたが、2007年の著書では「1月15日に、おやじとおふくろにダーバンのスーツを買ってもらった。 (中略)気がつくと、オレはおやじとおふくろが買ってくれたスーツをハサミでズタズタに切っていた」 と書かれ、 1月14日時点でそのスーツは持っていなかったことになっている。 さらに、その2年後の著書では「スーツも20万円ほどするような高級品を 数カ月前から新調していた」 と再び変化している。 大学について• 1991年著書(1998年改訂)では、「 オレは8校受けたが、 全部文学部だった」 として、1993年著書では「 オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」 と書いている。 しかし、2006年以降の著書では 3校に合格したことになり 、2009年に出版された1993年著書の改訂版では、上記の記述が「 オレは結局、ほとんどの大学に受かっていたのだ」という記述に変わっている また、2008年著書では、専修大学の受験に失敗した記述もある。 國學院大学に関して、上記の通り8校全部文学部を受験した記述と、「国学院の試験を受け終わった直後、オレは血を吐いて倒れた。 (中略)まだの入試が残っている」との記述がある ところ、吉野が受験した年の入試日は國學院(文・一部)、早稲田(一文)、早稲田(二文)、國學院(文・二部)の順序である ため、國學院(文・一部)が前提とされている。 ほか、「各大学の入試がすべて終わった 2月、とうとう第一志望の国学院大学の合格発表の日がやってきた。 (中略)俺の受験番号がある」 とその年の2月26日 に合格発表がある國學院(文・一部)に合格したことが前提となっている。 しかし、吉野が卒業したのは二部であり、吉野が受験した年は出願締切が2月28日、入試が3月9日、合格発表が3月14日である。 ほか、「うちから大学まで1時間以上(中略)9時から朝1限始まるんで7時半には出ないと苦しい(中略)7時に目覚ましかけとく」と発言し 、また、緊張して学校を早退したという話では「今日の夜の10時、俺の一生が決まるんだと思うと、学校にいられなくなっちゃう。 そわそわしちゃって。 で、かーえろとか思って。 速攻で家に帰るんだ。 と、昼間の2時くらいに家に着いちゃうんだよ」 と発言していたが、彼が卒業したのは二部であり、授業は夕方開始である。 また、彼の著作をVシネマ化した作品は「ノンフィクションドラマ」と銘打たれているところ 、その中で合格発表の際に映る受験票には一部にマルがついているが、彼が卒業したのは二部である。 また、著書で、「国学院やの場合、合格最低ラインは190点から高くても200点くらいだと思うが(中略)日本史で90点以上は取れると思っていたし、国語では絶対に95点以上いくと思っていた。 そうすると、2科目で190点くらいにはなるので、英語でほんの少し加えれば大丈夫という計算ができた」 と書かれているが、吉野が受験した年の国学院(文・二部・文学科)の合格最低点は125点であり 、そこまでの得点は必要ではない。 國學院以外の合格大学名について、「 ・ 明治・ ババババーっと合格の嵐だ」 「立教の文B(小論文の試験)を受かった」 「実際、 、明治、法政(すべて文学部の日文や国文)など、国学院よりも偏差値が高く、有名な大学にも受かった」 との記述があり、ほか具体的な大学名として、 と にも合格した旨を公言している。 しかし、上記の通り2006年以降の著書では合格した大学数は3校となっており、2009年3月著書で、受験のきっかけとなった元交際相手を呼んで「『これ明治大学の合格通知なんだよね』と俺は言って、びりっと破った。 立教の合格通知も同じように破ってやった」と述べている。 早稲田大学について、1993年の著書では、「国学院の試験を受け終わった直後、オレは血を吐いて倒れた。 そのまま病院に運ばれ、即入院した。 (中略)まだ早稲田の入試が残っているが、もうこの状態じゃちょっとムリかもしれない。 (中略)オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」 と、早稲田の受験を断念したか又は合格したかのような記述があるが、2006年以降の著書では「早稲田の一文には落ちた」 「おれは受験のときに早稲田に落ちた」 「俺だって受験時代、早稲田に落ちた」 「英語がまったくできなかったオレは、むかし早稲田を受験して落ちた」 と書かれ、1993年著書の改訂版でも「心にいつまでも残っているのは早稲田に落ちたことのほうが大きかったりする」 との記述を追加している。 