お参り。 「伺います」と「参ります」どちらを使うべき?意外な敬語の間違いと意味|OTONA SALONE[オトナサローネ]

【お参り】と【お詣り】の意味の違いと使い方の例文

お参り

背景 [ ] のとして公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていただったが、中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃していた。 その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭司を執り行っていたは外宮に祀られているを広めるため、農民に伊勢神宮へしてもらうようにを配るなど各地へ布教するようになった。 中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼した。 やがて、神社にも巡礼が盛んになった。 街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。 以降はを初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。 世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済からが中心となり、観光の目的も含むようになった。 の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物(特に、江戸時代の税の柱であった米)の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代のや旅行記に相当する本も発売された。 当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。 特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあり、農家の間ではの守り神でもあったから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていた。 また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物(やなど)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたという。 また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目でさえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後にはやなどの見物を楽しむ者も多かった。 流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、などの信徒が多い地域には広まりにくかった傾向がある。 死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。 一番多いのは、おふだふりである。 村の家々に神宮大麻()が天から降ってきたと言う。 これは伊勢信仰を民衆に布教した (後述)がばら撒いたものだともいわれる。 伊勢神宮参詣は多くの庶民が一生に一度は行きたいと願う大きな夢であった。 お伊勢講 [ ] しかし、制度上は誰でも伊勢神宮参詣の旅に行くことは可能だったとはいえ、当時の庶民にとっては伊勢までの旅費は相当な負担であった。 日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。 そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。 「」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。 誰が代表者になるかは「」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようである。 くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。 旅の時期は、が利用される。 なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。 出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。 また地元においても道中の安全が祈願される。 参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産としてや新品種の農作物の種、やの織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。 無事に帰ると、帰還の祝いが行われる。 江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。 また、この「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。 「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。 江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った。 なお戦後は講を賭博行為とみなしたにより解散させられた(を参照)。 しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。 伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存している地域もある。 「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別(せんべつ)が旅行費の大半を占めていた。 御師の活躍 [ ] 御師が産業の大神であるを、農民に広めたのがお蔭参りのきっかけである。 御師は数名ずつのグループに分かれて各地に散らばり、農村部でを配ったり、豊作祈願を行ったりして、その年に収穫されたを初穂料として受け取る事で生計を立てていた。 伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰った。 も中頃になると、農業技術の進歩により、農家の中に現金収入を得られる者が増え、新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つ者が現れるようになった。 しかし、農民の移動に規制があった江戸時代に旅をするにはそれなりの理由が必要で、その口実として伊勢神宮参詣という名目が使われるようになった。 当時、他藩の領地を通るために必要不可欠なの発行には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえたためである(この他にも、参詣や参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていた。 通行手形の発行は、在住地の・などの代表者またはに申請した)。 