人は考える葦である。 「考える葦」を文脈から読む/パスカル「パンセ」

「考える葦」を文脈から読む/パスカル「パンセ」

人は考える葦である

Contents• アオアシについて簡単に触れておきます いま、サッカーマンガ界隈めっちゃ有名なアオアシ知らない人、まさかいないと思うんですが 天文学的数字の可能性の低さで、アオアシ知らない人がいるかもしれないので 簡単にご紹介。 アオアシは、週間漫画誌スピリッツで大人気連載中のサッカーマンガ。 2015年6月号から連載中。 作者は、小林有吾さん。 愛媛で埋もれていたサッカー少年の青井葦人が東京のユース、東京シティ・エスペリオンFCでプロを目指す漫画です。 仕事も同じで、低いレベルに合わせて仕事すると自分もチームも価値が下がる。 常に上のレベルに合わせて仕事していくべきだな、と強く思う。 天才なんやで 哲学者としてだけでなく、物理学者や実業家としても有名なパスカル。 台風のとき良く聞く「ヘクトパスカル」という単位はこのパスカル由来。 39歳でなくなってしまった早熟の天才。 前述したとおり、人間は考える葦であるという言葉はパスカルの遺稿、「パンセ」に残っている言葉で下記のように記されています。 人間はひとくきの葦にすぎない。 自然のなかで最も弱いものである。 だが、それは考える葦である。 彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。 蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。 だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。 なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。 宇宙は何も知らない。 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。 われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。 だから、よく考えることを努めよう。 ここに道徳の原理がある。 — パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、225頁。 人間はか弱く矮小な生き物である ひとくきの葦にすぎない• 人間は宇宙にも簡単に押しつぶされるか弱い存在• 様々な自然の脅威や宇宙の大きさに押しつぶされる様は まさに、風に吹かれたらすぐに折れてしまう葦そのものですが 考えることにによって様々な脅威を押し返せるのは 吹かれても強靭な根によって飛ばされない葦と一緒だとパスカルは思ったのかもしれません。 そして、この言葉は考えることの偉大さを伝えるとともに 考えることができない人間は葦以下だと言っているのかなと。。 人間を偉大さに知らしめているのは思考力ですが か弱い存在の人間の生命線もまた思考力なんですね。 これは現代社会でも一緒かもなー 人間は、考えることによって社会や世界に貢献できる。 現代社会で生き抜くにも様々な障害が立ちふさがるが 人間は考えることによって、その障害を乗り越えていける。 ただ、考えないでも生きることはできる。 人から指示もらって仕事して、のうのうと給料もらえれば死ぬことはない。 けれどそれは葦と一緒なんだよな。

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「人間は考える葦である」とはどういう意味ですか?なぜ「葦」なんでしょ...

人は考える葦である

「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。 パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。 残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。 当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。 従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。 ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。 それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。 例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。 これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。 風に抵抗できない。 いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。 しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。 しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。 少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。 人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。 自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。 そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。 ……このような意味の比喩ではなかったかと思います。 この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。 パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。 彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。 パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。 暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。 弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。 パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。 こんばんは。 『人間は考える葦である』はパスカルと言う人の言葉です。 Blaise Pascal(1623~1662) フランスの哲学者・数学者・物理学者。 大気圧・液体圧に関する業績や円錐曲線論は有名。 無限な宇宙に比すれば、人間は葦のように弱いが、それを知っている人間は「考える葦」として偉大であり、人間のこの自己矛盾を救うものはキリスト教であると説いた。 これを物体・精神・愛と言う秩序の三段階と呼んだ。 今日では実存主義の先駆と見なされている。 著「パンセ」などのほかイエズス会士との論争書簡集がある。 以上、広辞苑第4版からの抜粋でした。 私の考える「人間は考える葦である」はまとまりがなくて、しかも原文をすべて読んだわけではないのでおかしいかもしれませんが以下のようなものです。 人間は、一本だと葦のように弱いモノですが、その葦の一本はいろんな事を考えることも出来て、まとまると強くなる。 弱いけど強い、でも弱い…と結論が出ないのじゃないだろうか?と思ってます。 それでは失礼します。 A ベストアンサー 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。 リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。 seesaa. html 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義 右派リバタリアン で、それ以後を新保守主義 ネオコン といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン 左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法 戦争など過激な改革を許容する を執ると言う主義 です。 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで 高福祉政策 」などが有ります。 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。 そして変える方向 変えない方向 が自由か統制かで分類できます。 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。 自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。 リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。 seesaa. html 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共... A ベストアンサー イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、 狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。 つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の 体系です。 一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を イデオロギ-と言うんです。 例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。 だから賛成や反対といった意見が出てきますね。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。 例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに 組織されています。 つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。 しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して 公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。 ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。 一応これは一つの例ですけど。 というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。 こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。 この説明で理解してくれると思いますけどね。 イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、 狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。 つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の 体系です。 一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を イデオロギ-と言うんです。 例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。 だから賛成や反対といった意見が出てきますね。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 イデオ... Q 皆様、こんにちは。 最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。 他にも『解任』などもあったりして どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。 gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。 『更迭』は他の人に変える事とでてきます。 これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか? なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。 よろしくお願い致します。 A ベストアンサー 「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。 しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。 これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。 あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。 私もにた様な経験があります。 美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。 といったら「だから、木曜以降って! 聞いてました? 木曜は駄目なんですよぉ 怒。 と言われたことがあります。 しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。 「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。 goo. php3? もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。 広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく 不親切です。 朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。 解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、 ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。 目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です) A ベストアンサー もともとは「すみません」ですが、「すいません」と発音しやすく変えたものもたくさん使います。 話す時はどちらでもいいですよ。 ただ、私個人の語感で言うと、公式的な場では「すみません」の方がいいような気もします。 「すいません」はちょっとくだけた感じかな。 でも、これはあくまで私個人の語感。 人によって、あるいは地方によっても感じ方は違うだろうと思います。 書くときはもちろん「すみません」にしましょう。 これも、話す時にはどちらでもいいです。 「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。 A ベストアンサー 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。 それも「かかわる」でなく「かかる」です。 「人命に係 かか る問題」「係 かか り結び」など。 前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合 常用漢字の基準では 「係わる」でなく「かかわる」です。 結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。 漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。 ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。 漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。 一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的 「関わらない」「係わらない」 にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。 ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。 念のため。 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい...

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人間は考える葦であるの原文: 私も考える葦である

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ついでに原文も載せておこう。 「熟慮するよう努める。 さすれば道は拓ける。 」なのかな?と。 フランス語です。 『L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature ; mais c'est un roseau pensant. 347, L. 自然の中でもっとも弱いものである。 だが、それは考える葦である。 これを押しつぶすには、全宇宙が武装する必要はない。 一吹きの蒸気、一滴の水だけで、殺すには十分である。 だが、たとえ宇宙が押しつぶそうと、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。 なぜなら人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。 宇宙は何も知らない。 だから、われわれの尊厳のすべては考えることにある。 われわれが立ち上がらねばならないのはまさにそこからであって、われわれが満たすことのできない時間や空間からではない。 だから、よく考えるようにつとめようではないか。 そこに道徳の原理がある。 347, L. 200 』 ブレーズ・パスカル『パンセ』(戸口民也訳).

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