皇帝 付き 女官 は 花嫁 として 望 まれ 中。 [B! ラノベ] ラノベ【一迅社文庫アイリス】2019年8月発売タイトル・発売日

皇帝つき女官は花嫁として望まれ中」コミックがスタートします!|奏多の活動報告

皇帝 付き 女官 は 花嫁 として 望 まれ 中

1年の最後の夜を締めくくり、暮れゆく年を惜しむ意味で昔からい ろいろな行事が行われてきました。 その中に新しい年を迎えるにあたり「除夜の鐘」が108回あちらこちらのお寺でつかれます。 では除夜の鐘を108回つくのはなぜでしょうか。 108という数が人の煩悩の数だというのは有名ですが、その108という数の由来については諸説があります。 これが、108の煩悩だといわれています。 そのほかには1年の12ヶ月+24節気+72候を合わせて108とし、108という数は煩悩ではないとするものなど色々とあります。 一方、鐘を鳴らすことは中国の宋の時代に起こったものでその打ち方は『勅修清規』に「慢(よわく)十八声、緊(はやく)十八声、三緊三慢共一百八声」と記されています。 「除夜の鐘」を聞きながら1年を振り返り、良い年をお迎え下さい。 2018年12月31日 年越しそば 31日は大晦日。 一年が終わり、一年の締めくくりとして年越しそばを食べます。 年越しそばは江戸中期からの習慣で、金箔職人が飛び散った金箔を練ったそば粉の固まりに引付けて集めていたため、年越しそばを残すと翌年は金運に恵まれないといいます。 ですから、この日のそばは、来る年の金運がかかっているというわけです。 また、金は鉄のように錆びたりせず、永遠に不変の物であることから、長寿への願いも込められているのです。 日本では、正月とならんで重要視される日ですが、世界では大晦日を特別としない国が多く、特にキリスト教文化の欧米ではクリスマスに埋もれてしまい、新年へのカウントダウンを開始する程度のものです。 ただ、そんな中でもオーストリアは少し特殊で、大晦日のシルベステルと呼ばれる儀式では、無事に1年が終わったことを祝うパーティが一晩中開かれて、新年の鐘の音とともに花火が打ち上げられます。 ほかにも、小さな鉛の塊をろうそくの炎などにかざして溶かして、冷水に落としてできた鉛の形で新たな一年を占なったり、マジパンで作ったブタやチョコレートのコインなどの縁起物を交換しあいます。 マジパンとは中世以来の伝統菓子で、アーモンドの粉と砂糖をあわせて固めたもので、アーモンドもブタも、古くからヨーロッパでは大切な食糧で、アーモンドを使ったお菓子は、他のヨーロッパの国々でも祝い菓子よく使われます。 2018年12月30日 福モチ 今日29日は「福(フク)の日」で、「福モチ」を作ります。 29日は9(苦)がつくので、縁起が悪いという人もいますが、、「苦(9)」が「付く・着く」ではなく「突く」と考えて「苦厄」をうち祓い、福(29)がたくさん訪れるように願ってお餅をつき、鏡餅にしてお寺の本堂や床の間に正月飾りとしてお供えします。 以前も記しましたが、四国は「死国(死の国)」ではなく、以前遍路で四国を歩きましたが、人情があり皆親切で心暖かい人々に出会えました。 九州も「苦しみの島」どころか温暖で食材も豊かで素晴らしいところです。 福岡の方でも、29はフクなので、縁起が良いとされ、29日に餅つきをするようです。 2018年12月29日 クリスマス 25日はクリスマス、イエス・キリストの誕生を祝う日です。 子どもたちはクリスマスのプレゼントを楽しみにしていることでしょう。 贈り物も楽しみでしょうが、思い出はもっと大切です。 家族で、健康に楽しく過ごして欲しいと思います。 食事をしたり、外出したり、冬休み中にいろんな思い出を創って欲しいと願います。 少し寒くても、家の中に閉じこもってばかりではなく、温かくして外に出て外気に触れ、寒さを体感し、冬を味わってほしいものです。 皆様の健康と安寧を祈ります。 2018年12月25日 クリスマスイブ 今日24日は、イエス・キリストの生誕を祝う、キリスト降誕祭前日の「クリスマスイブ」です。 キリスト教の教会では、前夜祭として、クリスマス当日にかけて深夜ミサが行われ、賛美歌を歌い、キリスト誕生の話が語られます。 幼稚園は、冬休みとなり、各家庭でクリスマスの楽しい日々を過ごすことでしょう。 健やかに安らかに過ごして下さい。 冬休み中、健康で事故に遭わず健やかに過ごし、また少し大きく成長して1月には元気に幼稚園に登園してくれることを願います。 ps、クリスマスリースには魔除けの意味があり、玄関に下げて、邪を払い、厄を落とす効用があるようです。 日本の節分にも似た習慣があります。 2018年12月24日 一陽来復 昨日は冬至でした。 今日からは、日毎に昼間の時間が延びていきます。 万物の生成を「陰」と「陽」の二気に分ける考え方からは、夜を陰、昼を陽とし、1年では、冬至が陰の極点となり、冬至の翌日から陽がふたたび増してくることになります。 古くはこの日を「一陽来復(いちようらいふく)」または「一陽嘉節(かせつ)」として祝いました。 「一陽来復」は、「冬が去り春が来ること」、「悪いことが続いたあと、ようやく物事よい方に向かうこと」、「運が向いてくること」の意味ですが、それが春が巡ってくることや、めでたいことが再び訪れることを「一陽来復」というようになりました。 たくさんの幸運がそれぞれのご家庭に向かうことを祈ります。 2018年12月23日 冬至 那須連山は雪化粧をして凛としています。 さて、22日は「冬至」です。 冬至とは、北半球において太陽の位置が1年で最も低くなる日のことで、日照時間が最も短くなるため、1年で最も昼が短く、夜が長くなります。 太陽の位置が1年で最も高くなる夏至(6月21日ごろ)と比べると、日照時間におよそ5時間もの差があります。 冬至は陽の光も弱く、この日を境に日が長くなっていくため、冬至を太陽が生まれ変わる日ととらえ、世界各地で古くから冬至の祝祭が盛大に行われています。 また、旧暦では冬至がこよみを計算する上での起点となり、立冬と立春の中間が冬至で、冬の真ん中となります。 2018年12月22日 冬至がゆ 12月22日は「冬至」です。 一年中で最も昼が短く、夜が長い日が冬至です。 太陽の昇る高さが低いため、影も一番長くなります。 冬至の日は、カボチャを食べたり、ゆず湯に入りますが、「冬至粥」というのがあり、冬至の日に小豆 あずき がゆを食べると、厄を払ってくれるそうです。 韓国では、冬至に食べる料理として、「冬至粥(トンジ(冬至)パッチュク)」(「パッチュク」は、うるち米とあずきをやわらかく煮込んだお粥で、パッが「あずき」、チュクが「粥」を意味します。 )が親しまれているそうです。 19世紀に書かれた『東国歳時記(とうごくさいじき)』にも、記述がありますが、冬至は1年の中でいちばん夜が長いため、陰陽五行の考え方において、陰の気がもっとも高まる日と考えられています。 陰 の気が強まると疫神(病気の鬼神)の行動が活発化し、病気になりやすくなるといわれ、その防止のため、体内に陽の気を補充する必要があって、「陽の気」を もつ食材のあずきを摂取するのだといいます。 ちなみに、あずきなどの赤い食べ物が「陽の気」をもつ食材だといわれているほか、とうがらしも代表的な「厄よけ」の食材として扱われています。 2018年12月16日 冬至の七種 12月22日に「冬至」を迎えますが、「冬至の七種」、(うどん(うんどん)・かんてん(寒天)・きんかん(金柑)・ぎんなん(銀杏)・なんきん(カボチャ)・にんじん・れんこん)、と言われる食品があります。 い ずれの食品には「ん」がつきます。 この「ん」のつく食べ物を食べると、健康で病気にかかりにくくなると言われ、特に冬至の日に「カボチャ」を食べると、厄 除(やくよ)けになる、中気(ちゅうき)などの病気にならなと言われています。 実際に、かぼちゃには、カロチンやビタミンがたくさんあり、食べ物のなかっ た時代では、栄養補給に欠かせない食べ物だったようです。 そして、切った断面が太陽のようだから、とも言われています。 皆さんも「ん」(幸運)の付く食べ 物を食べて、良い運を頂き、健康で病気知らずに日送りしましょう。 2018年12月15日 忠臣蔵 今年も残りわずかとなり、 幼稚園も来週末で冬休みとなり、年末年始となります。 寒さも厳しくなりましたが、子どもたちは今日も元気に過ごしています。 さて、 12月14日は、「忠臣蔵」で有名な、 大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)以下、四十七士が本所の吉良上野介邸に討ち入りした日で す。 300年以上も前の出来事で、1702(元禄15)年12月14日の寅の上刻(午前3時)頃のことでした。 四十七士の眠る 品川の泉岳寺には、いつもた くさんのお参りの人々がいて、その人気の高さを実感します。 その志が、いつの世も高く評価され敬愛されているのでしょう。 さて、赤穂浪士は一般的には四 十七士とよばれますが、浪士の一人の寺坂吉右衛門は討ち入りに参加したものの、泉岳寺にひきあげる途中で姿を消して切腹をまぬがれ、83歳まで生きて、その真実を伝えました。 2018年12月14日 今年の漢字 1年の世相を表す「今年の漢字」に「 災」が応募総数19万3214票のうち、2万858票を集め選ばれ、京都市東山区の清水寺で12日、日本漢字能力検定協会(同区)が発表しました。 1年を通して災害の多い年でしたが、来年は「幸」多く、笑いの溢れる年になるよう願います。 2018年12月13日 ゆず湯 昨夜は雪の予報でしたが、雪にはならず冷たい雨となりバスの運行など心配していましたが安堵しました。 さて、来週の22日は一年で昼間が最も短い日の「冬至(とうじ)」です。 冬至の日には、何と言っても「ゆず湯」です。 柚子の実をお風呂に入れて、温まります。 冬至が、1年で最も夜が長くなる日ということで、死に最も近い日であり、厄や邪気を祓うために体を清め無病息災を祈るという意味で、この風習は江戸庶民から生まれ始まったといわれています。 柚子の精油成分が湯に溶けて、血管が拡張し血液の循環を良くなり、肩こりや冷え性を緩和し、更にはビタミンCの効果でお肌を滑らかにするとされています。 また、すっきりとさわやかな香りで、寒さで凝り固まった体をリフレッシュする効能もあるでしょう。 柚子自体にも効能があって、柚子湯に入ると風邪にひきにくくなり、皮膚も強くなる様です。 寒さも厳しくなってきました、柚子湯に入り、家族団欒を楽しみながら、ポカポカにあったまって、元気に過ごしましょう。 2018年12月12日 氷点下 今朝も冷え込みが厳しく「氷点下」となりました。 「氷点下」は水の氷点を下回った気温で、セ氏零度以下の温度、「零下」とも言います。 戸外には霜柱も見られ、バケツの水も氷りました。 今年もあとわずかですが、この時期、気温が下がり体調を壊しやすくなり、風邪や胃腸炎が流行り始めていますので、うがいに手洗い、キチンと体力調整をして、寒さに負けず元気に生活して欲しいと願います。 2018年12月10日 春菊 「春菊」は、葉の形が菊に似ていることから、この名前がつけられました。 また、網膜にある「ロドプシン」という、光を感じる物質の主成分となり、夜盲症(とりめ)を予防する効能もあります。 ビタミンB1は、食品から摂った糖質(炭水化物)から、エネルギーを作り出す働きがあり、疲労回復や神経系を正常に保ち、ビタミンB2は、脂質からエネルギーを作りだし、成長期の子供の発育を助けたり、有害な活性酸素を分解する効能があります。 そして、ビタミンCは、免疫力を高め活性酸素を分解し、ガン予防に効果があるだけでなく、メラニン色素を減らす美肌効果、ストレスに対抗するホルモンを合成するなど、様々な働きがあり、カリウムは、体内の余分なナトリウム(塩分)を排出して、高血圧や心臓病、脳血管障害などのリスクを減らす効能があります。 鉄分には、赤血球(ヘモグロビン)の材料になり、貧血の予防、改善の効果がある栄養成分です。 春菊は、1年中栽培されていますが、栄養が豊富で一番おいしいのは、11月〜3月の寒い時期。 鍋の具材にも、生でサラダにしても美味しく頂けて、なにより栄養価バツグンです。 たくさん食べて、元気に寒い冬を乗り切りましょう。 2018年12月09日 成道 今日、12月8日はお釈迦様がお悟りをひらかれた「成道 じょうどう)」の日です。 お釈迦様は、29歳で王子の身分を捨て城を出て、出家して僧侶となります。 6年間の修行を続けて35歳の時、苦行や難行によっては悟りを得ることは出来ないと知り、河で身を清め、村の娘スジャータの供養する乳粥を食して菩提樹の下で座禅に入り、ついに12月8日の未明、明けの明星を観て真理を悟ります。 以後、45年間、80歳で亡くなるまで、人々に真理の教えを説き、導き続けました。 それが仏教の始まりです。 2018年12月08日 大雪 明日12月7日は、「大雪(たいせつ)」です。 『暦便覧』には、「 雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明していて、雪がつぎつぎと降りつづくころです。 季節のうえでは、ちょうど初冬の中ごろにあたり、ブリやハタハタなどの冬の魚の漁が盛んになる季節でもあります。 熊も冬眠に入り、南天の実が赤く色付きますが、一方、暖かい地方ではウメのつぼみが発育を始める季節でもあります。 2018年12月06日 イルミネーション 恒例になった 那須野が原ハーモニーホールのイルミネーションが点灯され、連夜、たくさんの人たちが観に来ています。 ハーモニーホールのイルミネーションは毎年、飾り付けを変化させ、楽しませてくれます。 市内には、イルミネーションでキレイに飾り付けした家々も多く、この寒い時期、そうした明かりで心が癒され、励まされハートフルになります。 ご家族そろってお出かけになると、なんか心が温まり、初冬のいい思い出でとなることでしょう。 夜は冷えますので、しっかり防寒してお出かけ下さい。 2018年12月04日 12月 一年の最後の月「12月」を迎えました。 英語での月名、December ディセンバー は、「10番目の月」の意味ですが、(これはローマ暦が3月起算で、3月から数えて10番目という意味で)、1年の12番目・最後の月です。 日本では、師走(しわす)、極月(ごくげつ)、臘 ろうげつ)とも称します。 極月は「ごくげつ」とか「ごくづき」、「きょくげつ」、「きわまりづき」とも呼んで、その名の通り一年の最後の月の意です。 「 終わりよければ、全てよし All's Well That Ends Well」 シェイクスピアの戯曲 、この12月、今年一年の締めくくりとして充実させたいと思います。 2018年12月01日 いい服の日 今月11月は、「11(いい)」月で、記念日が毎日ありましたが、今日、11月29日は「いい(11)ふく(29)」の記念日、あるいは「いい肉の日」とされています。 また、11月29日とは別に、2月9日が全国服飾学校協会・日本ファッション教育振興協会などが制定した「服の日(ふく29)」となっています。 ちなみに、明日11月30日は、「鏡の日」。 「いい 11 ミラー 30 」の語呂合せです。 鏡を大切にすることで、健康で美しい生活を目指す日だそうです。 2018年11月29日 いい風呂の日 11月26日は「いい風呂の日」です。 間もなく12月、寒さ厳しい時期を迎えますが、今日はいい風呂の日ですから、身体も心もお風呂で温まりたいものです。 寒い日に、柚子湯に入って、ポカポカと温まるのは最高です。 柚子湯には血行促進効果があって、さらにビタミンCも豊富なので、肌にもとてもよいそうです。 血管の拡張に関係のある血中の「ノルアドレナリン」の、濃度変化を「ゆず湯」と「さら湯」で比較すると、「ゆず湯」は「さら湯」に比べ、ノルアドレナリンの濃度が4倍以上になることが判明ました。 ゆず湯に入ると、血管が拡張して血液循環が促進されるということなのです。 血液の循環がよくなると、「冷え性」「神経痛」「腰痛」などに効果あります。 2018年11月26日 三の鳥 今日は「三の酉」です。 「三の酉」のある年は火事が多いと言われます。 11月の酉の日を順に一の酉、二の酉、三の酉と呼んでいますが、酉の日は12日ごとにまわってきますから、11月の1日から6日の間に一の酉のある年には、必ず三の酉もあることになります。 この三の酉があるときに、どうして火事が多くなるといわれるのか、その確証は残念ながらないようです。 ただこれには、ひたむきな女性の心情が関係しているようです。 酉の日には、古くから市が立ちます。 この酉の市のはじまりは、平安時代にまでさかのぼります。 新羅三郎義光が奥州討伐のとき、武州葛西花又村(現東京都足立区花畑町)にある正覚寺に祀られる大鷲明神の本尊(1寸8分の大鳥に乗る妙見菩薩)を、お守りとして借り受け、戦勝帰還しました。 その後、本尊をねんごろに返納して、新たに別堂を建て大鷲明神として祀りました。 これが武門の守りとして武士の参詣するところとなり、やがては開運の神として信仰されるようになりました。 同じ本尊を持つ下谷の長国寺や千住の勝専寺も共ににぎわって、酉の日には市がたつようになりました。 明治元(1868)年には神仏判然令が布告され、それぞれの寺で大鷲明神は分離することになりましたが、下谷長国寺から独立した大鷲神社は、吉原遊廓のすぐそばであったことから大いににぎわい、11月の酉の大祭には吉原の縁起にちなんだオカメの熊手が売られるようになり、吉原の大門も四方を開けて手軽に入れるようになりした。 そして、お酉さまの参詣の帰りに、男性が吉原に寄ることが多く、留守をあずかる女性としては、何とかして亭主などを家に引きもどさなければなりません。 まして、3回もお酉さまがあったのではたまったものはありませんから、三の酉のあるときは「火事が多い」とか「吉原遊廓に異変が起こる」という俗信を作って、男性の足を引き止めようとしたのだろうと考えられているのです。 実際に、三の酉のときに火事が増えたという記録はありません。 2018年11月25日 勤労感謝の日 今日は勤労感謝の日。 「祝日法」には、「 勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨としています。 国民全員が勤労を尊んで、その生産を祝い、互いに感謝し合う日です。 「勤労」は、「教育」「納税」と並ぶ三大義務ですから、今日はその趣旨を改めて思い、勤労の意識を鼓舞し、今後一層励みたいと思います。 2018年11月23日 小雪 22日は、二十四節気の「小雪」です。 『暦便覧』では、「 冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明しているように、降る雨も雪に変わる頃です。 那須連峰にも、初雪が降り、頂きが白く雪化粧し、吹く風もいよいよ冷たく、冬将軍がやってきます。 風邪やインフルエンザも心配ですし、寒さで体調を崩しがちですが、寒さに負けないで元気に過ごすことを願います。 2018年11月22日 ゆず湯 柚子をたくさん頂き、ゆず湯を楽しみました。 寒い日に、柚子湯に入って、ポカポカと温まるのは最高です。 柚子湯には 血行促進効果があって、さらに ビタミンCも豊富なので、肌にもとてもよいそうです。 血管の拡張に関係のある血中の「ノルアドレナリン」の、濃度変化を「ゆず湯」と「さら湯」で比較すると、「ゆず湯」は「さら湯」に比べ、ノルアドレナリンの濃度が4倍以上になることが判明ました。 ゆず湯に入ると、血管が拡張して血液循環が促進されるということなのです。 血液の循環がよくなると、 「冷え性」「神経痛」「腰痛」などに効果あります。 2018年11月20日 家族の日 今日11月の第3日曜日は「家族の日」です。 さらに、その前後1週間を「家族の週間」と定め、この期間を中心として、生命を次代に伝え育んでいくことや、子育てを支える家族と地域の大切さが国民一人ひとりに再認識されるよう呼びかけています。 また、平成27年3月20日に閣議決定された「 少子化社会対策大綱」においても、多様な家庭や家族の形態があることを踏まえ、「家族の日」や「家族の週間」において様々な啓発活動を展開し、家族や地域の大切さ等についての理解の促進を図っています。 2018年11月18日 柚子 この時期、毎年たくさんの柚子(ゆず)を頂き感謝しています。 香味料として重宝なゆずは、昔から冬至の風習の ゆず湯としてよく知られています。 ゆずを浴槽の中に入れると、よい香りが気分を爽快にし、精油成分が皮膚を刺激して血行を良くし、肌をなめらかにし、冷え性・リウマチに効果があります。 お吸い物、薬味、すりおろして味噌と和えたゆずみそ、などいろいろな利用法がありますが、漢方では上品(じょうほん)・君薬(くんやく)「人間にとって最も大切なもの」と呼ばれ、 免疫系・内分泌系・神経系・代謝系・血管系等の調節機能を活性化する働きがあり、昔から薬として利用されてきました。 ゆずは、皮だけでなく果肉(果汁)も種も優れた薬効があり、全部無駄なく食べなければもったいない果物なのです。 皮の外側にはリモネン(精油成分)とベータカロチンが多く含まれています。 また、皮の内側の白い部分はヘスペリジンといって、 毛細血管を丈夫にして動脈硬化を予防する成分が含まれています。 皮のビタミンCはレモンの2倍もあり、皮に100g中150mg含まれていますが、みかん1ヶ30mgに比べてもその含有量の多さはわかります。 さらに果肉(果汁)にはクエン酸がみかんの3倍含まれ、リンゴ酸・ビタミンC・ペクチンも豊富です。 疲労回復、利尿作用、胃腸を整える、コレステロールを抑制する等の働きがあります。 ことにクエン酸とビタミンCは消化吸収を助け、善玉菌を増やすので 整腸効果は抜群です。 そして、もっと驚くべきは種の薬効です。 ゆず1個につき約20個の種が含まれていますが、この種にはリモネンという抗ガン物質が含まれている事がわかりました。 2018年11月17日 七五三祝い 11月15日は、「七五三」です。 15日、幼稚園では園児たちの無事成長を祈念して祈願祭を執行致し、皆に千歳飴を配ります。 各ご家庭でも、成長の節目にと、「七五三」のお参りをされる方は多いでしょう。 もともと、公家や武家での習慣(男女児3歳「髪置(かみおき)」=これを機に髪を伸ばし結い直す。 男児は「袴着(はかまぎ)」=初めて紋付きの袴をはく。 女児7歳「帯解(おびとき)」=つけ紐をとり、大人と同じように腰紐で帯を結び始める。 )が、一般化したのが「七五三」で、子どもたちのこれからの健やかで、康らかな成長を願ってのお参りです。 共々に、子供たちの健やかな成長を祈念いたしましょう。 2018年11月15日 イチョウ 今週は立冬を過ぎて北風が冷たくなり、銀杏(イチョウ)が、黄金色に染まってきました。 日中、暖かい日差しの中、その黄金色は一際鮮やかに映え、夕方も、夕陽に照らされて趣のある風景です。 銀杏は大田原市の木で、市内で多く目にします、この時期、黄金色のイチョウ並木はとてもキレイで、陽だまりの中、ご家族で散歩するのも楽しみでしょう。 ただ、銀杏の落ち葉処理は大変そうです。 2018年11月10日 リンゴ 過日、「 柿が赤くなると、医者が青くなる」と記しましたが、別な言い方で「 リンゴが赤くなると、医者が青くなる」とか「 トマトが赤くなると、医者が青くなる」とも言わます。 リンゴにも、トマトにも優れた栄養があり、摂取することで病気を遠ざけてくれます。 給食では、たくさんの品目を幼稚園の子供たちに食してもらえるよう栄養士さんにお願いしています。 みんなと一緒に食べることで、苦手な食材にもトライしている様子が見られます。 さて、リンゴは皮をむいて食べるでしょか? リンゴは軽く流水で洗うだけで十分だそうです。 皮についてるワックスのようなものは農薬ではなく天然の植物ロウ(正式には オクタコサノール)で、栄養豊富なファイトケミカルだそうです。 柑橘系は農薬散布がありますので皮には留意必要ですが、可能な限り皮も食べたほうが身体に良い栄養が摂取できます。 ブドウの皮にも同様にオクタコサノールがあり、無害だそうです。 果物や野菜全般に言えることで、皮にも豊かな栄養分があるので積極的に食べてみましょう。 2018年11月07日 立冬 7日は「立冬(りっとう)」です。 、「立冬」は、一年を24に分けて季節を表す「二十四節気」の一つで、立春、立夏、立秋と並んで季節の大きな節目を示します。 『暦便覧』に、「 冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明していて、初めて冬の気配が現われてくる日です。 寒く大地も冷えてきて、その名の通り冬が始まります。 秋分と冬至の中間に当たり、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から立春(2月4日)の前日(節分)までが冬となります。 いよいよ冬の到来です。 今年の冬は寒いとのこと、しっかり防寒対策をして乗り切りましょう。 今週も好天を期待します。 2018年11月05日 紅葉 山々が錦に彩られ、市街地でも街路樹に植えられたイチョウが色づいています。 紅く色づく(紅葉)モミジやカエデもあれば、イチョウのように黄色く色づく黄葉もあります。 葉には、 クロロフィルという緑色の色素と カロチノイドという黄色の色素が含まれていますが、秋の初めまでは強い緑色のクロロフィルに隠れてしまい葉は緑色なのですが、秋が深まり、気温が低くなると、クロロフィルの分解が始まってカロチノイドの方が目立ってくるため黄色に変化していきます。 紅く色づくモミジやカエデなどには、イチョウと同じようにカロチノイドも含まれているのですが アントシアニンという色素が増えて鮮やかな紅に変色していくそうです。 2018年11月04日 文化の日 「文化の日」は、戦前は、明治天皇の誕生日であることから、 「明治節」という祝日でしたが、1946 昭和21 年、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して、1948 昭和23 年に公布・制定された祝日法で、「 自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日に定められました。 昭和天皇の誕生日4月29日は、「昭和の日」で(歴代天皇の在位記録を持っていることなどの実績があるから)祝日で、今上天皇は、12月23日生まれで、この日は「天皇誕生日」で祝日です。 しかし、大正天皇の誕生日の8月31日は、真夏で各種の儀式を行なうには障害があり、当時の時勢を考えると農家が休める訳でもないとの理由から祝日とせず、大正天皇崩御後、宮内省を中心とした周囲の有力者からも誕生日を祝日にしようという提案がなく、祝日(休日)とはなりませんでした。 2018年11月03日 お茶の日 10月31日は「 日本茶の日」といわれています。 お茶は一番ポピュラーな飲み物ですが、お茶を日本に広めた人は 栄西禅師です。 1191(建久2)年、宋(中国)からお茶の種子とその製法を持ち帰りました。 栄西禅師は、お茶の種子を自分の庭に蒔き育て、お茶の製法を広く伝えました。 当時お茶は薬として飲まれていたようです。 「茶は養生の仙薬なり・・・」(喫茶養生紀)と著しています。 栄西禅師がお茶を持ち帰った日が、10月31日と伝えられ、そのお茶には殺菌作用もあるので、 インフルエンザ対策にも効果があるようです。 冬に向かい、温かいお茶を飲んで、風邪知らずで元気に過ごしましょう。 2018年10月31日 リンゴ 過日、「柿が赤くなると、医者が青くなる」と記しましたが、別な言い方で「 リンゴが赤くなると、医者が青くなる」とか「トマトが赤くなると、医者が青くなる」とも言わます。 リンゴにも、トマトにも優れた栄養があり、摂取することで病気を遠ざけてくれます。 給食では、たくさんの品目を幼稚園の子供たちに食してもらえるよう栄養士さんにお願いしています。 みんなと一緒に食べることで、苦手な食材にもトライしている様子が見られます。 さて、リンゴは 皮をむいて食べるでしょか? リンゴは軽く流水で洗うだけで十分だそうです。 皮についてるワックスのようなものは農薬ではなく天然の植物ロウ(正式にはオクタコサノール)で、栄養豊富なファイトケミカルだそうです。 柑橘系は農薬散布がありますので皮には留意必要ですが、可能な限り皮も食べたほうが身体に良い栄養が摂取できます。 ブドウの皮にも同様にオクタコサノールがあり、無害だそうです。 果物や野菜全般に言えることで、皮にも豊かな栄養分があるので積極的に食べてみましょう。 2018年10月28日 秋色 「秋色(しゅうしょく)」は、秋の情景〔 秋の景色〕 autumn scenery、〔 秋の気配〕 signs of autumn のことですが、目に見えない空気や匂いにも、秋色を感じます。 特に空気が澄み渡り、夜空の星座がきらめいて見えます。 秋の星座では、Wの形の カシオペア座。 秋の一番明るい星をもつ、みなみの うお座。 大きな四辺形を作っている ペガサス座。 その四辺形に連なっている アンドロメダ座。 そしてアンドロメダ座には、肉眼でも見える代表的な星雲「アンドロメダ大星雲(アンドロメダ銀河)」があります。 秋の夜空はきれいです。 暖かくしてご家族で星雲 銀河 を見てみると楽しいでしょう。 2018年10月27日 カライモ サツマイモは、江戸時代に薩摩藩(鹿児島)の船乗りが琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で多く栽培されるようになります。 水はけの良い火山灰を含んだ土地が甘藷(サツマイモ)の栽培に適しますが、鹿児島(薩摩)にはそのような土壌が広がっていることや、地上に実を付ける作物ではないため風害にも強い作物で、台風がしばしばやってくる鹿児島においては、この風害に強いという点が他の作物よりも有利だったので、鹿児島でたくさん作られるようになりました。 2018年10月26日 霜降 今日10月23日は二十四節気の「霜降(そうこう)」となり、『暦便覧』で「 露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明しているように、霧が冷気によって霜となって降り始めるころです。 楓や蔦が色付き紅葉が本格化してきます。 この日から立冬までの間に吹く寒い北風を「木枯らし」と呼びます。 2018年10月23日 灯りの日 エジソンの「3大発明」は「電球」・「蓄音機」・「映写機」ですが、そのひとつ、「白熱電球」を完成したのが1879(明治12)年の10月21日でした。 エジソンの功績は、伝記などで脚色された部分のある発明ではなく、「発明」という行為を大勢の人間に認知させたことでしょう。 それまでの発明と言うものは、「立派な学校を出た、一流の科学者が作り出すもの」という既成概念があったと言えます。 しかし、エジソンは立派な学校も出ていなければ、学位を持っているわけでもありません。 努力で身に付けた科学知識で様々な発明を作り上げていったのです。 発明を一般人にも手の届く、アメリカンドリームを実現する手段へと変えたのは間違いなくエジソンなのです。 努力とひらめきを大切にした人生に学びます。 2018年10月21日 十三夜 明日21日は「十三夜(じゅうさんや)」です。 「十三夜」は陰暦9月13日夜のことで、8月15日夜の「芋(いも)名月」に対して「 豆名月」といい、「 後(あと)の月見」ともいいます。 醍醐(だいご)天皇の延喜(えんぎ)19年(919)に、月見の宴が催されたのが十三夜の始めといわれています。 (『 中右記(ちゅうゆうき)』保延(ほうえん)元年(1135)9月13日の条に、明月の宴が催されたことが記録されている。 ) 福岡県糟屋(かすや)郡では九月十三夜を「 女名月」といって、この日は女性が幅をきかすそうです。 長野県北安曇(きたあずみ)郡ではこの夜を「 小麦の月見」といって、この日の天候がよければ小麦が豊作だといいます。 『 徒然草(つれづれぐさ)』には、8月15日と9月13日は、二十八宿のうち「婁宿(ろうしゅく)」という日で、この宿は清明なので月を翫味(がんみ)するのによい夜とあります。 また、八月の「十五夜」と同じく、「十三夜」にも果実類を無断でとってもよい習慣があります。 日中は雲が多い予報ですが、夜は晴れるとのこときれいな月が見れることを期待します。 2018年10月20日 柿 「柿」は、「 柿が赤くなれば医者が青くなる」といわれるほど、健康によく、薬効も古くから利用されています。 柿の主成分は糖質で、ブドウ糖、果糖、蔗糖を多く含み、 エネルギー化されるのが早いのが特徴。 柑橘類に次ぐ ビタミンCを多く含み、他、 B1、 B2、 ミネラルなど各栄養素をバランス良く含んでいて、柿のオレンジ色は、 ベータカロチンによるもので ビタミンAの効力をもち、ビタミンAとCを含むことにより、 疲労回復、かぜの予防、高血圧症やガン予防、老化防止などの効果があります。 生柿のビタミンCは、大きなものなら1個で1日の摂取量がとれるそうです。 慢性の気管支炎や肺結核の予防に有効。 甘柿でも熟す前は、シブミがありますが、これはシブオールという タンニン成分で、熟してくると、タンニンが変化して、渋みが感じられなくなります。 タンニンには、 血圧を下げる効果があり、 カリウムも含まれているので、 利尿効果があり、飲酒後や二日酔いにはもってこいの果物です。 さらに、最近、柿の葉も注目を浴びています。 柿の葉も、実にまけないほど効力を発揮します。 「 自然のビタミンC剤」といわれるほどの含有量があり、その量は、みかんの数十倍ともいわれ、喫煙や飲酒で失われたビタミンCを補うのにピッタリで、若葉を使った天ぷら、和え物、サラダなどにして摂取すれば、効用を生かすことができます。 2018年10月18日 孫の日 今日、10月の第3日曜日は、「孫の日」です。 1999年に記念日に日本百貨店協会が提唱し、日本記念日協会の認定を受けて、制定されました。 これは日本百貨店協会が消費促進のために提唱した記念日で、なんでも敬老の日にもらったプレゼントのお返しに孫の日を設けたとか。 敬老の日の「お返ししなくては」と少し義務っぽくなってしまいそうですが、純粋に「孫に何かしてやりたい、じゃあ孫の日に」という気持ちでとらえておいたほうがよさそうです。 プレゼントはうれしいものです。 子どもたちも誕生日やクリスマス、お正月以外にプレゼントを貰える日が増えて嬉しいに違いありません。 2018年10月14日 紅葉 那須の山々は色付き、山頂から次第に麓に「紅葉」が下がってきました。 冬に向かい葉を落とす植物(落葉樹)が紅葉します。 それは、気温が低下するとエネルギー生産のための光合成ができなくなり、葉を維持するエネルギー(消費エネルギー)が生産できるエネルギーを上回るためと、氷結による温度低下や壊死などを防ぐために葉を落とすようです。 低温にならない地域では、常緑樹が生え、また針葉樹は表面積を減らして温度低下を乗りきります。 そして、落葉するなら光合成はしなくていいので、光合成色素であるクロロフィル(緑色)を分解し、残ったカロテンやキサントフィルなどの色素が葉を黄色にします。 さらに植物は、葉を落とすための準備を始めます。 葉柄の付け根にコルク質の離層という組織がつくられ、物質の行き来はここで妨げられて、葉の中の物質は茎に移動できなくなり、光合成で生産された糖は葉に留まることになります。 紅葉する葉では、この糖から赤い色素アントシアニンができて葉が赤くなり、やがて離層のところで切り離されて落葉します。 寒さの中を生き抜く植物の工夫が紅葉です。 2018年10月10日 体育の日 今日は、国民の祝日「体育の日(たいいくのひ)」です。 1964年東京オリンピックの開会式のあった10月10日を1966(昭和41)年に「 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」事を趣旨として国民の祝日と定めました。 2000(平成12)年からは「ハッピーマンデー制度」の適用で、10月の第2月曜日となりました。 ところで、10月10日は「晴れの特異日」だそうで、調べてみると、10月10日が国民の祝日「体育の日」となった1966年から1999年までの34年間に東京地方で体育の日に1ミリ以上の雨が降ったのはわずか5回。 ところが、体育の日が10月第2月曜日に変更となった2000年から2007年までの8年間に東京地方で体育の日に1ミリ以上の雨を6回観測しました。 これを見る限り、「体育の日は晴天が多い」とは言えないようです。 ともあれ、趣旨の通り「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」一日にしましょう。 2018年10月08日 寒露 明日10月8日は二十四節気の「寒露(かんろ)」です。 『暦便覧』に「 陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明しているように、「 露が寒冷にあって凝結しようとする」との意味で、冷気によって露が凍りそうになるころです。 秋の深まりを思わせる命名で、北国ではカエデなどの紅葉で秋色が深まります。 那須の山々では紅葉が進んみ見ごろになっているようです。 週末に紅葉狩りに出かける家族も多いことでしょう。 朝夕はめっきり涼しくなりましたので、一枚羽織るものが欲しくなります。 2018年10月07日 梨 よく梨を頂きますが、日本の梨には「赤梨」と「青梨」があります。 赤梨は「豊水」や「幸水」など果皮が茶色いもので、青梨は「二十世紀」のような果皮が緑色の梨です。 どちらもシャリシャリした食感がありますが、あれはペントザンやリグニンという成分からできた石細胞によるものです。 「かおり」は青梨に分類されます。 また、赤梨は成熟すると果皮にザラザラの斑点が目立ちますが、これは水分を果実に閉じこめておくためのコルクの役割をしているとのことです。 2018年10月05日 秋晴れ 台風24号が通過し、台風一過となりました。 爽やかな秋晴れの好天が続くことを望みます。 さて、「天高く馬肥ゆる秋」といいますが、「天高く馬肥ゆ」は中国北西部の農民の諺で、秋になると馬に乗って略奪にくる蒙古人を恐れての言葉です。 夏の間放牧していた馬が、たっぷり草を食べて肥ってくる秋のころになると、農民たちは蒙古の襲来に対する警戒心を呼び起こすために、馬肥ゆを引用したと伝えられています。 現在、日本では、「空は澄み渡って晴れ、馬が食欲を増し、肥えてたくましくなる秋」とか、「秋の好時節」をいう言葉になっています。 秋の空は、大陸育ちの乾燥した空気が日本を覆い、黄砂の影響も少なく、視界が良くなるために空が高く見えて、澄み切ったどこまでも高い青空が広がります。 