学習院大学に関して、上記の通り国学院(文・一部)と学習院(文)の両方に合格したことになっているが、そもそも 1987年の国学院(文・一部)と学習院(文)(二部は存在せず) の入試日はともに2月17日であるため 両方を受験することは不可能である。 さらに、 吉野が大学に入学した1987年の逗子開成高校も、学習院大学の合格者が0人であると発表している。 第一志望に関して、90年代の著書では「第一志望だった、この国学院大学」 「オレは、何がなんでも国学院と思っていたから、もし国学院がダメだったら、絶対に来年も受験しようと考えていた」 「早稲田や東大には行けなかったけど、行けなくてよかった」 など、國學院に対して強いこだわりを見せる記述が随所にあったが 、最近の著書では、「オレは大学生活が終わったとき、なんか悔しかったね。 それはやはり、国学院よりもいい大学に行きたかったからだ」 「本当は早稲田に行きたかった。 でも行けなかったから國學院に行った」 「本命である早稲田の一文」 と書かれている。 大学時代、成績が1番で 特待生だったと述べており 、授業料を免除されているにもかかわらず親から授業料として70万円預かってそれで豪遊した 旨を述べているが、國學院大學学報に記載されている昭和62年度から平成2年度の各年度における 特待生の欄 に吉野敬介の名前は存在しない。 また、父兄会が表彰する成績優秀者の欄にも名前が存在しない。 大学時代に古文を特に勉強したことに関して「大学にはいっても、テニスだスキーだコンパだと、青春を謳歌するといえば聞こえがいいが、いまさらそんなバカをやる気はなかった」 と述べていたが、別の機会では、4人のグループ交際でテニスに行ったという話 や、クラスで中の良い男女5人ずつ計10人で毎週のように飲んだり長期休暇には毎回のように軽井沢やスキーに行ったりした話 をしている。 代々木ゼミナールでの経歴について• 1991年の著書では「 ふつう、代ゼミ講師になるのにテストはない。 (いまは簡単なテストがある。 ただしみんな落ちているが)」 「代ゼミはふつう、新卒の採用はしない。 採用するとき、テストをすることもない」 とされ、「あとから聞いた話だが、代ゼミの竹村副理事長も、元暴走族のオレを採用するにあたり、不安があったらしい。 テストを受ければ落ちるかもしれないから、それで不採用を納得してもらおうと思っておられたそうだ」 という経緯が書かれているが、2年後の著書では他に受験生がいる描写となり 、その後も「オレが代ゼミの採用試験を受けたときも、 300人くらい受けて受かったのは俺1人」 「古文の試験で300人」 と述べるなど、現在に至るまで代ゼミ史上最年少・過去最高得点で合格した肩書き となっている。 上記と併せて、1991年の著書では「話はそう都合よく進まず、オレは講師採用のテストを受けなければならなくなった」 と書かれていたが、2009年の著書では「じつは試験を受けなくても講師になることはできた。 オレはあくまで採用試験にこだわったのだ」 と、試験を受ける必要はないものの採用試験合格という肩書きを得るためにあえて受けたという旨が書かれている。 大学4年時に代々木ゼミナールでチューターをやっており、開講したチューターガイダンスでは「200人入る教室は満席」 と書かれていたが、別の本では「300人の教室が満杯」 と変更されている。 また、チューターガイダンスの時期も「大学4年の8月の終わりごろ」 以降の話だったのが、別の機会では大学3年のときの話としている。 また、その開始時刻も「午後1時20分から」 としていたのが、別の機会では「3時10分から4時40分」としている。 さらにチューターを経験した影響として、「正式に代ゼミに採用されるまえから、チューターをやっていたことなどもあり、オレの授業を選んでくれる生徒も多かった」 と書かれていたが、2008年の著書では「吉野敬介なんて、誰も聞いたことがない」 と、チューターとしての影響が無くなっている。 さらに初めての授業の描写についても、「1年目の、初めての授業。 400人を収容する教室で、おれの目の前にいる生徒はたったの 5人だった」 となっていたが、別の著書では「第1回目の授業は、 15人ほどの小さな教室だった」 「第1回目の授業は、教室にわずか 15人ほどしかいなかった」 と、教室の規模が大幅に縮小し、受講生の人数が10人増えている。 2008年著書では、「代ゼミ時代の16年間で休講は3回」 と述べていたが、11か月後に出した著書では、「休講は2度あるが、一度は病欠、もう一度は親友の結婚式である。 