向井 理 大河。 向井理と谷原章介は似てる?画像で比較!輪郭や顔どちらもイケメン

麒麟がくる:「さすれば、麒麟がくる」… 将軍・義輝のタイトル回収にSNS沸く 向井理の演技にも反響

向井 理 大河

俳優の長谷川博己さんが主演を務めるNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の第11回「将軍の涙」が3月29日に放送され、将軍・足利義輝(向井理さん)が光秀(十兵衛、長谷川さん)らを前に、王が仁のある政治を行うときに必ず現れるという聖なる獣「麒麟」について語るシーンが登場した。 戦が絶えないことを「わしの力が足りぬゆえ、世は平らかにならぬ」と嘆く義輝は、父・義晴から子供のころに聞かされた好きな話として、「強い子になれ。 声は大きく、よい耳を持ち、よく学べ。 さすれば立派な征夷大将軍となろう。 世を平らかにできよう。 さすれば、麒麟がくる。 この世に麒麟が舞い降りる」と語ると、「この世に誰も見たことのない麒麟という生き物がいる。 穏やかな世を作れる者だけが連れてこられる、不思議な生き物だという。 わしは、その麒麟を連れてくることができぬ。 無念じゃ」と涙をこらえる。 ここで義輝は、気を取り直して織田と今川の両者に遣いを出し、和議を命じることを光秀に約束すると、「十兵衛、麒麟がくる道は遠いのう」と呼びかける……という展開だった。 一連のシーンと向井さんの演技に対して、SNSでは「将軍様の後ろ姿が美しい」「将軍によるタイトル回収……!」「将軍様、お美しくタイトルコール!」「義輝さま~『麒麟がくる道は遠いのう』泣けるう~」などと視聴者は反応。 さらに「向井様が神々しかった」「向井理の公方様、すばらしい!」「麗しい将軍様の涙に見ほれてたら、もう43分経ってた」「ああー向井理将軍、長生きして、長生きしてよおー」といった声も上がっていた。

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向井理と谷原章介は似てる?画像で比較!輪郭や顔どちらもイケメン

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室町幕府第13代将軍として京都において将軍親政を復活させようと試みるも、三好長慶との権力闘争に敗れて討たれることになる足利義輝です。 キリスト教を公認するなど開明的な一方、剣豪として名をはせていた 塚原卜伝に師事した剣豪で(免許皆伝したという記録はありませんが)、討たれる時もかなり奮戦して戦ったというエピソードもあります。 それだけの器量を持ちながらも権力闘争に敗れたのは、やはり幕府の財政難と年貢強要の実力不足によるものなのでしょうか。 そんな開明的な考えと剣の腕を持ちながらも、政治的駆け引きに破れる足利義輝を2020大河ドラマ「麒麟がくる」で演じるのは向井理さんです。 明智光秀とは。 凛々しい将軍・義輝との最初の出会いでした。 スポンサーリンク 向井理が麒麟がくるで演じる足利義輝はどんな将軍。 義輝の最期は何話? が牛耳る三好長慶と対立しながらも、将軍権威の回復を目指して将軍親政を目指したのは足利義輝です。 義輝は第12代将軍・足利義晴の長男、つまり将軍と正室、しかも平安時代に摂政・関白を務めた摂関家の一族を母に持っていたわけですから、相当由緒正しい家柄の生まれだったはずです。 しかしながら応仁の乱以降、将軍の力は目に見えて衰えており、足利義晴も管領・細川晴元との対立により、1548年ごろから京への復帰と坂本への脱出を繰り返していました。 ですから、そんな父親をもどかしく感じていたのは確かでしょう。 向井理の麒麟がくる。 義輝と光秀の出会いは5話。 第1話で登場した室町幕府幕臣・三淵藤英(谷原章介)を介して、と出会います。 は土岐源氏の流れを汲むということもあり、同じ源氏の流れをくむ足利義輝は常識人として尊敬もしていたと思います。 その一方で、京の町をコントロールできず、治安の悪い社会にしてしまったことや、足利義輝自身には何の力もないことも事実だったと思います。 坂本と京の町を追放されたり戻ったりせざるを得ない身分であることに対して、複雑な思いも抱いていたのは確かだったでしょう。