2018年10月02日 衣替え 10月1日は「衣替え」、中学校や高等学校では、気候に合わせて制服を冬服に替える日で、それに合せて「衣替え」を行った家庭も多いことでしょう。 「衣替え」は、平安時代から始った習慣で、当時は中国の風習にならって4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣」と言いました。 しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も「更衣」といい、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御に次ぐ者を指すようになったので、民間では「更衣」とは言わず「衣替え」と言うようになりました。 でも、最近は温暖化が進み、まだまだ汗ばむ暑い日もあるので、もう少しの間、夏物が必要でしょう。 2018年10月01日 招き猫 9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」(来る福)の語呂合わせから、日本招き猫倶楽部と愛知県瀬戸観光協会が記念日に制定した、「招き猫の日」です。 この日を中心に、伊勢の「おかげ横丁」の『福招き猫祭』をはじめ、日本各地で記念行事などが開催されます。 ネコの手が、右手上げならば「金運招来」、左上げならば「千客万来」といわれています。 乗用車でも「29」の付くナンバーを見かけます。 誰でも「福」は歓迎です。 皆さんどなたにも「福が来て」幸多いことを願います。 2018年09月29日 サンマ 秋刀魚(サンマ)が、美味しい時期を迎えました。 サンマは価格も安く、焼くだけでも美味しく食べることができ、古くから庶民の味覚として親しまれてきました。 同時に夏の疲れが残るこの時期にも「さんまを食べると元気になる」と栄養面でも高い評価を受けています。 サンマには、豊かな栄養素が含まれていて、まずは、他の青魚にも多く含まれているEPA(エイコサペンタエン酸)とDHA(ドコサヘキサエン酸)が豊富に含まれています。 EPAには、血液をサラサラにし、血栓を予防する作用があります。 血栓を予防することができれば、動脈硬化や脳梗塞、心筋梗塞などの生活習慣病を予防することができ、DHAは、脳に良い栄養素として有名で、DHAは脳細胞に行き渡り、脳内の細い血管にも弾力を与え、酸素や栄養素を全体に送ります。 さらに、体内の悪玉コレステロールを減らす作用もあります。 そして、もう一つの注目すべき特徴は良質なタンパク質。 サンマに含まれるアミノ酸は、体内に吸収されやすいバランスをしています。 他にも、ビタミンやカルシウム、鉄分なども豊富に含まれています。 特に精神を安定させたり、血液の循環をよくしたり、貧血を予防したりするビタミンB2は豊富で、その含有量は他の魚の3倍以上とも言われています。 眼精疲労やガン予防にも効くビタミンAも豊富です。 2018年09月27日 新米 稲の収穫が最盛期を迎え、今年取れたての新米を知り合いの農家より頂戴しました。 早速頂きましたが、新米は水分が多いせいか、瑞々しく、香りも良く、何より苦心して作られた思いも加わってとても美味しく味わいました。 収穫の喜びと美味しいお米を頂けたことに感謝し、明日からの活力の源とします。 感謝、感謝です。 2018年09月25日 萩 今日は「秋分の日」の振り替え休日です。 さて、9月24日の誕生花は、秋の七草の一つ「萩(はぎ)」です。 「萩」は、マメ科ハギ属の小低木の総称で、「はぎ」にはいろいろな種類がありますが、単に「はぎ」といえば「やまはぎ」です。 日本各地に自生しています。 庭園で見かける「みやぎのはぎ」は別種です。 歌に鹿や雁と取り合わせて詠まれ、異称も多く、鹿鳴草 しかなくさ ・鹿の花妻・風聞草 かぜききぐさ ・月見草・庭見草などがあります。 花言葉は「想い」だそうです。 「 一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」(松尾芭蕉) 2018年09月24日 秋分の日 本日は、「秋分の日」で、「祖先をうやまい、亡くなった人々をしのぶ」趣旨の国民の祝日です。 太陽が真東から出て、真西に沈みます。 一般に「昼と夜の長さが同じになる。 」といわれますが、実際には昼の方が少し長いそうです。 また、秋の彼岸の「お中日」にもあたりますので、ご先祖の供養にお墓参りをされる家庭も多いことでしょう。 是非、秋分の日の意義を深めて欲しいと願います。 2018年09月23日 十五夜 今年の「十五夜」は24日だそうです。 古代中国には月を鑑賞する習慣があり、それが日本に伝わったとされます。 日本では、旧暦の8月15日に月を鑑賞するようになり、「十五夜」と呼ばれるようになりました。 また、旧暦の9月13日には「十三夜」があり、地方によっては、「二十三夜」まであるようです。 そして「十五夜」は秋に穀物の取入れ後、その新穀を神仏にお供えして感謝をしました。 団子を供えるのは、新穀を粉にして丸くまるめてお供えしたという説と、里芋に見立てて丸い団子をお供えしたという説とあるようですが、収穫の感謝を月に供える「感謝の心」はこれからも大切にしていきたいものです。 2018年09月22日 彼岸花 真っ赤な彼岸花が咲き乱れる時期になりました。 彼岸花は別名「曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)」は、これはサンスクリット語で天界に咲く花という意味で、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。 サンスクリット語ではmanjusakaと書きます。 花の様子から、「天蓋花(てんがいばな)」「狐の松明(きつねのたいまつ)」「狐のかんざし」「剃刀花(かみそりばな)」など、全国にはたくさんの呼び名があり、花のある時期には葉がなく、葉のある時期には花がないという特徴から、「葉見ず花見ず(はみずはなみず)」とも呼ばれています。 彼岸花にはアルカロイドという毒があるため、「毒花(どくばな)」「痺れ花(しびればな)」などと呼ばれています。 また、その反面、でんぷんを多く含んでいるため食用可能でして、毒は水にさらすと抜けるため、昔は飢餓に苦しい時に毒を抜いて食用にすることもあったそうです。 田んぼの畦道に彼岸花が多いのは、その毒でモグラや野ネズミを防除するためだけではなく、飢饉に備えて植えたという説もあり、危険を覚悟してまで口にしなければならなかった昔の苦労がしのばれます。 2018年09月21日 空の日 9月20日は「空の日」です。 「空の日」は、昭和15年に制定された「航空日」が始まりで、この年の「航空日」は9月28日に行われましたが、昭和16年の航空関係省庁間協議において9月20日と決定されました。 第2次大戦終戦に伴う一時休止もありましたが、昭和28年に再開され、民間航空再開40周年にあたった平成4年に、国民により親しみやすいネーミングということで、「航空日」から「空の日」へ改称しました。 空気が澄み、天高くなる秋空の広さを感じます。 2018年09月20日 彼岸 20日から「秋の彼岸」に入ります。 お彼岸は、春分・秋分を中日とする7日間で、中日(23日)を除く6日間は「六波羅蜜」という六つの修行を一つづつ実践する日とされました。 行を修めて、身を清めることで、彼岸の境地に近づこうとするものです。 お彼岸は此岸(悩み・苦しみの岸)にいる自分が彼岸(悟りの岸)の境地へ近づこうというものです。 ちなみに、春分と秋分は太陽が真西に沈むことから、もっとも彼岸に近づける日とされます。 2018年09月19日 中秋の名月 9月24日は、十五夜(旧暦8月15日)「仲秋の名月」です。 さて、「仲秋」の「仲」とは「季節の中ごろの1ヶ月」ということ、「中」は「真ん中」という意味ですから、「仲秋」は「秋(旧暦7・8・9月)の半ばの1ヶ月、すなわち8月」をさし、「中秋」は「秋の真ん中で、特に8月の真ん中15日」をさすという意味です。 「名月」といえば、「満月(望)」なので、「中秋の名月」のほうが秋のお月見には近い感じのようですが、一般的には「仲秋の名月」と表記されます。 でも、どちらが正しく、どちらかが間違っているといった類の話ではないようです。 2018年09月18日 敬老の日 今日は「敬老の日」です。 「 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としていますが、現在は超高齢化社会に進んでいます。 出生数が激減し、人口に占める老人の割合が増え続けています。 この先不安は多くありますが、未来の日本を背負う子どもたちが、自然や社会に感謝の心を持ち、互いを尊重し敬意を持っていれば、心豊かな日本が存続できるでしょう。 真の豊かさは、敬愛と感謝の「ありがとう」の心が生み出していくと思います。 2018年09月17日 稲風邪 この時期、あちらこちらで稲刈りの様子が見られす。 お米の収穫の時期を迎えていますが、この晩夏の稲刈りの頃にアレルギー症状に苦しむ人が増えている様です。 稲刈り時期を迎えると、風邪の様な症状(鼻水と咳 息苦しいさ)が発生して、目がかゆくなり、くしゃみもひどくなり、そして、その時期が終わるとなんとも無くなります。 これは「稲風邪」とも言われるイネ科アレルギーです。 しかし、イネ科のアレルギーであっても、イネの花粉とその実の「お米」とは、たんぱく質が異なるので、お米を食べても何ともないそうです。 2018年09月16日 ススキ 来週から秋の彼岸が始まりますが、「 暑さ寒さも彼岸まで」で、来週からはまた秋が進んで涼しくなることでしょう。 さて、ススキの穂が此処彼処で見かけられるようになりました。 ススキは「秋の七草」の一つで、広く日本中に分布しますが、ススキは古来より赤ん坊の御守りや悪夢や病気のお祓いに使用され、家の新築や開墾にもススキを立てました。 中国貴州省ではイネの初植えにススキを挿して、害虫や冷害、干水害を防ぐお守りとしています。 沖縄では「サン」とよぶススキの輪を悪霊や魔除けにしています。 「十五夜」(9月24日)にススキを飾るのも、本来は病害虫や災害から農作物を守り、豊作を願う農耕儀礼の残存です。 玄関先にススキを飾り、ご家庭の家内安全を祈念するのも良いでしょう。 2018年09月15日 コスモスの日 9月14日は、2月14日のバレンタインデーから半年目、恋人同士がプレゼントにコスモスを添えて交換し、お互いの愛を確認しあう「コスモスの日」といわれています。 コスモス(cosmos)は、秋桜と表記しますが、コスモスの事を、『 秋に咲く桜のような花』という意味で、『 秋桜』と表記されるようになったのは、コスモスが一般にも普及し始めた明治時代になってからのようです。 そして、「コスモス」を『秋桜』と表記することが広く認識されるようになったのは、歌手:山口百恵のヒット曲『秋桜 コスモス)』(1977年10月1日 作詞作曲:さだまさし)以降の事だと言われてます。 ちなみにコスモスの花言葉は、「 乙女の純潔・乙女の心情・真心・調和・美麗」で、また、その花の色によっても異なります。 ピンクは、「少女の純潔」。 白は、「美麗・純潔・優美」。 赤は、「調和・愛情」とのことでした。 2018年09月14日 栗拾い 知人の庭の大きな栗の木がたくさんの実を付けたので、今年も「栗拾い」を楽しませて頂きました。 栗は、秋の味覚の代表格です。 栗の主成分は、でんぷんです。 でんぷんの豊富な作物と言うとイモ類、穀物ですが 栗のでんぷんは樹上でとれる浄化された貴重なでんぷんなのです。 豆類やイモ類と比較するとでんぷんの粒子がとても細かくて、これが、上品な味わいを生んでいす。 熱量は果実類で1番。 少量効率のよいエネルギー補給食品といえます。 また、たんぱく質・ビタミンA・B1・B2・C・カリウムも比較的豊富。 サツマイモと比べると、食物繊維も多くて、ミネラル類も豊富で現代人に不足している人間に必要不可欠な微量要素の亜鉛が豊富です。 亜鉛が不足すると味覚障害・生殖機能の減退・肌荒れ・抜け毛等が症状がでるとされてます。 最近わかったことで、渋皮にはポリフェノールの一種であるタンニン・プロアントシアニジンを多く含み、この物質は体の活性酸素を取り除き、ガンに効くそうです。 2018年09月12日 二百二十日 今年は台風が多く発生し、各地に大きな被害をもたらしていますが、9月11日は、立春から数えて二百二十日目の日(立春から220日目)で、古来より「野分(のわき:台風)」のくるころと言われます。 また、「二百十日」も同様で、台風のよく来る日と言われています。 「二百二十日」と「二百十日」、それに「八朔(旧暦8月1日)」は、農家の三大厄日とされ、天候が悪くなる日とされ、実際、統計的にも二百十日から9月の下旬にかけて、台風が襲来することが多く警戒を要します。 既に今年は台風の被害が各地から多く届いていて、今後も台風情報など天候に注視し、警戒していきたいと思います。 2018年09月11日 重陽 今日9月9日は五節句の一つ「重陽(ちょうよう)」です。 五節句は、人日(1月7日) 上巳(3月3日) 端午(5月5日) 七夕(7月7日)重陽(9月9日)の5つで、陰陽思想で、数の極み(最大)の9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれ、奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていました。 しかし、後に、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となり、邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊を浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていました。 また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があったそうですが、現在では、他の節句と比べて「重陽」の節句はあまり実施されていませんが、菊の花を浮かべたお酒を飲んで、長寿を願うのもいいでしょう。 各位の健康と長寿を祈ります。 2018年09月09日 白露 9月8日は、二十四節季の「白露(はくろ)」。 大気が冷えてきて、露ができ始めるころです。 『暦便覧』に、「 陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」と説明していて、野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃となります。 週末も暑さ厳しく、残暑でしたが、朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始め、来週からは、暑さも和らぎ秋の気配が濃くなることでしょう。 2018年09月08日 稲刈り 稲刈りの光景を見かけました。 今年は夏の暑さもあって、例年より収穫時期が早いそうです。 田んぼでは豊かに実が茂り稲穂が下がり、その稲が順調に刈られていきます。 今月いっぱい農家は収穫の喜びと繁忙の時期となるでしょう。 今年もお米の出来は良いそうで、美味しい新米が楽しみです。 稲刈りはお天気が何より望まれます。 台風はもう結構ですので、秋晴れの好天が続くことを願います。 2018年09月06日 秋桜 秋桜( コスモス)が咲いているのを見ると、秋の訪れを感じます。 コスモスは花が桜の形と似ていることから「秋桜」といいますが、原産地は何とメキシコの高原地帯だそうで、18世紀末にスペインに送られ、コスモスと名づけられました。 日本には明治20年頃に渡来したそうです。 広く日本中で見ることが出来て、身近な花の一つです。 コスモスは、秋の季語としても用いられますが、コスモスとはラテン語で星座の世界=秩序をもつ完結した世界体系としての宇宙の意です。 花言葉は、「 女の純真」 「 真心」。 「 垣間見し 機たつ賤や 秋桜」〈飯田蛇笏〉 2018年09月04日 報恩感謝 9月の徳目は、「報恩感謝(ほうおんかんしゃ)」です。 人から物をいただいたり、人から親切を受けた時、『 ありがとう』の言葉を口に出して言えることが大切です。 「 感謝の心」を一人ひとりの中でどのように育てていくか難しいことですが、素直な気持ちで『ありがとう』と言える人であってほしいものです。 また、実りの秋を迎え、自然との触れ合いの中で、多くの人たちがお互い助け合い、支え合って生きていることに気付いてほしいと思っています。 そして、自然の恩恵にあずかって生きていること、そのご縁を喜び尊ぶ心「恩」を受け止め感じていきたいと思います」。 2018年09月03日 9月 9月はお月見の月です。 24日に「十五夜」を迎えますが、お月見のときにお供えするものとしては、「 月見だんご」でしょう。 旧暦の8月15日の夜 9月24日 中秋の名月 と、同じく旧暦の9月13日の十三夜(今年は10月21日)のお月見に供える団子のことをいい、お供えの数は、十五夜のときには15個、十三夜のときには13個と決まっている地域もあります。 そして、お月見の風物詩としてよく出てくるのが、 すすきです。 これも、中秋の名月でお供えすることが一般に行われています。 枝豆、里芋、そして団子の材料となるお米など、いろいろな食べ物をお供えして月を愛でるのは、秋が収穫のシーズンだからでしょう。 月は、ほぼ30日で満ち欠けを繰り返します。 夜空で規則的な満ち欠けをする月は、古来から、カレンダーとして重宝されてきました。 農耕ではカレンダーが重要となります。 種まきや収穫の時期をいつにするか、といったときに、昔から、月の満ち欠け、あるいは月の満ち欠けを基準とした暦を頼りにしてきました。 そういった、農耕に役立ってきた月に感謝の意を込めて、収穫された作物をお供えして感謝の意を表した、ということがそもそものお供え物の意味でしょう。 「お月見」には、収穫の喜びと感謝を込めて、お供えをして月を眺めたいものです。 実りの時期を迎えます。 2018年09月02日 防災の日 9月1日は「防災の日」です。 台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、それらの災害に対処する心構えを準備するためとして、昭和35年(1960年)に内閣の閣議了解により制定されました。 また、昭和57年(1982年)からは、9月1日の「防災の日」を含む1週間(8月30日から9月5日まで)が「防災週間」と定められています。 また、9月1日という日付は、大正12年(1923年)9月1日に発生し、10万人以上の死者・行方不明者を出した『関東大震災』に由来しています。 そして、気象庁の「気象統計情報」(以下グラフ)によると、台風の接近・上陸は8月から9月にかけて多く、昭和34年(1959年)9月には、5,000人を超える死者・行方不明者を出した『伊勢湾台風(昭和34年台風15号)』が襲来しました。 このことからも、この時期は防災について考えるいい機会と言えるでしょう。 2018年09月01日 野菜の日 8月31日はその読み名の通り「野菜の日」記念日です。 その目的は、栄養たっぷりな野菜を再認識してもらうとともに、野菜のPRです。 幼稚園では、農園での野菜の栽培活動を通して子どもたちは農作の栽培を通じて食物の成長の不思議さや栽培の労苦を学び、、野菜に親しみや興味を持ってもらい、食に対して好き嫌いなく、食べてみる関心や意欲を育てています。 野菜は身体も心も育てる成長に大切な栄養源です。 2018年08月31日 オクラ オクラをたくさん頂き、美味しく頂きました。 オクラに含まれるぬめりの成分はガラクタン、アラバン、ペクチン、といった食物繊維で、ペクチンは整腸作用を促しコレストロールを排出する作用や便秘を防ぎ大腸ガンを予防する効果があると言われています。 抗発ガン作用や免疫賦活作用で知られていますが、その他にも体内でビタミンAに変換され、髪の健康維持や、視力維持、粘膜や皮膚の健康維持、そして、喉や肺など呼吸器系統を守る働きがあるといわれています。 さらに、オクラに沢山含まれているカリウムにはナトリウム(塩分)を排泄する役割があり、高血圧に効果があります。 また、長時間の運動による筋肉の痙攣などを防ぐ働きもあります。 また、カルシウムは骨を生成する上で欠かせない成分です。 骨を丈夫にし、健康を維持します。 また、イライラの解消にも効果があります。 とっても、栄養価の高い食物です。 積極的に摂取しましょう。 2018年08月23日 処暑 立秋を15日過ぎて、明日、8月23日は二十四節季の「処暑(しょしょ)」を迎えます。 「処」は「とどまる」という意味ですから、「処暑」とは「暑さ」がとどまり、まだ暑いけど、朝方涼しい風に秋の気配を感じる頃のことをいいます。 「 暑気止息する意」です。 このころは日本は台風来襲の特異日で、暴風や大雨にみまわれることが少なくないようですから、天候には要注意です。 2018年08月22日 秋の気配 夕方6時を過ぎると、急に夕闇が迫ってきて、日の短くなった事を実感します。 立秋を過ぎ、暦の上では今は「秋」となり、今の暑さは「 残暑」です。 間もなく木曜日(23日)には「処暑(しょしょ)」を迎えます。 朝、吹く涼しい風に、秋の気配を感じるようになりました。 藤原敏行は、「 秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)と詠みましたが、本当に吹く風に秋の「爽やかな」気配を感じます。 2018年08月21日 俳句の日 8月19日は、「は 8 い 1 9 」の語呂合せで、「俳句の日」です。 1991(平成3)年に、正岡子規研究家の坪内稔典さんらが提唱して制定されました。 「 夏休み中の子供達に俳句に親しんでもらう日」がその目的です。 そこで大田原《黒羽・奥の細道》にも縁のある松尾芭蕉の俳句(秋編)を並べてみます。 ・秋風の 吹けども青し 栗の毬 ・初秋や 海も青田も 一みどり ・枯枝に からすのとまりけり 秋の暮 ・この道や 行く人なしに 秋の暮れ ・秋深き 隣は何を する人ぞ ・物いへば 唇寒し 秋の風 ・あかあかと 日はつれなくも 秋の風 ・石山の いしより白し あきの風 ・荒海や 佐渡に横たふ 天の川 ・月はやし 梢は雨を 待ちながら ・名月や 池をめぐりて 夜もすがら ・こもり居て 木の実草のみ ひろはばや 2018年08月19日 火もまた涼し 戦国時代、織田信長は甲斐(山梨)の武田家を滅ぼしました。 織田信長によって甲斐が侵攻された時、信長に追われた武将をかくまったという理由で恵林寺が焼き討ちされます。 その時、火をかけられた恵林寺の山門上で、 快川紹喜和尚は「 安禅(あんぜん)必(かなら)ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず心頭(しんとう)を滅却(めっきゃく)すれば火(ひ)も亦(ま)た涼(すず)し」という辞世の句を残して端坐焼死したとされます。 これは有名な逸話ですが、この句の意味は、「禅の修行をすれば炎の中でも平気になる」という話ではありません。 今、直面する処(苦悩)から逃げるのではなく、暑さなら暑さ、寒さなら寒さに徹底して自分全て同化させてしまえば、自己は一体となり苦悩は自ずと消滅するでしょう。 高校野球で、炎天下を投げ抜きインタヴューに答えた投手が、「暑さは全然気にならなかった」と話していました。 炎天下、マウンド上の気温が40度近くなっても、一球一球に集中し全力でプレイする球児には、炎暑も炎暑ではないのです。 私たちも、暑さや寒さに振り回されずに、なすべきことに集中していれば苦悩が苦悩でなくなることでしょう。 今・ここになすべきことを全力で集中して行じていきたいものです。 2018年08月18日 パイナップル 今日8月17日は、「パ(8)イ(1)ナ(7)ップル」の語呂合わせで、「 パイナップルの日」ですが、沖縄県や農林水産省などは、8月1日を「パインの日」と定め、8月1日〜31日までの1ヶ月間を「パイン消費拡大月間」に制定しています。 これは数字の語呂合わせで、大した意味はないようですが、パイナップルは子供たちにも人気の食材です。 給食でも、パイナップルが登場すると、子供たちの食べ込みはいいです。 さて、 Pineappleは、『松(Pine 笠の形をしたリンゴ Apple のような果実という意味』からついた英語名だそうです。 2018年08月17日 送り盆 8月16日はお盆の送り盆です。 13日にご先祖を「お迎え」して、「おまつり」し、今日「お送り」するのがお盆です。 ご先祖にお供えした供物を納め、墓参りをしてお送りします。 ご先祖様は、8月1日になると黄泉の国から牛に乗ってゆっくりやってきます。 13日に到着して、自宅でゆっくり滞在し、16日の朝ご飯を頂いた後、牛の背に様々なお土産を載せ、馬に乗り黄泉の国へ帰っていくのです。 16日のご先祖に供える朝ご飯は昼近くなってからお出しします。 朝ご飯は、「そろそろお帰りの時刻ですよ」という合図だから、ゆっくりお出しするのです。 本堂の前には、朝から送り盆の供物を収める机が出ています。 本堂の本尊・「釈迦牟尼如来」にお参りし、供物を収めてから各家のお墓参りをつとめましょう。 2018年08月16日 終戦記念日 8月15日は終戦記念日です。 1945(昭和20)年のこの日、日本のポツダム宣言受諾により、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終了しました。 内務省の発表によれば、戦死者約212万人、空襲による死者約24万人でした。 毎年この日に、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれます。 戦火で尊い命を落とされた人々を追悼し、平和に暮らせる日々に感謝しましょう。 2018年08月15日 花火 夏の風物詩には、「花火」が挙げられるでしょう。 日本中、各地で花火大会が開催されています。 15日は黒羽で、16日には佐久山で花火大会が予定されています。 夏の夕涼みに「花火見物」は最適です。 家族で楽しむ「花火大会」は、夏の素敵な思い出となることでしょう。 屋外ですので、虫刺されには用心ください。 2018年08月14日 お盆 13日からは「お盆」に入ります。 お盆は、正式には「 盂蘭盆(うらぼん)」といいますが、省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれます。 お盆(盆)とは文字どおり、本来は霊に対する「供物を置く容器」のことです。 その意味から、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合していきました。 盆の明確な起源は分かっていませんが、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事がありました(1年が前半年と後半年の2年になっていた名残との説がある)。 初春のものが祖霊の年神として正月となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったといわれています。 日本では8世紀ごろには、夏に祖先供養を行うという風習が確立されたと考えられています。 お盆中には家族そろってお墓参りに出掛けたり、仏壇に手を合わせ、先祖供養に心を傾けたいものです。 2018年08月13日 夏バテ 連日、酷暑が続きますが、夏バテの予防に次の4つのポイントに気をつけましょう! (1)「 早起き早寝」(早起きするには、早寝が必要です。 夜更かししないで、キチンと寝ましょう) (2)「 適度な運動」(暑くても、適度に汗をかいて身体を動かしましょう) (3)「 たっぷり睡眠」(とにかくしっかりした睡眠です。 質と量に気をつけて) (4)「 栄養バランスのとれた食事」(冷たいものや、さっぱりしたものばかり食べないようにしましょう!!) 夏休み中は、生活のリズムが不規則になりがちです。 意識して規則正しい安定した生活を心がけて、健やかに過ごしましょう。 2018年08月12日 山の日 11日は「山の日」、「山の恩恵に感謝し、山(自然)に親しむ祝日」として、2014年に制定され、今年から施行されます。 8月に祝日が設けられるのは初めてで、これにより国民の祝日は年間15日から16日に増えました。 8月12日にすれば、お盆との連休が重なり良いのでは、との意見もあったそうですが、これは日本航空の墜落の日でもあるので、遺族に配慮して11日になったと言われています。 2018年08月11日 ハートの日 8月10日、その語呂合わせから日本心臓財団と厚生省(厚生労働省)が1985(昭和60)年のこの日に同財団の設立15周年を記念して制定した「健康ハートの日」です。 夏の間に心(ハート)と体をチェックして、心臓病の多発する冬に備える日とされており、健康チェックなどさまざまなイベントが行われます。 この日の意義の通り、心と体を点検して、健康な日送りをしましょう。 2018年08月10日 残暑見舞い 「 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」と、藤原敏行は「立秋」を詠みました。 7日は「立秋」でした。 とはいえ、まだまだ暑い盛りで、気象的にはなお夏ですが、日もしだいに短くなり、朝夕の風に秋を感じます。 また、夏至と秋分の中間に当たり、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から「立冬」の前日までが秋です。 暦の上ではこの日が暑さの頂点となり、明日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられ、明日からは、「暑中見舞い」ではなく「残暑見舞い」となります。 2018年08月08日 立秋 7日は「立秋」、『暦便覧』では「 初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明していて、「初めて秋の気配が表われてくるころ」とされます。 秋になるといってもまだまだ暑い盛りで、気象的にはなお夏ですが、日もしだいに短くなり、朝夕の風に秋を感じます。 2018年08月07日 スイカ 夏の食べ物と言えば、「スイカ」です。 スイカの果実は大部分が水(水分91%)、糖質を8%含み、暑い夏空のもとで賞味するにふさわしい果菜(スイカは野菜)です。 スイカは、可食部100グラム中に、たんぱく質30. 1グラム、脂質46. 3ミリグラム、カロチン16マイクログラム、そのほかビタミンB1・B2、ナイアシンなどを含む栄養価の高い食品です。 また、シトルリンというアミノ酸を含み、利尿効果が高く、腎臓(じんぞう)炎に効くといわれ、果汁を煮つめて飴(あめ)状にしたスイカ糖は薬用にされます。 タネも炒(い)って塩味をつけ、種皮をむいて胚(はい)は食べられます。 スイカを食べて、暑い夏を元気に乗り切りましょう。 2018年08月06日 ひまわり 8月5日の花は、「 向日葵(ひまわり)」です。 この時期にはそこかしこに「向日葵」が咲いています。 ひまわりは、キク科の一年草で、北アメリカ原産で、主に観賞用ですが、種子から食用油を取り「ヒマワリ油」として販売もされています。 さて、若い株は太陽に向かって花を開く習性があるので、一般的に太陽を追って花がまわると思われていますが、実際にはほとんど動かないようです。 花言葉は「 光輝、愛慕」。 2018年08月05日 お箸 今日は8月4日で、「は(8)し(4)・箸」の日です。 正しい箸の持ち方及び、食文化の見直しを含め、「箸」を考えようという民俗学研究家の提唱により、わりばし組合が1975(昭和50)年、記念日に制定しました。 2018年08月04 夕立 夏は暑く、暑い日には「夕立(ゆうだち)」が襲ってきます。 でも、「夕立」は、気象観測上の正式用語ではないようです。 夏によく現れる積雲や積乱雲から降る激しいにわか雨で、雷を伴うと「雷雨(らいう)」で、雨だけの場合は「驟雨(しゅうう)」です。 積雲や積乱雲は、普通は昼過ぎから夕刻にかけてもっともよく発達するので、夏の「驟雨」・「雷雨」は午前よりも午後に多く発生します。 一面を白く染めるほど激しく降るので「白雨(はくう)」ともいうそうです。 『 夕立や 草葉を掴 つか む むら雀』(蕪村) 2018年08月03日 葉月 8月に入りました。 8月を葉月(はづき)と呼びますが、葉月の由来は諸説あり、木の葉が紅葉して落ちる月「 葉落ち月」「葉月」であるという説、稲の穂が張る「 穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「 初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「 南風月(はえづき)」という説がります。 まだまだ暑いのに、8月の別名には、あきかぜづき(秋風月)、かりきづき(雁来月)、かんげつ(観月)、けんゆうげつ(建酉月)、こぞめつき(木染月)、そうげつ(壮月)、ちくしゅん(竹春)、ちゅうしゅう(仲秋)、つきみつき(月見月)、つばめさりづき(燕去月)、はづき(葉月)、べにそめづき(紅染月)など、旧暦のせいなのでしょうが、秋を感じさせる異名が多種ありました。 2018年08月02日 かまの蓋 8月1日は「地獄の釜(かま)の蓋(ふた)が開く日」 とされ、この地方では、古くからご先祖様を迎えるための行事の一つとして、黒糖の「炭酸饅頭」を作り、下に笹の葉を敷いご先祖にてお供えし、供えた後に自分たちもその饅頭を食する風習があります。 これが「かまのふた饅頭」です。 以前は、8月1日の早朝には、各家庭でお供え用と食べるものとをたくさん作っていましたが、今は家庭が少なくなりました。 大田原市内の菓子店では、8月1日には早朝からこの饅頭を販売しています。 この風習は「先祖を敬い、先祖に心を傾け感謝する」素晴らしい行事なので、今後もこの風習を守り続け、さらには日本中に広まれば良いと思います。 2018年08月01日 大暑 7月23日は暦の上で、二十四節気の一つで、一年中で最も暑い日とされる「大暑(たいしょ)」をむかえます。 梅雨が明けて、快晴が続き、気温がどんどん上がり続けるころ。 『暦便覧』には「暑気いたりつまりたるゆえんなればなり」と記されていて、暑くて暑くて、うだる様な暑さが襲ってくる頃です。 暑さが本格的になる7月7日に「小暑(しょうしょ)」があり、それから「梅雨も明け」があり、うだるような暑さが襲ってきます。 今年の夏も熱くなるのでしょうか。 さて、「小暑」から「大暑」を経て、8月7日の「立秋」までの1か月は暑中で、8月7日からは残暑となります。 2018年07月22日 土用 20日から「土用」にはいり、20日は「丑(うし)」の日ですので「土用の丑の日」となります。 8月1日にも「丑の日」があり、夏バテ防止を願いウナギを食するご家庭も多いことでしょう。 2018年07月19日 海の日 16日は7月の第3月曜日で「海の日」です。 家族で海にお出かけの方もいることでしょう。 「海の日」は、1996年(平成8)に「国民の祝日に関する法律」の一部改正法で加わった14番目の「国民の休日」。 制定の主旨は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」というもの。 この日はもともと、海運の重要性を認識し、海運・海事関係者に感謝することを主旨とする「海の記念日」として、1941年(昭和16)の第1回目以来、国民行事が行われてきました。 以前は7月20日であった記憶がありますが、「海の日」は2003年から7月の第3月曜日に変更されました。 2018年07月16日 中元 7月15日は「中元」です。 一年の半分を過ぎ、健康で安泰な生活の無事を祝い、祖先の霊を供養する日です。 元々、「中元」とは、正月15日の「上元」、7月15日を「中元」、10月15日の「下元」をあわせて「三元」とする中国の習慣が伝わったもので、日本では「盂蘭盆会」と日が重なったことから、「祖先の霊を供養し、両親に食べ物を送る」ようになりました。 そして、この習慣が、目上の人、お世話になった人等に贈り物をする「お中元」に変化しました。 その目的の通り、健康で安泰に無事に生活できるよう祈念し、先祖に感謝報恩を捧げましょう。 2018年07月15日 ひまわりの日 明日7月14日は、「ひまわりの日」とされています。 それは、1977年7月14日に日本初の静止気象衛星「ひまわり1号」がアメリカのケネディ宇宙センターから打ち上げらたからです。 気象衛星「ひまわり」は花のひまわり(向日葵)から命名されています。 この時期には、そこかしこでひまわりが咲き出し、夏の太陽に向かって力強く咲いています。 2018年07月13日 納豆の日 7月10日は、「なっ(7)とう(10)」の語呂合わせで、全国的に「納豆の日」とされています。 納豆には、血液をさらさらにする予防効果があることは、よく知られています。 栄養分として、たんぱく質やビタミン、そのほかイソフラボンも含まれています。 納豆にある納豆菌は、胃酸にも強く、腸内の善玉菌であるビフィズス菌の増殖を助け、健康にとっても良い効用がある優れた健康食品なのです。 家族みんなで食べて健康管理に役立てたいものです。 2018年07月10日 暑中見舞い 「小暑」を迎えて、いよいよ暑い夏です。 その昔、日本人は1年を2期に分けて考えていて、その始まりが正月と盆でした。 人々は期の始まりに、贈答品を持って「今期もよろしく」と挨拶回りに走り、もしくは挨拶の集いに参加しました。 江戸時代では、武家仲間から親戚関係、ご近所などの家を、なんと元旦か1月末まで毎日回り続ける人もいたそうです。 身分の高い人は訪問を受け、低い人は訪問回りする役でした。 しかし、さすがに遠方のお宅には訪問することができないので、江戸時代の身分のある人々は飛脚便などを使って書状や贈り物を届けました。 これらの習慣が明治6年に日本のハガキ郵便配達が始まったのを機に、遠方以外の人にも挨拶状を送る習慣が広まっていきました。 「年賀郵便」の制度は明治39年に始まり、昭和24年にはお年玉つきはがきが発売され、「年賀状」の普及に拍車をかけました。 そして大正時代名になると、「暑中見舞いハガキ」を送る習慣が広まっていったようです。 それ以降は残暑見舞いとして出しますが、これも8月末までに出すのがマナーです。 また、残暑見舞いは秋の暦に入るので、「盛夏」ではなく「晩夏」「立秋」などを用います。 暑中見舞いは喪中と関係なく出せるので、その分年賀状よりも気軽に送ることができます。 2018年07月08日 小暑 7月7日は二十四節気の「小暑」。 「小暑」は「梅雨明けが近づき、蝉が鳴き始め、暑さが本格的になるころ」です。 暦便覧には「大暑来れる前なればなり」と記されているように、小暑の終わりごろに「夏の土用」に入っていよいよ「大暑」を迎えます。 