この2つの例外を除けば、授業はまったく休んでいない」 と休講回数が1回減っている。 窃盗について• 当初の著書では、以下のように窃盗の経験をきわめて頻繁に登場させていた。 1991年の著書では、「金がなくなると、とかみたいなスーパーマーケットに行って、いろいろなものを万引きしてくる。 それを友だちや後輩に売って、遊ぶ金を手に入れるのだ。 ただ万引きするんじゃ面白くないから、誰がいちばん高いものをかっぱらってくるか競争する」 「ゲームセンターでは、(中略)カギを盗んで、タダで何度もやる」 「腹がへると、近くの店にパンを盗みに行く」 と、窃盗の経験を具体的に記述している。 1993年の著書でも、以下のように窃盗の記述をしている。 「ケンカや万引きはしょっちゅう」• 「バイクを盗んで乗り回したり」• 「そのままケンカをやりに行ったり、万引きで誰がいちばん高価なものを盗めるか競争したり」• 「バイク、ケンカ、シンナー、万引き……勉強するヒマなんてない」• 「オレは半端なワルじゃなかった。 シンナー、万引き、盗み、暴走族、ヤクザがらみのかけマージャン、鑑別所・・・・・・」• 2001年の著書でも、「バイク、シンナー、ケンカ、万引き・・・・・・、それがオレのすべて」 と記述している。 ほか、大学入学前、金がなくてで弁当を窃取したことを公言している。 また、温泉旅行に行くために、セブン・イレブンの深夜のアルバイトで弁当を盗んで友人に売ってお金を稼いでいたと述べている。 また、代々木ライブラリーのアルバイト中にレジにある飴やホールズがよく無くなっていたところ、心当たりがあるという。 2013年の著書では、「浮いた交通費などは、『』や『』に寄付したりしている。 逆境に見舞われた子どもたちに、勉強や進学をあきらめないで欲しいから。 」と書いている が、他方で、大学時代彼女に高価な誕生日プレゼントを渡すために、セブン・イレブンのアルバイト中に店内の募金箱から金を窃取したことを公言している。 ところが、2009年の著書では「 物を盗むというのは、お店の人の生活に迷惑がかかるから、そういうことは俺はめったにやらなかった」 と記述し、その5か月後に出版した1993年著書の改訂版では、以下のように 窃盗・万引きに関する記述をすべて削除している。 以下、左が改訂前、右が改訂後。 「オレは半端なワルじゃなかった。 シンナー、暴走族、ヤクザがらみのかけマージャン、鑑別所・・・・・」。 同様に、2001年の著書では「バイク、シンナー、ケンカ、万引き・・・・・・、それがオレのすべて」 と書かれていた部分は、2011年にそれを大幅に加筆修正した著書では「バイク、集会、ケンカ、夜遊び・・・・・・」 と変更されている。 なお、ジャーナリストとして長年セブン・イレブンのオーナーへの取材を続けていた角田裕育は、吉野のコンビニでの窃盗話について、「オーナーの苦労など何も知らないのだろう」と述べている。 高校時代以前のエピソードについて• 2001年の著書では、実家が「貧乏だった」 として「オレにとって住まいとしての『家』の原風景は、四畳半一間に一家4人で暮らしていた家だ。 もちろん、風呂はナシ」 など貧しかったエピソードが紹介されているが、2006年以後の著書では、父親のことは「慶應を出て、ある一部上場企業の部長」 、母親のことは「月収150万、ボーナス300万もザラって人だった」 と書かれている。 2001年の著書では「ただし、いじめっていうのはやらなかった。 だって、いじめって卑怯だろ」 、2007年の著書では「およそ考えられる人間の行為の中で、この『いじめ』ほど、愚かで恥ずかしい行為はない」 、2008年の著書では「だけど、イジメなんてものはしたことがなかった」 、と書かれている。 しかし、別の機会には以下のような経験を述べている。 1991年の著書で「技術家庭の作品や美術の絵は、パシリ(遣いっぱしりをやるヤツのこと)にやらせて、自分は名まえだけ書いて提出する」と書いていた。 小学校時代、クラスにいた大嫌いな金持ちの同級生に対して、「授業中も先生が黒板に書いてる隙を狙って、消しゴムちぎって後ろからカーンと投げてやる。 飯田に当たったら勝ちなんていうゲームあってな」と述べている。 また、その同級生について、「大嫌いなんだけど、1年に1回仲良くするんだ。 いつ?飯田の誕生日な。 なんで?うめぇもん食えるから」と述べ、その際「飯田の部屋からラジコンはかっぱらう、ドカベン全巻かっぱらう」という話を述べている。 