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝は天皇と源氏の血 天皇と源氏の血を引く足利将軍は、世の中を平和で仁徳で統治できる『王者』であり、『麒麟がくる』の世の中にできる存在の一人であるのです。 ですが、王者であるはずの足利家がこうも情けない状態であるのを見て、ますます光秀を含む自分たちが動かなければいけないと思うようになっていくのでしょう。 『麒麟がくる』の世の中を『王ないし足利将軍が仁徳で天下を治める』という風に光秀が考えているのならば、天皇あるいは足利将軍が仁徳で世の中を治められるように、自分が動かなければと思うようになっていくのだと思います。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝が光秀と触れ合う 麒麟がくるでは、義輝が光秀に対して平和な世を象徴するがありました。 多分、この場面は「光秀の核」となるものを与えるシーンになるのでしょう。 後に坂本は光秀によって城が立てられて発展していきましたから、 光秀も天皇や将軍を立てようとしていた思いはあったようです。 やがて細川晴元も三好長慶によって没落すると、足利義輝は三好長慶と対立しないといけなくなるわけですが、一度暗殺を謀ろうとして失敗します。 自身の力のなさを知るわけですね。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝は争いの介入 しかしながら将軍親政の夢は衰えておらず、1550年ごろから諸大名の争いの介入を積極的に繰り返し、さらには毛利輝元(元就の孫)、伊達輝宗(政宗の父)、上杉輝虎(謙信)などに恐れ多いとされていた将軍の名を与えたりしております。 そして川中島の合戦の終結のための介入もしているわけですから、名合戦の陰で将軍の権威を持つ義輝の活躍があったのは確かでしょう。 しかしながら、1564年に三好長慶も病死した後、長慶はおろか足利将軍すら傀儡にしようとする松永久秀にとっては義輝が邪魔な存在でしかなくなります。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝と松永久秀の関係 『いがみ合う関係』ですね。 足利義輝にとっては、出自も不明な卑賤な家の出である久秀は快く思ってなかったと思われますし、久秀にとっても、将軍を傀儡として自分の思い通りの政治をするうえで義輝は邪魔な存在ではなかったかと考えられます。 とはいっても、宮廷貴族化して軍隊を養えなくなり、年貢を強制する実力がなくなってますます衰える京の足利家と、巧みに主君の三好長慶を操り、残忍な刑罰(蓑をつけての火あぶりの刑など)を使って年貢を多く集めた久秀とは、策略も経済力も雲泥の差だったのではないかと思われますね。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝は松永久秀に殺される 最終的には、足利将軍家と親しかった六角家の援助が受け入れられないスキを突かれ、足利義輝は久秀に殺されてしまうことになります。 人望としては久秀より足利義輝の方が上だったようで、足利義輝の死を知った上杉輝虎(謙信)は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったといわれていますし、正親町天皇も政務を3日間停止して弔いを示したといわれています。 1567年2月10日には、京の真如堂で義輝追善の六斎踊が挙行され、摂津や近江坂本から集った2,800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだといわれております。 どうやら義輝の無念の思いは、信長によって果たされることになるようです。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝と織田信長の関係 『お互いによく知らないが、最終的には「義輝の権威」を利用された関係』 義輝に取って織田家は守護・斯波家の守護代の家臣、つまり主君にとっては『また者』であって、信長もまた、若いころは家督争いを鎮めなければならず、京の上洛どころではなかったものと思われます。 