この口実には、御師が各地の農民に対して伊勢神宮参詣の勧誘活動を行っていたことも理由になっていたようである。 こうしてに旅立った者は、滞在時に大抵、自分達の集落を担当している御師のお世話になっていた。 御師は伊勢参拝に来る人をもてなすため、自分の家でを経営している事が多かった。 御師の宿屋では盛装した御師によって豪華な食器に載ったやの山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住んでいる所では使ったことがないようなのに寝かせる、など、参拝者を飽きさせないもてなしを行った。 また、伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内して回った。 この時、が祀られている外宮を先に参拝しが祀られている本殿の内宮へ向かうしきたりで、という。 お蔭参りが農村に与えた影響 [ ] お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事がはばかられた。 また、当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんでや、などを知り、見聞を広げるための旅でもあった。 お蔭参りから帰ってきた者によって、最新の(例:最新のの柄)や(例:新しいのがもたらされる。 に代わって、手動式風車でおこした風でを選別するが広まる)、や(に起源を持つが各地に広まる)が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。 これが餞別やの始まりであるという説もある。 変遷 [ ] (年号のみ記載のあるものは、厳密にはお蔭参りではないが、群参の顕著な年である) 中世 [ ] お蔭参りの前段階として、集団参詣が数回見られる。 前期 [ ]• (15年)• (3年) 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。 「寛明日記」によると、の商人が流行らせたと言う。 の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。 参詣するものは皆「白衣」を着ていた。 参詣者:• 当時の日本総人口:1781万人(1650年)• 発生地域:江戸• 期間:1月~5月• (元年)• (14年)• (2年) 宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。 のの記載によると、4月上旬から1日に2~3千人がを通り、最高は1日23万人である。 参詣者:330万~370万人• 当時の日本総人口:2769万人(1700年)• 発生地域:• 期間:• (3年)• (享保8年)• (享保15年)• (元年)• (5年) 中期 [ ]• (8年) 4月11日、から女・子供ばかりの集団が仕事場の山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。 ピーク時には地元では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時のにかかれている。 参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。 集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。 お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。 参詣者:200万人• 当時の日本総人口:3110万人(1750年)• 発生地域:の• 期間:4月~7月(5ヶ月間)• 経済効果: 街道沿いの物価が高騰した。 1升が50文が相場のときに、4月18日には58文に上がり、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がった。 は5月3日で8文だったものが、5月7日には13-15文になり、5月9日には18-24文に急上昇した。 沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれた。 無一文で出かけた子供が、を持って帰ってきたといった事もあったという。 初めは与える方も的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。 (3年) 後期 [ ]• 伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。 何故か参詣するときに、を持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。 のの風習が広まったとも言う。 参詣者:427万6500人• 当時の日本総人口:3228万人(1850年)• 発生地域:阿波• 期間:閏3月初~8月末• 経済効果:86万両以上 物価上昇が起こり、で13文のが200文に、で16文のが300文に値上がりしたと記録されている。 (2年) 末期 [ ]• (3年) ええじゃないか。 厳密にはお蔭参りには入らないがお蔭参りの影響を受けている。 を参照。 に入り、が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、がの活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。 『おかげ年』にあたる明治23年()のには、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された(教育テレビ 『知るを楽しむ 歴史に好奇心』 10月放送分より)。 お蔭参り(抜け参り)に参加した著名人 [ ]• (の父) 少年時代に抜け参りに参加した。 その経緯は自著『』に詳しい。 (8代藩主) 脚注 [ ] []• ただし、江戸幕府が信仰を厳しく禁じていたキリスト教の信者()に対しては通行手形の発行が許可されることはなかった。 現存する通行手形には、申請者がキリシタンでないことを証明する旨が明記されているものが多い。 関連項目 [ ]• - 「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」• - 「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」• - 「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」• - 「抜け詣り」を題材としたの。 参考文献 [ ]• 旅の文化研究所 編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社、2002年)• 金森敦子『伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の值段』(文春新書、2004年) 外部リンク [ ]• 奈良女子大学学術情報センター• 『ケンプェル江戸参府紀行』 この項目は、に関連した です。 この項目は、に関連した です。