1991年の著書では、自身が高校で3回停学になったエピソードが随所に登場していた が、2009年の著書では「俺の母校は3回停学をくらうと退学になる、という決まりがあった」として、友人が3回停学になって退学になったエピソードが書かれている。 暴走族の特攻隊長として、 3000台 ・ 6000人 のトップであったと当初は述べていたが、数年後には 1500台・ 3000人 となり、さらに数年後には、「最大時は 1000台以上」 との表現になっている。 なお、3000台を率いていたときの状況として、高校3年生( 1984年)の9月に神奈川県中の暴走族が集まると述べている が、神奈川県の暴走族構成員数はピークの 1992年でも4841人である。 「行ける高校がなくて入ってくる、そんな高校だ」 「当時神奈川県でも最低ランクの高校」 など、自身の出身高校がいかに落ちこぼれているかを著作で語っているが、1987年の逗子開成高校は、早稲田5人・1人・2人・7人・明治5人・立教3人・法政9人・2人・2人との合格実績がある。 ほか、自身の高校時代について「専門学校に行くだけで、『すげえな、おまえ』という世界だった」と述べている が、吉野の卒業年における同校の進路状況も、「進学(各種専修学校含む)80%、就職10%、その他10%」である。 1991年の著作には『空手を習っていて結構強かった。 空手の方では幾つかの強豪大学空手道部から特待生のお呼びが来た。 』とある。 しかし彼が在籍したのは直接打撃制だが顔面へのパンチは禁止のいわゆるフルコンルールの極真会神奈川支部(渡辺十也支部長)の大船道場。 緑帯であった。 そして、・・日大・・・など大学空手道部は皆、日本体育協会傘下で文科省認可の公益財団法人・全日本空手道連盟傘下の国体空手道競技も行われている寸止めのポイント制の伝統空手である。 特待生で招かれる高校生は皆、公益財団法人・全日本空手道連盟傘下の伝統空手をやる高校生でインターハイや国体などの全国規模の大会で成績を残した選手である。 日本体育協会傘下でないルールも柔道とレスリング位に違う極真空手の道場に通う高校生が特待生で大学から招かれる事は有り得ない。 『パクった』騒動 2006年、杉村太蔵がブログに掲載した自殺未遂の内容が自著の内容に酷似していたとして、吉野が怒ったことが話題となり 、マスコミで「パクった」 と報道され、直後の吉野の著書では杉村本人が寄稿文を寄せ釈明している。 他方で吉野の著書では以下のような点がある。 金持ちの同級生の後頭部に消しゴムをぶつけたりしたという話 は、ビートたけしの著書に登場するエピソードである (その同級生の頭がデカい という部分も重複 )。 金持ちの同級生の誕生日のときだけ美味しいものが出てくるからという理由でその同級生と仲良くなってその同級生の家に行ったという話 、アーモンドチョコレートの存在を知らずにアーモンドチョコレートを食べて種が入ってるという話をした人がいた という話も、ビートたけしの著書に登場するエピソードである。 小学校時代に、最悪の犯罪が学校でウンコをすることだとして、同級生がウンコをしているときや漏らしたときのエピソードは、ビートたけしの著書に登場するエピソードである。 また、吉野がテキストのまえがきで書いたり、それをアレンジした著書(『オマエだけの言葉で話してみろよ』(2011年)16-17頁)の内容も、ビートたけしの著書に登場するエピソードである。 「中学のとき、担任からしょっちゅう『お前はうちの学校のゴミだ』って言われてたんだけど、その担任とこの前ばったり街中であったとき、『お前は私のホコリだ』ってほめられちゃった。 『ゴミからホコリかよ。 まあ、似たようなもんじゃねえの』とか言いそうになった」 と述べているが、その話はと同一である。 彼女と同棲していた際の、「彼女が『お弁当代ないんじゃないの』と言って金をくれようとしても、『昼飯は会社から出してくれるからいいよ』と断わった」 というエピソードは、の「女房には 中略)『お昼どうするの?』って聞かれると『いいからいいから、会社で給食みたいのが出るんだよ』」 というエピソードと同様である。 大学受験を決意した際の、「勤め先の中古車屋に行った。 そして平澤社長に、『オレ、大学受けます。 勉強するんでやめさせてください』と言った」 というエピソードは、矢沢永吉の「社長に言った。 『オレは、実が歌がやりたくてこっちに来た。 やめさせてくれ』」 というエピソードと同様である。 上記の通り、矢沢永吉の著書『成りあがり』と同様のエピソードがあるが、吉野自身も「矢沢永吉じゃないが、結構成り上がってきたという思いはある」 と、矢沢永吉を引き合いに出している。 