小暑から大暑そして立秋までの間が暑中となり、その間に暑中見舞いを送ります。 暑さに負けないで、健康に逞しく成長することを願います。 昨日、幼稚園では、子どもたちが各々自分の願い事を書いて吊るした七夕飾りを掲げ、その七夕飾りを見つめ、個々に願いを祈念していました。 それぞれの願いが成就することを祈ります。 2018年07月07日 たなばた 7日は七夕(たなばた)ですが、七夕 たなばた とは、元来、旧暦の7月7日に行う星祭りで、現在では新暦の7月7日や、月遅れの8月7日に行なわれています。 通常知られている七夕の話は「織姫」と「彦星」が…と、いう中国から伝来した話で、日本オリジナルの七夕の話もあります。 日本には、中国の七夕伝説が伝わるまえから、棚機つ女(たなばたつめ)の乙棚機(おとたなばた)の信仰があり、それが牽牛と織女の伝説と一緒になって現在伝わっている物語になりました。 そのため日本では元の呼び方が残っているので、 七夕=棚機=たなばた と呼びます。 2018年07月06日 七夕物語 7月7日は七夕です。 この七夕には、いくつかの物語があり、その一つを紹介します。 むかしむかし、あるところに、ほうろく売りがいました。 ほうろくというのは、土でつくったフライパンみたいなものです。 ある年の七月、ほうろく売りが山道を通りかかると、娘さんたちが湖で水あびをしていました。 ふと見ると、目の前に美しい着物がおいてあります。 ああっ、何てきれいな着物なんだろう ほうろく売りはその着物がほしくなり、その中の一枚をすばやくカゴに入れて、何くわぬ顔で通りすぎていきました。 ところがタ方、仕事を終えたほうろく売りがそこへもどってくると、一人の美しい娘さんがシクシクとないているのです。 ははん。 さては、わしに着物をとられた娘だな ほうろく売りは娘さんに自分の着物を着せて、家につれて帰りました。 この娘さん、見れば見るほど美人です。 ほうろく売りはこの娘さんが気に入り、自分のお嫁さんにしました。 やがて子どもが生まれて、親子三人は、なかよくくらしていました。 ある日の事です。 あら、何のつつみかしら? お嫁さんがつつみを開いてみると、中にはぬすまれた着物が入っていました。 「 あっ! これはわたしの着物! きっと、あの人がぬすんだにちがいない。 ゆるさない!」 お嫁さんはその着物をすばやく着ると、子どもをかかえて空へのぼろうとしました。 そこへ、ほうろく売りがもどってきたのです。 一目で全てをさとったほうろく売りは、お嫁さんに手をついてあやまりました。 「 ま、待ってくれ! わたしが悪かった。 だから待ってくれ!」 「 いいえ! わたしは天の国へもどります! あなたに着物をとられて、しかたなくお嫁さんになりましたが、わたしはもともと天女 てんにょ です」 「 すまない! あやまる! いままでに何度も返そうと思ったが、お前がどこかへ行ってしまうのではないかと心配で、返すに返せなかったんだ」 「 いいわけは聞きません。 さようなら」 「 たのむ! なんでもする。 どんなつぐないでもする。 だから、わたしをおいていかないでくれ!」 必死にあやまる男の姿に、心をうたれたお嫁さんは、 「 ・・・では、もし本当にわたしが大切なら、本当にわたしに会いたいのなら、わらじを千足つくって、天にのぼってきなさい。 そうすれば親子三人、今までどおり暮らす事ができるでしょう」 と、言うと、お嫁さんは子どもとともに、天高くのぼっていってしまいました。 ほうろく売りはお嫁さんに会いたくて、さっそくわらじをつくりはじめました。 毎日、朝から晩までごはんも食べずに、わらじをつくりました。 何日もかかって、やっと、九百九十九足のわらじができました。 よし、あと一足だ。 あと一足で、あいつと子どもに会えるんだ そう思うと、ほうろく売りはがまんできなくなり、一足たりないまま外へとびだし、天に向かって、 「 おうい、はやくむかえにきてくれー!」と、さけびました。 すると、天から雲がおりてきました。 ほうろく売りはその雲にのり、上へ上へとのぼっていきました。 ところがわらじが一足たりないため、あと少しの所で天の国へ着くというのに、それっきり雲が動かなくなりました。 「 あっ、あなた、本当にきてくれたのね」 天女は、いっしょうけんめい手をふっているほうろく売りを見つけると、はたおりの棒を下へのばしました。 ほうろく売りはその棒につかまり、何とか雲の上に出ることが出来ました。 天女の家にはおじいさんとおばあさんがいて、赤ちゃんのおもりをしています。 「 この人が、この子のお父さんです」 天女はほうろく売りを、二人の前につれていきました。 でも、二人はこわい顔でほうろく売りをにらみました。 何とかして、ほうろく売りを追いかえそうと考えていたのです。 そこでほうろく売りにザルをわたして、それで水をくんでくるように言いました。 穴のたくさん開いたザルでは、水をくんでくることができません。 ほうろく売りがこまっていると、お嫁さんはザルにあぶら紙をしいてくれました。 ほうろく売りはそれに水をくんで、二人のところへ持っていきました。 「 うむ、人間にしてはなかなかちえがある。 ほうびに、このウリをやろう。 よこに切って食べろ」 そう言って、おじいさんはほうろく売りに大きなウリをくれました。 天の国では、ウリをたてに切って食べます。 もし横に切ったら、水がどんどん出て、止まらなくなるのです。 そんな事とは知らないほうろく売りが、ウリを横に切ったからたいへんです。 切り口から水がふきだして止まらなくなり、ほうろく売りは天の川に流されて、だんだん遠くなっていきます。 それを見て、お嫁さんがさけびました。 「 あなたーっ、父母を説得して、月に一度、水の流れを止めてもらいます。 毎月の七日に会いに来てください」 ところがほうろく売りは、水の流れの音のために聞きちがえて、 「 よし、わかった。 毎年の七月七日だな」 と、言って、そのまま流されていきました。 だから二人は、年に一回、七月七日にしか会えなくなったという事です。 2018年07月05日 半夏生 「半夏生(はんげしょう)」は雑節の一つで、七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていましたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっています。 7月2日がその日に当たり、この頃、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころで、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころです。 農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もあります。 この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしました。 また、地方によっては、毒気などから妖怪ともされ、この時期に農作業を行う事に対する戒めともなっています。 この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といって、大雨になることが多いので注意しましょう。 2018年07月02日 半夏 7月を迎えます。 7月2日は、夏至から数えて11日目にあたる日で、「 半夏生(はんげしょう)」です。 さて、この日には、脂ののった「 浜 焼き鯖(さば)」を一人一本丸ごと食べるという風習が福井県の一部地域(大野市)にあります。 江戸時代、農作業で疲れた体を癒し、蒸し暑い夏を乗切るための貴重なスタミナ源として、時の藩主が領民に奨励したのが始まりといわれています。 当時、海で獲れる鯖を食べることができるのは病人ぐらいで、山あいの集落の人からすればこの日は大変楽しみだったそうです。 夏至から半夏にかけて 関西では「タコ」を食べるようですが、所変われば食べ物も変わるようで、 四国の讃岐では、いたるところで「うどん」が値引きになり、みんなで「うどん」を食べるようです。 各家庭でも季節を感じ、季節の味わいを話し合ってみてはいかがでしょう。 2018年07月01日 夏越し 6月30日は、1年の半分に当たる「夏越し」でこの日に「 祓い」を行います。 「祓い」とは罪とけがれをはらい清める事で、日本の各地で6月と12月の末日に行われています。 「 みな月のなごしの祓する人は千年の命のぶと云ふなり」(水無月(6月)の名越(30日)の祓いを受ける人は、千年もの延命効果があるといわれている。 ) 神社やお寺の境内に「茅の輪」が設置されているのを見ることがありますが、これをくぐる「茅の輪くぐり」を行って、「夏越の祓い」を修行致します。 「茅の輪」は、チガヤを束ねてつくった大きな輪です。 チガヤの生命力は強く、この強さにあやかり、「茅の輪」をくぐって、一年の半分を祓い清め、家内安全、身体健全、無病息災を祈願します。 2018年06月30日 タマネギ 檀家の方より玉葱(タマネギ)をたくさん頂きました。 干して乾かすことで日持ちがするそうで、日陰で風を通しています。 感謝して毎日食べたいと思います。 さて、玉葱を切ると涙が出るのはイソアリインという催涙性前駆物質が、玉葱を切ることによってアリイナーゼという酵素と反応して催涙性物質になるためですが、催涙性物質から産生される含硫化合物にはさまざまな作用があり、特に血小板凝集抑制作用があります。 薬効のもとのイオウ化合物である含硫アミノ酸は玉ねぎに多量に(1kgあたり2〜3g)含まれていて、刺激成分が有効成分ですので、目にしみないとか、辛味のない玉ねぎは薬効が少ないことになり、最近は薬効をより高める新品種の開発も進められています。 この作用は玉葱を切った直後に加熱すると失われますが、切って室温に15分間以上放置しておくと加熱しても失われることはなく、成分間の化学反応で、別の物質(プロペルニルジスルフィド類)が生まれます。 これは、糖尿病で高い血糖値の低下作用や発ガン抑制作用があります。 さらに、調理で加熱すると、また別の物質(トリスルフィド類やセパエン類)に変わり、これらの物質は心筋梗塞や脳梗塞などの原因となる中性脂肪や悪玉コレステロールの値を下げ、血管を詰まらせる血栓を溶かすことも確認されています。 血液をさらさらにし、動脈硬化を防ぐ作用があります。 そして、玉葱を加熱調理すると解毒代謝が促進され体内の有害物質を排泄します。 玉葱には、糖尿病、高血圧、癌、脳血栓、心筋梗塞、動脈硬化、胃弱、食欲不振、風邪、扁桃炎、下痢止め、便秘、出血、痛風、筋肉疲労回復、精力減退、精神不安、不眠症、アレルギー体質の改善、神経痛、虫下し、やけど、虫刺されなどに良い効果があり、玉ねぎの含硫アミノ酸は、玉ねぎを切ると、酵素の作用で別の物質(チオスルフィネート類)に変化し、これが生でかんだときの強い辛味成分で、この成分は強い抗菌・殺菌作用があり、コレラ菌を死滅させる力さえ持っています。 玉葱の効能はすごいですね。 2018年06月28日 紫陽花 紫陽花(アジサイ)が咲き出しました。 アジアや北アメリカに約40種類が分布する低木で、日本には約10数種があるそうです。 アジサイの名前は藍色の花が集まるという意味の「 あづさあい 集真藍 」が変化したものと言われ、属名のハイドランジアはギリシア語のハイドロ 水 とアンジェイオン 容器 からなり「水の器」「水がめ」と解釈されます。 これはアジサイが根から非常に水をよく吸うから、果実の形が水がめの形に似ているからなど諸説があります。 さて、シーボルトはアジサイにハイドランジア・オタクサという学名 シーボルトの愛人「楠本滝〜通称、お滝さん」の名前 を付けましたが、シーボルト以前に違う学名を命名・発表していた人がいたので現在では使われていません。 紫陽花は、梅雨時期に咲く雨の似合う花です。 2018年06月24日 夏至 6月21日は「夏至」です。 24節季のひとつで、一年の中で最も昼間が長く夜の短い日です。 冬至12月22日頃に比べると、昼間の時間差は4時間50分もあります。 さて、大阪近郊では夏至から半夏(ハンゲ、夏至から11日目)までにタコを食す習慣があり、タコの足のように、稲の根がよく地面に広がりつくようにと願ってのことらしいです。 また、関東地方では、新小麦で焼き餅を作って神に供える風習があり、熊本県阿蘇地方には「 夏至はずらせ 半夏は待つな」(田植えは夏至より少し後に、半夏を過ぎないように)との言い習わしがあり、この期間までに田植えを終えないと「 半夏半作」といって収穫が半減すると言われています。 2018年06月21日 キャンドルナイト 21日は夏至です。 昼が最も長く、夜が最も短い日で、近年は夏至の夜にロウソクを灯す、「100万人のキャンドルナイト」というイベントが多く行われています。 2003年6月22日 夏至)に始まった環境に対する取り組みのひとつで、文化人類学者であり、環境活動家の辻真一さんの呼びかけに賛同した多くの人々によって勧められ、年を重ねるごとに日本全国に広く大きく成長してきています。 夏至(6月21日)の夜20:00〜22:00の2時間、電気を消し、キャンドルの明かりだけで過ごします。 誰でも参加でき、家族で環境を考える契機になるでしょう。 2018年06月19日 父の日 6月の第3日曜日は、「父の日」です。 「父の日」は、「 父に感謝をささげる日」。 1909年に、アメリカ・ワシントン州のJ. ドット夫人が、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月6月に「 父親の日礼拝」をしてもらったことがきっかけと言われています。 当時すでに「母の日」が始まっていたため、彼女は「父の日」もあるべきだと考え、「母の日同様に父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まりました。 ドット夫人が幼い頃に、アメリカでは南北戦争が勃発し、父、スマートが召集されてから、ドット夫人を含む子供6人は母親が育てることになるが、母親は過労が元でスマートの復員後まもなく亡くなりました。 以来男手1つで育てられたが、スマートも子供達が皆成人した後、亡くなってしまいます。 やがて、1916年アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィスソンの時に「父の日」が認知されるようになり、1972年(昭和47年)、アメリカでは国民の祝日に制定されました。 母の日の花はカーネーションですが、父の日の花は バラ。 これは、ドット夫人が、父の墓に白いバラの花をささげたことが由来です。 2018年06月17日 どくだみ 梅雨空の下、どくだみが花を咲かせています。 どくだみは昔から優れた薬草として知れ渡っていて、生薬名として【 十薬(じゅうやく)】という名前が付けられているように、10種類の薬効(効能)があると考えられていました。 どくだみ茶の効能の主たる要因には、体内の毒素を身体の外へ排泄することで血液をキレイにすることにあるのですが、このことが特定の病気を予防して健康を維持する体質へと改善することにも繋がる効用があると考えられています。 どくだみ茶の効能の中でも特に解毒作用が優れていることから、体内に生じた老廃物や毒素を排泄する働きにより、【ニキビ】や【吹き出物】といった一般的によく見られる肌トラブルの予防ならびに改善効果が期待できます。 老廃物や毒素が体内に滞ることがなく排出されることで血液の浄化にも繋がり、血がキレイになればニキビや吹き出物などの肌トラブルも生じにくい体質へと改善されていくようになります。 また、どくだみ茶の解毒作用と血液浄化作用による【体質改善効果】が期待でき、アトピー性皮膚炎や花粉症の症状を緩和する効果、花粉症の場合も同じように、体質を改善することで症状緩和に繋がると考えられています。 さらに、どくだみ茶が持つ【緩下作用】により、便秘解消の効用もあります。 緩下作用(かんげさよう)というのは、腸から排便を促す働きのことです。 便秘が解消される事で腸内環境も改善されて、便秘に伴う【吹き出物】や【ニキビ】の改善にも繋がります。 身近な存在のどくだみですが、こんなすごい効用を持っているのです。 2018年06月14日 ジューンブライド 6月には結婚式が沢山あります。 「 Junebride ジューンブライド 」を直訳すると[ 6月の花嫁]ですが、6月に結婚した花嫁は幸せになれるというもともとはヨーロッパからの伝承で、その由来は以下諸説あります。 「June」が、ローマ神話の結婚をつかさどる女神であるジューノ Juno からきているため、「この女神の月に結婚すれば、神の御加護を頂いて、きっと花嫁は幸せになるだろう」、にあやかっての説。 昔、ヨーロッパでは、3〜5月の3ヵ月間は結婚することが禁止されていて、6月は結婚が解禁になる月であるため、6月になっていっせいにカップルたちが結婚し、周りの人達からの祝福も最も多い月だったとする説。 ヨーロッパの6月は1年中で最も雨が少なく良い天気が続き、加えて復活祭も行われる時期であることから、ヨーロッパ全体が祝福ムードで溢れ、6月の花嫁は幸せになれるとする説。 などがあるようです。 2018年06月10日 トマト トマトを頂きました。 トマトは夏野菜の代表選手、美味しくて健康にも良い食材です。 トマトには、ビタミンやミネラルなどの栄養価が高く、赤い色の素であるリコピンは抗酸化作用に優れ、がん、動脈硬化、血糖値改善、さらには痴呆予防に効果が期待されている健康食品です。 そこで「トマトが赤くなると、医者が青くなる」と言われ、トマトはサラダなど生で食べてもも美味しく、煮ても焼いても炒めても、様々なメニューで美味しくヘルシーに頂けます。 しかし、日本人のトマトの年間消費量は8. 9kgと世界レベルではかなり低い消費で、消費世界一のギリシャは、1114. 9kgと日本の13倍、イタリアは54. 9kgで、日本の6倍です。 2018年06月08日 芒種 6日は、二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」です。 芒(のぎ、ぼう)は、お米や麦などイネ科の植物の穂を構成する鱗片の先端にある棘状の突起のことで、イネやムギなどの芒(のぎ)を持つ作物の種を播く時節というところから芒種というそうです。 現在の田植え時期は早まりましたが、昔の田植は、梅雨入りにのころにあたるこの時期に行われた様です。 2018年06月06日 水無月 明日から6月になります。 6月は梅雨に入り雨の多い月ですが、6月のことを「水無月(みなづき)」と称します。 「水無月」は、「水の無い月」と書きますが、水が無いわけでなく、水無月の「無」は、神無月の「な」と同じく「の」にあたる連体助詞「な」で、「 水の月」という意味です。 陰暦6月は田に多く水を引く月なので、「 多くの水を必要とする月」の意から「水無月」と言われるようになったようです。 旧暦の6月は梅雨が明けた時期 7月)になるため、新暦に当てはめて水無月を「梅雨も終わって水も涸れつきる月」「水の無い月」と解釈するのは間違いのようです。 同様に、神無月の語源は、「神を祭る月」であることから、「神の月」とする説が有力とされ、神無月の「無」は、「水無月」と同じく、「の」を意味する格助詞「な」です。 中世の俗説には、10月に全国の神々が出雲大社に集まり、諸国に神がいなくなることから「神無月」になったとする説があり、出雲国(島根県)では、反対に「神有月・神在月(かみありづき)」と呼ばれます。 また、6月には他に 異名が沢山あります。 「建末月:けんびげつ」「水月:すいげつ」「未月:びげつ」「旦月:たんげつ」「季月:きげつ」「伏月:ふくげつ」「遯月:とんげつ」「焦月:しょうげつ」「涼暮月:すずくれづき」「松風月:まつかぜづき」「松風月:まつかぜづき」「風待月:かぜまちづき」「鳴雷月:らいめいづき」「弥涼暮月:いすずくれづき」など・・・ 2018年05月31日 走り梅雨 5月下旬頃の梅雨に先立ってみられるぐずついた天候、梅雨の前ぶれを「走り梅雨」と言いますが、今日は午後から雨模様となり、今週は「走り梅雨」の様相となりそうです。 「日々是好日」。 晴れても、雨でもかけがえのない大切な一日です。 全力で「今」「ここ」を生き切りましょう。 2018年05月28日 麦秋 「 麦秋や 子を負いながら いわし売り」 小林一茶、 「麦秋(ばくしゅう)」です。 麦の穂が茶色く色ずき、間もなく収穫を迎えることでしょう。 麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のことで、麦が熟し、麦にとっての収穫の「秋」であることから、名づけられた季節です。 ちなみに、「竹の秋」とは、春の竹は地中の竹の子に養分を取られ、四月頃になると葉が一斉に黄ばみ始めることから春の季語となっていて、逆に秋には葉がつやつやとしてきますから、こんどは「竹の春」と呼びます。 草木の形状や色合いにより、その草木に季節を付ける日本の感性を嬉しく感じます。 2018年05月26日 新茶 今年も知人より新茶を頂きました。 5月2日が「 八十八夜」で、連休の頃から新茶が市場に出回り出しているようです。 お茶は日本人にとって身近な飲み物ですが、その効用はとても大きいものがあります。 緑茶の苦味はカフェインによるもので、渋みはカテキン(タンニン)によるものです。 カフェインによる効果には、・血液の流れを良くする・利尿作用・消化液の分泌を良くする・精神安定作用・肝臓薬の効果を高める・高血圧性の頭痛を弱めるなどがあり、カテキンによる効果には、・抗酸化作用(老化防止)・抗菌作用(消化器病原菌、虫歯、インフルエンザ予防・コレステロール抑制・血圧上昇抑制・血糖低下(抗糖尿病)・血小板凝集抑制、血栓形成予防さらには、・抗腫瘍、発がん抑制や解毒作用があるそうです。 日々、習慣的に飲むことで効果が期待されるそうです。 2018年05月25日 イチゴ狩り 22日に幼稚園児と「イチゴ狩り」に出かけました。 イチゴはビタミンCが豊富で、風邪予防や美肌効果が期待できます。 また、血を作るビタミンといわれている「葉酸」も豊富に含まれているので、貧血予防にも効果的。 さらには、イチゴには血糖値の上昇やコレステロールの吸収を抑制する食物繊維のペクチンも含まれています。 そして、ブドウほどではありませんがイチゴにもポリフェノールの一種「アントシアン」という色素成分が入っていて、発がん抑制作用にも期待できます。 自然のイチゴは石器時代からヨーロッパ、アジア一帯で食べられていて、イチゴの栽培は200年ほど前から始まりました。 日本には江戸時代の終わりに伝わりましたが、そのときには定着せず、その後明治32年頃にフランスの品種が導入されたことで本格的な栽培が始まりました。 さて、イチゴの花言葉は「 家族の幸福」です。 一つの株からたくさんのカブを出して、それが花を付け、実を付け、次々と実をなしていく。 家族の繁栄を願う思いが込められています。 2018年05月22日 小満 5月21日は「小満」です。 これは、「 万物がしだいに長じて満つる意」ですが、『暦便覧』には「 万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されていて、万物が次第に成長して、満々と満ち、草や木々が葉を茂らせころです。 麦畑が黄金色に染まり、麦秋を迎えます。 また、沖縄では、次の節気と合わせた「 小満芒種(すーまんぼーすー)」という語があり、これは「梅雨」の意味で使われ、南方ではさらに季節が進行していることを感じます。 この辺りでも、木々に葉が茂り、麦も色付き収穫が近づき夏を実感します。 2018年05月21日 母の日 母の日(ははのひ)は、 日頃の母親の苦労を労り、母への感謝を表す日です。 日本やアメリカでは5月の第二日曜日に祝いますが、その起源は世界中で様々で、日付も異なっています。 例えばスペインでは5月第1日曜日、北欧スウェーデンでは5月の最後の日曜日に当たります。 日本では1931年(昭和6年)に、大日本連合婦人会が結成されたのを機に、当時の皇后の誕生日の3月6日を「母の日」としましたが、1937年(昭和12年)5月8日に、第1回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が開催された後、1949年(昭和24年)アメリカに倣って5月の第2日曜日に行われるようになったそうです。 2018年05月13日 愛鳥週間 初夏となり、鳥たちの活動も盛んになりました。 今日5月10日から一週間は、「愛鳥週間」(野生鳥類の保護を国民全体に訴えるために設けられた運動期間 5月10日〜5月16日)です。 幸いにも幼稚園の辺りには、まだまだ豊かな自然があり。 以前、カルガモが親子で散歩に来たことがあったり、桜木にアカゲラ(キツツキの一種)が巣を作ったりと、たくさんの野鳥がいて、多種多様な野鳥を観察することが出来、自然と共に生きていくことを実感し、他への慈しみや思いやりの心が育つ基となります。 2018年05月10日 早苗 かつて、田植えはすべて手作業でした。 最近は手植えする様子はあまり見かけませんが、小さな田んぼで手植えしている姿を見ました。 松尾芭蕉は 「 手ばなせば 夕風やどる 早苗かな」という句を読んでいます。 「手を離れて水田に植え付けられた苗が、夕暮れ時の風に吹かれて静かに揺れている」。 早苗(さなえ)とは、「苗代から田へ移し植えるころの、稲の若い苗。 田植え用の稲の苗」、「わさなえ」のことですが、若くまだナヨナヨしい青い早苗が、夕暮の風に吹かれ揺れている様子は、のんびりとして心癒される風景です。 夕方、のんびりと田んぼのあぜ道を散歩してみると、風も清々しく心安らぎます。 2018年05月07日 立夏 昨日「立夏(りっか)」を迎え、暦の上では、夏になります。 立夏を過ぎると、田植えも終わり、カエルも鳴き始めて、夏を実感します。 那須高原も夏に向かっています。 境内の牡丹が満開となり、見頃です。 連休中にお墓参りに訪れた人たちを喜ばせてくれています。 2018年05月06日 子どもの日 5月5日の「子どもの日」は、「祝日法」2条によれば、「 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨としています。 子どもにも人格があり、全ての人々にある人権・人格を尊重し、互いに認め合い、和して生活したものです。 2018年05月05日 みどりの日 今日5月4日は、以前は1985(昭和60)年に祝日法が改正されて制定された「国民の休日」でしたが、2007年より、昭和天皇の誕生日であった4月29日の「みどりの日」が「昭和の日」に変更なったため、「みどりの日」が5月4日に移動されました。 その目的は、「 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことです。 2018年05月04日 憲法記念日 5月3日は「憲法記念日」ですが、「祝日法」では「 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」ことを趣旨としています。 今後、日本が豊かで正しく成長するよう自分たちも努力し、子どもたちの成長と共に日本が安定していくことを期待します。 2018年05月03日 柏餅 明日から4連休、5日に「 子どもの日」を迎えますが、子どもたちの健やかな成長を願い「柏餅」を食べる習慣があります。 柏の木は新芽が出ないと古い葉が落ちないため「 子供が生まれるまでは親は死なない」、すなわち「 跡継ぎが途絶えない」「 子孫繁栄」に結びつき、「柏餅」は、端午の節句の縁起の良い食べ物とされています。 2018年05月02日 さつき 5月を迎えます。 5月を「 皐月(さつき)」と言いますが、皐月は「 こうづき」とも読み、植物のサツキのことです。 旧暦五月ごろに花が咲く躑躅であることから、サツキツツジの名がつき、やがて単にサツキと呼ばれるようになったようです。 また、米の苗を植える月であることから、 早苗月(さなえつき)と呼ばれていて、それが「さつき」となり、皐月の感じは当て字ともされます。 「 皐」の本来の文字は「 皋」で、「白+大+十(まとめる)」で、白い光のさす大きな台地をあらわし。 明るい、たかい、広がるなどの意を含みます。 皐はその略体です。 ちなみに、5月の異名ですが、「いななえづき 稲苗月 、いろいろづき( 五色月)、うげつ 雨月 、けんごげつ 建午月 、つきみずづき 月不見月 、さつき 皐月 、さなえづき 早苗月 、さみだれづき( 五月雨月)、しゃげつ 写月 、たちばなづき( 橘月)、ちゅうか 仲夏 、ばいげつ 梅月 、よくらんげつ 浴蘭月 」などがあり、いずれも季節感を感じます。 2018年04月30日 昭和の日 4月29日の「昭和の日」は、1989(昭和64)年1月7日に崩御した 昭和天皇の誕生日です。 昭和天皇崩御後、生物学者であり自然を愛した昭和天皇をしのぶ日として、「 みどりの日」となりましたが、2007年よりこの日は「昭和の日」と改めらました。 それは、「 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いを致す」と言う意味合いからです。 それと同時に、「みどりの日」はいままで「国民の休日」であった、5月4日に移動されました。 2018年04月29日 端午 間もなく5月。 そして5月5日は『 端午の節句』「 子どもの日」ですが、旧暦では「午の月」は5月にあたります。 「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの牛の日のことで、今年なら5月10日です。 「端午」は、この午の月(5月)の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったといわれます。 やがて、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいわれます。 同様に、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっています。 2018年04月28日 風呂の日 毎月26日は、「2( ふ)6( ろ)」の語呂合わせで「風呂の日」で、4月26日で「 よい風呂の日」です。 親子でお風呂に入って親子の対話を深めたり、家族同士ふれあいを促すことを目的に、 東京ガスが1985(昭和60)年5月に制定しました。 お風呂はその日の疲れを取り、身体も心も癒してくれます。 さて、5月5日の子どもの日を「 端午の節句」といい、「 菖蒲(しょうぶ)の節句」とも呼ばれます。 この時期に花を咲かせる菖蒲の長い葉は、強い香気があるので、この香りの強さが不浄を払い、邪気を遠ざけてくれるといわれています。 また「菖蒲(ショウブ)」は、「勝負」や「尚武」に通じることから、江戸時代から男の子の出生を祝って、端午の節句に「 菖蒲湯」に入ることが習慣になったといわれています。 2018年04月26日 万緑 境内の木々の新緑が陽の光で輝き、初夏を感じます。 ケヤキやシャラ、樫の木は、この時期新緑が綺麗です。 芽吹き萌え出る草木の活力を実感しますが、子どもたちも木々の活力に満ち満ちた勢いのように、これからも健やかで康らかにグングンと成長する様に願います。 初夏に向けて、総ての緑の植物の精気溢れる力強さに、吾子の健やかな成長をなぞらえた俳句があります。 「 万緑の 中や吾子の 歯生えそむる」 (中村草田男) 2018年04月24日 鯉のぼり 5月5日の子どもの日に向けて、子供たちが健やかに成長することを願い園庭に「鯉のぼり」を飾る週間があります。 鯉のぼりは、日本の風習で、江戸時代に武家で始まり、端午の節句の5月5日まで、「男児の出世を願って」家庭の庭先に鯉に模したのぼりを、風をはらませてなびかせます。 別名、皐幟(さつきのぼり)とも言いいます。 元は、雨の日に飾るものでした。 理由は、魚は水中で泳ぐので、雨の日に限定して飾ったようですが、次第に晴れの日にも掲げて「晩春の晴天の日の青空にたなびくもの」となりました。 2018年04月22日 タンポポ 日向の土手にタンポポを見かけます。 そのタンポポが朝開いて夕方閉じるのは、日照が関係していると考えられています。 日差しがあるときに開き、逆に、どん曇りや雨の日は閉じるということです。 雨や風の日には、雨や風を防ぐために花を閉じるそうです。 ただし、ある実験では、初日咲き(開花して1日目の状態)のときは気温よりも日照の程度に大きく左右されることが示されています。 つまり、どん曇りや雨になると花は閉じ、2日目咲きになると日照のほかに気温の影響もやや受け、3日目咲きは日照・気温ともに関係性は弱くなるそうです。 タンポポの開閉にはタンポポの年令も関係するとの見方があります。 雨の日に咲いているタンポポがあったら、この春最後に花開いているのかもしれません。 2018年04月21日 穀雨 20日は「穀雨(こくう)」を迎えます。 「穀雨」は二十四節気の一で、「 穀物を育てる雨の意」、「 百穀を潤し、芽を出させる雨ということ」です。 「百穀」ですからあらゆる穀物を育てはぐくんでくれます。 田んぼも田植えのために水を張る準備が整い、田植えそこかしこでが始まります。 花壇のチューリップは満開を過ぎて、色とりどりのキレイな花を見せてくれていた花びらをチラシはじめています。 季節は夏に向かって進んでいます。 2018年04月20日 土用 季節は今日から「土用(どよう)」に入り、自然は早くも夏の準備です。 5月5日の「立夏」で、暦の上ではこの日から「夏」になります。 その夏になる前、春からの移行期間が「土用」で、大地は春から夏に向けての準備の始まりです。 野山の草花も咲き、色とりどりの花々が咲き競っていますが、日毎に気温も高くなり、初夏を感じる日もあります。 立夏を過ぎれば、季節は初夏となります。 紫外線は気になりますが、帽子をかぶって屋外で身体を動かしたいものです。 2018年04月17日 田植え 田植えのシーズンを迎え、そこかしこで田植えが始まりました。 これからゴールデンウイークまでに田植えを行うことでしょう。 田植えが始まり、季節が春から初夏に向かっていることを感じます。 間もなくツバメがやってきます。 2018年04月15日 潅仏 今日4月8日はお釈迦様の誕生の日で、その誕生を祝って、甘茶をお釈迦様(誕生仏)の頭から灌ぎます。 これを「 潅仏(かんぶつ)」と言いますが、柄杓で仏像に甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来します。 この甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもします。 2018年04月08日 花まつり 4月8日は、お釈迦さまの誕生をお祝いする「 降誕会(ごうたんえ)」です。 この日には誕生仏(たんじょうぶつ)といって、右手で天を、左手で地を指した小さなお釈迦さまのお像に甘茶を注いでお祝いしますが、甘茶を注ぐので、 潅仏会(かんぶつえ)・ 浴仏会(よくぶつえ)ともいわれます。 しかし、一般には、誕生仏を安置したお堂をきれいな花で飾っておまつりすることから名づけられた「 花まつり」の方が親しみやすいでしょう。 この行事は、お釈迦さまの誕生を喜んだ龍王(りゅうおう)が、甘露(かんろ)の雨を降らせて祝福したという故事にもとづいています。 日本では、推古14年(606)の元興寺(がんごうじ)で最初にこの行事が行われ、以来、承和(じょうわ)7年(840)以降、宮中の恒例行事となって、一般にも広まりました。 2018年04月07日 清明 今日は二十四節気の「清明」です。 『暦便覧』には「 万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と記されていて、「万物ここに至って皆潔斎(けっさい)なり」といわれる季節で、万物がすがすがしく明るく美しいころです。 様々な花々が咲き乱れ、百花繚乱のシーズンになります 2018年04月05日 桜満開 境内の桜が満開となりました。 日本では桜は身近であり、個人の心情や環境に寄り添った存在でもあります。 桜を歌った俳句は多く、それぞれの心持ちに合う俳句があることでしょう。 人里近い山の霞よ、どうか立たないでおくれよ。 (桜が見えなくなってしまうから) 「 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」(前大僧正行尊・小倉百人一首66番)《現代語訳》わたしがあなたをしみじみいとおしいと思うように、あなたもわたしを、しみじみいとおしいと思っておくれ、山桜よ。 花より他にわたしの心を知る人もいないのだから・・・・。 2018年04月04日 桜開花 ヒガン桜は満開を過ぎ、花びらを散らし始めました。 ソメイヨシノの桜前線は、順調に北上を続け、この辺でもようやく開花しました。 この辺でも次々とソメイヨシノが開花しました。 咲き出すとたちまち咲き揃い、たちまちに散るのが桜です。 おそらく今週末が見納めになりそうです。 2018年04月01日 エイプリル 明日4月1日は、「エイプリルフール」で、罪のないウソをついても、かまわない日といわれています。 ヨーロッパでは3月25日が新年で、4月1日まで春の祭りがありました。 1564(永禄7)年、フランスの国王シャルル9世が1月1日を新年の始まりにしたため、4月1日を「ウソの新年」として祝ったことが由来といわれています。 そしていよいよ平成30年度が始まります。 各位それぞれが良いスタートが切れ、充実した良き年度となるよう祈念したします。 2018年03月31日 春分の日 3月21日は「春分の日」で、、 昼夜の長さがほぼ等しい日です。 これから日が一番長い夏至に向けて、毎日1分5秒づつ日が長くなり、そしてまた 毎日1分5秒ずつ日が短くなって、昼夜の長さがほぼ等しい「秋分」になります。 一年間は、正確には「 365. 2421904日」であるために、「春分の日」はその年によって変化します。 昼が長くなり外で活動する時間が日に日に増えてきます。 2018年03月21日 春分 今日から春の彼岸です。 21日の「春分の日」は、「 自然を称え、将来のために努力する日」と法律で定められた祝日ですが、「春分」は昼と夜が同じ長さになる日で、昔の人は、自然に感謝し春を祝福する日だと感じていたようです。 それは、長い間冬眠をしていた動物たちが動き始め、人々もやる気に満ち溢れている時期です。 また、この日の前後にご先祖様への感謝の気持ちを伝えるためにお墓参りに行く習慣(彼岸)もあります。 古来、人々はこの日を春のれを祝う日とし、同時に祖先に感謝をするお祭りを行い、この風習は農村部で長く続いてきました。 