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「参ります」の意味と使い方・敬語表現・「伺います」との違い

お参り

Contents• お朔日参りとは 本日は十月一日、お朔日参りの日です。 読み方は「お朔日」と書いて「おついたち」です。 毎月、月の最初に参拝する 日本では古くから続くこの風習がお朔日で「朔日」は新月(ちなみに満月は十五日)現在は太陽暦を使用しているので、必ずしも新月が一日とはならないものの、毎月一日には 氏神様へお参りにいき、前月を無事に過ごせた感謝と新しい月の平穏無事を祈ります。 毎日の暮らしの中で心身を蝕んでいる垢や穢れを洗い流して神様に感謝を伝え、新しい月の始まりに向けて全てを最初からやり直す、私は祖母からそんな風に教わりました。 私は家や事務所でも一日と十五日には神棚の榊を新しくして、玄関には塩を盛り、自宅では台所の三宝荒神さん、トイレの烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)、この日は家族全員で手を合わせ、私は仏さんに向かって般若心経を唱えます。 もともと、私自身、こうして神仏に手を合わせることが出来た訳ではありません。 私がお参りをするようになったわけ 物心ついた時には祖母に手を惹かれてお参りをしていたという記憶はあるものの、自らすすんで感謝して手を合わせる様な子供、青年では決して無かったです。 子供が大きくなり、自分自身が病気をして、少しだけこれまでの人生を振り返る事が出来る歳になった今、ようやく感謝の意を八百万の神様に伝えることが出来るようになった、格好良くいえばそんな感じでしょうか。 正直、絶対にお朔日じゃなければ駄目だ、という事もなく、神様に手を合わせて日々の暮らしをリセットしよう、というのが本来の目的です、努めてその時期にお参りに行けば良いと思います。 気軽にという言い方もおかしいかもしれませんが、感謝の思いを伝えればそこから色々と始まる事があるのではないでしょうか。 お朔日参りの参拝の仕方 お朔日だからといって、特別な参拝の方法などはありません。 普段どおりのお参りをするだけですね。 参拝の時間は午前中が良い お朔日参りに限らず、神社にお参りに出かける最適な時間は午前中、特に日の出からの数時間が一番良いと言われています。 なぜなら、神社にまだ人が少なくて、雑念などが無いからだと言います。 私の氏神様である神社では、お朔日の日の早朝に合わせてお参りすると、顔見知りの神職の方が丁寧にお祓いをしてくださったりするので、やっぱり朝のお参りは良いことがあるなと思ったりしています。 お朔日参りの際の服装 できれば服装はスーツなどを来て正装、黒よりは白い方が良く、貴人にでもあうつもりでの参拝が良いといわれますが、ご近所の神社になかなか正装では出かけられないなというの本当ですよね。 私は気にせずに普段着のまま参拝していますね。 厳密に言えば、特に大事な参拝の際には、前日から酒や肉など嗜好品を絶ち準備するものだともいい、その昔は一週間ほども心身を清めて参拝していたそうです。 手水舎の作法 鳥居の前では必ず一礼、鳥居をくぐって神域に入ったなら、まずは手水舎で手を清めます。 濡れた手は、タオルやハンカチで拭くのではなく、自然に乾燥させるのが良いんだとか。 でも、手水舎の脇にタオルがかかっていたりもするんですよね。 また参道を歩く際には、中央は歩かない様にします。 中央は神様が歩く道だからです。 一礼の後、右手に柄杓をとって、水を汲みます。 まずは左手を清めます。 柄杓を持ち替えて右手を清めます。 もう一度右手で柄杓を持って、左手に水を受けクチに水を含んで清めます。 柄杓を立てて、持ちての部分に水を流してから元に戻します。 最後にもう一度一礼して参拝に向かう、こんな流れになります。 拝殿での作法 本殿に上がっての参拝はまた違った作法がありますが、拝殿前でたったまま行う略式参拝が一般的だと思います。 多くの神社では、まずは錫を鳴らしてお賽銭(逆でも良いらしい)、そして「二礼二拍一礼」ですね。 もう少し詳しく書いて置きます。 深いお辞儀(礼)を二回繰り返します。 【二礼 】 次に両手を胸の高さで合わせ、右手を少し手前に引き、拍手を二回打ちます。 【二拍手】 両手をきちんと合わせながら心を込めて祈ります。 両手をおろし、最後にもう一度深いお辞儀(礼)をします。 【一礼】 ちなみに、出雲大社と宇佐神宮は四拍手、伊勢神宮は八拍手でお参りします。 お参りを終えて境内を出る際も、境内に入る時とおなじ様に、鳥居の前で一礼を忘れてはいけません。 気軽にお参りしましょう! 私などは横着者ゆえ、なかなかここまで徹底できませんが、こういったことを知っておくのは大切なことだと思いますし、お参りを続けていれば、自然と「もっと色んなことを知りたい」、私がそうであったようにそんな風になってくると思います。 実際に、そんなに厳格なものじゃない、ということを神職の方から聞いて、ホッとしていたりもします。

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節分四方参り(吉田神社・壬生寺・・・)