その他• 2008年8月の著書で「俺はインターネットはやらない」と述べている が、2007年2月から個人ブログを開設している。 大学時代から予備校講師最初の頃まで通算7年半ほどサオリという女性(1浪して1歳年下の同じ学年でミス青学になったという )と付き合ったと述べている が、該当する1987年から1990年まで(その前後も)ミス青学(正確にはミス青山)の中にサオリという名前の女性はいない。 「株も嫌いだね。 だって、誰かがトクをすると、誰かがソンするわけだろ。 人を泣かして手にするカネなんて、おれはいらない」 と述べていたが、翌年の著書では「オレは昔から株と為替をやっていて、じつは今まで損をしたことがない」 と述べている。 大学時代にやった家庭教師のエピソードに関して、「生徒は常時、5、6人。 時給応談。 また、「家庭教師料は『時価』。 (中略)成績に比例して、自分で納得する程度の月謝を払ってくれればいいことにしていた」 と書かれているが、別の機会では、駅から遠くボロボロの家で水しか出ず時給を値切られ生徒も宿題をやらない家庭教師先を5回目で辞めたという話をしている。 自身の経営する塾の授業料(基本料金90分15,000円、医学部・歯学部受験コース90分30,000円)について、「おれはどんなに言われても絶対に授業料をまけない。 内容に絶対的な自信があるからだ」 と述べていたが、その翌々年には「90分12,000円~」と値下げした。 当初は「24歳で年収3千万を超えた予備校講師というのはオレ以外いない」と書いていた が、別の著書では講師1年目から(24歳、25歳、26歳時)の年収について「1年目600万、2年目1800万、3年目3600万」と書いている。 2007年と2011年の著書では、「オレは『10分間睡眠』をとるようにしていた。 (中略)何も考えないフワっとした状態で10分間過ごすと、すごくいい気分になる。 頭もシャキッと冴えてくる。 1時間も寝てしまったら、逆に頭がボ~ッとしてしまう。 (中略)これはなかなかオススメだ」と書いていた が、2012年の著書では、時間の有効的な使い方を語る際、電車内での「椅子に座って幸せそうにいびきをかいているオヤジ」について、「新幹線などでまとまった時間休むなら、有意義な休養にもなるだろうけどさ。 10分やそこら、電車の中で醜態さらして意味あるのって思うわけだ」と書いている。 インタビュー記事で、紹介欄に「趣味は競馬」 と書かれているが、その2頁後には、人生がギャンブルだからという理由で「賭け事はほとんどやらない」 と書かれている。 以上、カギ括弧内は著作からの引用。 ただし算用数字に統一し、中略部分はその旨表示。 著書一覧 (太字は本件記事の脚注内での略語) 単著 学習参考書• 『吉野のピタリとでる古文単語』(、1996年)• 『吉野のパロディ的中爆走古文"パテ古"(Part. 1)Yozemi TV-net』(、1998年)• 『吉野のパロディ的中爆走古文"パテ古"(Part. 2)Yozemi TV-net』(、1998年)• 『吉野の古文 スーパー敬語法』(、1999年)• 『吉野の古典文法 スーパー暗記帖』(、1999年)• 『吉野のセンター古文』(、2002年)• 『吉野の古典文法 スーパー暗記帖 改訂版』(、2007年)• 『吉野式 スーパー古文敬語 完璧バージョン』(、2007年)• 『吉野式 爆走古文単語 完璧バージョン』(、2007年) 一般書• 『暴走族から予備校講師になったオレが言うんだ「 おまえはバカじゃない」やればかならず合格する』(、1991年7月)• 『 だからおまえは落ちるんだ、やれ! 』(ロングセラーズ、1993年7月)• 『 やっぱりおまえはバカじゃない(小学館文庫)』(、1998年2月)• 『 自分で決められないヤツは受験するな! (PHP文庫)』(、2004年7月)• 『 よく聞け! おまえはバカじゃない(小学館文庫)』(、2006年11月)• 『 そこのバカ親! あんたの子供じゃ受からない』(、2007年5月)• 『今、 頑張れないヤツは一生頑張れない。 』(世界文化社、2008年6月)• 『 大好きに生きろ! 』(、2008年8月)• 『半日で読む 源氏物語』(世界文化社、2008年10月)• 『熱血! 吉野塾勉強法』(ロングセラーズ、2009年3月)• 『今、変わらなければ いつ変わるんだ、やれ! 』(ロングセラーズ、2009年4月)• 『 ROOKIES勝利学』(、2009年4月)• 『爆走道化師 暴走族特攻隊長からカリスマ講師へ』(、2009年5月)• 『 紫式部にケンカは売るな! 