明治時代、春分の中日を「春季皇霊祭」と定め、宮中において祖先を祭る日となったのをきっかけとして、一般市民の間でも「祭日」とされました。 2018年03月18日 彼岸 明日から一週間は春の彼岸です。 彼岸は生きている自分たちが、努力して「彼岸」(さとりの岸)に至る精進の日々です。 3月の徳目は「 智慧」ですが、「智慧」も彼岸に努めるべき徳目です。 「智慧」は、 単なる知識だけでなく「物事の正しいあり方を見極める認識力の事」をいいます。 うれしい、楽しい、心地よい、やさしい等のプラスの心情体験、つらい、悲しい、悔しい、我慢する等のマイナスと思える心情の体験は、智慧づくりとなり自分の力で得た知識を智慧に育んでいくのです。 その積み重ねにより真の「賢さ」に繋がります。 「人を幸せにし、自分を幸せにする生き方」は、仏さまの教えです。 2018年03月17日 ふきのとう 初春の味覚、「ふきのとう」を頂きました。 春になって、田んぼの畦などにたくさん出ています。 ふきのとうはカリウムを豊富に含んでいます。 カリウムはナトリウム(塩分)を排泄する役割があり、高血圧に効果があります。 また、足などのむくみをとる作用もあるそうです。 また、苦味成分のアルカノイドは肝機能を強化し、新陳代謝を促進します。 また、ケンフェールは活性酸素などの発ガン物質を抑制する効果があります。 そして、香りの成分フキノリドには、胃腸の働きを良くする健胃効果があると言われています。 苦味や独特の香りにも体に良い成分が含まれていますので、ぜひ初春の味覚を楽しんでみましょう。 2018年03月08日 百花開く 春になり、野山や山里にもたくさんの花々が咲きだしました。 花々は、春の訪れを人間に告げようと咲くのではありません。 人間を喜ばせようと咲いているのでもありません。 花々は、それぞれの生命の赴くままに、無心に咲き、無心に散っていきます。 誰のためでもなく、何の計らいもなく、その姿を誇ることもなく、与えられた場所で、ただありのままに精一杯咲くだけです。 人はあれこれと計らいながら生きています。 「ああしたい」「こうしたい」「ああなりたい」「こうゆう生き方をしたい」と、悩み苦しみ、うまくいかない事、思い通りにいかない人生にもだえながら、不平や不満を抱えて生きています。 計らいを持つことが、人生を悩みや苦しみの淵に運んでゆくのです。 『 碧巌録(へきがんろく)』には、「 百花(ひゃっか) 春至(はるいたって) 為誰開(たがためにひらく)」と示されています。 「 花を見てごらん、花は少しの計らいも持たず、ただありのままに咲いているでしょう。 それぞれの色や形で山野を彩り、私たちを和ませ楽しませてくれているではないか。 」 不平不満やちっぽけな計らいに惑わされず、ただ無心に生きることの尊さを野山の花々は黙って私たちに教えてくれます。 2018年03月04日 ひな祭り 3月3日は「ひな祭り」です。 「ひな祭り」には、「 桃の花」を飾ります。 これは中国では桃は悪魔をはらう木で、3月3日に摘んだ桃の花びらを酒に漬けた「桃花酒」を飲むと、若さと健康を保てるという言い伝えがあります。 そして桃は「 平和の象徴」ともされていました。 また、日本ではよく「白酒(しろざけ)」を飲んで「ひな祭り」のお祝いをしますが、日本では「桃花酒」があまり一般的ではなかったので、代わりに「白酒」が使われるようになったそうです。 そして、桃の花を太陽に、白酒を月になぞらえ、「日と月をまつる」という意味もあるようです。 「ひな祭り」は女の子だけのお祭りではなく、誰もが健康で若々しくありたいと願う行事なのです。 2018年03月03日 弥生 明日から3月になります。 旧暦の3月は「弥生(やよい)」と呼び、新暦3月の別名としても用います。 弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「 木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力ですが、その名の通り3月になると、枯れた草葉も緑色に変わり、新しい息吹を感じます。 3月は他に、花月(かげつ)、嘉月(かげつ)、花見月(はなみづき)、夢見月(ゆめみつき)、桜月(さくらづき)、暮春(ぼしゅん)等の別名もあり、それぞれの名前に春を感じます。 2018年02月28日 三寒四温 冬期に寒い日が3日ぐらい続くと、そのあと比較的温暖な日が4日ぐらい続き、寒暖が繰り返される現象を「三寒四温」といいますが、元は中国東北部や朝鮮でいわれた言葉で,冬は寒い日が3日,暖かい日が4日つづき,寒い時は晴れ,暖かい時は天気が悪くなるということです。 日本の太平洋側でもこの傾向が見られ、シベリア高気圧の勢力が7日くらいの周期で変化し,強くなると寒気が吹き出して気温が下がり,弱くなると暖気が入ってきて気温が上がり,天気が悪くなります。 まだまだ寒い日もありますが、確実に春に近づいていることを感じています。 2018年02月26日 菱餅 今週、3月を迎え年度最期の月となります。 そして、3月は「ひな祭り」です。 そのひな祭りには「菱餅(ひしもち)」を飾ります。 菱餅の白・緑・紅の三色には、それぞれに意味があり「 雪が溶け、草が芽生え、花が咲く」春の訪れの意味が託されています。 また、他の説では、白は「 清浄」、緑は「 邪気をはらう薬草の色」、紅は「 魔除け」の意味があるそうです。 祭礼行事の中に、幸せや平和を願う思いがたくさん託されています。 2018年02月25日 雨水 2月19日は、二十四節気の「雨水(うすい)」を迎えます。 「 空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始め」るころです。 『暦便覧』には「 陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されていて、この時節から寒さも峠を越え、さらに春に近づいている事を実感するでしょう。 2018年02月19日 蒲公英 2月18日は、「蒲公英( たんぽぽ)」の日です。 いよいよ春に近づき、南向きの土手などに「たんぽぽ」が咲きだしました。 「たんぽぽ」の黄色い花は、春の訪れを感じます。 「たんぽぽ」は、キク科タンポポ属の多年草の総称で、全世界に広く分布していますが、日本には「カンサイタンポポ」・「エゾタンポポ」・「シロバナタンポポ」、また帰化植物の「セイヨウタンポポ」など 10種以上あり、一般的に「たんぽぽ」と言えば、「カントウタンポポ」を言います。 その若葉は食用となり、根は生薬で、胃薬やの母乳の出を良くする効用があるそうです。 「たんぽぽ」は、真っ白なふわふわの綿毛が特徴的ですが、その丸い綿毛が、まるで「 たんぽ」のようだということから、「たんぽぽ」の名前がつきました。 花言葉は「思わせぶり」だそうです。 2018年02月18日 春告草 2月も中旬を過ぎ、少しづつ温かくなって、だいぶ春めいて来ています。 早くも春を告げる草と言われる「梅」が咲きだしました。 梅は樹木ですが、「春告草」と言われます。 梅のふくよかな香りを嗅ぐと春の訪れを感じます。 そして、京都北野の梅花祭も始まり、3月ともなれば、「 春告鳥」のウグイスも鳴きだす鳴き始めるのでしょう。 「 み吉野の 春つげ草の 花の色 あらぬ梢に かかる白雲」 2018年02月17日 涅槃 2月15日は、お釈迦さまがお亡くなりになった「涅槃会」です。 お釈迦さまは臨終の際に、「 あなたが亡くなられた後、いったいなにを頼りに生きたらよいのでしょうか?」と弟子たちは問いかけました。 お釈迦さまは、その問いかけに、こう答えています。 『 自灯明、法灯明』と、「 自らを灯火(ともしび)とせよ、法を灯火とせよ」と。 私たちは、時に大きな存在に依存して、判断し決断し前に進むことがあります。 お釈迦さまと修行を供にし、大いなるその指導のもとにいた者がその支えを失ったとき、これから先どう進むべきかと惑いうろたえたことと思います。 「 自灯明」は依存する気持ちを戒めた厳しいお示しです。 自分自身を拠りどころとして、自分自身の責任で進むのです。 自分の信じるものを拠りどころとして、自分の足で歩むのです。 自分を灯火にして進む自信がない者は、「 法灯明」。 仏法つまり仏の教えが灯火となってあなたの足元を照らすでしょう。 「自灯明」で戸惑い悩んだとき、仏様の教えがあなたを導いてくれます。 人生はあなた自身のものです。 だれも足元を照らし続けてはくれません、自分と自らの信じるものを灯火として、一歩一歩しっかりと自分の足元をみつめ歩んでいきましょう。 2018年02月15日 バレンタインデー 2月14日は、「バレンタインデー」です。 田園と牧人の神ルペルクス ファウヌスの別名 をたたえる古代ローマのルペルカリアの祭 2月15日 が起源で、やがてこの祭りが、兵士の自由結婚禁止政策に反対したバレンタイン司教が、ローマ皇帝の迫害により西暦269年に殉教した日を記念した祭日 2月14日 とむすびつけられて出来たものです。 その後、聖バレンティヌスは恋人たちの守護者とされ、この日は恋人たちの愛の誓いの日となったのです。 日本では1958年頃より流行しはじめ、お菓子メーカーの努力によって、女性から男性にチョコレートを贈るという、日本独自の習慣が生まれました。 2018年02月14日 建国記念日 「建国記念日」は、もともとは1872年 明治5 に、[ 紀元節 きぜんせつ ]という名前ではじまった記念日で、「古事記」「日本書紀」の記述にもとづき、 初代天皇とされる神武天皇が即位した日といわれています。 当初は1月29日が祝日にさだめられていましたが、翌73年に、太陽暦の採用にともなう措置として、期日を2月11日に変更されました。 その後、第二次大戦後に廃止されましたが、1966年 昭和41 に「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施されています。 制定当初は、まだ成立したばかりの明治政府首脳が、天皇を中心とした国家支配体制の正当性を内外にしめす必要から制定されたと考えられていますが、現在の建国記念の日は、「 建国をしのび、国を愛する心を養う日」とされています。

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[B! ラノベ] ラノベ【一迅社文庫アイリス】2019年8月発売タイトル・発売日

皇帝 付き 女官 は 花嫁 として 望 まれ 中

鉄舟の妻、英子 ふさこ の述懐からも、「剣禅一如」を求めた鉄舟でさえ、色情を越えるのには苦労したという。 英子と結婚した後(のち)24〜25歳ごろから、鉄舟は、盛んに飲む買うことが激しくなった。 「親族一同が、鉄舟を離縁せよと何度となく私(英子)にすすめてきました。 私は弁護してきました。 しかし鉄舟は気にしなかったので親族から絶縁を言い渡された。 私は心配のあまり一年、患(わずら)った。 三児を抱いて静岡の留守宅を護っていました。 そうして8〜9年もたった頃「放蕩を止めなければ、三児を刺して私も自害します」と泣いて訴えたところ「もう心配させぬ」と。 ようやくきっぱり放蕩が止まった」。 鉄舟、時に33歳。 山岡静山、急死のため望まれて、禄高がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹と結婚して小禄の山岡家の養子となり妹の英子16歳と結婚。 山岡静山の妹の英子 ふさこ も、鉄舟の風格に惚れ込んで「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。 鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それは英子にとって問題ではなかった。 鉄舟の方も「おれのようなものをそれほどまでに思ってくれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因であったという。 (二) 「人は、生死脱得 しょうじだっとく ということを問題にするが、おれは維新のさい弾雨の間をくぐって来たのでさほどに難しいとは思わなかった。 しかし、色情という奴は変なもので、おれは二十一の時から言語に絶した苦心をなめたが、四十九歳の春(明治17年)、庭前の草花を見ている時、忽然(こつぜん=たちまち)、機を忘れる事しばし、ここに初めて生死の根本である色情を裁断することができた。 色情脱得の方がよほど難しかった」と鉄舟は述懐した。 生死は「いきる」「しぬ」ではなく「苦しみ」と訳すのが良く、「苦しみから脱出」と成るが、何からの脱出なのか、「自己 自我 という殻」である。 「自己という肉体」、「自己という精神」からの脱出である。 デヴォン(イングランド南西部の地域)にあるタヴィストックのある屋敷の二人の女中の話によると、ピクシーたちは彼女たちにとても親切で、毎晩、彼らのために綺麗な水を入れたバケツを炉の側に置いておくと、いつもバケツの中にお礼の銀貨を一枚入れてくれるのだということだった。 ところがある日のこと二人がうっかり水の用意を忘れると、ピクシーはさっそく少女たちの部屋まで上がってきて、声高に二人の怠惰をなじった。 少女のうち一人はすぐに下りていってバケツに水を汲んだが、もう一人は面倒がって動かなかった。 そこでピクシーたちはもう一人の少女に与える罰の相談をした。 それから七年間その少女の片足は動かなくなってしまったが、罰の期間が終了すると彼女の足はすっかり治り、まもなく町一番の踊り上手になった。 そして、彼らはその対価として銀貨を置いて去っていくという。 (二)「ピクシーの踊り」 民話より。 森を歩いて道に迷った男が何やら物影で音がするので、覗(のぞ)いて見ると、そこには子供達が楽しそうに踊り歌っていた。 その子供達は一様に鼻と耳が尖(とが)り、幼い子から青年の一歩手前位の少年もいた。 あまりに子供達が楽しそうに踊っていたので男は身を乗り出し、その物影から出て来てしまった。 すると子供達は一瞬、ビックリとしたが、すぐに男を自分たちの所へと招き入れ、一緒に踊ろうと迫ってきた。 男は最初は戸惑っていたが、次第に自分も楽しくなり子供達と一緒になって踊り歌った。 そして男はどの位、時間が過ぎているのかも忘れ踊り、とうとう疲れて寝てしまった。 翌朝、男が目覚めると、そこに子供達は誰一人いなく、そして男が目覚めた場所は森の入り口だった。 (三)「ピクシーの感謝」 民話より。 デヴォン(イングランド南西部の地域)にあるタヴィストックの近くに住むある老婦人は、庭の中に素晴らしいチューリップの花壇を作っていた。 老婦人はチューリップをこよなく愛し、誰にも摘み取らせないようにしていたので、近くに住むピクシーたちの夜の集会所になっていた。 ところが、とうとうこの老婦人がなくなると、チューリップは引き抜かれ花壇はパセリ畑に変えられてしまった。 怒ったピクシーたちは魔力でパセリを全て枯れさせ、庭に何を植えても育たないようにしてしまった。 一方、ピクシーたちは老婦人のお墓を大切にし、毎年春になると色とりどりの花で飾った。 (四)「ピクシーの親切」 民話より。 むかし、貧乏な若い娘が、麦打ちを仕事にしている男と結婚したが、やがてこの男が救いようのない飲んだくれだとわかった。 くる日もくる日も、男はひどく酔っ払って、仕事などできるものではなかった。 とうとう女房は、男の服を着て、亭主の代わりに麦打ちに行った。 ある朝、女房が納屋に入っていくと、前の晩、自分が打ち終えた倍の麦ができあがっていた。 そういうことが何日か続いた。 ありがたいことだが、いったい誰が手伝ってくれているのか、その正体を見たいと思い、女房は夜見張っていようと決心し、夜になると、部屋の隅に身をひそめていた。 あたりが暗くなってほどなくすると、小さな裸のピクシーが、そっと納屋に入って来て、小さな竿を振るって麦を打ち始めた。 ピクシーは働きに働いた。 そして、働きながらこう歌っていた。 「小さなピクシー、色白、ほっそり、身につけようにも、ボロもない」。 女房がピクシーに服を作ってやろうと決心したのも、しごく当然だった。 ピクシーのために小さな上下の服を作り、次の夜、それを納屋に吊しておいた。 その洋服を見ると、ピクシーは飛び上がって喜び、さっそく身につけた。 それからこう歌いながら踊りまわった。 「すてきなピクシー、かっこいいピクシー、ピクシーごきげん、ピクシー今もう、消えなきゃならん」。 そうやってピクシーは、躍りながら納屋を出て行き、もう二度とそこで麦打ちはしなかったという。 仲間に見せにいったのか、ほうびをもらって労働から自由になったのか、それは誰にもわからないことだった。 コーンウォール(イングランドの南西端にある州)などでは、「小さい人々」とも呼ばれ、先史時代に棲(す)んでいた人々の精霊だと信じられており、キリスト教徒でなかったために、天国へも行けず、地獄へも堕ちずに中間のあたりをさ迷(まよ)っているのだと言い伝えられている。 一方、デヴォン(イングランド南西部の地域)の百姓たちは、ピクシーを洗礼を受けないうちに、死んでしまった子供の魂だと信じている。 ピクシーは旅人を迷わせるのが得意で、旅人が道に迷って、同じ場所をぐるぐると歩き回ることをピクシー・レッド(妖精に引き回されるの意)」といい、ピクシー・レッドから逃れるには、外套を裏返しに着るとよいと言われている。 ピクシーは、悪戯(いたずら)とダンスが大好きで、コオロギ、バッタ、カエルの音楽に合わせて踊り、その舞踏会は常に夜行われ、朝になるとその場所には、周(まわ)りより踏みつけられて草の色が濃くなった「フェアリー(妖精)の輪」が残るのだという。 ピクシーは群れを成して生活し、その住処は普通、岩の中であるとされ、月の輝く夜に野原、または岩の中で彼らの王は会議を開き一族に指示を与える。 彼らは大変、義理堅く、よくしてくれた人には必ずお礼をし、その人が死んでからは墓守まですると言われている。 ピクシー翼はしばしば半透明で、彼らは飛んで 地面からの数フィート=1フイートは約30センチ)より高く達することができない 、地面にめったに触れないように翼を使用するという。 ピクシーの外観も地方で異なっていて、コーンウォールのピクシーは小男の老人で、緑のぼろを着ていて、新しい衣服を贈られると大変喜んで、仲間の妖精に見せびらかせるために人間界から姿を消してしまうという(又は、衣服という報酬をもらったのでもう働かなくていいのだと思い、姿を消すのだとも言われている)。 又、デヴォン(イングランド南西部の地域)のピクシーは、小さく色白で、ほっそりとしていて洋服は身に着けない。 だが、新しい衣服を贈られると大変、喜んで仲間の妖精に見せびらかせるために人間界から姿を消してしまうという。 又、サマーセット(イングランド南西部のブリストル海峡に面する州)のピクシーは赤毛で鼻が反(そ)り返り、眼はやぶにらみで口は大きく、緑の服を着ていると言う。 こうしたイングランド南西部の各地に出没するピクシーだが、その性質は、いずれも似通っている。 鉱山に住みついたピクシーは、鉱夫を豊かな鉱脈のある所まで案内することがあるが、反対に一番、悪い鉱石のところへ連れていって、がっかりする様子を楽しむこともあるし、子供を盗んだり、旅人を迷子(まいご)にさせたり、馬を盗んで、乗り回わしたりするなど彼らは実に陽気で悪戯好きなのである。 ティンカー・ベルは、イギリス、スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲「ケンシントン公園のピーター・パン」、小説「ピーター・パンとウェンディ」などに登場する妖精である。 彼女の妖精の粉を浴び、信じる心を持てば空を飛べる事が出来る。 山岡鉄舟は、若い頃から「ぼろ鉄」とあだ名を受けていた。 そして宮中に奉職(明治天皇の侍従)になり、子爵になっても財は蓄えなかった。 いちばん貧乏をしていた時には、着物から家財道具、畳まで売ってしまい、八畳の間に畳三枚だけが残っていた。 そのうちの一枚が鉄舟の書斎となり、あとの二枚で寝たり食べたり客を通したりした。 畳替えもできないので、鉄舟がいつも座るところは丸くくぼみ、やがて床板に届いてしまった。 夜具もまったく無く、売りたくても売れないボロ蚊帳にくるまり、夫婦で抱き合って寒さをしのいでいたという。 「何も食わぬ日が月に七日ぐらいあるのは、まあいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうち半分くらいあることもあった。 なあに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。 これはおれの実験だ。 一心(いっしん)に押して行けば、生きていけるものだ。 お前らもやってみるがよい。 死にはせんよ」と後(のち)に鉄舟は語った。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 (二) こうした極貧(ごくひん)の生活で、鉄舟夫婦は死ななかったが、最初に生まれた子供は母乳が出ずに死んでしまった。 この初めての子供が生まれた時、敷くにも掛けるにも一枚の布団もなくて、鉄舟は自分の着ているものを奥さんに掛けてやり、自分はフンドシ一つで看護した。 奥さんが「それではあんまりひどいから」と着物を着せようとすると「なに、裸の寒稽古をやっているのだ」と押しとどめたという。 こんなに貧乏していても、一分銀三粒を刀に結びつけて決して使わなかった。 幕末の動乱期、どこで死ぬかも知れぬので、武士のたしなみとして自分の死体を始末(しまつ)するだけの金の用意を忘れなかったのであった。 というのも、口の中へ頭を突っ込んでもらって、彼女に骨を抜いて貰おうと考えたからだった。 サギが、骨を抜き出し、約束の金を要求するとオオカミは、牙を光らせて叫んだ。 「何を言ってやがる! お前は、もう俺様から、十分すぎる報酬を受け取ったはずだぞ。 俺様の口から無事に出られたのだからな!」 (悪者へ施す時には、報酬など期待してはならぬ。 もしなんの危害も受けずにすんだなら、それでよしとすべきである) (二)「笛を吹く漁師」 笛の上手な漁師が、笛と網(あみ)を持って海へ出掛けた。 彼は、突き出た岩に立ち、数曲、笛を奏でた。 と言うのも、魚たちが笛の音に引き寄せられて、足下の網に、自ら踊り入るのではないかと考えたからだった。 結局、長いこと待ったが無駄であった。 そこで、男は笛を置き、網を投じた。 すると、一網でたくさんの魚が捕れた。 男は、網の中で跳ね回る魚たちを見て言った。 「なんとお前たちは、ひねくれ者なんだ!俺が笛を吹いていた時には踊らなかったくせに、吹くのをやめた今、こんなに陽気に踊りやがる」 (三)「ヘラクレスとウシ追い」 あるウシ追いが、ウシに車をひかせて、田舎道を進んで行った。 すると、車輪が溝に深くはまり込んでしまった。 頭の弱いウシ追いは、牛車の脇に立ち、ただ呆然と見ているだけで、何もしようとはしなかった。 そして、突然、大声でお祈りを始めた。 「ヘラクレス様、どうか、ここに来てお助け下さい」すると、ヘラクレスが現れて、次ぎのように語ったそうだ。 「お前の肩で、車輪を支え、ウシたちを追い立てなさい。 それからこれが肝心なのだが、自分で何もしないで、助けを求めてはならない。 大神ゼウスとアルクメネとの子。 一二の難業(レルネー湖のヒュドラ退治、黄金の林檎 りんご の獲得、冥界の番犬ケルベロスの捕獲など)をはじめ数多く武勇伝をもつ。 妻の嫉妬からオイテ山上で自らを火葬にふし、のち神となった。 「剣禅一如」の人、山岡鉄舟の開いた「春風館道場」の入門者に対する心構えは次のようであった。 1 無刀流剣術者、勝負を争わず、心を澄まし胆(きも)を練り、自然の勝を得るを要とす。 2 事理(じり)の二つを修行するにあり。 事は技なり理は心なり。 事理一致の場に至る。 是を妙処となす。 3 無刀とな何ぞや。 心の外に刀なきなり。 敵と相対する時、刀に依(よ)らずして心を以(もっ)て打つ。 是を無刀と謂(い)う。 其(そ)の修行は刻苦工夫すれば、たとえば水を飲んで冷暖自知するが如く、他の手を借(かり)らず、自ずから発明すべし。 (二) ある時、「春風館道場」で懐中時計が紛失した。 学頭(統轄者)の中田誠実が調べた結果、某が盗んだことが判明した。 中田は全員を待たせて、山岡鉄舟のところに行き「不都合だから某を破門願いたい」と、鉄舟に訴えた。 鉄舟は「それは待て、泥棒をするなということを、皆にいわなかったのは俺の手落ちだ。 これからは、春風館道場では、嘘(うそ)と泥棒(どろぼう)はしないという規則にしよう」と鉄舟は先ず己(おのれ)の不徳を詫びた。 続けて「悪いことをしたといってすぐに破門するのでは、稽古する必要が無いじゃないか。 破門するのは殺すのと同じ事だ。 悪いのを直すのが稽古なんだ。 おれも目が行き届かないから、君を学頭にしているんだから、俺に代わって良く気をつけて貰いたい」。 中田は、冷や汗をかきながら鉄舟の前をひきさがった。 憤って出て行った中田が、しょげて帰ってきたのをみな変に思った。 中田は紛失した時計にはふれないで「師匠の意見で道場に規則ができたんだ。 うそとどろぼうはしない。 これが新しい規則だ」。 こうして二条が春風館道場の規則となった。 小話898 「駅舎(えきしゃ)の一夜」の話・・・ (一) 孟不疑(もうふぎ)という挙人(きょじん=進士(しんし)の試験に応ずる資格のある者)があった。 昭義(しょうぎ)の地方に旅寝して、ある夜ある駅に泊まって、まさに足をすすごうとしているところへ、*青(しせい)の張(ちょう)という役人が数十人の供(とも)を連れて、おなじ旅舎(りょしゃ)へ乗り込んで来た。 相手が高官とみて、孟(もう)は挨拶に出たが、張は酒を飲んでいて顧りみないので、孟はその倨傲(きょごう)を憤りながら、自分は西の部屋へ退(しりぞ)いた。 張(ちょう)は酔った勢いで、しきりに威張り散らしていた。 大きい声で駅の役人を呼び付けて、焼餅(しょうべい)を持って来いと怒鳴(どな)った。 どうも横暴な奴だと、孟(もう)はいよいよ不快を感じながら、ひそかにその様子をうかがっていると、暫くして注文の焼餅を運んで来たので、孟(もう)はまた覗いてみると、その焼餅を盛った盤(ばん)にしたがって、一つの黒い物が入り込んで来た。 それは猪(しし)のようなものであるらしく、燈火(あかり)の下へ来てその影は消えた。 張(ちょう)は勿論、ほかの者もそれに気が注(つ)かなかったらしいが、孟(ちょう)は俄(にわ)かに恐怖をおぼえた。 (二) 「あれは何だろう」孤駅のゆうべにこの怪を見て、孟(もう)はどうしても眠ることが出来なかったが、張(ちょう)は酔って高鼾(たかいびき)で寝てしまった。 供の者は遠い部屋に退いて、張(ちょう)の寝間は彼ひとりであった。 その夜も三更(さんこう=午後11時〜午前1時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯(ただ)ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。 一人の黒い衣(きもの)を着た男が張(ちょう)と取っ組み合っているのである。 やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲(なぐ)り合う拳(こぶし)の音が杵(きね)のようにきこえた。 孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。 (三) 五更(ごこう=午前3時〜5時)に至って、張(ちょう)はまた起きた。 僕(しもべ)を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟(もう)に挨拶した。 「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚(はなは)だ失礼をいたしました」それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。 そのあいだに、彼は小声で言った。 「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。 昨夜は甚だお恥かしいところを御覧(ごらん)に入れました。 どうぞ幾重にも御内分にねがいます」相手があやまるように頼むので、孟(もう)はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。 別れるときに、張は靴の中から金一*(きんいってい)を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。 (四) 何がなんだか判らないが、孟(もう)は張(ちょう)に別れて早々にここを出発した。 まだ明け切らない路(みち)を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。 その仔細(しさい)を聞きただすと、*青(しせい)の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。 孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗(すこぶ)る奇怪なものであった。 孟がひと足さきに出たあとで、張(ちょう)の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。 あかつきはまだ暗い。 途中で気がついてみると、馬上の主人はいつか行くえ不明になって、馬ばかり残っているのである。 さあ大騒ぎになって、再び駅舎へ引っ返して詮議すると、西の部屋に白骨が見いだされた。 肉もない、血も流れていない。 ただそのそばに残っていた靴の一足によって、それが張(ちょう)の遺骨であることを知り得たに過ぎなかった。 こうしてみると、それが普通の賊の仕業(しわざ)でないことは判り切っていた。 駅の役人も役目の表として賊を捕えるなどと騒ぎ立てているものの、孟(もう)にむかって窃(ひそ)かにこんなことを洩らした。 小話897 「戦乱の宿命に生きた絶世の美女、細川ガラシャ。 その数奇な短い悲運の生涯」の話・・・ (一) 戦乱の世で「容貌の美麗比類なく、精神活発、鋭敏、果敢、高尚で才知は卓越していた」(「日本西教史」より)と言われた細川ガラシャ(本名、細川珠(玉=たま)、又は玉子(たまこ))は、1563年(永禄6年)に、父、明智光秀と母、煕子(ひろこ)との間の三女として美濃に生まれた。 目鼻立ちがくっきりとしていて、玉の様に美しい赤ん坊であったので、父、光秀は珠のように素晴らしい女性に育つと考え、珠(たま)と名付けた。 珠は、幼少の頃から母の苦労と父の汗を見て育った。 清貧の中で両親の夫婦愛を見つめ、そして親の訓育をじかに受けて成長した。 既に7才の頃の珠(たま)について、容貌の美しきことたぐいなく、楊貴妃桜(ようきひざくら=八重咲きの桜で淡紅色に染まる里桜)を見るようなあでやかな美貌、と記録に残っており、利発さと共に、その美しさは7才にして早くも人の目を集めた。 1578年 天正6年=15歳 、珠(たま)は15歳の秋、父の主君、織田信長に勧められて、父、光秀(近江の坂本城主)の盟友であった隣国、山城国勝竜寺城主、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)の嫡男、忠興(ただおき=15歳)と結婚した。 美貌をうたわれた珠(たま)の花嫁行列は、坂本から京に入るや、沿道の見物衆を分けて、京の西郊、勝竜寺城(京都府長岡京市)入った。 この頃、すでに二人の姉は、摂津伊丹城主の嫡男と近江高島城主に、それぞれ嫁いでいた。 忠興(ただおき)は珠(たま)の美貌に心奪われ、とても仲のよい夫婦で、1579年(天正7年=16歳)には長女(於長(おちょう)、のち前野長重の妻となるが出家=安昌院)が、1580年(天正8年=17歳)には長男、忠隆(ただたか=後の長岡休無)が二人の間に生まれた。 1582年 天正10年=19歳 、父、光秀による「本能寺の変」で織田信長が死亡した。 このとき、光秀は以前からの盟友である細川藤孝・忠興父子に加勢を求めたが、すでに丹後宮津城へ「本能寺の変」が伝えられた際に細川家では秀吉の力が強い事を見越し、細川藤孝(幽斎)と忠興は剃髪して信長の死を悼み、光秀に味方しなかった。 「本能寺の変」から12日後に、光秀は羽柴秀吉らの急襲にあい「山崎の合戦」で敗死した。 このため、珠(たま)は「逆臣の娘」となった。 「本能寺の変」が起こった際、細川家の舅(しゅうと)である藤孝は忠興(ただおき)に珠の自害を迫った。 家臣たちも同様だったが、忠興は珠を愛していたがために身を張って父たちに抵抗した。 そして、表向き珠(たま)を離縁し、丹後半島の山奥の味土野(みどの)に匿(かくま)うという事で父たちを説得した。 忠興は妻の珠を生まれたばかりの子供から引き離して、まず明智領の味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後の国、味土野に屋敷を作って、1584年(天正12年=21歳)まで隔離、幽閉した。 この間の1583年(天正11年=20歳)、忠興と珠の次男、興秋(おきあき)が出生した。 隔離、幽閉された間の珠を支えたのは、父、光秀が珠の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(きよはら・いと=公家の清原枝賢の娘)らの侍女達だった。 一方、「本能寺の変」で、逆臣の汚名を着た珠の上の姉と母、熈子は明智秀満(あけち・ひでみつ=明智光秀の重臣)が守る坂本城の落城の中で死に、次の姉も近江の高島城で殺された。 主君、織田信長には、苛烈といわれる気性があり、ある時、斉藤利三(光秀の重臣)の件を巡って信長は自分の命令を聞けと迫り、光秀が信長の意見に逆らった時に、光秀の髪をつかみ床を引きずり回し、廊下の柱に何度も打ち付け、刀で切ろうとした。 この時、光秀は「たとえ一国を失っても利三を手放すことはしない」と抵抗し利三を手放さなかった。 光秀が織田信長に対する謀反(本能寺の変)を計画し、それを秀満(光秀の重臣)と利三だけに打ち明けた。 秀満は賛成したが、利三はその無謀さから反対したが、主君の命令には逆らえず、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなった。 父・範煕(のりひろ)は、煕子と瓜二つの妹を、煕子のふりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。 その後、夫、光秀の本拠の落城、浪人生活、朝倉家・足利家・織田家仕官という多難な日々の中で、煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助け、光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたという。 光秀が重病となった時に、必死に看病したものの、自身がその看病疲れが元で病死したという。 しかし、坂本城落城のときに死亡したという説もある。 1560年、今川義元を桶狭間 おけはざま で破って頭角を現わし、以後、諸群雄を攻め従え、1573年将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させた。 そして、安土城を築いて全国統一に乗り出した。 信長は、家柄・門閥主義の人材登用を無視し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)などの有能な人材を思い切って登用していた。 その一方で、信長は旧室町幕府の家臣であった細川藤孝や明智光秀を登用した。 1582年、天下統一を目前に明智光秀の急襲を受け、本能寺で自刃。 かくして光秀は信長が宿泊していた京都の本能寺を二手に分けて急襲し、信長を包囲、僅かな兵のみに守られていた信長を自害させた。 また二条御所において、信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。 しかし、光秀の軍団に属し、縁戚関係をもつほど親交のあった細川藤孝(戦国の世を生き抜いた藤孝は、明智光秀に天下人の器量があるとは考えていなかった)・忠興父子の協力が得られず、「山崎の合戦」で秀吉軍に敗れ、光秀は居城の坂本城に戻る道すがらに土兵によって命を落とし、光秀の「三日天下」は終わった。 (二) 丹後(京都の北部)の国、味土野(みどの)に屋敷に隔離、幽閉された中、美貌と才知に長(た)け、誇り高く、烈しい性格であった珠(たま)も、優しかった父母の死を嘆いていた。 貧しかった越前の頃、髪を売って夫を助けた母。 そして三人の娘を育て、嫁がせた母は、父の敗北に殉ずるように坂本城落城の火の中で自刃してしまった。 明智一族は滅亡し、一人残されることになった珠(たま)は、父の光秀のことを偲(しの)んだ。 珠の知っている父は、人から誹謗されるような人ではなく、神仏を尊崇し、部下をいたわり、それに誰よりも家族を愛した人であった。 その父が主君である信長を討つには、それだけの理由があるはずであった。 その理由を誰よりも知っていたのは父、光秀の盟友である舅(しゅうと)の藤孝(ふじたか)であり、夫の忠興(ただおき)であった。 にもかかわらず、舅と夫は父を裏切り、秀吉軍について父を追い詰めて敗死させた。 珠はそんな舅と夫を怨み、二人の幼子(おさなご)を思って苦しんだ。 そんな中、親しい侍女、清原いと(きよはら・いと=公家の清原枝賢の娘)によって、珠の心は少しずつ和らいでいった。 「どうしてそなたはそんな穏やかな顔をしていられるのです」という珠(たま)に「天にまします主が見守ってくださっていますから」と侍女は答えた。 清原は京にいた頃、安土のセミナリオ(神学校)に出入りし、切支丹の教えに触れていたのであった。 清原いとは戦乱の中で、山中に捨てられた孤児たちを探しだし、救済する仕事をしていた。 珠は心の安定をキリスト教の教えに求めて、キリストへの信仰に興味を持った。 この味土野には、15戸ばかりの平家の落人(おちゅうど)と言われる人たちが、世間から離れてひっそりと暮らしいた。 ある時、珠(たま)の住まいの庭に、部落の幼い子供がよちよちと歩いて珠に抱かれた。 部落の人たちは、身分の高い珠(たま)が部落の幼子を抱き上げるのを見た。 それ以後、部落の子供たちが多く珠の所に遊びに来る様になり、珠も子供達の為におやつを用意して可愛がったという。 (三) 1584年(天正12年=21歳)、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取りなしもあって、忠興(ただおき)は妻の珠(たま)を細川家の大坂屋敷に戻した。 味土野(みどの)の幽閉を解かれた珠は、子どものいる大阪、玉造の細川屋敷に入った。 しかし、二年余の隔離で、子どもたちが母の顔を忘れていたことが珠を悲しませた。 