後に足利義輝の弟・足利義昭は、信長に担がれて京に入り、最後の足利将軍となるのですが、これには兄の義輝よりは当時朝倉家の家臣であった明智光秀の紹介によるところが大きいといわれております。 向井理の麒麟がくる。 信長が義輝を殺した久秀を討つ ところが、のちに義昭を神輿に担いだ信長が、義輝の仇である久秀を討つというのだから、歴史は面白いですよね。 信長は久秀とは茶飲み仲間と言えるほど親しかったようですが、のちの久秀討伐で『義輝を殺害したこと』を名目に兵を派遣した可能性は十分にあると思われます。 その一方、義輝が久秀によって暗殺された背景は『朝廷を軽んじていたから』と後に信長は語っています。 合理主義者の信長にとって足利将軍はどうでもいいと考えていたようですが、それでも『将軍という権威』は利用する価値があったのではないかと考えられます。 ちなみにダークヒーローである松永久秀の死に、人々は快哉を叫んだといわれていて、農具を売って酒に変えるほどだったとか。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝の最後は? 『本来は失脚を求める訴訟のはずが、武力衝突に発展してしまった』 将軍自らが政治を行おうとする『親政』を目指す足利義輝と、将軍を傀儡に自らが統治をしようとする松永久秀は、もともとから相いれない存在でありました。 当初久秀たちは、義輝の従弟で後に第14代将軍となる義栄を将軍にするよう朝廷に掛け合うなど、妥協案を探っていたようですが挫折してしまいます。 そんな折悪いことに、義輝が頼みとしていた近江六角氏が近江を離れられなくなり、義輝自らが指揮する兵は数に乏しくなっていくのです。 そして1565年5月19日、ついに松永久秀たちは約1万の軍勢を率いて二条御所に押し寄せ(久秀の息子が首謀者で、久秀自身は関わってないという説もありますが)、将軍への訴訟を求めて御所を包囲します。 最初から義輝の暗殺をもくろんだのではなく、取次で手違いがあったという説もあるのですが、包囲していた鉄砲隊が火を噴き、四方から御所に押し寄せる事態となりました。 方や将軍家直属の兵は30人ほど。 交渉決裂の責任を問った人間が自害した後、足利義輝は家臣と最後の杯を交わして応戦します。 それぞれが数十人を討ち取り、塚原卜伝に剣術を習ったとされる義輝自身も薙刀をふるった後、刀に持ち替えて応戦したといわれています。 しかし、多勢に無勢の中、ついに義輝は討ち死に。 享年30歳。 義輝の死によって足利将軍の力はさらに弱まり、松永久秀の独断場が続くことになるのです。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝の辞世の句 その辞世の句は 「五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」 彼に従っていた家臣たちも全員戦死・自害したといわれています。 5月19日、正午のころだったといわれています。 こののち、松永久秀は義栄を傀儡として次の将軍に据えて、再び三好家と久秀による傀儡政治が始まるのです。 義輝の弟義昭は当時出家して興福寺にいましたが幽閉され、のちに細川藤孝らとともに脱出して朝倉家を頼ることになるのです。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝の家紋 『丸に二つの線を引いた「足利二つ引」。 線は神霊の象徴で、二つなのは次男が先祖だったから』 源氏の血を引く足利家ですが、実際の家紋は円の中に二つの線を引いたシンプルなもの。 二つの線である『引両(ひきりょう)』は、『引霊』が転じたもの。 すなわち、自らの神霊を引き出して戦に臨むと意味があるそうです。 武家には旗に『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ。 源義家の霊)』などと名を記し、下に黒い線を引くというのが習慣だったのですが、霊の名を記すことがなくなり、線だけを引く習慣が残ったそうです。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝の家紋はなぜ2本の線 次に、なぜ線を2本描いたのか。 これには、足利家の祖先とされている源義康が次男だったからという説が有力なようです。 