吉野流「古典で学ぶ人生論」講義』(、2009年7月)• 『 だからおまえは落ちるんだ、やれ! 決定版』(ロングセラーズ、2009年8月)• 『学校では教えない古典』(、2009年8月)• 『1日で読める源氏物語』 PHP文庫 』(、2010年9月)• 『 オマエだけの言葉で話してみろよ! 人をその気にさせる、吉野流会話術100』(、2011年1月)• 『だからおまえは落ちるんだ、やれ! 決定版(ロング新書)』(ロングセラーズ、2011年3月)• 『 砂漠から芽を出せ! PHP文庫 』(、2011年7月)• 『一日で読める平家物語』(、2011年12月)• 『20代で受けておきたい 仕事の授業』(小学館集英社プロダクション、2012年3月)• 『一日で読める徒然草』(、2012年10月) 共著 一般書• , 吉野敬介『 今日から始める「やる気」勉強法』(ロングセラーズ、2007年6月)• , 吉野敬介『 驚くほど伸びる! 5日間「やる気」改革プログラム』(ロングセラーズ、2008年3月)• , 吉野敬介『 何のために勉強するのか ロング新書 』(ロングセラーズ、2011年3月)• , 吉野敬介『 今やれよ! 』(ロングセラーズ、2013年5月) 出演 コマーシャル• ・( - )- 「生徒への檄文」篇 テレビ• (テレビ東京系列、)- VTR紹介 講演• 早稲田大学企画集団便利舎主催 吉野敬介トークライブ「特講〜未然形からの脱却〜」(早稲田大学大隈大講堂、)• 学生団体SMPY主催 第59回 東京大学駒場祭 吉野敬介講演「今、頑張れないヤツは一生頑張れない」(東京大学駒場キャンパス、)• 教育委員会(2009年 、2010年 、2011年 、2012年 )• 中央大学学術連盟証券研究会主催「今、未来を変えろ! 」(中央大学多摩キャンパス8201教室、)• 主催・吉野敬介講演『今頑張れないヤツは、一生頑張れない』(福島県立いわき光洋高等学校、) 脚注 []• Business Journal. 2020年4月12日閲覧。 週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト] 2020年4月10日. 2020年4月12日閲覧。 國學院大學学報平成3年3月10日第4面(縮刷版第4巻1839頁)における新卒業生氏名一覧で、「文学部(二部) 文学科」の欄、1組の20番目(当該第4面の最下部の段落、いちばん左の行)に「吉野敬介」(ただし「吉」は「士」の部分が「土」)という記載がある。 また、吉野の大学時代の友人として著書『おまえはバカじゃない』195頁に登場するTとY(著書ではフルネームで実名)も、同じ学報において文学部二部の1組と3組にそれぞれ名前の記載がある。 長いときで30分を超える場合もあった(代ゼミTVネット『吉野のパロディ的中古文(読解編)第12回』)。 繰り返しの理由について、本人は「特に女子校出身の女の子は、男言葉になれていないものだから一回聞いただけじゃ、何を言ってるのか理解できない。 だから二、三回繰り返す」と述べている(『さらば』93頁、『自分で決められない! 』95頁、『砂漠』84頁)。 『』、『』、『』など。 毎日新聞2002年7月10日夕刊第9面• 部落解放同盟本部. 2020年4月12日閲覧。 日刊スポーツ• 本人によると、「当時の安倍内閣はいろんな問題が噴出して、おれが代ゼミを辞めたときには支持率はガタガタになっていた。 そんな逆風の中、いろいろ検討した結果」であるという(『大好きに』164頁)• 日刊スポーツ. 2020年4月12日閲覧。 『大好きに』98頁、『吉野塾』81頁• 扶桑町立扶桑北中学校. 2020年4月12日閲覧。 [ ]• 吉野敬介オフィシャルブログ. 2020年4月12日閲覧。 『砂漠』197~198頁• 『ルーキーズ勝利学』133頁• 『頑張れないヤツ。 』143頁• にも同様のプロフィールがある。 『やっぱりおまえは』25頁• 『やっぱりおまえは』223頁• 『よく聞け』54頁• 『吉野塾』77~79頁• 『おまえはバカじゃない』51頁• 『やっぱりおまえは』53頁• 『今日から始める』155頁、『何のために』162頁• もっとも、毎日続けた旨の記述はほかの著書でもある(『今日から始める』154頁、『何のために』162頁)一方で、図書館で古い新聞を写したと記述している著書(『おまえはバカじゃない』86頁、『やっぱりおまえは』91頁)もあり、後者であれば古い日付でも矛盾しない• 『やっぱりおまえは』27頁• 『おまえはバカじゃない』22~28頁、『やっぱりおまえは』23~28頁、『だからおまえは』31~36頁、『だからおまえは決定版』33~39頁• 『おまえはバカじゃない』28・46~47頁、『やっぱりおまえは』29・48頁、『だからおまえは』98頁、『だからおまえは決定版』46頁• 1986年12月に開催された代々木ゼミナールの模試は、12月6日・7日に東大模試、12月14日に共通1次プレテスト、12月21日に第6回全国総合模試、12月31日に南山大模試である(蛍雪時代1986年11月臨時増刊号A197頁の代々木ゼミナールの広告より)。 