ある日、忠興からクリスチャン大名として当時、名高かった高山右近の屋敷へ行った時に右近が話したキリスト教の話しを珠は聞いた。 忠興と右近は当時「利休七哲」に共に名を連ねる茶の湯の友達として大変親しくしていた。 忠興が何気なく話した、高山右近の信仰の話しを、キリスト教に関心を持っていた珠が喜んで聞く様子に、忠興はただ珠を喜ばせよう、という一心で、この右近の信仰の話しを伝えた。 「婦人(ガラシャ)は信長を討った明智光秀の娘であり、彼女は霊魂の不滅を否定する日本人のある宗派に属していた。 それゆえ、この婦人は深く憂愁に開ざされ、ほとんど現世を顧みようとはしなかった。 奥方の態度は夫を心配させることが多く、二人はしばしば言い争っていた。 越中殿(忠興)は高山右近殿と親密な間柄であった。 越中殿は右近殿から天主と宗教とに関した種々の話を聞き、この問題について奥方に語った。 それは全く初めて耳にする話であったが、奥方は非常な理解力と聴明とをそなえた人であったから、聞いた事柄をしばしば深く考え、問題をもっと根本的に知ろうと熱望するようになった。 けれども奥方はこの気持ちを少しも夫にもらさずに、憧れを満たすのに好機の来るのを待っていた」(ブレネスティノ書簡 平戸発 1587年 より)。 忠興は決して信仰には入らなかったが、妻の珠には礼拝する部屋を作ってやり、彼女の信仰心については、自由にさせていた。 それは夫、忠興が嫉妬心のために珠を屋敷から外出を許さなかった言い訳でもあった。 そのため、珠は教会へ行こうにも屋敷から一歩も外に出られなかった。 1586年(天正14年=23歳)忠興と珠の三男、忠利(ただとし)が丹後で生れた。 洗礼名ジュスト。 高槻城主・明石城主。 荒木村重・織田信長・豊臣秀吉・前田利家に次々に従ったが、1614年江戸幕府の禁教令で追放され、マニラで没。 1 ある時、夫人が屋根の雀の巣を子どもたちの為に取って欲しいという事で、下男が取りに上がり、誤って屋根から滑り落ちた下男を忠興は見とがめて、不届き者、と言って一刀両断に切り捨て、夫人の袖で血をぬぐった。 夫人は忠興の行為に抗議する意味で、それを着替えず何時までも着ていた所、忠興は「蛇の様に執念深いおなごじゃ」と評した。 それに対して夫人は「鬼の女房には蛇が似合い」と平然として答えたという。 2 ある朝、庭師に何気なく夫人が朝の挨拶の言葉をかけ、庭師がそれに答えた所、忠興はなれなれしいと怒り、庭師のクビを切って落とし、その生首を夫人の食膳の上に載せた。 が、彼女は顔色一つ変えなかったという。 (四) 1587年(天正15年=24歳)1月、羽柴秀吉は豊臣秀吉と名乗り、九州征伐を始め、これに秀吉の信頼篤い忠興(ただおき)も参戦した。 忠興が九州征伐のため大坂を発ったのを見て、珠(たま)はかねてから興味のあった教会へ行こうと心に決めた。 しかし、忠興の命(めい)で厳重な監視下に置かれ外出することは困難であったので、珠は、侍女の清原と相談して病気と偽り部屋に引きこもった。 その後、彼岸(ひがん)でお宮参りをするという口実で侍女たちに混じって屋敷を抜け出し、教会へ辿(たど)りついた。 珠は初めて見る美しい聖堂、そして宣教師の説教に深い感動を受けた。 細川邸に戻った後、珠は宣教師と手紙を通じて、信仰や自ら抱いた疑問などを質問することにした。 等)を発し、司祭たちは大阪を立ち退くことなった。 珠(たま)はその知らせを聞くと、もし秀吉が大坂に帰還後キリシタンを迫害するならば、自分はその婦人たちと共に殉教する準備があることを宣教師に伝え、改めて自身の洗礼を願い出た。 「奥方は、宣教師が(大坂を)出発する前にどうか洗礼を授(さず)けてくれるようにと願ってきた。 そこで宣教師のオルガンティノは奥方を吉利支丹として残しておこうという決意を固めた。 けれども奥方が屋敷から出ることはできなかった。 それ故われわれは秘かにかのキリシタン婦人の一人(清原マリア)に洗礼の要文を託し、洗礼を授ける方法を詳しく教えた。 --------- 奥方は受洗によって非常に励まされ、信仰のために死のうとまでの熱意に満たされて、決心を固めたのである。 奥方はきわめて丁重に礼をのべ、自分の信仰の忠実に関しては十分に安心してくださるようにとわれわれに伝えてよこし、われわれが出発する直前、奥方はさらに多額の銀を施物として贈ってくれ、旅行に最も必要なものを与えてくれた」(ブレネスティノ書簡 平戸発 1587年 より)。 「宣教師たちは清原マリアに洗礼の式を教え、奥方にはもし司祭から受けられない場合は、誰からでも受けられ、それは正当なものであるということを申し伝えた。 こうして奥方は清原マリアから洗礼を受けることができ、それによって非常に満足した。 奥方は信心に満ちあふれて洗礼を受け、清原マリアの手によってガラシア(恩寵、恵み、恩恵)の霊名を受けたのである」(フロイス書簡(有馬発1588年)より)。 (五) 洗礼を受けてからのガラシャ(珠)は、憂欝であったのが明るく元気に、頑(かたく)な烈しい性格は一変して優しい穏やかな性格になり、一家一門の人々も驚くほどだった。 またガラシャと親しいキリシタン婦人たちは、忠興(ただおき)が戦場から帰られて奥方のこういう著しい変化を御覧になったならば、おそらく御自身もキリシタンに帰依なされるであろうと噂した。 しかし、九州から凱旋した忠興は、これを許そうとはしなかった。 そればかりか、切支丹の侍女たちを極刑に処し、珠(たま)にも棄教を迫った。 忠興は、秀吉の切支丹禁令を気にしてのことで、すでにこの頃、宣教師や切支丹大名、高山右近の国外追放や長崎における切支丹処刑が行われていた。 しかし、珠は棄教することには抵抗した。 1588年(天正16年=25歳) ガラシャ(珠)は、宣教師に手紙を送り忠興との離婚を訴えた。 しかし、カトリックは元来離婚を禁じていたし、宣教師の「困難に出会ってこそ、人の徳は最も良く磨かれ美しい光を放つ」との言葉に救われ、又、ガラシャの希望する隠遁生活にも反対し「一つの十字架から逃れる者は、いつも他の大きな十字架を見出す」と説得した。 このころガラシャは、信仰生活にはいっており、屋敷内に孤児達を引き取り、世話をしたり、周囲の人たちへの伝道を行っていた。 ガラシャの感化によって、侍女達の殆ど、又、家臣たち、更に忠興の弟、子供達などが次々と受洗していった。 この年、忠興とガラシャ(珠)との間に娘、多羅(たら)が出生した。 1591(天正19年=28歳) 秀吉の嫡男、鶴松(2歳)が病気で亡くなった。 秀吉は、関白職を養子、秀次に譲った。 1592年(文録1年=29歳) 秀吉は、諸大名に二度目の朝鮮征伐の出陣を命じ、忠興も、朝鮮征伐のため出陣した。 1593年(文録2年=30歳) 秀吉の息子、秀頼が出生した。 そして日本と明が和解し、忠興が朝鮮より帰国した。 1595年(文録4年=32歳)謀反の嫌疑により関白秀次は秀吉の命令で切腹させられた。 前野長重も秀次に連座して切腹し、長重に嫁いでいたガラシャの娘、於長(おちょう)は忠興に預けられた。 又、忠興は、秀次から借金をしていたため秀吉から疑われ、謹慎を命じられた。 そこで忠興は、徳川家康から黄金100枚を借りて借金を返済し、秀吉に於長(おちょう)の助命を嘆願して許され、於長は出家(安昌院)した。 (六) 1598年(慶長3年=35歳)、豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。 秀吉が死んで、切支丹弾圧の嵐もおさまった。 この秀吉の死を喜んだのはガラシャ(珠)や切支丹ばかりではなく、ガラシャの美しさが女好きの秀吉の目に触れることを恐れていた忠興もその一人であった。 1599年(慶長4年=36歳)1月に豊臣秀頼(6歳)は伏見城から大坂城へ移った。 3月に前田利家が亡くなると、秀頼を擁する石田三成と敵対関係にあった武断派の加藤清正など(福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明)の7将が激しく対立した。 その時、仲裁に乗り出した家康により三成と7将の和談が成立した。 この頃、忠興は、ガラシャのために大坂玉造邸内に聖堂を建てた。 やがて石田三成と徳川家康の対立は激化し、細川家では三男の忠利を人質として江戸に送った。 そして、徳川家康から豊後6万石を加増された。 1600年(慶長5年=37歳)、徳川家康が三成派の上杉討伐(「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」)に兵を起こした。 これは関ヶ原の戦いの前哨戦で、その家康に従って行く前に忠興は、三成がガラシャを人質に取ることを恐れて「大阪城に入るな(人質にならず自害せよ)」と言い残した。 一方、石田三成は大阪城下に屋敷を構える家康方の大名から人質を取る事を企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向けた。 そしてガラシャに人質になるよう強要したが、ガラシャはこれを敢然と拒否した。 三成方の兵五百に囲まれ、このことがあることを覚悟していたガラシャは白無垢に着替え、奥の一室にこもった。 そしてガラシャは、キリスト教では自殺が許されないため、老臣の小笠原小斎に命じて薙刀(なぎがた)で胸を突かせた。 小笠原少斎らは屋敷に火を放って切腹した。 「散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ」(細川ガラシャ、辞世の歌)。 享年37歳。 小笠原少斎に胸を突かせた壮絶な死は、かえって石田三成方に衝撃を与え、以後、人質作戦は中止された。 こうしたガラシャの犠牲によって、忠興はじめ徳川軍は後顧の憂いなく戦いを進め、関ヶ原の戦いに大勝をおさめることができた。 五大老---徳川家康(東軍の総大将)、前田利家(跡を継いだ長男、利長は東軍に味方)、毛利輝元(名目上の西軍の総大将)、上杉景勝(西軍に味方)、宇喜多秀家(西軍の主力)。 五奉行---石田三成 (実質上の西軍の総大将)、増田長盛(西軍に参加するも傍観)、長束正家(西軍に参加)、前田玄以(東軍に味方)、浅野長政(東軍に参加)。 又、長年、信仰を共にして来た清原マリアに二人の子供を託し、逃れさせた。 そして、霜と糸という侍女が最後まで残り、この侍女に自分の最後の模様と辞世の句、遺書を忠興や近親の者たちに届ける事を依頼した。 それが現在、「霜女覚え」として、ガラシャ夫人の最後を伝える事となった。 細川ガラシャ夫人の御和歌--- 1 「味土野幽閉中、心の悩みを詠んだと伝わる歌」身をかくす、里は吉野の、奥ながら、花なき峰に、呼子鳥(よぶこどり=カッコウ、又はヒヨドリ)啼く。 2 「村に疫病が流行ったときに詠んだと伝わる歌」いかでかは、御裳濯(みもすそ)川の、流れくむ、人にたらん、疫療の神。 3 「亡くなる前に、忠興に宛てた和歌」さきだつは、同じ限りの、命にも、まさりてをしき、契りとぞ知れ。 又、ガラシャの一周忌をキリスト教形式で行い、その後のキリシタン弾圧でもガラシャの墓石は細川家で手厚く保護された。 長男、細川忠隆の正室の千世は前田利家の娘であった。 忠興の妻ガラシャ(珠)が大坂屋敷で自害した際に千世は脱出して生き延びた。 忠興はこれを咎め千世を離縁して前田利長の前田家と縁を切るよう忠隆に命じた。 しかし忠隆は千世を庇(かば)い離縁を承知しなかったため、忠興は忠隆を追放し廃嫡とした。 そのため後に忠隆は千世と長男を連れて京都で隠居した。 次男の細川興秋は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に味方したため、戦後に父の命を受けて自害した。 実にガラシャの死から98年後のことである。 そしてかなりの数が集まったのだが、少年は、イナゴと間違えてサソリに手を伸ばそうとした。 するとサソリは、鋭い毒針を振り立てて少年に言った。 「さあ、捕まえてごらん。 君のイナゴを全部失う覚悟があるならね」。 (友だちを作るなら、ちゃんと見定めてからにせよ。 見誤って悪い友だちを作ろうものなら、善い友だちを一瞬にして失うことになる) (二)「オンドリと宝石」 オンドリが餌を探していて、宝石を見つけた。 すると、オンドリはこう叫んだ。 「なんと詰まらぬものを見つけたことか! 俺にとっちゃ、世界中の宝石よりも、麦一粒の方がよっぽど価値がある」 (三)「ライオンの御代」 野や森の動物たちは、王様にライオンを戴いていた。 ライオンは残酷なことを嫌い、力で支配することもなかった。 つまり、人間の王様のように、公正で心優しかったのだ。 彼の御代に、鳥や獣たちの会議が開かれた。 そこで彼は、王として次ぎのような宣言をした「共同体の決まりとして、オオカミと仔ヒツジ、ヒョウと仔ヤギ、トラとニワトリ、イヌとウサギは、争わず、親睦をもって、共に暮らすこと……」。 ウサギが言った「弱者と強者が共に暮らせるこんな日を、私はどんなに待ちこがれたことか……」。 ウサギはそう言うと死にものぐるいで逃げていった。 (地上の楽園などこの世にはない) 小話895 「(ジャータカ物語)鹿王ナンディヤ」の話・・・ (一) 昔、古代コーサラ国の初期の都サーケータに、たいへん鹿狩りの好きな王が国を治めていた。 農村の人々にも畑仕事すら禁じて、辺り一帯をすべて鹿狩りに使っていた。 家来も毎日、そのお供をしなければならなかった。 これでは人々は作物一つ収穫できず、生活が不安になっていた。 そこで人々は、寄り集まっては相談した。 「牧場の牛のように、鹿を一つの囲いの中に集めてしまうのはどうだろう」。 「それはなかなかいい考えだ」。 「まずアンジャナ林の庭園を取り巻く門と壁を造り、その中に森の鹿を追い込もうじゃないか」「そうしたら門を閉めてしまい、王さまは好きな時、好きなだけ鹿を殺せばいい」「我々は自分の仕事ができるというものだ」。 こうして、みんなは勢い込んでこの仕事に取りかかった。 このころ、森にはナンディヤという優(すぐ)れた鹿の王(釈迦の前生)がいた。 頭が良く、堂々としていて、たいへん親孝行であった。 ある日、ナンディヤ鹿王と両親が住む藪(やぶ)の近くにも、村人達がやってきた。 ナンディヤ鹿王は両親から村人を引き離すため、おとりになって自分から藪(やぶ)の外へ飛び出した。 村人たちは、ナンディヤ鹿王を捕まえると、他の鹿と一緒に囲われた庭園の中に入れてしまった。 ナンディアヤ鹿王にとって囲いを飛び越えることは、とてもたやすいことであった。 しかし仲間達をおいて自分だけ逃げるわけにはいかないと、囲いの中に残っていた。 それからというもの、王は毎日、鹿を一頭ずつ射(い)殺して遊んだ。 鹿たちは、ただ震えながら自分の順番を待つしかなかった。 みんな食欲をなくし、恐怖の中で毎日を過ごしていた。 だが、ナンディヤ鹿王だけは、落ち着いて池の水を飲み、牧草を食べて堂々と暮らしていた。 彼の順番はなかなか来なかった。 そうやって月日が過ぎていった。 (ニ) 囲われた庭園の外では、ナンディヤ鹿王の両親が、息子の身の上を心配しながら毎日を過ごしていた。 「あの子は象ほどの怪力なのだから、どんなことをしたってわたしたちの所へ帰ってこられるはずなのに」と言う母の言葉に、父もうなずいて言った「あの子は強い足を持っている。 園の柵(さく)など一飛びで越せそうなものだ。 あの子の所へだれかに使いにいってもらおうではないか」。 両親は早速、道で出会った、都へ上る一人の男に伝言を頼んだ。 「わたしどもはご覧のように年老いております。 愛する息子の顔が見たいし、また彼かそばにいてくれないと心細くてたまりません。 あの子が、自分の強い足で柵を飛び越え、早くわたしどもの所へ帰ってきてくれることを願っていると、そう伝えてください」。 男は快く承諾し、サーケータの都へ着くと、早速、鹿が囲われている庭園に出かけた。 そして大きな声で言った「ナンディヤ、園の外でお前の両親はとてもお前を案じているよ。 お前は象にも負けない力があるし、足も強い。 どうして柵を飛び越えて会いにいってあげないのだ。 あんなにお前の顔を見たがっているのに」「わたしは飛び越えたければ、いつでも柵を飛び越えられます。 けれどもそれでは、飲食をさせてくださっている王さまにご恩が返せません。 それに、ここにいる大勢の鹿たちとも長くいっしょに暮らしました。 わたし一人逃げて帰るわけにいかないのです。 わたしは王や仲間の鹿に、なすべきことをなしてから帰ります」とナンディヤは答えて、次のような詩を唱えた「青い草々、飲み水も、すべては王の、くださる物。 どうして黙って、立ち去れよう。 王の射る矢を、身をもって、わたしは笑って、受けましょう。 それで許して、くれるなら、再び母に、会えるでしょう」。 (三) そしてとうとう、ナンディヤ鹿王の順番がやって来た。 王や大勢の家来に見つめられながら、ナンディヤ鹿王は園の片すみにじっと立っていた。 ほかの鹿のように死を恐れ、悲しい声を上げて逃げ回ったりはしなかった。 ゆったりと立ち、彼はまるでなにかを教え諭(さと)しているような威厳に満ちていた。 王はどうしても矢を放つことかできなかった。 鹿の偉大な風格に圧倒されてしまったのだ。 「王さま、どうなさいました。 早く矢をお放ちなさい」と鹿王ナンディヤが凛(りん)とした声で言った。 「鹿王よ、どうしてもわたしにはそれかできないのだ」「王さま、いつも正しい道を歩み、気高い心を持つものの力がお分かりになりましたか」と鹿王はおごそかに言った。 王は心を強く打たれるものを覚え、弓矢を捨てた。 「鹿王よ、わたしを許しておくれ。 命(いのち)のないこんな一本の矢だって、お前の徳の高さを知っていて弓から離れようとしなかった。 それなのに、心というものを持っているわたしが、お前の気高さを感じる力がなかったのだ。 わたしは恥ずかしい。 お前を殺すことなどわたしにはできない」と言って王はナンディヤ鹿王の命を助けた。 また庭園の中で、ただ死を待っていた鹿たちもすべて助けると誓った。 そればかりではなかった。 心を洗われた王は、この森に住むすべての獣、空の鳥、池の魚を安全に守ってやろうと決めたのであった。 明治十三年(1880年)、鉄舟は四十五歳のときに小野忠明七世の孫の小野業雄から一刀流の組太刀を伝承され、一刀正伝無刀流(無刀流)を興し、明治十五年(1882年) 四十六歳で官職(明治天皇の侍従)を辞し自邸の裏庭に「春風館道場」を建立した。 「山岡死亡の際は、おれ(勝海舟)もちょっと見に行った。 明治21年7月19日のこととて、非常に暑かった。 おれが山岡の玄関まで行くと、息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢、人も集まっている。 その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。 おれは座敷に立ちながら「どうです。 先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして「さてさて、先生よくお出でくださった。 ただいまが涅槃(ねはん)の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。 それでおれも言葉を返して「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 通称、麟太郎。 蘭学・兵学を学び、万延元年(1860年)幕府使節とともに、咸臨丸 かんりんまる を指揮して渡米。 幕府海軍育成に尽力。 幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現。 維新後、海軍卿・枢密顧問官などを歴任。 著「吹塵録」「海軍歴史」、自伝「氷川清話」など。 (二) 少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。 その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。 そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。 なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。 絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ」(勝海舟著「山岡鉄舟の武士道」より)。 山岡鉄舟、享年五十三歳。 「山岡鉄舟も、大久保一翁も、共に熱性で、切迫の方だったから、可愛そうに早く死んだヨ。 おれ(勝海舟)はただずるいから、こんなに長生きしとるのサ」(勝海舟「氷川清話」より)。 大きな森に、それぞれ五百頭の群れを率(ひき)いた黄金色のニ頭の鹿王が住んでいた。 その頃、王様は鹿狩りに熱心で、人民に職業を休ませ、多くの人々を召集して、日々狩りに出掛けていた。 人々は「こう頻繁(ひんぱん)に仕事を休ませられては生活に支障をきたす。 王様が狩に出なくても、鹿肉を召し上がることが出来るようにできないものか」と考えた。 そこで彼等は、ニ頭の鹿王が率いる群れを、大きな物音や武器で威嚇して、王様の御苑の中に追い込み、囲いの入り口を閉じた。 王様は囲いの中に、二匹の立派な黄金色の鹿がいるのに気が付き、その二匹の鹿王には、身の安全を保証してやることにした。 それ以来、王様や料理人がやって来て、弓矢で鹿を射ては持ち帰る日々が続いた。 そのため鹿たちは弓矢を見る度に死の恐怖に脅かされて、安心して暮らすことが出来なかった。 そこでニ頭の鹿王は相談して「我々、鹿が殺されるのはもはや逃れられないが、せめて弓矢で射られる恐怖を避けるために、犠牲になる鹿の順番を決め、一日は私の群れから、次の一日は貴方の群れからというように、覚悟を決めた鹿が断頭台に行くようにすれば、傷を負う鹿が最小限にとどまるだろう」と決めた。 (ニ) ある日、片方の鹿王の群れの中の妊娠した牝鹿(めじか)に順番が廻って来て、彼女は鹿王に「私のお腹には子供がおりますので、その子を産んでから当番を受けますから、それまで猶予を頂けないでしょうか?」と懇願したが、自分の群れの鹿王は冷たく拒否した。 そこで牝鹿は、もう一方の鹿王(釈迦の前生)のところに行き、このことを訴えた。 こちらの鹿王は「よろしい、わたしがお前の順番を引き受けて上げよう」と言って、自分が身代わりになった。 料理人がそれを見て王様に報告した。 「鹿王よ、私は貴方の身の安全を保証してあげたのに、何故、断頭台に横たわっているのですか?」と聞いた。 鹿王は事情を説明し「ある者が受けるべき死の苦しみを、私の意向で他の者に被(こうむ)らせるわけにはいきません。 私が作った規則を私自身が破ってしまったら、鹿の群れの規律は完全に乱れてしまいます。 そこで私自身が彼女の死を引き受けることにしたのです」と答えた。 王様は、この鹿王の立派な態度に感銘を抱き「黄金色の鹿王よ、私は今まで人間の中でも、それほどの忍辱・慈悲・憐れみの徳を備えた者を見たことがありません。 貴方のお陰で私の心は清まりました。 お立ちなさい、貴方にも彼女にも安全の保証をあげましょう」と言うと「大王様、私たち二人だけは安全を保証されて、群れの統治ができるのでしょうか?」王は「では皆の命を保証します。 森に帰してあげます」 と約束した。 鹿王が「でも、鹿だけが殺されないで森に住むと、他の動物に申し訳ないと思います」と言うと、王は「自分のことより皆のことを思うあなたの性格が、誠に素晴らしい。 今日から、私の国の全ての生き物の命を、大事に守ってあげましょう。 今日から、殺生をやめます」と、約束した。 その後、鹿たちが人々の穀類を食べても、人々は安全を保証された鹿を乱暴に追い払うことが出来なくなった。 人々は宮廷に集まってこのことを訴えると、王様は「私は信仰心の故に黄金色の鹿王と約束したのであるから、たとえ私が領土を失っても、この約束は破らない」と答えた。 これを知った黄金色の鹿王は鹿たちを集め「これからは人々の穀類を食べて迷惑をかけてはいけない」と諭(さと)し、そして人々には、鹿が入ると困る場所に葉を結びつけて目印にするように言った。 それ以来、どの田にも目印として葉を結びつる風習ができ、そこに立ち入る鹿はいなくなった。 明治五年 1872 鉄舟が三十七歳の時、西郷隆盛のたっての依頼により10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えた。 そして明治天皇の教育に腐心し、それが成ると、10年後に約束通り官職を退(しりぞ)いた。 「やはり明治天皇が偉大な天皇でいらしたという気持ちは強くありますね。 私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。 私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様(明治天皇)を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。 山岡は賊軍であ幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。 そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転(ころ)がしてしまう。 わざと負けてあげて、「お強いですね」と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。 さすが剣と禅の達人であった山岡です。 山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた」(寛仁親王・談)。 若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。 日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。 また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。 しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 鉄舟は、生涯ただの一度も人を斬ることなく、そればかりか、動物に対する殺生さえも戒めた人物で、「無刀流」の極意も「無刀とは、心の外に刀なきなり。 敵と相対するとき、刀によらずして心をもって心を打つ。 これを無刀という」といっているように、刀を使用することを禁じた剣法だった。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従(鉄舟が侍従に任ぜられた鉄舟37才、天皇20 才)になった。 髭をたくわえた容貌から「ヒゲの殿下」の愛称で国民に親しまれる。 一方で良く繊細な面を垣間見せることもあり、若いころは社会福祉に熱心に取り組もうとしても自分の行動が皇族としての身分に制約されることに悩み、結局離脱する事は無かったものの、一時「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせたこともあった。 (ニ) ある時、若き明治天皇が酒の席で、侍従の鉄舟に相撲をいどんだ。 無論、鉄舟は断った。 すると天皇は「それなら座り相撲じゃ」といきなり飛びかかった。 が、剣禅一如で鍛えた鉄舟の体は微動だにしない。 意地になった天皇は、拳をかためて鉄舟の目を突こうとした。 さすがに鉄舟も体をよけたが、そのため天皇はもんどり打って倒れ、顔をすりむき血が滲(にじ)んだ。 さあ大変と、周囲のものが騒ぎ立てて、鉄舟にお詫びしろとすすめた。 だが鉄舟は頑として応じない。 そして、こういった。 「一身は、もとより陛下にお捧げしたものだから眼の一つや二つは惜しくはない。 だが、陛下が酔狂で臣下の眼を砕かれたとあっては、後世「暴君」の汚名を冠せられることになるだろう。 それでは侍従とはいえない。 もし陛下が、拙者の処置がまちがえていると仰せなら、この場を借りて腹かき切ってお詫び申し上げるが、いかが」。 天皇はそれを聞いて「私のほうが浅慮であった」と即座に謝ったと言う。 鉄舟が、10年間の期限を切って侍従に就いたのは、金や名誉のためではない。 ただひたすら名君になってもらいたかったからだ。 だから彼は、その俸禄をほとんど困った人にあげて、自分は死ぬまで清貧を通した人でもあった。 酒は気心許した人と飲むのが一番で、明治天皇の御酒宴に付き合う人は、明治天皇が気を許した人物ということになり、その人物の一人に山岡鉄舟がいた。 片岡侍従が「国家を治める大本は、道徳にありと存じます」。 すると天皇は、鉄舟の意見を求められた。 鉄舟は「恐れながら、法律のみをもって、お治めになりますれば、人民は伊勢の皇大神宮を拝まぬようになりはせぬかと、存じます」と答えた。 小話891 「雪のように白い、美しい娘キオネと二人の神(アポロン神とヘルメス神)」の話・・・ (一) ギリシャ神話より。 北風の神ボレアスは、天に輝く星の神アストライオスと暁の女神エオスの息子で、兄弟に、ゼフュロス(ゼピュロス)、ノトス、などの風の神がいた。 北風の神ボレアスは暴力的な荒々しさを持っていて、彼はある時、アテナイ王エレクテウスの美しい娘オレイテュイアに言い寄るが、拒絶されてしまった。 激怒した北風の神ボレアスは、彼女がイリソス河畔の草原で踊っているのを見つけると、雲に包みトラキアまで連れ去ってしまった。 そこで彼女との間に、カライスとゼテスという双子の息子とキオネとクレオパトラという娘を生んだ。 (二) 北風の神ボレアスの娘キオネの、その名は「雪のように白い」という意味で、14歳の適齢期になると、その美しさに、大神ゼウスの息子である太陽神アポロンと伝令、泥棒の神ヘルメスが彼女に求婚した。 太陽神アポロンは、老婆に姿を変えて彼女に近づき、同じく伝令、泥棒の神ヘルメスは杖で彼女の唇に触れて眠らせて、二人は彼女と無理矢理、関係を結んだ。 そして彼女は、アポロン神の息子であるピラムモン(高名な吟遊詩人でデルポイで開かれる多くの音楽大会で勝利を収めた)、ヘルメス神の息子であるアウトリュコス(嘘と盗みの名人)という双子の神の子を生んだ。 彼女が生んだ双子は神の力を継ぎ、素晴らしい青年に成長した。 キオネはそれに満足し、いつかしか誇らしげになった。 そして、その慢心が彼女の命を落とすことになった。 ある時、月と狩猟の処女神アルテミスと比べて、自分の方が美貌で素晴らしいと口にしてしまった。 それに激怒した月と狩猟の女神アルテミスは、矢を放ちキオネの胸を貫いた。 キオネの死を悲しんだ太陽神アポロンは、彼女を鷹に変えられたという。 又は、神を欺(あざむ)いた男、コリントス王シシュポス) 」の話・・・を参照。 鉄舟は幕府の中堅旗本、小野高福の4男として生まれた。 旗本の子として生まれた鉄舟は、まず神陰流を学んだ。 そして父が飛騨郡代として赴いた際、同行し、そこで北辰一刀流の使い手、井上八郎と出会い、北辰一刀流を学ぶことになった。 父の死によって江戸に戻った鉄舟は、北辰一刀流の玄武館にて本格的に剣術を学ぶことになった。 そこでは「鬼鉄」とよばれて、修行を重ね、講武所の師範代を勤めるほどになった。 それ以前、鉄舟は高橋泥舟の兄の山岡静山に槍をまなんでいたが、静山の急死後、その妹を娶(めと)り山岡家を継ぐことになった。 鉄舟の義兄、高橋泥舟は幕府講武所教授になり、幕臣攘夷派(幕府として外敵を追い払って国内に入れないこと)が泥舟の元に集まって、浪士隊を結成し、上洛する第14代将軍、家茂(いえもち)の護衛として京へ送り込むことにした。 文久三年(1863年)山岡鉄舟は親交の深い清川八郎(きよかわはちろう)と共にその取締役となった。 ところが上洛すると清川八郎は、以後、浪士隊は尊王攘夷派(天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退)のために働くと発言した。 その清川八郎が幕府の刺客に暗殺された後に、山岡鉄舟らの浪士隊は江戸に戻ったが、京に残った一隊は近藤勇らで、後に新選組を結成した。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 庄内藩の郷士の子。 弱冠25歳を以って江戸神田三河町に『清河塾』を開いた。 剣は、千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、後に北辰一刀流兵法免許を得る。 はじめ尊王攘夷運動に参加したが、寺田屋事件に失望して、幕臣攘夷派になり浪士隊結成に参加。 幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺される。 享年34歳。 槍術家で講武所師範役。 鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜 とくがわ・よしのぶ に恭順説を説き、上野寛永寺で慶喜を護衛した。 山岡鉄舟・勝海舟とともに幕末の三舟と称された。 勝海舟は後年、高橋泥舟を評して言った「あれは大馬鹿だよ。 物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守(天皇より従五位下伊勢守を叙任)になった男さ。 あんな馬鹿は最近見かけないね」。 槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛した言葉であった。 (二) 慶応四年 明治元年=1868年 1月の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍が敗れて、2月に時の第15代将軍、慶喜(よしのぶ)は江戸に戻ると、上野大慈院に謹慎した。 やがて、幕府の方針は、主戦論を退けて恭順にきまり、勝海舟が幕府軍の総大将、陸軍総裁に就任した。 その頃、高橋泥舟は、慶喜警護と江戸市中警護を行う精鋭隊を結成した。 将軍慶喜は、恭順の意と江戸城攻撃中止を東征大総督府参謀の西郷隆盛に申し入れる使者として高橋泥舟を選んだ。 しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。 そこで泥舟は、義弟の山岡鉄舟を推薦した。 鉄舟は将軍慶喜に会い、直接命を受けると、それから陸軍総裁、勝海舟を訪れた。 この時のことを山岡鉄舟は「国家百万の生霊に代わって生を捨つるは、素(もと)より余が欲するところなりと、心中晴天白日のごとく一天の曇りなき赤心を抱いて」と自ら記した。 又、勝海舟は薩長の官軍の後ろ盾には、イギリス(フランスは幕府を支援)いることを見抜いていた。 将軍・慶喜が「薩長軍に勝てるか?」との問いに、勝はこう答えた「東征軍は撃退できます。 わざと箱根を越させておいて、海軍を背後に回して東海道を切断する。 そのうえで袋叩きにしちまえば、目先の勝利は請け合いです。 但し、薩長軍は結局は英国の手先だから、英国の後押しがある限り何度でも攻めて来ます。 それじゃどうでも最終的には、こっちの勝ちはありません。 日本が内戦で破滅し、列強侵略を招くだけです。 そんなことになるくらいなら、徳川家の降伏によって国を救う方が立派でしょう」。 (三) 3月5日、勝海舟は山岡鉄舟を呼び寄せて面会した。 時に鉄舟(鉄太郎)三十三歳、勝海舟四十六歳、これが初対面であった。 「旗本、山岡鉄太郎に逢う。 一見その人となりに感ず」(海舟日記より)。 海舟は「徳川家存亡の話」をしたのだが、使者としてもっとも有能な男を彼はそこに発見した。 顔には誠実がみなぎり、頭もよくまわり、死ぬ覚悟もみてとれた。 勝海舟は高く鉄舟を買った。 失敗すると大変なことになるが、この男を使者として行かせ、もしうまくゆかないのなら、誰がいっても同じ事だと感じた。 勝海舟に「何か策はあるのか?」と問われて鉄舟は「臨機応変は胸中にあり」と答えた。 勝海舟は。 旧知の仲である西郷隆盛への手紙を鉄舟に託し「口上での談判はおぬしに一任する。 うまくやってくれ」と言って、案内役に薩摩藩の益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)をつけた。 駿府(すんぷ=静岡市)にある官軍の東征大総督府参謀の西郷隆盛の元へ向かう為だが、沿道には官軍鉄砲隊の兵士たちが警備している中、鉄舟は「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎。 大総督府へまかり通る!」と、大声で名乗りを上げつつ、堂々と通り抜け、この度胸に兵士たちは茫然として誰何(すいか)する者もなかった。 こうして3月9日に山岡鉄舟は、西郷隆盛と会見した。 このとき、西郷隆盛が降伏条件として示したのは、 1 「江戸城を明け渡すこと」 2 「城中の人数を向島に移すこと」 3 「軍艦を渡すこと」 4 「兵器を渡すこと」 5 「徳川慶喜を備前藩(岡山県)へあずけること」の五箇条であった。 鉄舟は条件をもっともだと思った。 しかし、鉄舟は慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しなかった。 「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか?」といって、西郷の顔を睨んで目を離さなかった。 やがて鉄舟の命を賭けた決意が西郷の心を動かし「将軍のこと、この西郷が一身をもってお引き受けいたす」(結局、徳川慶喜は国替えで駿府藩(静岡県)に移された)との確約を得た。 これを受けて3月14日、勝海舟は高輪の薩摩藩邸で西郷隆盛と会い、会談(有名な「江戸城明け渡し会談」)の末、江戸無血開城をなしとげ、江戸が火の海になるのを救った。 幕臣である勝海舟から倒幕の話が出たので、西郷隆盛は驚嘆したという。 勝海舟の使者山岡鉄舟に同行、駿府の官軍本営に赴き、西郷・勝会談の周旋に協力。 鉄舟が出頭すると、村田新八(西郷隆盛に従って国事に奔走)が出てきて言った「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。 その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。 しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。 あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。 他に御用のおもむきはない」。 鉄舟は「それはそうだろう。 わたしは江戸っ子だ。 足は当然速い。 貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別れるたという。 海舟が「それはどういう意味だ?」と問うと「命もいらず、名もいらず、官位もいらず、金もいらぬという人は始末に困る。 だが、この始末に困るような男でなくては、大事はできない。 