義康は源義家の孫なのですが、のちに下野の足利と呼ばれる場所に移住し、『足利義康』となのるようになるのです。 義康の子孫が、のちに足利将軍家として二つ引を使用することになるのです。 (ちなみに義康の兄で長男でもある義重は上野の新田に住み、『新田義重』として丸に線が一本だけある『一つ引』を使用します。 しかし子孫の新田義貞が南北朝の戦で南朝方について戦死すると、新田家は鳴かず飛ばずとなるのです) 土岐源氏の血を引くとされる光秀は、足利家の家紋である二つ引がまぶしく思えたのは確かでしょうね。 向井理の麒麟がくる。 足利義輝の登場シーン。 「『麒麟が来る道は遠い』という義輝の言葉は、光秀がいたからこそポロリと出たのだと思います。 『麒麟がくる』では、家臣として将軍の僕を支えてくれています。 光秀が鉄砲を捜しに京に到着した時に声をかけられました。 かと思えば、2019年映画『引っ越し大名!』では主人公の主君にホモ・セクハラをして拒まれ、逆恨みして物語の発端である減俸・引越しの原因を作る柳沢吉保の役を演じるのですから、何でも演じることが出来る役者であるのはたしかなのでしょうね。 身長182㎝ですから、どちらも合うのは確かだと思われます。 「麒麟がくる」で足利義輝を演じる向井理の魅力 向井理のプロフィール 彼は1982年7月7日、横浜生まれ。 成人してからも「俺についてこい」タイプを自称しているのですが、幼少期もわがままで生意気で、サッカーなどのスポーツばかりしている少年だったとか。 大の動物好きで、それが高じて最初は獣医師を目指すようになっていきます。 明治大学農学部生命科学科へ進学し、遺伝子工学を専攻した後、第29回国際動物遺伝学会議(2004年9月開催)『ベストポスターアワード』を受賞しております。 その時にアルバイトとして東京・渋谷区でバーテンダーを務めた後、卒業後カジュアルなバーに就職。 後に店長を1年間務め、のべ6年のバーテンダー歴、およびレパートリーも500を超えるといわれています。 その勤務中、東京・表参道で「イケメン」として取材を受けた写真が雑誌 『Tokyo graffiti』に掲載され、同誌のイケメンランキングで4位となったのが人生の転機となります。 向井理の芸能界 雑誌に掲載された写真を見たホリエージェンシーの女性マネージャーにスカウトされ、芸能界入りすることになるのです。 本人は人見知りを直すということで芸能界入りしたそうですが、2006年に『ミニッツメイド』でCMデビューした後、2008年10月4日のNHK単発ドラマ『ママさんバレーでつかまえて』で、黒木瞳演じる主人公・鈴子の気弱な夫・光太郎役として準主演を果たします。 2009年10月には、日本テレビ系列『傍聴マニア09〜裁判長! ここは懲役4年でどうすか』で、主人公・北森夫役を演じて初主演を果たします。 時代劇デビューは実は『江 ~姫たちの戦国~』の徳川秀忠役なのです。 同時期のバラエティ『しゃべくり007』で「会いたい人はいますか」と聞かれたところ、三天下人、つまり信長、秀吉、家康の名を挙げているだけあって、非常に戦国時代に興味があることが理解できます。 2014年12月には、ドラマ『ハングリー!』での共演以降交際していた国仲涼子さんと結婚。 向井理の家族と趣味 2015年9月30日には第1子が生まれたと発表され、2017年9月25日には第2子懐妊を発表しております。 趣味は、サッカー・お酒・料理・ボルダリング。 子供のころからやっていたサッカー歴も12年以上であり、少年時代は元日本代表の井原正巳さんに憧れていました。 また、その井原さんが現役時代に所属していた横浜F・マリノス(旧横浜マリノス)の大ファンであり、学生時代はマリノスのスタジアムでボールボーイのアルバイトをやっていたこともあったとか。 向井理の大河ドラマは2回目 大河ドラマは『江 ~姫たちの戦国~』以来、2回目の出演となります。 由緒正しい家柄の役も、変わり者の役も務めることが出来る俳優ですから、今回の義輝役もどのようになるものなのか、期待は大きいでしょう。 向井理が麒麟がくるで演じる足利義輝はどんな将軍のまとめ 明智光秀はのちに足利義輝がしばしばそこに亡命していた坂本に城を建てることになるのですから、それだけ義輝の影響が強かったのは確かでしょう。 辞世の句で、自身が天下を取るとも、天皇が天下を取るとも解釈されていますが、天皇と強い姻戚関係にあった足利家も含まれていると考えられるのです。 将軍親政を実現させようとした義輝の人生と横死は、松永久秀の寵愛を受けていた明智光秀に、反抗の精神を抱かせることになると思います。 でも、実際のところはどうなるか?また11話の「将軍の涙」でにファンの皆さんは絶賛していました。 ドラマの行方が気になります。