1986年の旺文社の模試は、11月9日の「第5回全国模試」と11月30日の「共通1次最終模試」が最後である(蛍雪時代11月号23頁直前の広告より)。 また、同年の駿台の全国模試は、11月2日(共通一次型)と11月9日(二次私大型)に「公開全国模試」があり、11月16日に「私大全国模試」があるのが最後で、残りは11月30日に早大模試、12月に東大・京大・東工大・一橋大の各模試があるだけである(蛍雪時代11月号210頁直後の駿台予備校の広告より)。 『おまえはバカじゃない』82頁、『やっぱりおまえは』88頁• 『おまえはバカじゃない』32頁、『やっぱりおまえは』34頁• 『よく聞け』123頁• 『頑張れないヤツ。 』28頁• 『だからおまえは』41頁、『だからお前は落ちるんだ、やれ! 決定版』43頁• 『おまえはバカじゃない』43頁、『やっぱりおまえは』44頁• 『だからおまえは』38頁• 『驚くほど』15頁• 『だからおまえは決定版』230頁• 『だからおまえは』44頁、『だからおまえは決定版』47頁• 『吉野塾』137頁• 『だからおまえは』44頁、『大好きに』46頁• 『何のために』163頁• 『大好きに』70頁• 『おまえはバカじゃない』46~47頁、『やっぱりおまえは』48~49頁• 『だからおまえは』47頁、『だからおまえは決定版』50頁• 『今日から始める』74頁• 『いつ変わるんだ』221頁。 『おまえはバカじゃない』98頁、『やっぱりおまえは』103頁• 『だからおまえは』136頁• 『よく聞け』54頁、『頑張れないヤツ』28頁、『大好きに』46頁、『いつ変わるんだ』188頁• 『だからおまえは決定版』154頁• 『大好きに』47頁• 『だからおまえは』136頁、『だからおまえは決定版』154頁• 『おまえはバカじゃない』29~30頁、『やっぱりおまえは』30頁• 國學院大學学報昭和62年2月10日第3面(縮刷版第4巻1625頁)• , だからおまえは落ちるんだ、やれ! DVD• 『おまえはバカじゃない』94頁、『やっぱりおまえは』99頁• 國學院大學学報昭和62年5月10日第3面(縮刷版第4巻1641頁)• 『やっぱりおまえは』63頁• 『やっぱりおまえは』99頁• 『やっぱりおまえは』102頁• (丸善インタビュー。 リンク切れ)• 『吉野塾』86頁• 『だからおまえは』136頁• 『よく聞け』86頁• 『大好きに』39頁• 『ROOKIES』62頁• 『紫式部』35頁• 『だからおまえは決定版』193頁• 晶文社出版編集部編「高校受験案内首都圏昭和63年度用」(晶文社出版)768~769頁、声の教育者編集部編「高校受験案内昭和63年度用」(声の教育社)330頁• 『おまえはバカじゃない』31頁• 『おまえはバカじゃない』61頁、『やっぱりおまえは』63頁• 『おまえはバカじゃない』62頁、『やっぱりおまえは』65頁• ほか、『おまえはバカじゃない』53頁、『やっぱりおまえは』55頁、『だからおまえは』45頁、『だからおまえは決定版』48頁• 『今日から始める』54~55頁、『何のために』57頁• 『仕事の授業』167頁• 『よく聞け』86頁• 代ゼミTVネット『吉野のパロディ的中古文(読解編)第2回』• 國學院大學学報昭和62年6月10日第4面(縮刷版第4巻1648頁)計42名、國學院大學学報昭和63年6月10日第4面(縮刷版第4巻1704頁)計47名、國學院大學学報平成元年6月10日第3面(縮刷版第4巻1753頁)計45名、國學院大學学報平成2年7月10日第2面(縮刷版第4巻1808頁)計42名• 國學院大學学報平成3年3月10日第6面(縮刷版第4巻1842頁)• 『おまえはバカじゃない』172頁• 『おまえはバカじゃない』49~50頁。 カッコ書きの中は、文庫化・加筆修正した『やっぱりおまえは』52頁で付け加えられた記述。 