なぜならば、こういう人はただ単に無欲というだけでなく、日々、道を行っているからだ。 正しい道を歩き続けているからこその自信があって、何もいらぬといえるのである」と西郷が答えた。 (「西郷南州遺訓」より) 小話146 「幕末の三人の男」の話・・・を参照。 そのためには相当の衣食費を賜っておる。 何ぞ別に勲章を受くべき理由はあるまい」と拒絶され、勲章が欲しくて堪らない井上馨(第一次伊藤内閣の外務大臣)が困ったという。 小話889 「王申(おうしん)の禍(わざわい)」の話・・・ (一) 唐の貞元(ていげん)年間のことである。 望苑(ぼうえん)駅の西に王申(おうしん)という百姓が住んでいた。 彼は奇特(きどく)の男で、路(みち)ばたにたくさんの楡(にれ)の木を栽(う)えて、日蔭になるような林を作り、そこに幾棟の茅屋(かやや)を設けて、夏の日に往来する人びとを休ませて水をのませた。 役人が通行すれば、別に茶をすすめた。 こうしているうちに、ある日ひとりの若い女が来て水を求めた。 女は碧(あお)い肌着に白い着物をきていた。 「わたくしはここから十余里の南に住んでいた者ですが、夫に、死に別れて子供はなし、これから馬嵬(ばかい)駅にいる親類を頼って行こうと思っているのでございます」と、女は話した。 その物言いもはきはきしていて、その挙止(とりなし)も愛らしかった。 王申(おうしん)も気の毒に思って、水を与えるばかりでなく、内へ呼び入れて、飯をも食わせてやって、きょうはもう晩(おそ)いから泊まってゆけと勧めると、女はよろこんで泊めて貰うことになった。 (二) その明(あ)くる日、ゆうべのお礼に何かの御用を致しましょうというので、王(おう)の妻が試しに着物を縫わせると、針の運びの早いのは勿論、その手ぎわが実に人間わざとは思われないほどに精巧を極(きわ)めているので、王申も驚かされた。 殊(こと)に王の妻は一層その女を愛するようになって、しまいには冗談のようにこんな事を言い出した。 「聞けばお前さんは近しい親類もないということだが、いっそ私の家のお嫁さんになっておくれでないかね」。 王(おう)の家には、ことし十三になる息子がある。 十三の忰に嫁を迎えるのは珍しくない。 両親も内々相当の娘をこころがけていたのであった。 それを聞いて、女は笑って答えた。 「仰しゃる通り、わたくしは頼りの少ない身の上でございますから、もしお嫁さんにして下されば、この上もない仕合わせでございます」。 相談はすぐに決まって、王の夫婦も喜んだ。 善は急げというので、その日のうちに新しい嫁入り衣裳を買い調えて、その女を息子の嫁にしてしまったのである。 (三) その日は暮れても暑かったが、この頃ここらには盗賊が徘徊するので、戸締りを厳重にして寝ると、夜なかになって王の妻は不思議の夢をみた。 息子が散らし髪で母の枕元にあらわれて、泣いて訴えるのである。 「わたしはもう食い殺されてしまいます」。 妻はおどろいて眼をさまして、夫の王(おう)をよび起した。 「今こんな忌(いや)な夢をみたから、息子の部屋へ行って様子をみて来ましょうか」。 「よせ、よせ」と、王は寝ぼけ声で叱った。 「新夫婦の寝床をのぞきに行く奴があるものか。 おまえはいい嫁を貰ったので、嬉しまぎれにそんな途方もない夢をみたのだ」。 叱られて、妻もそのままに眠ったが、やがて又もや同じ夢をみたので、もう我慢が出来なくなった。 再び夫をよび起して、無理に息子の寝間へ連れて行って、外から試みに声をかけたが、内にはなんの返事もない。 戸を叩いてもやはり黙っているので、王(おう)も不安を感じて来て、戸を明けようとすると堅くとざされている。 思い切って、戸をこじ明けてはいってみると、部屋のうちには怖ろしい物の影が見えた。 それはおそらく鬼とか夜叉(やしゃ)とかいうのであろう。 からだは藍(あい)のような色をして、その眼は円く晃(ひか)っていた。 その歯は鑿(のみ)のように見えた。 その異形(いぎょう)の怪物はおどろく夫婦を衝(つ)き退(の)けて、風のように表のかたへ立ち去ってしまったので、かれらはいよいよおびやかされた。 して、息子はと見ると、唯(ただ)わずかに頭の骨と髪の毛とを残しているのみで、その形はなかった。 小話888 「古代ローマの稀代の悪女。 第4代ローマ皇帝の皇后となり、暴君ネロ皇帝の母親にして、息子(ネロ皇帝)に殺された美貌のアグリッピナ(小アグリッピナ)の生涯」の話・・・ (一) 古代ローマで残忍な悪女として名高いアグリッピナ(小アグリッピナ)は、アウグストゥス帝(ローマ帝国の初代皇帝)の曽孫であり、第4代ローマ皇帝カリグラの妹であった。 西暦15年11月6日、父親のゲルマニクス(第2代皇帝ティベリウスの甥)が、ガリア地方に遠征中、同行した母親アグリッピナ(大アグリッピナ)が、ライン河ほとりのコロニア・アグリッピネンシスという町(現在のケルン)で彼女を生んだ。 父のゲルマニクスは将来の皇帝とみなされていた人物であったが、西暦19年(4歳)に急死した。 ゲルマニクスの妻アグリッピナ(大アグリッピナ)は時の皇帝ティベリウスを殺害の黒幕と信じて憎悪した。 やがてティベリウス帝の側近の陰謀で、アグリッピナの母や兄たちが相次いで国家反逆罪で流刑、投獄され、その後、獄死した。 西暦28年 13歳)、美しい娘となったアグリッピナは、最初の結婚をした。 相手は帝位継承者の一人、アヘノバルブス(母親は大アントニア(初代皇帝アウグストゥスの姪)で、その一人息子)であった。 第2代皇帝ティベリウスがこの結婚の段取りを決め、ローマで新夫婦は祝福された。 西暦37年 22歳)アヘノバルブスとアグリッピナの間に息子が生まれた。 名前はルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(後のローマ帝国第5代皇帝ネロ)であった。 ネロの出産の前後に第2代皇帝ティベリウスが死去して、第3代皇帝にアグリッピナの兄のカリグラ(カリグラは綽名で「小さな軍靴」の意)が就いた。 彼女は結婚していたが、実の兄、カリグラ帝とは近親姦の関係だった。 しかし、夫のアヘノバルブスの死後、アグリッピナはカリグラ帝から疎(うと)まれるようになり、一時期、陰謀、姦通疑惑で流罪にさせられた。 西暦41年 26歳)にカリグラ帝が暗殺され、クラウディウス(アグリッピナの父ゲルマニクスの弟)が第4代ローマ皇帝に就いた。 アグリッピナは流刑地から戻り、裕福な元老院議員のサルスティウスと2度目の結婚をした。 夫には数年後に先立たれたが、2度目の結婚で彼女は夫の莫大な財産を手に入れた。 西暦49年(34歳)、アグリッピナは、クラウディウス帝の3人目の妻メッサリナが放蕩の末に自殺を命じられると、皇帝の信任篤い解放奴隷のパッラス(解放奴隷ナルキッススの同僚)の手助けによって新しい妃に推薦された。 そして同年にアグリッピナは、クラウディウス帝(アグリッピナの叔父)と結婚し、皇帝の妃となった。 当時、叔父と姪の結婚は、ローマの婚姻法では許されていなかった。 そこで法律を改正しての結婚であった。 イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝で、イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ティベリウス帝のことである。 その謀略と男あさり、そして大胆な恋に生きた短い生涯」の話・・・を参照。 (二) 西暦50年(35歳)、皇后となったアグリッピナは連れ子であるルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(改称してネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス)を第4代皇帝クラウディウスの娘オクタウィア(母親はメッサリナ)と婚約させ、皇帝の養子(皇太子)にした。 ネロ12歳の時であった。 赤ん坊のネロは「足から先に母親の胎内を出てきた(逆子=さかご)」で、赤ん坊が生まれたとき、高名な占星学者は「この子はやがて皇帝になって、母を殺すであろう」と未来を占った。 野心家のアグリッピナは感きわまって「皇帝になってくれさえすれば、殺されたって構うものですか!」(博物学者プリニウス)と叫んだという。 この不吉な予言は、やがて事実となった。 又、ネロが3歳のときに、シチリア島の総督であった父親アヘノバルブスが同地で没した。 父親アヘノバルブスは「わたしとアグリッピナのあいだに生まれる子供は、一個の怪物でしかあり得ないだろう」という言葉を残した。 しかし、ネロは元々、皇帝ではなく詩を書いたりする芸術家になりたかったという。 (三) 第4代皇帝クラウディウスは、暗愚で、虚弱で、酒飲みで、食いしんぼうで、腑抜けのような男だった。 それでも彼には妙な才能があって、歴史学を愛好し、エトルリア語を自由にしゃべった。 皇帝としては有能な政策家で、大きな功績を残したが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない男だった。 そのためアグリッピナは、34歳で皇后になると、絶大な権力を掌中におさめた。 彼女は進んで国政に干渉し、元老院の会議にも出席した。 彼女の肖像をきざんだ貨幣が鋳造され、各地方では、彼女の似姿(にすがた)が神のように礼拝された。 又、彼女の嫉妬深さや残酷ぶりも、夫のクラウディウス帝の三度目の妻メッサリナに劣らず非情なものであった。 皇帝がある日、その美しさを讃(ほ)めたというので、皇后アグリッピナは、その貴婦人を翌日さっそく宮廷から追放した。 また、皇帝争奪戦相手だった貴婦人が処刑されたとき、アグリッピナは、わざわざ斬り落された首を目の前に持ってこさせ、本人かどうか確かめたという。 一方で、彼女は自分の一大野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な手を打った。 当時、コルシカに島流しになっていた高名な哲学者セネカをローマに戻し、若いネロの側近として登用した。 又、ブルルス(後の近衛軍団長官)をネロの側近として抜擢した。 こうして「次期皇帝の母」としての絶大な権力を得たアグリッピナであったが、他方で自分の地位がいつ脅やかされるかと、たえず不安に苦しめられていた。 夫のクラウディウス帝には、三度目の妻メッサリナの間に一男一女をもうけていた。 娘のオクタウィア(オクタヴィア)と息子のブリタニクスで、皇帝クラウディウスから見れば、皇后アグリッピナの息子ネロは、赤の他人の子だった。 ここに、彼女の将来に対する大きな不安があった。 皇帝ネロに仕えたが、のちに謀反の疑いを受け、命令によって自殺した。 常に道義を説き、実践哲学を主張。 著「対話篇」「自然問題集」「道徳書簡」など。 (四) このころ皇帝クラウディウスは、アグリッピナと結婚しネロを養子(皇太子)としたことを、大いに悔やんでいた。 そこで妻アグリッピナをしりぞけ、実の子であるブリタニクス(母親はメッサリナ)を後継者に指名する用意をした。 これらを知った皇后アグリッピナは、夫の皇帝を毒殺することに決意した。 西暦54年(39歳)、皇帝の誕生日を祝う宴会が宮中で催された。 そしてクラウディウス帝は、大好物のキノコ料理を食べて死去した。 こうしてネロは母親の期待通り、第5代ローマ皇帝の位に就いた。 16歳のネロ皇帝は即位以後、5年間は、近衛軍団長官ブルルスや、哲学者セネカらの後見を得て、まれに見る善政を敷き、民衆の間にも声望が高かった。 しかし、若いネロ皇帝は、やがて競争相手の義弟ブリタニクスに不信、疑惑の目を向けると共に、皇太后(こうたいごう=皇帝の母)となった母親アグリッピナの後見が堪えがたい重荷になってきた。 しかし、ネロは勝気で気丈な母親に対しては、幼児の時から恐怖心をいだいていた。 このころ若い皇帝ネロが、その母親を怒らせた事件があった。 それは皇太后の寵臣パルラスの追放であった。 皇太后の公然たる愛人パルラスがともすると横柄な態度に出るので、皇帝ネロは思い切って彼を公職から追放した。 ところ、これが皇太后アグリッピナの逆鱗(げきりん)にふれたのであった。 彼女は若い皇帝ネロを面罵し「お前には皇帝の資格なんてありゃしない。 ブリタニクスこそ正統な帝位の継承者です」といって、息子を弾劾した。 これに皇帝ネロはおびえて慄えあがった。 (五) 追いつめられた皇帝ネロは恐怖心から、母親や義弟ブリタニクスを一挙に除いてしまおうと考えた。 ブリタニクスには、昔から癲癇(かんしゃく)の持病があり、ときどき意識を失うことがあった。 西暦55年(40歳)、17歳の皇帝ネロは宴会の席上で、毒物で動かなくなった16歳のブリタニクスについて「どうせ癲癇の発作だろう。 あいつは子供のころから、いつもこうなんだ。 大したことはあるまい」と言って手当てもせずに死ぬまで放置した。 しかし、一両日のうちに、ブリタニクス毒殺の噂は街々にひろがった。 ここにきて皇太后アグリッピナは、我が子である皇帝ネロの権力を怖れる番になった。 「帝が臥輿 ふこし=人を乗せる乗り物 で母と一緒に運ばれる時はいつも母子相姦の淫欲に耽り、その証拠に服に染みをつけていた」(歴史家、スエトニウス)こうして、彼女は皇帝ネロを懐柔し、反撃の機会を狙った。 だが、17歳の皇帝ネロは、母親の重圧をのがれるために、彼女をパラティヌス丘の宮殿から遠ざけてしまった。 政治の舞台から退いた皇太后アグリッピナの家には、皇帝ネロの支配体制に不満をいだく不平分子たちの集会場となった。 皇帝ネロに冷たくあしらわれていた亡きクラウディウス帝の娘オクタウィアも、この家の常連になった。 (六) 皇帝として独立心が芽生えてきた21歳の皇帝ネロであったが、病的なほど臆病だった彼は、なかなか母親を殺害するまでの決心がつかなかった。 だが、皇帝ネロの側近のなかには、かなり以前から強硬意見を主張する者もあった。 一人は、皇帝ネロの学問上の師であった哲学者のセネカで、温厚な哲学者には、野心家のアグリッピナの振舞が嫌悪の的であった。 もう一人は、当時、皇帝ネロが首ったけになっていた愛人(後に妻となる)のポッパエアであった。 妖艶な美女ポッパエアには、是が非でも皇后の地位につきたいという野心があった。 そのためには、皇太后アグリッピナの存在が何より邪魔だった。 こうしたこともあって皇帝ネロは、ついに母親殺害に踏み切った。 西暦59年(44歳)、皇帝ネロは母親アグリッピナと共に、ナポリに旅行して近郊のバイエアの別荘で母親をもてなした。 そして帰る時、アグリッピナは皇帝ネロが用意した豪華船で帰ることになった。 ところが、豪華船は途中で沈没した。 皇帝ネロは皇太后アグリッピナを溺死させようとしたのだったが、アグリッピナが泳ぎが達者だったことで失敗した。 アグリッピナは九死に一生を得たことを伝える使者を、皇帝ネロの元に派遣した。 だが、皇帝ネロは使者が短剣を所持しているのを理由にして、皇太后アグリッピナが刺客を送り込んだと罪を着せた。 皇帝暗殺の容疑をかけられた皇太后アグリッピナは、邸宅で皇帝の派遣した近衛兵によって殺された。 殺されるときに、近衛兵たちに向かって、皇帝ネロの母親であるアグリッピナは「お腹を刺すがいい。 皇帝はここから生まれたんだから!」と叫んだという。 享年44歳。 (参考) ---------------------------------- (皇帝ネロの後日談) (一) 母親アグリッピナの支配から解き放された皇帝ネロは、次第に残虐、凶暴な性格を現わすようになっていった。 皇帝ネロとその妻オクタウィア(オクタヴィア)の夫婦関係は良くなかった。 そのため皇帝ネロは、若い頃からの遊び仲間であった親友のオト(のちのローマ皇帝)の妻ポッパエアと愛人関係にあった。 西暦62年(24歳)、皇帝ネロは皇后オクタウィアに対し、不妊を理由に離婚を言い渡した。 そして、さらに不倫、姦通(ポッパエアの陰謀による)の罪で皇后オクタウィアを処刑してしまった。 その後、夫のオトと離婚したポッパエアと正式に結婚した。 義弟(ブリタニクス)・実母(アグリッピナ)・妃(オクタウィア)の殺害を貫いた皇帝ネロの姿を見て、側近で皇帝の補佐をしていた哲学者セネカは身の危険を感じ引退した。 その上、同年(西暦62年)に同じく皇帝の補佐をしていた近衛軍団長官ブルルスが没したことで、皇帝ネロの良き指導者の二人は姿を消した。 以後、皇帝ネロは、悪臣の近衛軍団長官ティゲリヌスを重用するようになり、ローマの国政は大いに乱れて行った。 (二) こうした中、西暦64年(26歳)にローマで大火がおこり、市の大半が焼失した。 皇帝ネロは陣頭指揮をとり、民家や道路なども含め、急ピッチで 再建がおこなわれた。 しかし、この時かねてより計画していた「黄金宮殿」の建築を始めてしまった。 火事からわずか2年ほどで、以前よりも美しいローマの街が甦(よみがえ)った。 しかし、ローマ市民は皇帝ネロが「黄金宮殿」の建設を口実として、放火したと噂するようになった。 この噂を抑圧するため、ネロ帝は当時、増えつつあったキリスト教徒に目を向け、大火の責任を彼らに転嫁した。 この時代の皇帝は、現人神(あらひとがみ)として崇拝(皇帝崇拝)する観念を重んじ、皇帝の権威は絶大なものであった。 皇帝崇拝を拒否すると謀反罪に問われるため、キリスト教徒は、常に標的(又、一神教のキリスト教は、多神教であり他の宗教に対しても寛容だったローマの敵)となっていた。 皇帝ネロは皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒を謀反とみなし、未曾有の弾圧(「処刑はまるでスポーツのようだった。 信者は野獣の皮をかぶせられ、猛犬にかみ殺された」(タキトゥス))を行った。 キリスト教の始祖イエスの十二使徒の一人ペテロや、十二使徒ではないが伝道に尽力したパウロらは、この迫害で殉教した。 西暦65年(27歳)、皇后ポッパエアは第2子(第1子は生後、数カ月のちに夭折)を懐妊中、ネロの放蕩に我慢ができず激しく口論した。 そしてネロは、怒りのあまり彼女の腹部を蹴り上げて殺してしまった。 皇帝ネロは悲嘆にくれ、皇后ポッパエアの死後は、ポッパエアに酷似した解放男性奴隷スポルス・サビナを去勢し、花嫁衣装に身を包んだスポルス・サビナと荘厳な結婚式を挙げ、彼を女王と呼ばせた。 こうして、皇帝ネロの性格破綻はますます顕著になっていった。 同じ年には元老院議員のネロ帝暗殺の陰謀が発覚し、これに加担した多数の人物を処刑した。 かつての皇帝の補佐役、哲学者セネカも事件に関与したとして、皇帝ネロに自殺を強要されて、死に至った。 この事件によってネロ帝の恐怖政治は一層エスカレートし、属州(イタリア半島以外の征服地)に重税を負担させ、富裕者から財産を略奪し、拒む者は処刑された。 皇帝ネロに代わる次期皇帝候補の人物も次々に殺して行った。 西暦68年(30歳)、ガリア(現フランス地方)の総督が反乱を起こした。 これがヒスパニア(現スペイン地方)に波及し、同地のガルバ総督が挙兵しローマに進軍した。 そして、この年、ガルバは皇帝即位の宣言を行い、元老院はこれを認め、ネロを「国家の敵」とみなし、ネロ本人が不在のまま「死刑」を宣告した。 元老院、軍隊、市民から見放されたネロはローマを逃れ、西暦68年6月8日、「世界は偉大なる芸術家を死して失う」と泣きながら自殺した。 享年30歳。 死後、ネロの墓参りをして花を供える人々は、長い間、絶えなかったという。 又、ギリシャを初めとする属州ではネロは人望があり、死後もネロを名乗る人物が後を絶たなかったという。 立ち去れ、母親殺しめ。 73という数字が、そなたの没落のときを告げよう」。 皇帝ネロは、73という数字が自分が死ぬときの年齢だと思ったが(当時彼は29歳)、巫女の言葉に激怒し、神官の手足を切り落したあとで、彼らとともに巫女を生き埋めにしてしまった。 その翌年、皇帝ネロは反対派を抑えることができずにローマから逃げ出し、自殺した。 ネロの後継者には、ガルバが選ばれ、そのとき、ガルバは73歳であったという。 当時の有名な書家である長三州は、山岡鉄舟が一日に五百枚、千枚でも書いてしまうことを聞いて「そんなに書けるものではない」と信じていなかった。 それを聞いた鉄舟は「長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけもない」(うまく書こうなどと思わず無心に書いた)と答えた。 山岡鉄舟は一生、赤貧(せきひん)洗うが如くであったが、揮毫(きごう)することにより、社会公益事業、教育事業、災害救助、各寺院の復興をした。 揮毫したときの謝礼を、これらに充てることにより寄付行為をしたのであった。 鉄舟は、揮毫の謝礼を頂くと「ありがとう」といって快く受け、そのまま本箱の中にしまった。 その後、困ったものが来て救助を頼まれると、自身で玄関に出ていきその実状を見て、例の本箱の中より、相応の恵みをした。 鉄舟門下の千葉立造がこれを見て「先生は、ご揮毫のお礼をみんな人におやりになってしまうのですか?」と質問したところ「字を書いて礼を取る気持ちはないが、困っているものにやりたいと思っているから、頂ければそのまま有り難く頂戴しているのだ」と答えた。 ある人が鉄舟に「海舟さんや泥舟さんは大いに自重されているが、先生のように無造作に揮毫されていると書の値打ちがなくなりなりますよ」と言うと鉄舟は「おれのような者にも頼む人がいるので、断るのも悪いから書いているのであって、書を売るのではないから値打ちがあろうがあるまいが関係ない」と気にかけなかった。 鉄舟の書は、年齢に応じて変化してきたので「活(いき)きている」といわれていた。 又、揮毫の一枚一枚に対し「衆生無辺誓願度 しゅじょう・むへん・せいがんど=生きとして生きる物をすべて救済するという誓願 」と唱えながら書いたという。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 鉄舟の書を初めて見たときに「これ程の達者とは思わなかった」と述べ「草書では三百年来の書き手であると感嘆」しのている。 鉄舟の書は本物であった。 特に、知名人が頼まれて書をかくこと。 勝海舟は理知の人、山岡鉄舟は情熱の人、高橋泥舟は士道の人とも言われた。 (ニ ある時、山岡鉄舟のところに牛屋(牛肉屋)が、店の看板の揮毫(きごう)を依頼しにやって来た。 すると門人達は立腹して「不届きの牛屋め、恐(おそ)れおおくも鉄舟大先生に対して、貴様のところの看板を書けとは何事だ。 無礼極まる」とその軽率をとがめた。 すると蔭からその声を聞きつけた鉄舟は、直ちに彼らを止めて「何かまわん、わしが書いた看板で商売の繁盛(はんじょう)ができたら、この上もない結構なことだ」と言って、直ちに書いてやり「拙者は書を商売にするものではない。 書いてくれという者には、誰でも書いてやる。 露店の看板でも、出産届けでも、手紙でも証文でも何でも書いてやる」と言ったという。 又、ある日、鉄舟が柳原を散策していると、鉄舟自筆の書が骨董店に並んでいた。 しかし一見して贋物だということがわかったが、よくよく見てみると筆意玄妙(ひついげんみょう)、はるかに自分に勝るところがあり、鉄舟は感心してこれを買い求め、我が居室に飾ったという。 山岡鉄舟は45歳で大悟し、49歳で更に悟りを深めた。 以後、亡くなるまでの8年間で百万枚を揮毫したという。 鉄舟自身、国民全員に一枚づつ渡すつもりだったというからその気概は凄い。 日本の人口が当時 3500万人だった。 又、鉄舟は幼少の8、9歳のころから母に習字を学び、11歳より富田鉄斎に、習字と素読を。 15歳で岩佐一亭に書法を学んだ。 ネズミが顔を駆け抜けたのだ。 ライオンは、いきりたってネズミを捕まえると殺そうとした。 ネズミは、必死に哀願した。 「命を助けて下されば、必ず恩返しを致します」。 ライオンは、鼻で笑ってネズミを逃がしてやった。 それから数日後、ライオンは、猟師の仕掛けた網にかかって動けなくなってしまった。 ネズミは、ライオンのうなり声を聞きつけると、飛んで行き、歯でロープを、ガリガリとかじり、ライオンを逃がしてやった。 ネズミは、得意になって言った。 「この前、あなたは私を嘲笑しましたが、私にだって、あなたを、助けることができるのですよ。 どうです。 立派な恩返だったでしょう?」。 (二)「炭屋と洗濯屋」 あるところに、働き者の炭屋が住んでいた。 ある日のこと、炭屋は友人の洗濯屋にばったり出合った。 そして洗濯屋に、自分の所へ来て、一緒に住まないか? そうすれば、家計は助かるし、一生楽しく暮らせるからと熱心に誘った。 すると、洗濯屋はこう答えた。 「私は、あなたと住むことなどできません。 だって、私が洗濯して、白くしたそばから、あなたは、黒くしてしまうでしょうからね」。 (水と油は混ざらない) (三)「父親とその息子たち」 その男には、息子が大勢(おおぜ)いたのだが、兄弟喧嘩が絶えず、いつもいがみ合ってばかりいて、父親が止めても、喧嘩をやめないというありさまだった。 この期に及んで、父親は、内輪もめが如何に愚かなことであるかを、教え諭さなければならぬと痛感した。 ころ合いを見計らって、男は息子たちに、薪(まき)の束を持ってくるようにと言いつけた。 息子たちが薪の束を持って来ると、男は、一人一人にその束を手渡し、そして、それを折るようにと命じた。 息子たちは、懸命に力を振り絞ってみたが、薪の束はびくともしなかった。 そこで、男は、束をほどくと、今度は、一本一本バラバラにして、息子たちに手渡した。 すると息子たちは、たやすく薪を折った。 そこで、彼は息子たちに、こんなことを語って聞かせた。 「よいか、息子たちよ。 もしお前たちが、心一つに団結し、互いに助け合うならば、この薪の束のように、どんな敵にもびくともしない。 しかし、互いがバラバラだったなら、この棒きれのように、簡単にへし折られてしまうのだ」。 小話885 「空から落ちた久米仙人」の話・・・ (一) 今は昔、大和国吉野郡に竜門寺という寺があった。 寺には二名の者がこもり、仙人になる修行をしていた。 その仙人の名を、一人は「あづみ」と言い、もう一人を「久米」と言った。 その後、あづみは先に修行を成し遂げ、飛んで空に昇って行ってしまった。 続いて久米も仙人となり、空へ昇り飛んでいると、吉野川のほとりに、若い女が衣を洗っていた。 衣を洗おうと、女はふくらはぎまで裾(すそ)をめくりあげると、ふくらはぎのその白さを見て、久米は心けがれてその女の前に墜落した。 その後、その女を妻として暮らした。 久米の仙人修行の様子は菅原道真(すがわら・みちざね)によって竜門寺の扉に記されている。 それは消えずに今もある。 その久米の仙人は、ただの人になり下(さ)がり、馬を売ったときには証文に「以前は仙人だった、久米」と書いて渡した。 宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。 901年、藤原時平の讒訴 ざんそ で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。 没後学問の神天満天神としてまつられた。 (二) それから、久米の仙人は、その女と夫婦暮らしをしている頃、天皇が、その国の高市郡に都を造ることになり、大和国の人足を集めてとりかからせた。 そのとき、久米も人夫として駆り出された。 他の人夫たちは、久米を「仙人、仙人」と呼ぶ。 役人の者たちが、それを聞き「お前たちはなぜその男を仙人と呼ぶのか」と尋ねた。 光明皇后とともに仏教を厚く信仰。 全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した。 (三) 役人らは、それを聞き「では、ただ者ではないのだな。 もとは、仙術の修行をして一度は仙人となった者だ。 その徳は失われてはおるまい。 それなら、このたくさんの材木を自分たちで運ぶよりは、仙術でもって飛ばさせればよかろう」と冗談半分に言っているのを、久米が聞き「私は仙術を忘れ、ずいぶん時が経ちます。 今はただの人間に過ぎません。 そのような霊験は施せないでしょう」と言った。 それでも、心の中では、「私は仙術を会得したといえども、凡夫の愛欲のために、女性に心を穢(けが)してしまい、もはや仙人とはなれまいが、長い年月、身を修めた法だ、ご本尊もお見捨てにはなるまい」と思い、役人らに向かって「しかしながら、できるかどうかわかりませんが、試しに祈ってみましょう」と言った。 役人は、これを聞き「なんてことを言う奴だ」と思いながら「まことに貴いことだ」と答えた。 (四) その後、久米はとある静かな道場にこもり、心身を清め、断食を行い、七日七晩の間、休むことなく礼拝を続け、心をひたすらこめてこれを祈った。 そうして、七日が過ぎた。 役人らは、久米の姿が見えないのを、笑ったり、疑ったりしていた。 そして、八日目の朝になると、にわかに空が掻(か)き曇り、闇夜の如くなった。 雷は鳴り、雨が降り、何ひとつ見えなくなってしまった。 それを不思議に思っていると、しばらくして雷は止み、空が晴れてきた。 そのとき見れば、大きなものから小さなものまで多くの材木が、皆、南の山の斜面の材木置場から空を飛び、都を造るところへと行ったのだった。 そのときに、多くの役人たちは、敬(うやま)い貴(とうと)んで久米を拝んだ。 その後、このことは天皇にも伝えられた。 天皇もこれを聞き、貴び敬い、免田三十町を久米に与えた。 久米は喜び、その田(免田)によって、その郡にひとつの伽藍(がらん)を建てた。 久米寺というのが、それである。 その後、高野山の弘法大師(空海)が、その寺に丈六(じょうろく=4. 85メートル)の薬師三尊を、銅で鋳造して奉った。 大師は、その寺で大日経を見つけ、これぞまさしく「速やかに仏となるべき教えである」として、唐へ真言密教を習いに渡ったという。 こうした経緯から、立派な寺である、と語り伝えられているという。 85メートル)・・・仏陀の身長と伝えられ、仏像最大の大きさとされる。 それ以上のものは「大仏」。 以下、原文。 「今昔、大和国、吉野の郡、竜門寺と云寺有り。 寺に二の人籠り居て仙の法を行ひけり。 其仙人の名をば、一人をあづみと云ふ、一人をば久米と云ふ。 然るに、あづみは前に行ひ得て既に仙に成て、飛て空に昇にけり。 後に久米も仙に成て、空に昇て飛て渡る間、吉野河の辺に、若き女衣を洗て立てり。 衣を洗ふとて、女の脛まで衣を掻上たるに、脛の白かりけるを見て、久米心穢れて其女の前に落ぬ。 其後、其女を妻として有り。 其仙の行ひたる形于竜門寺に其形を扉に北野の御文に作て出し給へり。 其れ不消して于今有り。 其久米の仙、只人に成りにけるに、馬を売ける渡し文に「前の仙、久米」とぞ書て渡しける。 然る間、久米の仙、其女と夫妻として有る間、天皇、其国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内に夫を催して其役とす。 然るに、久米其夫に被催出ぬ。 余の夫共、久米を、「仙人々々」と呼ぶ。 行事官の輩有て、是を聞きて云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。 夫共答て云く、「彼の久米は、先年竜門寺に籠て仙の法を行て、既に仙に成て、空に昇飛渡る間、吉野河の辺に、若い女、衣を洗ひ立てりけり。 其女のかかげたる脛白かりけるを見下しけるに、(欲を生じ、女の)前に落て、即ち其女を妻として侍る也。 然れば、其れに依りて、仙人とは呼ぶ也」。 行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。 本、仙の法を行て既に仙人に成にける者也。 其行の徳定めて不失給。 然れば、此の材木多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て空より飛めよかし」と戯れの言に云い合へるを、久米聞きて云く、「我れ仙の法を忘れて、年来に成ぬ。 今は只人にて侍る身也。 然計の霊験を不可施」と云て、心の内に思はく、「我れ仙の法を行ひたりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ、年来、行ひたる法也、本尊何か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。 行事官、是を聞て、「嗚呼の事をも云ふ奴かな」と乍思、「極て貴かりなむ」と答ふ。 其後、久米一の静なる道場に籠り居て、心身清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此事を祈る。 而る間、七日既に過ぬ。 行事官等、久米が不見る事を且は咲ひ、且は疑ふ。 然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り、暗夜の如く也。 雷鳴り雨降て、露物不見え。 是を怪び思ふ間、暫計有て雷止り空晴れぬ。 其時に見れば、大中小の若干の材木、併ら、南の山辺なる杣より空を飛て、都を被造る所に来にけり。 其時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す。 其後、此事を天皇に奏す。 天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田三十町を以って久米に施し給ひつ。 久米喜で、此の田を以て、其郡に一の伽藍を建たり。 久米寺と云ふ、是也。 其後、高野の大師、其寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。 大師、其寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に可成き教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。 落語の三遊亭円朝は、江戸から明治にかけて生きた落語家で、名人としてその名を歴史に残した。 しかしそんな不世出の天才と言われる円朝も、初めから、すごい噺家(はなしか)だったわけではなかった。 彼も自分の芸を磨いているうちに、自分の限界に差し掛かかった。 それで座禅を組むようになり、偶然、「剣禅一如」の剣客、山岡鉄舟と知り合う機会を得た。 ある時、鉄舟が円朝に言った「あんたは噺家(はなしか)らしいが、わしは子供のとき母から桃太郎の話を聞いて実に面白かった。 おまえ、ひとつ、今日は桃太郎を一席語ってくれんか?」。 この申し出に円朝はためらった「なんで今、この俺が、桃太郎のような昔話をしなきゃならないんだ!」と円朝は結局、鉄舟の言った桃太郎の話をしなかった。 江戸の人。 人情噺 ばなし を大道具・鳴り物入りで演じて人気を博したが、のち素噺 すばなし に転向。 近代落語の祖。 代表作「真景累ヶ淵」「怪談牡丹灯籠」「塩原多助一代記」など。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 だが、高橋泥舟は何か円朝の噺に物足りなさを感じ、そこで義弟の山岡鉄舟に相談に乗ってやれ、と頼んだことがきっかけであったという。 (ニ) 山岡鉄舟が帰っても、円朝の頭の中では「桃太郎」の噺(はなし)が引っかかっていた。 「なぜ?俺に桃太郎なんだ?」と疑問を抱くつつ円朝は、自分で桃太郎を、手直して、高座でも演じるようになった。 そして大衆には好評を博した。 そこで鉄舟に会った折りに「山岡様、この前、できなかった桃太郎の噺をさせてください。 是非、聞いてもらいたいんです」と言った。 すると山岡は眼光(がんこう)鋭く、小柄な円朝をにらみ据えて、こう言った「もういいですよ。 あの時は、母親が、昔話してくれた昔話を、有名な噺家のあんたさんが、どう話すか、聞いてみたかったんですよ。 ただね、円朝さん、舌で話してはいけませんよ」。 またしても、円朝は、ショックを受けた。 その証拠に彼は、その後、一言も声が出せなかった。 円朝の心は揺れた。 「時節を逃したってことか?それに舌で話すなって、いったいどんな意味なんだ。 口や舌で話さないで、どこで話すと言うんだ、いったい?」と円朝と迷いに迷ってしまった。 (三) しかしそんなこととはお構いなしに、円朝の人気は、ますます高まっていった。 だが円朝の頭の中では、常に「舌で話すな」という鉄舟の言葉が、引っかかっていた。 ついには頭の中が、真っ白になって鉄舟を訪ねて、頭を下げた「先生、どうか、あっしを弟子にしてやっておくんなさい。 どうすれば舌を使わない噺(はなし)ができるようになるでしょうか?」。 山岡は、即座に、ただ一言「無」と答えた。 この「無を発する時点で、鉄舟自身は、円朝が、近々(きんきん)悟りを開いて、本当の名人になることを分かっていた。 だから「無」という問いを最後に与えたのであった。 それから二年の間、円朝は、無心になって、座禅を組み、己の舌を無くす修行に取り組んだ。 すると答えは、向こうから、自然にやってきた。 「舌で語るからいけない。 心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」と、どこからか、そんな言葉が聞こえてきた。 そしてその成果を、鉄舟に披露する時が来た。 もちろん噺は「桃太郎」だが、鉄舟は噺など聞いていない。 ただ心の眼で、じっと円朝の心を観ていた。 そして「円朝さん、今日の噺はいいね。 実にいい。 真がある」と言った。 後(のち)に山岡鉄舟は、天竜寺管長の由利滴水禅師(鉄舟に禅の指導をした)と相談し、三遊亭円朝に「噺家は舌をなくしてこそ名人」と言って「無舌居士」という法名を与えた。 そして円朝の墓銘には、生前の山岡鉄舟が書いて与えた「三遊亭円朝無舌居士」という字が並んでいるという。

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皇帝つき女官は花嫁として望まれ中」コミックがスタートします!|奏多の活動報告

皇帝 付き 女官 は 花嫁 として 望 まれ 中