お参り

「牛に引かれて善光寺参り」の意味と由来は? 「牛に引かれて善光寺参り」の由来になった昔話 「牛に引かれて善光寺参り」の意味を理解するには、由来になっている善光寺に伝わった昔話を知るとよいでしょう。 主人公は、信濃国の小諸という地域に住んでいる欲深い老婆です。 老婆が軒下で布をさらしていると、どこからか現れた牛が布を角に引っかけて走り去っていきました。 欲深い老婆は、かなり怒って牛を追いかけましたが、牛の足が速くて追いつくことができず、とうとう善光寺まで来てしまいました。 善光寺の金堂前で、ふと足元を見ると、牛のよだれが垂れており、そのよだれが文字のように見えます。 書かれていたのは「うしとのみ、おもひはなちそ、この道に、なれをみちびく、おのが心を(牛とのみ、思い過ごすな、仏の道に、汝をみちびく、己が心を)」という文字でした。 これを見た老婆は、欲を捨てて信仰の道に入ることができ、その日は善光寺の如来様の前で念仏を唱えて過ごしました。 布を探すことは辞めて家に帰り、信心深く過ごしていたところ、たまたまお参りした観音堂で、観音様の足元に牛に奪われた布が置いてあるのを見つけました。 老婆は、牛と思ったのは観音様の化身だったと思い、さらに信心深くなり、極楽往生を遂げることができました。 「牛に引かれて善光寺参り」の意味は「思わぬ他人の誘いで良い方に」 「牛に引かれて善光寺参り」は牛に布を引かれて善光寺に行ったことがきっかけで、信心深くなり極楽往生を遂げられたというお話です。 このことから、現代では「思わぬ他人の誘いで、物事が良い方に向かうこと」を表す言葉として使われています。 ポイントは「他人の誘い」であることと、「物事が良い方に向かうこと」です。 意図せずにした行動では足りず、他人から誘いがあって、したいと思っていなかった行動をとった場合に使う言葉です。 また、物事が悪い方に向かってしまった場合には使うことができません。 「牛に引かれて善光寺参り」には仏教的な意味も 善光寺はもともと、女性の信仰の対象でした。 このお話は、如来様の使いとして、観音様が牛に姿を変えて老婆を導いたと解釈されており、信心深くなく欲深い老婆であっても、如来様は慈悲深い心で救ってくれるということを伝えていました。 「一生に一度は善光寺参り」と言われている 「牛に引かれて善光寺参り」のお話で、善光寺に行った老婆が信心深くなったように、善光寺は、「一生に一度お参りするだけで極楽往生が遂げることができる」と言われています。 そのため江戸時代末期には「一生に一度は善光寺参り」という言葉も生まれました。 「牛に引かれて善光寺参り」と一緒に覚えておくとよいでしょう。 「牛に引かれて善光寺参り」の使い方は? 「牛に引かれて善光寺参り」の例文• 体調がすぐれなかったが、友人に誘われて行ったパーティで知り合った医師に相談したら、体調がかなり良くなった。 牛に引かれて善光寺参りだ。 牛に引かれて善光寺参りで、母に誘われてミュージカルに行ったら、その素晴らしさに魅了された。 今では毎月見に行っている。 先輩に誘われた美術館に行きたくはないが、牛に引かれて善光寺参りという言葉もあるし、我慢して行こうと思う。 「牛に引かれて善光寺参り」の類語は? 「牛に引かれて善光寺参り」の類語 「牛に引かれて善光寺参り」のように、思わぬ他人の誘いで、物事が良い方に向かうという意味の言葉があるのかは不明です。 しかし、思いもせずに、物事が良い方向に進むという言葉には「棚からぼた餅」があります。 「棚からぼた餅」は、思いがけない幸運を得ることを表す言葉で、棚からぼた餅が落ちてきて、下で寝ている人の口に入ることから生まれました。 自分が意図していないことで、物事がいい方向に進むという点が共通しています。 「牛に引かれて善光寺参り」の英語表現は? 「牛に引かれて善光寺参り」は英語で「Goslings lead the geese to water. 」 「牛に引かれて善光寺参り」に似たことわざが英語にもあります。 それが「Goslings lead the geese to water. 」です。 「Goslings」とは、ガチョウの子のことで、「geese」はガチョウです。 直訳すると「ガチョウの子は、ガチョウを水辺まで導く。 」となります。 まとめ 「牛に引かれて善光寺参り」とは、思わぬ他人からの誘いで、物事がいい方に向かうことを表すことわざです。 欲深い老婆が牛に布を取られて追いかけ、善光寺に到着し、信心深く変わって極楽往生を遂げたという、善光寺に伝わった昔話が由来となっています。 社会人であれば、断りにくい誘いがある人も多いでしょう。 「牛に引かれて善光寺参り」という言葉を思い出してみてはいかがでしょうか。

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