『おまえはバカじゃない』167頁、『やっぱりおまえは』175頁• 『おまえはバカじゃない』168頁、『やっぱりおまえは』176頁• 『だからおまえは』191頁• 『ROOKIES』145頁• 代ゼミTVネット『吉野のパロディ的中古文(読解編)第6回』• 『だからおまえは決定版』ほか、多数の著書の著者紹介欄• 『おまえはバカじゃない』166頁、『やっぱりおまえは』174頁• 『おまえはバカじゃない』184頁、『やっぱりおまえは』190頁• 『さらば』103頁、『自分で決められない! 』105頁• 『砂漠』93頁• 『大好きに』54頁• 『紫式部』133頁• 『おまえはバカじゃない』113頁• 『おまえはバカじゃない』114頁• 『おまえはバカじゃない』116頁• 『だからおまえは』13頁• 『だからおまえは』15頁• 『だからおまえは』16頁• 『だからおまえは』21頁• 『だからおまえは』114頁• 『さらば』41頁、『自分で決められない! 』43頁• 代ゼミTVネット『吉野の古文「単語&敬語」第7回』、『吉野のパロディ的中古文(読解編)第12回』• 今やれよ69頁• 『ROOKIES』31頁• 『だからおまえは』13頁• 『だからおまえは決定版』15頁• 『だからおまえは』15頁• 『だからおまえは』16頁• 『だからおまえは決定版』18頁• 『だからおまえは』21頁• 『だからおまえは決定版』23頁• 『だからおまえは』114頁• 『だからおまえは決定版』120頁• 『さらば』41頁、『自分で決められない! 』43頁• 『砂漠』26頁• 『よく聞け』26頁• 『驚くほど』160頁• 『さらば』38頁、『自分で決められない! 』40頁• 『そこのバカ親』174頁• 『大好きに』195頁• 『おまえはバカじゃない』115~116頁、『やっぱりおまえは』123頁• 『おまえはバカじゃない』3頁、121頁、151頁、『やっぱりおまえは』3、128頁、159頁• 『ROOKIES』38頁• 『おまえはバカじゃない』159頁• 『やっぱりおまえは』159頁• 『だからお前は落ちるんだ、やれ! 』74頁• 『さらば』72頁• 『仕事の授業』3頁、『オマエだけの言葉』2頁• 代ゼミTVネット『吉野の古文「単語&敬語」第12回』• 『だからおまえは』15頁• 『やっぱりおまえは』17頁• 声の教育社『首都圏63年度用高校受験案内』330頁、晶文社『高校受験案内首都圏昭和63年度』768~769頁』• 『今やれよ』18頁• 学力増進会『高校受験案内:東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬・山梨昭和61年度用』954~955頁• 『よく聞け』211頁• 『よく聞け』211-218頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)13-14頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)13頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)13-14頁• 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)16-17頁• そのテキストの一例として、2005年代ゼミ夏期講習会単科ゼミ『SUPER POWER-UP 古文』がある。 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年)212-214頁• 『驚くほど』155頁、『今やれよ! 』157頁• 『おまえはバカじゃない』19頁• 矢沢永吉『矢沢永吉激論集成りあがり』189頁• 『おまえはバカじゃない』28頁• 矢沢永吉『矢沢永吉激論集成りあがり』86頁• 『おまえはバカじゃない』208頁• 『頑張れないヤツ』143頁• 青山学院大学新聞21号1987年11月20日、29号1988年11月15日、38号1989年11月15日、48号1990年号11月15日• 『大好きに』140頁• 『紫式部』140頁• 『大好きに』139頁• (リンク切れ)• 『今日から始める』20頁• 『大好きに』97頁• 『今日から始める』179頁、『何のために』185~186頁• 『仕事の授業』99頁• DENiM(小学館)1993 3月号127頁• DENiM(小学館)1993 3月号129頁• デジタルハリウッド大学と東京大学駒場祭における講演は、TSUTAYAビジネスカレッジからDVDとして発売された。 外部リンク• - 公式ブログ.

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