鉄舟の妻、英子 ふさこ の述懐からも、「剣禅一如」を求めた鉄舟でさえ、色情を越えるのには苦労したという。 英子と結婚した後(のち)24〜25歳ごろから、鉄舟は、盛んに飲む買うことが激しくなった。 「親族一同が、鉄舟を離縁せよと何度となく私(英子)にすすめてきました。 私は弁護してきました。 しかし鉄舟は気にしなかったので親族から絶縁を言い渡された。 私は心配のあまり一年、患(わずら)った。 三児を抱いて静岡の留守宅を護っていました。 そうして8〜9年もたった頃「放蕩を止めなければ、三児を刺して私も自害します」と泣いて訴えたところ「もう心配させぬ」と。 ようやくきっぱり放蕩が止まった」。 鉄舟、時に33歳。 山岡静山、急死のため望まれて、禄高がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹と結婚して小禄の山岡家の養子となり妹の英子16歳と結婚。 山岡静山の妹の英子 ふさこ も、鉄舟の風格に惚れ込んで「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。 鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それは英子にとって問題ではなかった。 鉄舟の方も「おれのようなものをそれほどまでに思ってくれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因であったという。 (二) 「人は、生死脱得 しょうじだっとく ということを問題にするが、おれは維新のさい弾雨の間をくぐって来たのでさほどに難しいとは思わなかった。 しかし、色情という奴は変なもので、おれは二十一の時から言語に絶した苦心をなめたが、四十九歳の春(明治17年)、庭前の草花を見ている時、忽然(こつぜん=たちまち)、機を忘れる事しばし、ここに初めて生死の根本である色情を裁断することができた。 色情脱得の方がよほど難しかった」と鉄舟は述懐した。 生死は「いきる」「しぬ」ではなく「苦しみ」と訳すのが良く、「苦しみから脱出」と成るが、何からの脱出なのか、「自己 自我 という殻」である。 「自己という肉体」、「自己という精神」からの脱出である。 デヴォン(イングランド南西部の地域)にあるタヴィストックのある屋敷の二人の女中の話によると、ピクシーたちは彼女たちにとても親切で、毎晩、彼らのために綺麗な水を入れたバケツを炉の側に置いておくと、いつもバケツの中にお礼の銀貨を一枚入れてくれるのだということだった。 ところがある日のこと二人がうっかり水の用意を忘れると、ピクシーはさっそく少女たちの部屋まで上がってきて、声高に二人の怠惰をなじった。 少女のうち一人はすぐに下りていってバケツに水を汲んだが、もう一人は面倒がって動かなかった。 そこでピクシーたちはもう一人の少女に与える罰の相談をした。 それから七年間その少女の片足は動かなくなってしまったが、罰の期間が終了すると彼女の足はすっかり治り、まもなく町一番の踊り上手になった。 そして、彼らはその対価として銀貨を置いて去っていくという。 (二)「ピクシーの踊り」 民話より。 森を歩いて道に迷った男が何やら物影で音がするので、覗(のぞ)いて見ると、そこには子供達が楽しそうに踊り歌っていた。 その子供達は一様に鼻と耳が尖(とが)り、幼い子から青年の一歩手前位の少年もいた。 あまりに子供達が楽しそうに踊っていたので男は身を乗り出し、その物影から出て来てしまった。 すると子供達は一瞬、ビックリとしたが、すぐに男を自分たちの所へと招き入れ、一緒に踊ろうと迫ってきた。 男は最初は戸惑っていたが、次第に自分も楽しくなり子供達と一緒になって踊り歌った。 そして男はどの位、時間が過ぎているのかも忘れ踊り、とうとう疲れて寝てしまった。 翌朝、男が目覚めると、そこに子供達は誰一人いなく、そして男が目覚めた場所は森の入り口だった。 (三)「ピクシーの感謝」 民話より。 デヴォン(イングランド南西部の地域)にあるタヴィストックの近くに住むある老婦人は、庭の中に素晴らしいチューリップの花壇を作っていた。 老婦人はチューリップをこよなく愛し、誰にも摘み取らせないようにしていたので、近くに住むピクシーたちの夜の集会所になっていた。 ところが、とうとうこの老婦人がなくなると、チューリップは引き抜かれ花壇はパセリ畑に変えられてしまった。 怒ったピクシーたちは魔力でパセリを全て枯れさせ、庭に何を植えても育たないようにしてしまった。 一方、ピクシーたちは老婦人のお墓を大切にし、毎年春になると色とりどりの花で飾った。 (四)「ピクシーの親切」 民話より。 むかし、貧乏な若い娘が、麦打ちを仕事にしている男と結婚したが、やがてこの男が救いようのない飲んだくれだとわかった。 くる日もくる日も、男はひどく酔っ払って、仕事などできるものではなかった。 とうとう女房は、男の服を着て、亭主の代わりに麦打ちに行った。 ある朝、女房が納屋に入っていくと、前の晩、自分が打ち終えた倍の麦ができあがっていた。 そういうことが何日か続いた。 ありがたいことだが、いったい誰が手伝ってくれているのか、その正体を見たいと思い、女房は夜見張っていようと決心し、夜になると、部屋の隅に身をひそめていた。 あたりが暗くなってほどなくすると、小さな裸のピクシーが、そっと納屋に入って来て、小さな竿を振るって麦を打ち始めた。 ピクシーは働きに働いた。 そして、働きながらこう歌っていた。 「小さなピクシー、色白、ほっそり、身につけようにも、ボロもない」。 女房がピクシーに服を作ってやろうと決心したのも、しごく当然だった。 ピクシーのために小さな上下の服を作り、次の夜、それを納屋に吊しておいた。 その洋服を見ると、ピクシーは飛び上がって喜び、さっそく身につけた。 それからこう歌いながら踊りまわった。 「すてきなピクシー、かっこいいピクシー、ピクシーごきげん、ピクシー今もう、消えなきゃならん」。 そうやってピクシーは、躍りながら納屋を出て行き、もう二度とそこで麦打ちはしなかったという。 仲間に見せにいったのか、ほうびをもらって労働から自由になったのか、それは誰にもわからないことだった。 コーンウォール(イングランドの南西端にある州)などでは、「小さい人々」とも呼ばれ、先史時代に棲(す)んでいた人々の精霊だと信じられており、キリスト教徒でなかったために、天国へも行けず、地獄へも堕ちずに中間のあたりをさ迷(まよ)っているのだと言い伝えられている。 一方、デヴォン(イングランド南西部の地域)の百姓たちは、ピクシーを洗礼を受けないうちに、死んでしまった子供の魂だと信じている。 ピクシーは旅人を迷わせるのが得意で、旅人が道に迷って、同じ場所をぐるぐると歩き回ることをピクシー・レッド(妖精に引き回されるの意)」といい、ピクシー・レッドから逃れるには、外套を裏返しに着るとよいと言われている。 ピクシーは、悪戯(いたずら)とダンスが大好きで、コオロギ、バッタ、カエルの音楽に合わせて踊り、その舞踏会は常に夜行われ、朝になるとその場所には、周(まわ)りより踏みつけられて草の色が濃くなった「フェアリー(妖精)の輪」が残るのだという。 ピクシーは群れを成して生活し、その住処は普通、岩の中であるとされ、月の輝く夜に野原、または岩の中で彼らの王は会議を開き一族に指示を与える。 彼らは大変、義理堅く、よくしてくれた人には必ずお礼をし、その人が死んでからは墓守まですると言われている。 ピクシー翼はしばしば半透明で、彼らは飛んで 地面からの数フィート=1フイートは約30センチ)より高く達することができない 、地面にめったに触れないように翼を使用するという。 ピクシーの外観も地方で異なっていて、コーンウォールのピクシーは小男の老人で、緑のぼろを着ていて、新しい衣服を贈られると大変喜んで、仲間の妖精に見せびらかせるために人間界から姿を消してしまうという(又は、衣服という報酬をもらったのでもう働かなくていいのだと思い、姿を消すのだとも言われている)。 又、デヴォン(イングランド南西部の地域)のピクシーは、小さく色白で、ほっそりとしていて洋服は身に着けない。 だが、新しい衣服を贈られると大変、喜んで仲間の妖精に見せびらかせるために人間界から姿を消してしまうという。 又、サマーセット(イングランド南西部のブリストル海峡に面する州)のピクシーは赤毛で鼻が反(そ)り返り、眼はやぶにらみで口は大きく、緑の服を着ていると言う。 こうしたイングランド南西部の各地に出没するピクシーだが、その性質は、いずれも似通っている。 鉱山に住みついたピクシーは、鉱夫を豊かな鉱脈のある所まで案内することがあるが、反対に一番、悪い鉱石のところへ連れていって、がっかりする様子を楽しむこともあるし、子供を盗んだり、旅人を迷子(まいご)にさせたり、馬を盗んで、乗り回わしたりするなど彼らは実に陽気で悪戯好きなのである。 ティンカー・ベルは、イギリス、スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲「ケンシントン公園のピーター・パン」、小説「ピーター・パンとウェンディ」などに登場する妖精である。 彼女の妖精の粉を浴び、信じる心を持てば空を飛べる事が出来る。 山岡鉄舟は、若い頃から「ぼろ鉄」とあだ名を受けていた。 そして宮中に奉職(明治天皇の侍従)になり、子爵になっても財は蓄えなかった。 いちばん貧乏をしていた時には、着物から家財道具、畳まで売ってしまい、八畳の間に畳三枚だけが残っていた。 そのうちの一枚が鉄舟の書斎となり、あとの二枚で寝たり食べたり客を通したりした。 畳替えもできないので、鉄舟がいつも座るところは丸くくぼみ、やがて床板に届いてしまった。 夜具もまったく無く、売りたくても売れないボロ蚊帳にくるまり、夫婦で抱き合って寒さをしのいでいたという。 「何も食わぬ日が月に七日ぐらいあるのは、まあいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうち半分くらいあることもあった。 なあに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。 これはおれの実験だ。 一心(いっしん)に押して行けば、生きていけるものだ。 お前らもやってみるがよい。 死にはせんよ」と後(のち)に鉄舟は語った。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 (二) こうした極貧(ごくひん)の生活で、鉄舟夫婦は死ななかったが、最初に生まれた子供は母乳が出ずに死んでしまった。 この初めての子供が生まれた時、敷くにも掛けるにも一枚の布団もなくて、鉄舟は自分の着ているものを奥さんに掛けてやり、自分はフンドシ一つで看護した。 奥さんが「それではあんまりひどいから」と着物を着せようとすると「なに、裸の寒稽古をやっているのだ」と押しとどめたという。 こんなに貧乏していても、一分銀三粒を刀に結びつけて決して使わなかった。 幕末の動乱期、どこで死ぬかも知れぬので、武士のたしなみとして自分の死体を始末(しまつ)するだけの金の用意を忘れなかったのであった。 というのも、口の中へ頭を突っ込んでもらって、彼女に骨を抜いて貰おうと考えたからだった。 サギが、骨を抜き出し、約束の金を要求するとオオカミは、牙を光らせて叫んだ。 「何を言ってやがる! お前は、もう俺様から、十分すぎる報酬を受け取ったはずだぞ。 俺様の口から無事に出られたのだからな!」 (悪者へ施す時には、報酬など期待してはならぬ。 もしなんの危害も受けずにすんだなら、それでよしとすべきである) (二)「笛を吹く漁師」 笛の上手な漁師が、笛と網(あみ)を持って海へ出掛けた。 彼は、突き出た岩に立ち、数曲、笛を奏でた。 と言うのも、魚たちが笛の音に引き寄せられて、足下の網に、自ら踊り入るのではないかと考えたからだった。 結局、長いこと待ったが無駄であった。 そこで、男は笛を置き、網を投じた。 すると、一網でたくさんの魚が捕れた。 男は、網の中で跳ね回る魚たちを見て言った。 「なんとお前たちは、ひねくれ者なんだ!俺が笛を吹いていた時には踊らなかったくせに、吹くのをやめた今、こんなに陽気に踊りやがる」 (三)「ヘラクレスとウシ追い」 あるウシ追いが、ウシに車をひかせて、田舎道を進んで行った。 すると、車輪が溝に深くはまり込んでしまった。 頭の弱いウシ追いは、牛車の脇に立ち、ただ呆然と見ているだけで、何もしようとはしなかった。 そして、突然、大声でお祈りを始めた。 「ヘラクレス様、どうか、ここに来てお助け下さい」すると、ヘラクレスが現れて、次ぎのように語ったそうだ。 「お前の肩で、車輪を支え、ウシたちを追い立てなさい。 それからこれが肝心なのだが、自分で何もしないで、助けを求めてはならない。 大神ゼウスとアルクメネとの子。 一二の難業(レルネー湖のヒュドラ退治、黄金の林檎 りんご の獲得、冥界の番犬ケルベロスの捕獲など)をはじめ数多く武勇伝をもつ。 妻の嫉妬からオイテ山上で自らを火葬にふし、のち神となった。 「剣禅一如」の人、山岡鉄舟の開いた「春風館道場」の入門者に対する心構えは次のようであった。 1 無刀流剣術者、勝負を争わず、心を澄まし胆(きも)を練り、自然の勝を得るを要とす。 2 事理(じり)の二つを修行するにあり。 事は技なり理は心なり。 事理一致の場に至る。 是を妙処となす。 3 無刀とな何ぞや。 心の外に刀なきなり。 敵と相対する時、刀に依(よ)らずして心を以(もっ)て打つ。 是を無刀と謂(い)う。 其(そ)の修行は刻苦工夫すれば、たとえば水を飲んで冷暖自知するが如く、他の手を借(かり)らず、自ずから発明すべし。 (二) ある時、「春風館道場」で懐中時計が紛失した。 学頭(統轄者)の中田誠実が調べた結果、某が盗んだことが判明した。 中田は全員を待たせて、山岡鉄舟のところに行き「不都合だから某を破門願いたい」と、鉄舟に訴えた。 鉄舟は「それは待て、泥棒をするなということを、皆にいわなかったのは俺の手落ちだ。 これからは、春風館道場では、嘘(うそ)と泥棒(どろぼう)はしないという規則にしよう」と鉄舟は先ず己(おのれ)の不徳を詫びた。 続けて「悪いことをしたといってすぐに破門するのでは、稽古する必要が無いじゃないか。 破門するのは殺すのと同じ事だ。 悪いのを直すのが稽古なんだ。 おれも目が行き届かないから、君を学頭にしているんだから、俺に代わって良く気をつけて貰いたい」。 中田は、冷や汗をかきながら鉄舟の前をひきさがった。 憤って出て行った中田が、しょげて帰ってきたのをみな変に思った。 中田は紛失した時計にはふれないで「師匠の意見で道場に規則ができたんだ。 うそとどろぼうはしない。 これが新しい規則だ」。 こうして二条が春風館道場の規則となった。 小話898 「駅舎(えきしゃ)の一夜」の話・・・ (一) 孟不疑(もうふぎ)という挙人(きょじん=進士(しんし)の試験に応ずる資格のある者)があった。 昭義(しょうぎ)の地方に旅寝して、ある夜ある駅に泊まって、まさに足をすすごうとしているところへ、*青(しせい)の張(ちょう)という役人が数十人の供(とも)を連れて、おなじ旅舎(りょしゃ)へ乗り込んで来た。 相手が高官とみて、孟(もう)は挨拶に出たが、張は酒を飲んでいて顧りみないので、孟はその倨傲(きょごう)を憤りながら、自分は西の部屋へ退(しりぞ)いた。 張(ちょう)は酔った勢いで、しきりに威張り散らしていた。 大きい声で駅の役人を呼び付けて、焼餅(しょうべい)を持って来いと怒鳴(どな)った。 どうも横暴な奴だと、孟(もう)はいよいよ不快を感じながら、ひそかにその様子をうかがっていると、暫くして注文の焼餅を運んで来たので、孟(もう)はまた覗いてみると、その焼餅を盛った盤(ばん)にしたがって、一つの黒い物が入り込んで来た。 それは猪(しし)のようなものであるらしく、燈火(あかり)の下へ来てその影は消えた。 張(ちょう)は勿論、ほかの者もそれに気が注(つ)かなかったらしいが、孟(ちょう)は俄(にわ)かに恐怖をおぼえた。 (二) 「あれは何だろう」孤駅のゆうべにこの怪を見て、孟(もう)はどうしても眠ることが出来なかったが、張(ちょう)は酔って高鼾(たかいびき)で寝てしまった。 供の者は遠い部屋に退いて、張(ちょう)の寝間は彼ひとりであった。 その夜も三更(さんこう=午後11時〜午前1時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯(ただ)ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。 一人の黒い衣(きもの)を着た男が張(ちょう)と取っ組み合っているのである。 やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲(なぐ)り合う拳(こぶし)の音が杵(きね)のようにきこえた。 孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。 (三) 五更(ごこう=午前3時〜5時)に至って、張(ちょう)はまた起きた。 僕(しもべ)を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟(もう)に挨拶した。 「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚(はなは)だ失礼をいたしました」それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。 そのあいだに、彼は小声で言った。 「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。 昨夜は甚だお恥かしいところを御覧(ごらん)に入れました。 どうぞ幾重にも御内分にねがいます」相手があやまるように頼むので、孟(もう)はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。 別れるときに、張は靴の中から金一*(きんいってい)を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。 (四) 何がなんだか判らないが、孟(もう)は張(ちょう)に別れて早々にここを出発した。 まだ明け切らない路(みち)を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。 その仔細(しさい)を聞きただすと、*青(しせい)の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。 孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗(すこぶ)る奇怪なものであった。 孟がひと足さきに出たあとで、張(ちょう)の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。 あかつきはまだ暗い。 途中で気がついてみると、馬上の主人はいつか行くえ不明になって、馬ばかり残っているのである。 さあ大騒ぎになって、再び駅舎へ引っ返して詮議すると、西の部屋に白骨が見いだされた。 肉もない、血も流れていない。 ただそのそばに残っていた靴の一足によって、それが張(ちょう)の遺骨であることを知り得たに過ぎなかった。 こうしてみると、それが普通の賊の仕業(しわざ)でないことは判り切っていた。 駅の役人も役目の表として賊を捕えるなどと騒ぎ立てているものの、孟(もう)にむかって窃(ひそ)かにこんなことを洩らした。 小話897 「戦乱の宿命に生きた絶世の美女、細川ガラシャ。 その数奇な短い悲運の生涯」の話・・・ (一) 戦乱の世で「容貌の美麗比類なく、精神活発、鋭敏、果敢、高尚で才知は卓越していた」(「日本西教史」より)と言われた細川ガラシャ(本名、細川珠(玉=たま)、又は玉子(たまこ))は、1563年(永禄6年)に、父、明智光秀と母、煕子(ひろこ)との間の三女として美濃に生まれた。 目鼻立ちがくっきりとしていて、玉の様に美しい赤ん坊であったので、父、光秀は珠のように素晴らしい女性に育つと考え、珠(たま)と名付けた。 珠は、幼少の頃から母の苦労と父の汗を見て育った。 清貧の中で両親の夫婦愛を見つめ、そして親の訓育をじかに受けて成長した。 既に7才の頃の珠(たま)について、容貌の美しきことたぐいなく、楊貴妃桜(ようきひざくら=八重咲きの桜で淡紅色に染まる里桜)を見るようなあでやかな美貌、と記録に残っており、利発さと共に、その美しさは7才にして早くも人の目を集めた。 1578年 天正6年=15歳 、珠(たま)は15歳の秋、父の主君、織田信長に勧められて、父、光秀(近江の坂本城主)の盟友であった隣国、山城国勝竜寺城主、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)の嫡男、忠興(ただおき=15歳)と結婚した。 美貌をうたわれた珠(たま)の花嫁行列は、坂本から京に入るや、沿道の見物衆を分けて、京の西郊、勝竜寺城(京都府長岡京市)入った。 この頃、すでに二人の姉は、摂津伊丹城主の嫡男と近江高島城主に、それぞれ嫁いでいた。 忠興(ただおき)は珠(たま)の美貌に心奪われ、とても仲のよい夫婦で、1579年(天正7年=16歳)には長女(於長(おちょう)、のち前野長重の妻となるが出家=安昌院)が、1580年(天正8年=17歳)には長男、忠隆(ただたか=後の長岡休無)が二人の間に生まれた。 1582年 天正10年=19歳 、父、光秀による「本能寺の変」で織田信長が死亡した。 このとき、光秀は以前からの盟友である細川藤孝・忠興父子に加勢を求めたが、すでに丹後宮津城へ「本能寺の変」が伝えられた際に細川家では秀吉の力が強い事を見越し、細川藤孝(幽斎)と忠興は剃髪して信長の死を悼み、光秀に味方しなかった。 「本能寺の変」から12日後に、光秀は羽柴秀吉らの急襲にあい「山崎の合戦」で敗死した。 このため、珠(たま)は「逆臣の娘」となった。 「本能寺の変」が起こった際、細川家の舅(しゅうと)である藤孝は忠興(ただおき)に珠の自害を迫った。 家臣たちも同様だったが、忠興は珠を愛していたがために身を張って父たちに抵抗した。 そして、表向き珠(たま)を離縁し、丹後半島の山奥の味土野(みどの)に匿(かくま)うという事で父たちを説得した。 忠興は妻の珠を生まれたばかりの子供から引き離して、まず明智領の味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後の国、味土野に屋敷を作って、1584年(天正12年=21歳)まで隔離、幽閉した。 この間の1583年(天正11年=20歳)、忠興と珠の次男、興秋(おきあき)が出生した。 隔離、幽閉された間の珠を支えたのは、父、光秀が珠の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(きよはら・いと=公家の清原枝賢の娘)らの侍女達だった。 一方、「本能寺の変」で、逆臣の汚名を着た珠の上の姉と母、熈子は明智秀満(あけち・ひでみつ=明智光秀の重臣)が守る坂本城の落城の中で死に、次の姉も近江の高島城で殺された。 主君、織田信長には、苛烈といわれる気性があり、ある時、斉藤利三(光秀の重臣)の件を巡って信長は自分の命令を聞けと迫り、光秀が信長の意見に逆らった時に、光秀の髪をつかみ床を引きずり回し、廊下の柱に何度も打ち付け、刀で切ろうとした。 この時、光秀は「たとえ一国を失っても利三を手放すことはしない」と抵抗し利三を手放さなかった。 光秀が織田信長に対する謀反(本能寺の変)を計画し、それを秀満(光秀の重臣)と利三だけに打ち明けた。 秀満は賛成したが、利三はその無謀さから反対したが、主君の命令には逆らえず、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなった。 父・範煕(のりひろ)は、煕子と瓜二つの妹を、煕子のふりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。 その後、夫、光秀の本拠の落城、浪人生活、朝倉家・足利家・織田家仕官という多難な日々の中で、煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助け、光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたという。 光秀が重病となった時に、必死に看病したものの、自身がその看病疲れが元で病死したという。 しかし、坂本城落城のときに死亡したという説もある。 1560年、今川義元を桶狭間 おけはざま で破って頭角を現わし、以後、諸群雄を攻め従え、1573年将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させた。 そして、安土城を築いて全国統一に乗り出した。 信長は、家柄・門閥主義の人材登用を無視し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)などの有能な人材を思い切って登用していた。 その一方で、信長は旧室町幕府の家臣であった細川藤孝や明智光秀を登用した。 1582年、天下統一を目前に明智光秀の急襲を受け、本能寺で自刃。 かくして光秀は信長が宿泊していた京都の本能寺を二手に分けて急襲し、信長を包囲、僅かな兵のみに守られていた信長を自害させた。 また二条御所において、信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。 しかし、光秀の軍団に属し、縁戚関係をもつほど親交のあった細川藤孝(戦国の世を生き抜いた藤孝は、明智光秀に天下人の器量があるとは考えていなかった)・忠興父子の協力が得られず、「山崎の合戦」で秀吉軍に敗れ、光秀は居城の坂本城に戻る道すがらに土兵によって命を落とし、光秀の「三日天下」は終わった。 (二) 丹後(京都の北部)の国、味土野(みどの)に屋敷に隔離、幽閉された中、美貌と才知に長(た)け、誇り高く、烈しい性格であった珠(たま)も、優しかった父母の死を嘆いていた。 貧しかった越前の頃、髪を売って夫を助けた母。 そして三人の娘を育て、嫁がせた母は、父の敗北に殉ずるように坂本城落城の火の中で自刃してしまった。 明智一族は滅亡し、一人残されることになった珠(たま)は、父の光秀のことを偲(しの)んだ。 珠の知っている父は、人から誹謗されるような人ではなく、神仏を尊崇し、部下をいたわり、それに誰よりも家族を愛した人であった。 その父が主君である信長を討つには、それだけの理由があるはずであった。 その理由を誰よりも知っていたのは父、光秀の盟友である舅(しゅうと)の藤孝(ふじたか)であり、夫の忠興(ただおき)であった。 にもかかわらず、舅と夫は父を裏切り、秀吉軍について父を追い詰めて敗死させた。 珠はそんな舅と夫を怨み、二人の幼子(おさなご)を思って苦しんだ。 そんな中、親しい侍女、清原いと(きよはら・いと=公家の清原枝賢の娘)によって、珠の心は少しずつ和らいでいった。 「どうしてそなたはそんな穏やかな顔をしていられるのです」という珠(たま)に「天にまします主が見守ってくださっていますから」と侍女は答えた。 清原は京にいた頃、安土のセミナリオ(神学校)に出入りし、切支丹の教えに触れていたのであった。 清原いとは戦乱の中で、山中に捨てられた孤児たちを探しだし、救済する仕事をしていた。 珠は心の安定をキリスト教の教えに求めて、キリストへの信仰に興味を持った。 この味土野には、15戸ばかりの平家の落人(おちゅうど)と言われる人たちが、世間から離れてひっそりと暮らしいた。 ある時、珠(たま)の住まいの庭に、部落の幼い子供がよちよちと歩いて珠に抱かれた。 部落の人たちは、身分の高い珠(たま)が部落の幼子を抱き上げるのを見た。 それ以後、部落の子供たちが多く珠の所に遊びに来る様になり、珠も子供達の為におやつを用意して可愛がったという。 (三) 1584年(天正12年=21歳)、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取りなしもあって、忠興(ただおき)は妻の珠(たま)を細川家の大坂屋敷に戻した。 味土野(みどの)の幽閉を解かれた珠は、子どものいる大阪、玉造の細川屋敷に入った。 しかし、二年余の隔離で、子どもたちが母の顔を忘れていたことが珠を悲しませた。 ある日、忠興からクリスチャン大名として当時、名高かった高山右近の屋敷へ行った時に右近が話したキリスト教の話しを珠は聞いた。 忠興と右近は当時「利休七哲」に共に名を連ねる茶の湯の友達として大変親しくしていた。 忠興が何気なく話した、高山右近の信仰の話しを、キリスト教に関心を持っていた珠が喜んで聞く様子に、忠興はただ珠を喜ばせよう、という一心で、この右近の信仰の話しを伝えた。 「婦人(ガラシャ)は信長を討った明智光秀の娘であり、彼女は霊魂の不滅を否定する日本人のある宗派に属していた。 それゆえ、この婦人は深く憂愁に開ざされ、ほとんど現世を顧みようとはしなかった。 奥方の態度は夫を心配させることが多く、二人はしばしば言い争っていた。 越中殿(忠興)は高山右近殿と親密な間柄であった。 越中殿は右近殿から天主と宗教とに関した種々の話を聞き、この問題について奥方に語った。 それは全く初めて耳にする話であったが、奥方は非常な理解力と聴明とをそなえた人であったから、聞いた事柄をしばしば深く考え、問題をもっと根本的に知ろうと熱望するようになった。 けれども奥方はこの気持ちを少しも夫にもらさずに、憧れを満たすのに好機の来るのを待っていた」(ブレネスティノ書簡 平戸発 1587年 より)。 忠興は決して信仰には入らなかったが、妻の珠には礼拝する部屋を作ってやり、彼女の信仰心については、自由にさせていた。 それは夫、忠興が嫉妬心のために珠を屋敷から外出を許さなかった言い訳でもあった。 そのため、珠は教会へ行こうにも屋敷から一歩も外に出られなかった。 1586年(天正14年=23歳)忠興と珠の三男、忠利(ただとし)が丹後で生れた。 洗礼名ジュスト。 高槻城主・明石城主。 荒木村重・織田信長・豊臣秀吉・前田利家に次々に従ったが、1614年江戸幕府の禁教令で追放され、マニラで没。 1 ある時、夫人が屋根の雀の巣を子どもたちの為に取って欲しいという事で、下男が取りに上がり、誤って屋根から滑り落ちた下男を忠興は見とがめて、不届き者、と言って一刀両断に切り捨て、夫人の袖で血をぬぐった。 夫人は忠興の行為に抗議する意味で、それを着替えず何時までも着ていた所、忠興は「蛇の様に執念深いおなごじゃ」と評した。 それに対して夫人は「鬼の女房には蛇が似合い」と平然として答えたという。 2 ある朝、庭師に何気なく夫人が朝の挨拶の言葉をかけ、庭師がそれに答えた所、忠興はなれなれしいと怒り、庭師のクビを切って落とし、その生首を夫人の食膳の上に載せた。 が、彼女は顔色一つ変えなかったという。 (四) 1587年(天正15年=24歳)1月、羽柴秀吉は豊臣秀吉と名乗り、九州征伐を始め、これに秀吉の信頼篤い忠興(ただおき)も参戦した。 忠興が九州征伐のため大坂を発ったのを見て、珠(たま)はかねてから興味のあった教会へ行こうと心に決めた。 しかし、忠興の命(めい)で厳重な監視下に置かれ外出することは困難であったので、珠は、侍女の清原と相談して病気と偽り部屋に引きこもった。 その後、彼岸(ひがん)でお宮参りをするという口実で侍女たちに混じって屋敷を抜け出し、教会へ辿(たど)りついた。 珠は初めて見る美しい聖堂、そして宣教師の説教に深い感動を受けた。 細川邸に戻った後、珠は宣教師と手紙を通じて、信仰や自ら抱いた疑問などを質問することにした。 等)を発し、司祭たちは大阪を立ち退くことなった。 珠(たま)はその知らせを聞くと、もし秀吉が大坂に帰還後キリシタンを迫害するならば、自分はその婦人たちと共に殉教する準備があることを宣教師に伝え、改めて自身の洗礼を願い出た。 「奥方は、宣教師が(大坂を)出発する前にどうか洗礼を授(さず)けてくれるようにと願ってきた。 そこで宣教師のオルガンティノは奥方を吉利支丹として残しておこうという決意を固めた。 けれども奥方が屋敷から出ることはできなかった。 それ故われわれは秘かにかのキリシタン婦人の一人(清原マリア)に洗礼の要文を託し、洗礼を授ける方法を詳しく教えた。 --------- 奥方は受洗によって非常に励まされ、信仰のために死のうとまでの熱意に満たされて、決心を固めたのである。 奥方はきわめて丁重に礼をのべ、自分の信仰の忠実に関しては十分に安心してくださるようにとわれわれに伝えてよこし、われわれが出発する直前、奥方はさらに多額の銀を施物として贈ってくれ、旅行に最も必要なものを与えてくれた」(ブレネスティノ書簡 平戸発 1587年 より)。 「宣教師たちは清原マリアに洗礼の式を教え、奥方にはもし司祭から受けられない場合は、誰からでも受けられ、それは正当なものであるということを申し伝えた。 こうして奥方は清原マリアから洗礼を受けることができ、それによって非常に満足した。 奥方は信心に満ちあふれて洗礼を受け、清原マリアの手によってガラシア(恩寵、恵み、恩恵)の霊名を受けたのである」(フロイス書簡(有馬発1588年)より)。 (五) 洗礼を受けてからのガラシャ(珠)は、憂欝であったのが明るく元気に、頑(かたく)な烈しい性格は一変して優しい穏やかな性格になり、一家一門の人々も驚くほどだった。 またガラシャと親しいキリシタン婦人たちは、忠興(ただおき)が戦場から帰られて奥方のこういう著しい変化を御覧になったならば、おそらく御自身もキリシタンに帰依なされるであろうと噂した。 しかし、九州から凱旋した忠興は、これを許そうとはしなかった。 そればかりか、切支丹の侍女たちを極刑に処し、珠(たま)にも棄教を迫った。 忠興は、秀吉の切支丹禁令を気にしてのことで、すでにこの頃、宣教師や切支丹大名、高山右近の国外追放や長崎における切支丹処刑が行われていた。 しかし、珠は棄教することには抵抗した。 1588年(天正16年=25歳) ガラシャ(珠)は、宣教師に手紙を送り忠興との離婚を訴えた。 しかし、カトリックは元来離婚を禁じていたし、宣教師の「困難に出会ってこそ、人の徳は最も良く磨かれ美しい光を放つ」との言葉に救われ、又、ガラシャの希望する隠遁生活にも反対し「一つの十字架から逃れる者は、いつも他の大きな十字架を見出す」と説得した。 このころガラシャは、信仰生活にはいっており、屋敷内に孤児達を引き取り、世話をしたり、周囲の人たちへの伝道を行っていた。 ガラシャの感化によって、侍女達の殆ど、又、家臣たち、更に忠興の弟、子供達などが次々と受洗していった。 この年、忠興とガラシャ(珠)との間に娘、多羅(たら)が出生した。 1591(天正19年=28歳) 秀吉の嫡男、鶴松(2歳)が病気で亡くなった。 秀吉は、関白職を養子、秀次に譲った。 1592年(文録1年=29歳) 秀吉は、諸大名に二度目の朝鮮征伐の出陣を命じ、忠興も、朝鮮征伐のため出陣した。 1593年(文録2年=30歳) 秀吉の息子、秀頼が出生した。 そして日本と明が和解し、忠興が朝鮮より帰国した。 1595年(文録4年=32歳)謀反の嫌疑により関白秀次は秀吉の命令で切腹させられた。 前野長重も秀次に連座して切腹し、長重に嫁いでいたガラシャの娘、於長(おちょう)は忠興に預けられた。 又、忠興は、秀次から借金をしていたため秀吉から疑われ、謹慎を命じられた。 そこで忠興は、徳川家康から黄金100枚を借りて借金を返済し、秀吉に於長(おちょう)の助命を嘆願して許され、於長は出家(安昌院)した。 (六) 1598年(慶長3年=35歳)、豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。 秀吉が死んで、切支丹弾圧の嵐もおさまった。 この秀吉の死を喜んだのはガラシャ(珠)や切支丹ばかりではなく、ガラシャの美しさが女好きの秀吉の目に触れることを恐れていた忠興もその一人であった。 1599年(慶長4年=36歳)1月に豊臣秀頼(6歳)は伏見城から大坂城へ移った。 3月に前田利家が亡くなると、秀頼を擁する石田三成と敵対関係にあった武断派の加藤清正など(福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明)の7将が激しく対立した。 その時、仲裁に乗り出した家康により三成と7将の和談が成立した。 この頃、忠興は、ガラシャのために大坂玉造邸内に聖堂を建てた。 やがて石田三成と徳川家康の対立は激化し、細川家では三男の忠利を人質として江戸に送った。 そして、徳川家康から豊後6万石を加増された。 1600年(慶長5年=37歳)、徳川家康が三成派の上杉討伐(「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」)に兵を起こした。 これは関ヶ原の戦いの前哨戦で、その家康に従って行く前に忠興は、三成がガラシャを人質に取ることを恐れて「大阪城に入るな(人質にならず自害せよ)」と言い残した。 一方、石田三成は大阪城下に屋敷を構える家康方の大名から人質を取る事を企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向けた。 そしてガラシャに人質になるよう強要したが、ガラシャはこれを敢然と拒否した。 三成方の兵五百に囲まれ、このことがあることを覚悟していたガラシャは白無垢に着替え、奥の一室にこもった。 そしてガラシャは、キリスト教では自殺が許されないため、老臣の小笠原小斎に命じて薙刀(なぎがた)で胸を突かせた。 小笠原少斎らは屋敷に火を放って切腹した。 「散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ」(細川ガラシャ、辞世の歌)。 享年37歳。 小笠原少斎に胸を突かせた壮絶な死は、かえって石田三成方に衝撃を与え、以後、人質作戦は中止された。 こうしたガラシャの犠牲によって、忠興はじめ徳川軍は後顧の憂いなく戦いを進め、関ヶ原の戦いに大勝をおさめることができた。 五大老---徳川家康(東軍の総大将)、前田利家(跡を継いだ長男、利長は東軍に味方)、毛利輝元(名目上の西軍の総大将)、上杉景勝(西軍に味方)、宇喜多秀家(西軍の主力)。 五奉行---石田三成 (実質上の西軍の総大将)、増田長盛(西軍に参加するも傍観)、長束正家(西軍に参加)、前田玄以(東軍に味方)、浅野長政(東軍に参加)。 又、長年、信仰を共にして来た清原マリアに二人の子供を託し、逃れさせた。 そして、霜と糸という侍女が最後まで残り、この侍女に自分の最後の模様と辞世の句、遺書を忠興や近親の者たちに届ける事を依頼した。 それが現在、「霜女覚え」として、ガラシャ夫人の最後を伝える事となった。 細川ガラシャ夫人の御和歌--- 1 「味土野幽閉中、心の悩みを詠んだと伝わる歌」身をかくす、里は吉野の、奥ながら、花なき峰に、呼子鳥(よぶこどり=カッコウ、又はヒヨドリ)啼く。 2 「村に疫病が流行ったときに詠んだと伝わる歌」いかでかは、御裳濯(みもすそ)川の、流れくむ、人にたらん、疫療の神。 3 「亡くなる前に、忠興に宛てた和歌」さきだつは、同じ限りの、命にも、まさりてをしき、契りとぞ知れ。 又、ガラシャの一周忌をキリスト教形式で行い、その後のキリシタン弾圧でもガラシャの墓石は細川家で手厚く保護された。 長男、細川忠隆の正室の千世は前田利家の娘であった。 忠興の妻ガラシャ(珠)が大坂屋敷で自害した際に千世は脱出して生き延びた。 忠興はこれを咎め千世を離縁して前田利長の前田家と縁を切るよう忠隆に命じた。 しかし忠隆は千世を庇(かば)い離縁を承知しなかったため、忠興は忠隆を追放し廃嫡とした。 そのため後に忠隆は千世と長男を連れて京都で隠居した。 