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【麒麟がくる】向井理、「光秀像を根本から変える」と期待

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thetv. 向井理さんがドラマにでるだけでテンション上がるわぁ!と思われた方も多いのではないかと思います。 ファンはもちろん、ファンじゃなくても見ていて癒されるイケメンっぷりは太鼓判ですよね。 恋人にしたいランキングで1位をとったこともありましたよね。 って、イケメンを全面に推しすぎましたが、向井さんは見た目だけではないのです。 演技力もなかなかです。 そして、大河ドラマにも出演されていますね。 『 江~姫たちの戦国~』で、徳川家康の息子・徳川秀忠役で登場されていましたね。 こんなに今時のイケメンなのに、武将の格好がホントよく似合っていてかっこよかったですよねぇ~。 向井理さんは今回大河ドラマにでると決まってこんなコメントを出されています。 「自分にとって時代劇の原点。 あの時の恩返しができればという思いです。 」 人柄が優しい感じなので、戦国武将っていう大変な時代を生きる足利義輝をどんなふうに演じられるのか楽しみですね。 これから、毎週日曜日が更に楽しみになりそうですね。 wikipedia. では、「征夷大将軍」「幕府」と聞いてどのようなイメージをもたれますか? だいたいの人は何となく、 ・位の高い人。 ・お飾り的な感じ。 ・周りに守ってもらわないとなにもできない。 などではないでしょうか。 (歴史の好きな方あるいは詳しい方は違うのだと思いますが。 ) 実際、将軍はお飾り的に言われることも多いですが、今回大河ドラマに登場する足利幕府第13代将軍・ 足利義輝が将軍になる頃は、下克上の戦国時代。 そんな頃に生まれ育ち、将軍の権威を復活させようとしていた将軍が足利義輝です。 また「 剣豪将軍」としても有名なほど、剣術に長けていて、剣豪についての逸話がのこされています。 このあたりも、それまでの将軍とは違うポイントなのですが、これはとても稀な例なので、 それだけ凄いことなのです。 では、ここで足利義輝が生まれた1536年当時の日本の情勢はどのようなものだったのか簡単に見ていきたいと思います。 1467年の「 応仁の乱」の影響で、将軍の権威は落ちに落ちていました。 で、将軍に代わり実権を握っていたのは、幕府のNO2で官領だった細川晴元です。 当時の将軍は、足利義輝の父・義晴だったのですが、権威を取り戻す為、細川晴元と争います。 しかし、争いには負けてしまい、結局、近江国坂本に逃れ、 足利義輝はここで幼少期~少年期を過ごすことになります。 1546年(天文15年)、足利義輝は11歳、 第13代将軍に就任します。 同時に元服。 1548年(天文17年) 父と細川晴元が和解します。 そして足利義輝は京都へ戻り、 細川晴元と政治を行おうとしましたが、 細川晴元 VS 三好長慶(晴元の家臣。 ) に巻き込まれることに…。 ・5月長慶家臣・遊佐長教が暗殺され、 ・7月幕府軍が長慶家臣・松永久秀と戦い敗れました。 と、いったことを繰り返します。 ・1553年(天文22年)、三好軍に敗れる。 (東山霊山城) ・1558年(永禄元年)、三好長慶と和解。 (六角義賢の仲介により。 ) 幕府の実権を巡り足利義輝と三好長慶が対立している頃、 織田信長は1552年(天文21年)当主として尾張統一に動いていました。 ・1554年(天文23年)、 織田一族・織田尾張守護代家を滅ぼす。 ちなみに織田信長は織田弾正忠家。 ・1556年(弘治2年)、「稲生の戦い」 織田信勝(実弟)に勝利。 ・1558年(永禄元年)、 弟・信勝を殺害。 (謀反を再度起こそうとした為。 ) 信長が家督を継いでから4年で、織田弾正忠家をまとめ尾張の統一に動きだしたのです。 同年、足利義輝にも権威を復活させる一筋の光が見えました。 三好長慶に不満を持つ畿内の大名らが、軍を興し三好長慶の弟・義賢を討ち取りました。 (久米田の戦い) 三好義賢は三好政権を支えていた重臣の一人でもあり、このことは三好氏衰退の始まりとなり…。 しかし、足利義輝は三好長慶との協調を選び、討とうとしませんでした。 そして織田信長は、尾張の新統治者として認めてもらう為、1559年(永禄2年)2の月2日京へ上洛し、 足利義輝に謁見します。 これが二人が直接会った最初となります。 謁見した目的は忠誠を誓うことではなく、京の情勢を確認の為といわれています。 (将軍の権威復活の為。 ・1563年(永禄6年)、 織田信長と松平元康(徳川家康)が清洲同盟を結びます。 ・1565年(永禄8年)、 織田信清(織田一族)を滅ぼし、 尾張を統一。 そして織田信長が武田信玄と同盟を結び、 伊勢地方に進出し、 勢力を拡大していきます。 一方、足利義輝は実権を三好長慶に握られながらも、将軍として各地の大名との親しくしていて、 親政を行います。 ) 省略しますが、1548年~1563年に義輝は、たくさん大名家の争いごとを仲介したり、 自身の名の「 義藤」や「 義輝」の一字を与えています。 ・1564年 足利義輝と争っていた三好長慶が急死します。 死因は弟の死と嫡男・義興の死による精神的なものによるものだと言われています。 三好氏家臣の三好三人衆ら三好長慶の養子が、後継者とし、 三好義継の後見役として実権を握ります。 そして、松永氏と三好氏の連立政権を樹立します。 この連立政権の樹立が足利義輝の命運を決めることになるのです。 将軍の権力を取り戻す為に奮闘しながらも、あくまで和睦に拘り、討つことはなかったというエピソードは、男気があってかっこいいですよね。 このような逆境の中に生まれ育った足利義輝の最期は、必死で周辺の敵対勢力に抗っていましたが、松永・三好勢に拠点の二条御所を包囲され壮絶な最期を遂げることになります。 講談では、 「将軍家秘蔵の名刀を畳に突き立て、切れ味が落ちると、そのたび刀を取り変えて戦った。 」 という話も…。 真偽はわかりませんが、もし本当だったらかっこいいですよね。 内面のかっこいい武将、足利義輝。 大河ドラマではどのような形で登場するのでしょうね。 楽しみです。 wikipedia. そうして足利義輝は、将軍の権威復活に動きます。 そんな、足利義輝の行動に危機感を持った松永久通(久秀の嫡男)、三好義継、三好三人衆らは、 1565年(永禄8年)に京都二条御所にて足利義輝を襲撃します。 ( 永禄の変) 清水寺の参詣を名目に1万の兵を集め足利義輝がいる二条御所へ押し寄せ、 三好軍は屋敷に押し入り、足利義輝を暗殺。 足利義輝は屋敷に押し寄せてきた兵を自ら迎え撃ち、薙刀を手に応戦。 この時、薙刀以外に畳に数十本の刀を刺して戦い、(刃がかけると新しい刀に持ちかえ)一人で多くの敵を討ち取ったと言われていますが、だんだん体力が無くなり、最期は転倒したところを襖(ふすま)をもった敵兵に抑えられ、自慢の剣術を封じられてしまいます。 そうしてその上から何本もの槍で刺され討ち取られました。 そんな足利義輝が最期に持っていた刀は、源頼光が鬼を退治で使った「 童子切安綱」だったそうです。 足利義輝は30歳で命を落としました。 将軍権威の復活という夢半ばで、暗殺されてしまいます。 足利義輝の死と同じころに慶寿院(実母)は自害しています。 そして側室の小侍従殿、義輝弟の周暠(しゅうこう)らは殺害されます。 唯一義輝の弟・足利義昭だけ生き残っています。 (後の第15代将軍)。 1567年(永禄10年)2月、 京の真如堂で義輝の追善(冥福の祈り)が行われました。 この追善に、畿内を中心に約8万人の群衆が集まったという話から解る事は、 群衆にとって足利義輝の存在というのは、細川氏、三好氏の政治脱却を願ったものではないかといえるのではないでしょうか。 スポンサーリンク•

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