次男の細川興秋は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に味方したため、戦後に父の命を受けて自害した。 実にガラシャの死から98年後のことである。 そしてかなりの数が集まったのだが、少年は、イナゴと間違えてサソリに手を伸ばそうとした。 するとサソリは、鋭い毒針を振り立てて少年に言った。 「さあ、捕まえてごらん。 君のイナゴを全部失う覚悟があるならね」。 (友だちを作るなら、ちゃんと見定めてからにせよ。 見誤って悪い友だちを作ろうものなら、善い友だちを一瞬にして失うことになる) (二)「オンドリと宝石」 オンドリが餌を探していて、宝石を見つけた。 すると、オンドリはこう叫んだ。 「なんと詰まらぬものを見つけたことか! 俺にとっちゃ、世界中の宝石よりも、麦一粒の方がよっぽど価値がある」 (三)「ライオンの御代」 野や森の動物たちは、王様にライオンを戴いていた。 ライオンは残酷なことを嫌い、力で支配することもなかった。 つまり、人間の王様のように、公正で心優しかったのだ。 彼の御代に、鳥や獣たちの会議が開かれた。 そこで彼は、王として次ぎのような宣言をした「共同体の決まりとして、オオカミと仔ヒツジ、ヒョウと仔ヤギ、トラとニワトリ、イヌとウサギは、争わず、親睦をもって、共に暮らすこと……」。 ウサギが言った「弱者と強者が共に暮らせるこんな日を、私はどんなに待ちこがれたことか……」。 ウサギはそう言うと死にものぐるいで逃げていった。 (地上の楽園などこの世にはない) 小話895 「(ジャータカ物語)鹿王ナンディヤ」の話・・・ (一) 昔、古代コーサラ国の初期の都サーケータに、たいへん鹿狩りの好きな王が国を治めていた。 農村の人々にも畑仕事すら禁じて、辺り一帯をすべて鹿狩りに使っていた。 家来も毎日、そのお供をしなければならなかった。 これでは人々は作物一つ収穫できず、生活が不安になっていた。 そこで人々は、寄り集まっては相談した。 「牧場の牛のように、鹿を一つの囲いの中に集めてしまうのはどうだろう」。 「それはなかなかいい考えだ」。 「まずアンジャナ林の庭園を取り巻く門と壁を造り、その中に森の鹿を追い込もうじゃないか」「そうしたら門を閉めてしまい、王さまは好きな時、好きなだけ鹿を殺せばいい」「我々は自分の仕事ができるというものだ」。 こうして、みんなは勢い込んでこの仕事に取りかかった。 このころ、森にはナンディヤという優(すぐ)れた鹿の王(釈迦の前生)がいた。 頭が良く、堂々としていて、たいへん親孝行であった。 ある日、ナンディヤ鹿王と両親が住む藪(やぶ)の近くにも、村人達がやってきた。 ナンディヤ鹿王は両親から村人を引き離すため、おとりになって自分から藪(やぶ)の外へ飛び出した。 村人たちは、ナンディヤ鹿王を捕まえると、他の鹿と一緒に囲われた庭園の中に入れてしまった。 ナンディアヤ鹿王にとって囲いを飛び越えることは、とてもたやすいことであった。 しかし仲間達をおいて自分だけ逃げるわけにはいかないと、囲いの中に残っていた。 それからというもの、王は毎日、鹿を一頭ずつ射(い)殺して遊んだ。 鹿たちは、ただ震えながら自分の順番を待つしかなかった。 みんな食欲をなくし、恐怖の中で毎日を過ごしていた。 だが、ナンディヤ鹿王だけは、落ち着いて池の水を飲み、牧草を食べて堂々と暮らしていた。 彼の順番はなかなか来なかった。 そうやって月日が過ぎていった。 (ニ) 囲われた庭園の外では、ナンディヤ鹿王の両親が、息子の身の上を心配しながら毎日を過ごしていた。 「あの子は象ほどの怪力なのだから、どんなことをしたってわたしたちの所へ帰ってこられるはずなのに」と言う母の言葉に、父もうなずいて言った「あの子は強い足を持っている。 園の柵(さく)など一飛びで越せそうなものだ。 あの子の所へだれかに使いにいってもらおうではないか」。 両親は早速、道で出会った、都へ上る一人の男に伝言を頼んだ。 「わたしどもはご覧のように年老いております。 愛する息子の顔が見たいし、また彼かそばにいてくれないと心細くてたまりません。 あの子が、自分の強い足で柵を飛び越え、早くわたしどもの所へ帰ってきてくれることを願っていると、そう伝えてください」。 男は快く承諾し、サーケータの都へ着くと、早速、鹿が囲われている庭園に出かけた。 そして大きな声で言った「ナンディヤ、園の外でお前の両親はとてもお前を案じているよ。 お前は象にも負けない力があるし、足も強い。 どうして柵を飛び越えて会いにいってあげないのだ。 あんなにお前の顔を見たがっているのに」「わたしは飛び越えたければ、いつでも柵を飛び越えられます。 けれどもそれでは、飲食をさせてくださっている王さまにご恩が返せません。 それに、ここにいる大勢の鹿たちとも長くいっしょに暮らしました。 わたし一人逃げて帰るわけにいかないのです。 わたしは王や仲間の鹿に、なすべきことをなしてから帰ります」とナンディヤは答えて、次のような詩を唱えた「青い草々、飲み水も、すべては王の、くださる物。 どうして黙って、立ち去れよう。 王の射る矢を、身をもって、わたしは笑って、受けましょう。 それで許して、くれるなら、再び母に、会えるでしょう」。 (三) そしてとうとう、ナンディヤ鹿王の順番がやって来た。 王や大勢の家来に見つめられながら、ナンディヤ鹿王は園の片すみにじっと立っていた。 ほかの鹿のように死を恐れ、悲しい声を上げて逃げ回ったりはしなかった。 ゆったりと立ち、彼はまるでなにかを教え諭(さと)しているような威厳に満ちていた。 王はどうしても矢を放つことかできなかった。 鹿の偉大な風格に圧倒されてしまったのだ。 「王さま、どうなさいました。 早く矢をお放ちなさい」と鹿王ナンディヤが凛(りん)とした声で言った。 「鹿王よ、どうしてもわたしにはそれかできないのだ」「王さま、いつも正しい道を歩み、気高い心を持つものの力がお分かりになりましたか」と鹿王はおごそかに言った。 王は心を強く打たれるものを覚え、弓矢を捨てた。 「鹿王よ、わたしを許しておくれ。 命(いのち)のないこんな一本の矢だって、お前の徳の高さを知っていて弓から離れようとしなかった。 それなのに、心というものを持っているわたしが、お前の気高さを感じる力がなかったのだ。 わたしは恥ずかしい。 お前を殺すことなどわたしにはできない」と言って王はナンディヤ鹿王の命を助けた。 また庭園の中で、ただ死を待っていた鹿たちもすべて助けると誓った。 そればかりではなかった。 心を洗われた王は、この森に住むすべての獣、空の鳥、池の魚を安全に守ってやろうと決めたのであった。 明治十三年(1880年)、鉄舟は四十五歳のときに小野忠明七世の孫の小野業雄から一刀流の組太刀を伝承され、一刀正伝無刀流(無刀流)を興し、明治十五年(1882年) 四十六歳で官職(明治天皇の侍従)を辞し自邸の裏庭に「春風館道場」を建立した。 「山岡死亡の際は、おれ(勝海舟)もちょっと見に行った。 明治21年7月19日のこととて、非常に暑かった。 おれが山岡の玄関まで行くと、息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢、人も集まっている。 その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。 おれは座敷に立ちながら「どうです。 先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして「さてさて、先生よくお出でくださった。 ただいまが涅槃(ねはん)の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。 それでおれも言葉を返して「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 通称、麟太郎。 蘭学・兵学を学び、万延元年(1860年)幕府使節とともに、咸臨丸 かんりんまる を指揮して渡米。 幕府海軍育成に尽力。 幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現。 維新後、海軍卿・枢密顧問官などを歴任。 著「吹塵録」「海軍歴史」、自伝「氷川清話」など。 (二) 少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。 その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。 そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。 なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。 絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ」(勝海舟著「山岡鉄舟の武士道」より)。 山岡鉄舟、享年五十三歳。 「山岡鉄舟も、大久保一翁も、共に熱性で、切迫の方だったから、可愛そうに早く死んだヨ。 おれ(勝海舟)はただずるいから、こんなに長生きしとるのサ」(勝海舟「氷川清話」より)。 大きな森に、それぞれ五百頭の群れを率(ひき)いた黄金色のニ頭の鹿王が住んでいた。 その頃、王様は鹿狩りに熱心で、人民に職業を休ませ、多くの人々を召集して、日々狩りに出掛けていた。 人々は「こう頻繁(ひんぱん)に仕事を休ませられては生活に支障をきたす。 王様が狩に出なくても、鹿肉を召し上がることが出来るようにできないものか」と考えた。 そこで彼等は、ニ頭の鹿王が率いる群れを、大きな物音や武器で威嚇して、王様の御苑の中に追い込み、囲いの入り口を閉じた。 王様は囲いの中に、二匹の立派な黄金色の鹿がいるのに気が付き、その二匹の鹿王には、身の安全を保証してやることにした。 それ以来、王様や料理人がやって来て、弓矢で鹿を射ては持ち帰る日々が続いた。 そのため鹿たちは弓矢を見る度に死の恐怖に脅かされて、安心して暮らすことが出来なかった。 そこでニ頭の鹿王は相談して「我々、鹿が殺されるのはもはや逃れられないが、せめて弓矢で射られる恐怖を避けるために、犠牲になる鹿の順番を決め、一日は私の群れから、次の一日は貴方の群れからというように、覚悟を決めた鹿が断頭台に行くようにすれば、傷を負う鹿が最小限にとどまるだろう」と決めた。 (ニ) ある日、片方の鹿王の群れの中の妊娠した牝鹿(めじか)に順番が廻って来て、彼女は鹿王に「私のお腹には子供がおりますので、その子を産んでから当番を受けますから、それまで猶予を頂けないでしょうか?」と懇願したが、自分の群れの鹿王は冷たく拒否した。 そこで牝鹿は、もう一方の鹿王(釈迦の前生)のところに行き、このことを訴えた。 こちらの鹿王は「よろしい、わたしがお前の順番を引き受けて上げよう」と言って、自分が身代わりになった。 料理人がそれを見て王様に報告した。 「鹿王よ、私は貴方の身の安全を保証してあげたのに、何故、断頭台に横たわっているのですか?」と聞いた。 鹿王は事情を説明し「ある者が受けるべき死の苦しみを、私の意向で他の者に被(こうむ)らせるわけにはいきません。 私が作った規則を私自身が破ってしまったら、鹿の群れの規律は完全に乱れてしまいます。 そこで私自身が彼女の死を引き受けることにしたのです」と答えた。 王様は、この鹿王の立派な態度に感銘を抱き「黄金色の鹿王よ、私は今まで人間の中でも、それほどの忍辱・慈悲・憐れみの徳を備えた者を見たことがありません。 貴方のお陰で私の心は清まりました。 お立ちなさい、貴方にも彼女にも安全の保証をあげましょう」と言うと「大王様、私たち二人だけは安全を保証されて、群れの統治ができるのでしょうか?」王は「では皆の命を保証します。 森に帰してあげます」 と約束した。 鹿王が「でも、鹿だけが殺されないで森に住むと、他の動物に申し訳ないと思います」と言うと、王は「自分のことより皆のことを思うあなたの性格が、誠に素晴らしい。 今日から、私の国の全ての生き物の命を、大事に守ってあげましょう。 今日から、殺生をやめます」と、約束した。 その後、鹿たちが人々の穀類を食べても、人々は安全を保証された鹿を乱暴に追い払うことが出来なくなった。 人々は宮廷に集まってこのことを訴えると、王様は「私は信仰心の故に黄金色の鹿王と約束したのであるから、たとえ私が領土を失っても、この約束は破らない」と答えた。 これを知った黄金色の鹿王は鹿たちを集め「これからは人々の穀類を食べて迷惑をかけてはいけない」と諭(さと)し、そして人々には、鹿が入ると困る場所に葉を結びつけて目印にするように言った。 それ以来、どの田にも目印として葉を結びつる風習ができ、そこに立ち入る鹿はいなくなった。 明治五年 1872 鉄舟が三十七歳の時、西郷隆盛のたっての依頼により10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えた。 そして明治天皇の教育に腐心し、それが成ると、10年後に約束通り官職を退(しりぞ)いた。 「やはり明治天皇が偉大な天皇でいらしたという気持ちは強くありますね。 私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。 私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様(明治天皇)を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。 山岡は賊軍であ幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。 そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転(ころ)がしてしまう。 わざと負けてあげて、「お強いですね」と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。 さすが剣と禅の達人であった山岡です。 山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた」(寛仁親王・談)。 若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。 日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。 また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。 しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 鉄舟は、生涯ただの一度も人を斬ることなく、そればかりか、動物に対する殺生さえも戒めた人物で、「無刀流」の極意も「無刀とは、心の外に刀なきなり。 敵と相対するとき、刀によらずして心をもって心を打つ。 これを無刀という」といっているように、刀を使用することを禁じた剣法だった。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従(鉄舟が侍従に任ぜられた鉄舟37才、天皇20 才)になった。 髭をたくわえた容貌から「ヒゲの殿下」の愛称で国民に親しまれる。 一方で良く繊細な面を垣間見せることもあり、若いころは社会福祉に熱心に取り組もうとしても自分の行動が皇族としての身分に制約されることに悩み、結局離脱する事は無かったものの、一時「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせたこともあった。 (ニ) ある時、若き明治天皇が酒の席で、侍従の鉄舟に相撲をいどんだ。 無論、鉄舟は断った。 すると天皇は「それなら座り相撲じゃ」といきなり飛びかかった。 が、剣禅一如で鍛えた鉄舟の体は微動だにしない。 意地になった天皇は、拳をかためて鉄舟の目を突こうとした。 さすがに鉄舟も体をよけたが、そのため天皇はもんどり打って倒れ、顔をすりむき血が滲(にじ)んだ。 さあ大変と、周囲のものが騒ぎ立てて、鉄舟にお詫びしろとすすめた。 だが鉄舟は頑として応じない。 そして、こういった。 「一身は、もとより陛下にお捧げしたものだから眼の一つや二つは惜しくはない。 だが、陛下が酔狂で臣下の眼を砕かれたとあっては、後世「暴君」の汚名を冠せられることになるだろう。 それでは侍従とはいえない。 もし陛下が、拙者の処置がまちがえていると仰せなら、この場を借りて腹かき切ってお詫び申し上げるが、いかが」。 天皇はそれを聞いて「私のほうが浅慮であった」と即座に謝ったと言う。 鉄舟が、10年間の期限を切って侍従に就いたのは、金や名誉のためではない。 ただひたすら名君になってもらいたかったからだ。 だから彼は、その俸禄をほとんど困った人にあげて、自分は死ぬまで清貧を通した人でもあった。 酒は気心許した人と飲むのが一番で、明治天皇の御酒宴に付き合う人は、明治天皇が気を許した人物ということになり、その人物の一人に山岡鉄舟がいた。 片岡侍従が「国家を治める大本は、道徳にありと存じます」。 すると天皇は、鉄舟の意見を求められた。 鉄舟は「恐れながら、法律のみをもって、お治めになりますれば、人民は伊勢の皇大神宮を拝まぬようになりはせぬかと、存じます」と答えた。 小話891 「雪のように白い、美しい娘キオネと二人の神(アポロン神とヘルメス神)」の話・・・ (一) ギリシャ神話より。 北風の神ボレアスは、天に輝く星の神アストライオスと暁の女神エオスの息子で、兄弟に、ゼフュロス(ゼピュロス)、ノトス、などの風の神がいた。 北風の神ボレアスは暴力的な荒々しさを持っていて、彼はある時、アテナイ王エレクテウスの美しい娘オレイテュイアに言い寄るが、拒絶されてしまった。 激怒した北風の神ボレアスは、彼女がイリソス河畔の草原で踊っているのを見つけると、雲に包みトラキアまで連れ去ってしまった。 そこで彼女との間に、カライスとゼテスという双子の息子とキオネとクレオパトラという娘を生んだ。 (二) 北風の神ボレアスの娘キオネの、その名は「雪のように白い」という意味で、14歳の適齢期になると、その美しさに、大神ゼウスの息子である太陽神アポロンと伝令、泥棒の神ヘルメスが彼女に求婚した。 太陽神アポロンは、老婆に姿を変えて彼女に近づき、同じく伝令、泥棒の神ヘルメスは杖で彼女の唇に触れて眠らせて、二人は彼女と無理矢理、関係を結んだ。 そして彼女は、アポロン神の息子であるピラムモン(高名な吟遊詩人でデルポイで開かれる多くの音楽大会で勝利を収めた)、ヘルメス神の息子であるアウトリュコス(嘘と盗みの名人)という双子の神の子を生んだ。 彼女が生んだ双子は神の力を継ぎ、素晴らしい青年に成長した。 キオネはそれに満足し、いつかしか誇らしげになった。 そして、その慢心が彼女の命を落とすことになった。 ある時、月と狩猟の処女神アルテミスと比べて、自分の方が美貌で素晴らしいと口にしてしまった。 それに激怒した月と狩猟の女神アルテミスは、矢を放ちキオネの胸を貫いた。 キオネの死を悲しんだ太陽神アポロンは、彼女を鷹に変えられたという。 又は、神を欺(あざむ)いた男、コリントス王シシュポス) 」の話・・・を参照。 鉄舟は幕府の中堅旗本、小野高福の4男として生まれた。 旗本の子として生まれた鉄舟は、まず神陰流を学んだ。 そして父が飛騨郡代として赴いた際、同行し、そこで北辰一刀流の使い手、井上八郎と出会い、北辰一刀流を学ぶことになった。 父の死によって江戸に戻った鉄舟は、北辰一刀流の玄武館にて本格的に剣術を学ぶことになった。 そこでは「鬼鉄」とよばれて、修行を重ね、講武所の師範代を勤めるほどになった。 それ以前、鉄舟は高橋泥舟の兄の山岡静山に槍をまなんでいたが、静山の急死後、その妹を娶(めと)り山岡家を継ぐことになった。 鉄舟の義兄、高橋泥舟は幕府講武所教授になり、幕臣攘夷派(幕府として外敵を追い払って国内に入れないこと)が泥舟の元に集まって、浪士隊を結成し、上洛する第14代将軍、家茂(いえもち)の護衛として京へ送り込むことにした。 文久三年(1863年)山岡鉄舟は親交の深い清川八郎(きよかわはちろう)と共にその取締役となった。 ところが上洛すると清川八郎は、以後、浪士隊は尊王攘夷派(天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退)のために働くと発言した。 その清川八郎が幕府の刺客に暗殺された後に、山岡鉄舟らの浪士隊は江戸に戻ったが、京に残った一隊は近藤勇らで、後に新選組を結成した。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 庄内藩の郷士の子。 弱冠25歳を以って江戸神田三河町に『清河塾』を開いた。 剣は、千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、後に北辰一刀流兵法免許を得る。 はじめ尊王攘夷運動に参加したが、寺田屋事件に失望して、幕臣攘夷派になり浪士隊結成に参加。 幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺される。 享年34歳。 槍術家で講武所師範役。 鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜 とくがわ・よしのぶ に恭順説を説き、上野寛永寺で慶喜を護衛した。 山岡鉄舟・勝海舟とともに幕末の三舟と称された。 勝海舟は後年、高橋泥舟を評して言った「あれは大馬鹿だよ。 物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守(天皇より従五位下伊勢守を叙任)になった男さ。 あんな馬鹿は最近見かけないね」。 槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛した言葉であった。 (二) 慶応四年 明治元年=1868年 1月の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍が敗れて、2月に時の第15代将軍、慶喜(よしのぶ)は江戸に戻ると、上野大慈院に謹慎した。 やがて、幕府の方針は、主戦論を退けて恭順にきまり、勝海舟が幕府軍の総大将、陸軍総裁に就任した。 その頃、高橋泥舟は、慶喜警護と江戸市中警護を行う精鋭隊を結成した。 将軍慶喜は、恭順の意と江戸城攻撃中止を東征大総督府参謀の西郷隆盛に申し入れる使者として高橋泥舟を選んだ。 しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。 そこで泥舟は、義弟の山岡鉄舟を推薦した。 鉄舟は将軍慶喜に会い、直接命を受けると、それから陸軍総裁、勝海舟を訪れた。 この時のことを山岡鉄舟は「国家百万の生霊に代わって生を捨つるは、素(もと)より余が欲するところなりと、心中晴天白日のごとく一天の曇りなき赤心を抱いて」と自ら記した。 又、勝海舟は薩長の官軍の後ろ盾には、イギリス(フランスは幕府を支援)いることを見抜いていた。 将軍・慶喜が「薩長軍に勝てるか?」との問いに、勝はこう答えた「東征軍は撃退できます。 わざと箱根を越させておいて、海軍を背後に回して東海道を切断する。 そのうえで袋叩きにしちまえば、目先の勝利は請け合いです。 但し、薩長軍は結局は英国の手先だから、英国の後押しがある限り何度でも攻めて来ます。 それじゃどうでも最終的には、こっちの勝ちはありません。 日本が内戦で破滅し、列強侵略を招くだけです。 そんなことになるくらいなら、徳川家の降伏によって国を救う方が立派でしょう」。 (三) 3月5日、勝海舟は山岡鉄舟を呼び寄せて面会した。 時に鉄舟(鉄太郎)三十三歳、勝海舟四十六歳、これが初対面であった。 「旗本、山岡鉄太郎に逢う。 一見その人となりに感ず」(海舟日記より)。 海舟は「徳川家存亡の話」をしたのだが、使者としてもっとも有能な男を彼はそこに発見した。 顔には誠実がみなぎり、頭もよくまわり、死ぬ覚悟もみてとれた。 勝海舟は高く鉄舟を買った。 失敗すると大変なことになるが、この男を使者として行かせ、もしうまくゆかないのなら、誰がいっても同じ事だと感じた。 勝海舟に「何か策はあるのか?」と問われて鉄舟は「臨機応変は胸中にあり」と答えた。 勝海舟は。 旧知の仲である西郷隆盛への手紙を鉄舟に託し「口上での談判はおぬしに一任する。 うまくやってくれ」と言って、案内役に薩摩藩の益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)をつけた。 駿府(すんぷ=静岡市)にある官軍の東征大総督府参謀の西郷隆盛の元へ向かう為だが、沿道には官軍鉄砲隊の兵士たちが警備している中、鉄舟は「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎。 大総督府へまかり通る!」と、大声で名乗りを上げつつ、堂々と通り抜け、この度胸に兵士たちは茫然として誰何(すいか)する者もなかった。 こうして3月9日に山岡鉄舟は、西郷隆盛と会見した。 このとき、西郷隆盛が降伏条件として示したのは、 1 「江戸城を明け渡すこと」 2 「城中の人数を向島に移すこと」 3 「軍艦を渡すこと」 4 「兵器を渡すこと」 5 「徳川慶喜を備前藩(岡山県)へあずけること」の五箇条であった。 鉄舟は条件をもっともだと思った。 しかし、鉄舟は慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しなかった。 「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか?」といって、西郷の顔を睨んで目を離さなかった。 やがて鉄舟の命を賭けた決意が西郷の心を動かし「将軍のこと、この西郷が一身をもってお引き受けいたす」(結局、徳川慶喜は国替えで駿府藩(静岡県)に移された)との確約を得た。 これを受けて3月14日、勝海舟は高輪の薩摩藩邸で西郷隆盛と会い、会談(有名な「江戸城明け渡し会談」)の末、江戸無血開城をなしとげ、江戸が火の海になるのを救った。 幕臣である勝海舟から倒幕の話が出たので、西郷隆盛は驚嘆したという。 勝海舟の使者山岡鉄舟に同行、駿府の官軍本営に赴き、西郷・勝会談の周旋に協力。 鉄舟が出頭すると、村田新八(西郷隆盛に従って国事に奔走)が出てきて言った「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。 その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。 しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。 あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。 他に御用のおもむきはない」。 鉄舟は「それはそうだろう。 わたしは江戸っ子だ。 足は当然速い。 貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別れるたという。 海舟が「それはどういう意味だ?」と問うと「命もいらず、名もいらず、官位もいらず、金もいらぬという人は始末に困る。 だが、この始末に困るような男でなくては、大事はできない。 なぜならば、こういう人はただ単に無欲というだけでなく、日々、道を行っているからだ。 正しい道を歩き続けているからこその自信があって、何もいらぬといえるのである」と西郷が答えた。 (「西郷南州遺訓」より) 小話146 「幕末の三人の男」の話・・・を参照。 そのためには相当の衣食費を賜っておる。 何ぞ別に勲章を受くべき理由はあるまい」と拒絶され、勲章が欲しくて堪らない井上馨(第一次伊藤内閣の外務大臣)が困ったという。 小話889 「王申(おうしん)の禍(わざわい)」の話・・・ (一) 唐の貞元(ていげん)年間のことである。 望苑(ぼうえん)駅の西に王申(おうしん)という百姓が住んでいた。 彼は奇特(きどく)の男で、路(みち)ばたにたくさんの楡(にれ)の木を栽(う)えて、日蔭になるような林を作り、そこに幾棟の茅屋(かやや)を設けて、夏の日に往来する人びとを休ませて水をのませた。 役人が通行すれば、別に茶をすすめた。 こうしているうちに、ある日ひとりの若い女が来て水を求めた。 女は碧(あお)い肌着に白い着物をきていた。 「わたくしはここから十余里の南に住んでいた者ですが、夫に、死に別れて子供はなし、これから馬嵬(ばかい)駅にいる親類を頼って行こうと思っているのでございます」と、女は話した。 その物言いもはきはきしていて、その挙止(とりなし)も愛らしかった。 王申(おうしん)も気の毒に思って、水を与えるばかりでなく、内へ呼び入れて、飯をも食わせてやって、きょうはもう晩(おそ)いから泊まってゆけと勧めると、女はよろこんで泊めて貰うことになった。 (二) その明(あ)くる日、ゆうべのお礼に何かの御用を致しましょうというので、王(おう)の妻が試しに着物を縫わせると、針の運びの早いのは勿論、その手ぎわが実に人間わざとは思われないほどに精巧を極(きわ)めているので、王申も驚かされた。 殊(こと)に王の妻は一層その女を愛するようになって、しまいには冗談のようにこんな事を言い出した。 「聞けばお前さんは近しい親類もないということだが、いっそ私の家のお嫁さんになっておくれでないかね」。 王(おう)の家には、ことし十三になる息子がある。 十三の忰に嫁を迎えるのは珍しくない。 両親も内々相当の娘をこころがけていたのであった。 それを聞いて、女は笑って答えた。 「仰しゃる通り、わたくしは頼りの少ない身の上でございますから、もしお嫁さんにして下されば、この上もない仕合わせでございます」。 相談はすぐに決まって、王の夫婦も喜んだ。 善は急げというので、その日のうちに新しい嫁入り衣裳を買い調えて、その女を息子の嫁にしてしまったのである。 (三) その日は暮れても暑かったが、この頃ここらには盗賊が徘徊するので、戸締りを厳重にして寝ると、夜なかになって王の妻は不思議の夢をみた。 息子が散らし髪で母の枕元にあらわれて、泣いて訴えるのである。 「わたしはもう食い殺されてしまいます」。 妻はおどろいて眼をさまして、夫の王(おう)をよび起した。 「今こんな忌(いや)な夢をみたから、息子の部屋へ行って様子をみて来ましょうか」。 「よせ、よせ」と、王は寝ぼけ声で叱った。 「新夫婦の寝床をのぞきに行く奴があるものか。 おまえはいい嫁を貰ったので、嬉しまぎれにそんな途方もない夢をみたのだ」。 叱られて、妻もそのままに眠ったが、やがて又もや同じ夢をみたので、もう我慢が出来なくなった。 再び夫をよび起して、無理に息子の寝間へ連れて行って、外から試みに声をかけたが、内にはなんの返事もない。 戸を叩いてもやはり黙っているので、王(おう)も不安を感じて来て、戸を明けようとすると堅くとざされている。 思い切って、戸をこじ明けてはいってみると、部屋のうちには怖ろしい物の影が見えた。 それはおそらく鬼とか夜叉(やしゃ)とかいうのであろう。 からだは藍(あい)のような色をして、その眼は円く晃(ひか)っていた。 その歯は鑿(のみ)のように見えた。 その異形(いぎょう)の怪物はおどろく夫婦を衝(つ)き退(の)けて、風のように表のかたへ立ち去ってしまったので、かれらはいよいよおびやかされた。 して、息子はと見ると、唯(ただ)わずかに頭の骨と髪の毛とを残しているのみで、その形はなかった。 小話888 「古代ローマの稀代の悪女。 第4代ローマ皇帝の皇后となり、暴君ネロ皇帝の母親にして、息子(ネロ皇帝)に殺された美貌のアグリッピナ(小アグリッピナ)の生涯」の話・・・ (一) 古代ローマで残忍な悪女として名高いアグリッピナ(小アグリッピナ)は、アウグストゥス帝(ローマ帝国の初代皇帝)の曽孫であり、第4代ローマ皇帝カリグラの妹であった。 西暦15年11月6日、父親のゲルマニクス(第2代皇帝ティベリウスの甥)が、ガリア地方に遠征中、同行した母親アグリッピナ(大アグリッピナ)が、ライン河ほとりのコロニア・アグリッピネンシスという町(現在のケルン)で彼女を生んだ。 父のゲルマニクスは将来の皇帝とみなされていた人物であったが、西暦19年(4歳)に急死した。 ゲルマニクスの妻アグリッピナ(大アグリッピナ)は時の皇帝ティベリウスを殺害の黒幕と信じて憎悪した。 やがてティベリウス帝の側近の陰謀で、アグリッピナの母や兄たちが相次いで国家反逆罪で流刑、投獄され、その後、獄死した。 西暦28年 13歳)、美しい娘となったアグリッピナは、最初の結婚をした。 相手は帝位継承者の一人、アヘノバルブス(母親は大アントニア(初代皇帝アウグストゥスの姪)で、その一人息子)であった。 第2代皇帝ティベリウスがこの結婚の段取りを決め、ローマで新夫婦は祝福された。 西暦37年 22歳)アヘノバルブスとアグリッピナの間に息子が生まれた。 名前はルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(後のローマ帝国第5代皇帝ネロ)であった。 ネロの出産の前後に第2代皇帝ティベリウスが死去して、第3代皇帝にアグリッピナの兄のカリグラ(カリグラは綽名で「小さな軍靴」の意)が就いた。 彼女は結婚していたが、実の兄、カリグラ帝とは近親姦の関係だった。 しかし、夫のアヘノバルブスの死後、アグリッピナはカリグラ帝から疎(うと)まれるようになり、一時期、陰謀、姦通疑惑で流罪にさせられた。 西暦41年 26歳)にカリグラ帝が暗殺され、クラウディウス(アグリッピナの父ゲルマニクスの弟)が第4代ローマ皇帝に就いた。 アグリッピナは流刑地から戻り、裕福な元老院議員のサルスティウスと2度目の結婚をした。 夫には数年後に先立たれたが、2度目の結婚で彼女は夫の莫大な財産を手に入れた。 西暦49年(34歳)、アグリッピナは、クラウディウス帝の3人目の妻メッサリナが放蕩の末に自殺を命じられると、皇帝の信任篤い解放奴隷のパッラス(解放奴隷ナルキッススの同僚)の手助けによって新しい妃に推薦された。 そして同年にアグリッピナは、クラウディウス帝(アグリッピナの叔父)と結婚し、皇帝の妃となった。 当時、叔父と姪の結婚は、ローマの婚姻法では許されていなかった。 そこで法律を改正しての結婚であった。 イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝で、イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ティベリウス帝のことである。 その謀略と男あさり、そして大胆な恋に生きた短い生涯」の話・・・を参照。 (二) 西暦50年(35歳)、皇后となったアグリッピナは連れ子であるルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(改称してネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス)を第4代皇帝クラウディウスの娘オクタウィア(母親はメッサリナ)と婚約させ、皇帝の養子(皇太子)にした。 ネロ12歳の時であった。 赤ん坊のネロは「足から先に母親の胎内を出てきた(逆子=さかご)」で、赤ん坊が生まれたとき、高名な占星学者は「この子はやがて皇帝になって、母を殺すであろう」と未来を占った。 野心家のアグリッピナは感きわまって「皇帝になってくれさえすれば、殺されたって構うものですか!」(博物学者プリニウス)と叫んだという。 この不吉な予言は、やがて事実となった。 又、ネロが3歳のときに、シチリア島の総督であった父親アヘノバルブスが同地で没した。 父親アヘノバルブスは「わたしとアグリッピナのあいだに生まれる子供は、一個の怪物でしかあり得ないだろう」という言葉を残した。 しかし、ネロは元々、皇帝ではなく詩を書いたりする芸術家になりたかったという。 (三) 第4代皇帝クラウディウスは、暗愚で、虚弱で、酒飲みで、食いしんぼうで、腑抜けのような男だった。 それでも彼には妙な才能があって、歴史学を愛好し、エトルリア語を自由にしゃべった。 皇帝としては有能な政策家で、大きな功績を残したが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない男だった。 そのためアグリッピナは、34歳で皇后になると、絶大な権力を掌中におさめた。 彼女は進んで国政に干渉し、元老院の会議にも出席した。 彼女の肖像をきざんだ貨幣が鋳造され、各地方では、彼女の似姿(にすがた)が神のように礼拝された。 又、彼女の嫉妬深さや残酷ぶりも、夫のクラウディウス帝の三度目の妻メッサリナに劣らず非情なものであった。 皇帝がある日、その美しさを讃(ほ)めたというので、皇后アグリッピナは、その貴婦人を翌日さっそく宮廷から追放した。 また、皇帝争奪戦相手だった貴婦人が処刑されたとき、アグリッピナは、わざわざ斬り落された首を目の前に持ってこさせ、本人かどうか確かめたという。 一方で、彼女は自分の一大野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な手を打った。 当時、コルシカに島流しになっていた高名な哲学者セネカをローマに戻し、若いネロの側近として登用した。 又、ブルルス(後の近衛軍団長官)をネロの側近として抜擢した。 こうして「次期皇帝の母」としての絶大な権力を得たアグリッピナであったが、他方で自分の地位がいつ脅やかされるかと、たえず不安に苦しめられていた。 夫のクラウディウス帝には、三度目の妻メッサリナの間に一男一女をもうけていた。 娘のオクタウィア(オクタヴィア)と息子のブリタニクスで、皇帝クラウディウスから見れば、皇后アグリッピナの息子ネロは、赤の他人の子だった。 ここに、彼女の将来に対する大きな不安があった。 皇帝ネロに仕えたが、のちに謀反の疑いを受け、命令によって自殺した。 常に道義を説き、実践哲学を主張。 著「対話篇」「自然問題集」「道徳書簡」など。 (四) このころ皇帝クラウディウスは、アグリッピナと結婚しネロを養子(皇太子)としたことを、大いに悔やんでいた。 そこで妻アグリッピナをしりぞけ、実の子であるブリタニクス(母親はメッサリナ)を後継者に指名する用意をした。 これらを知った皇后アグリッピナは、夫の皇帝を毒殺することに決意した。 西暦54年(39歳)、皇帝の誕生日を祝う宴会が宮中で催された。 そしてクラウディウス帝は、大好物のキノコ料理を食べて死去した。 こうしてネロは母親の期待通り、第5代ローマ皇帝の位に就いた。 16歳のネロ皇帝は即位以後、5年間は、近衛軍団長官ブルルスや、哲学者セネカらの後見を得て、まれに見る善政を敷き、民衆の間にも声望が高かった。 しかし、若いネロ皇帝は、やがて競争相手の義弟ブリタニクスに不信、疑惑の目を向けると共に、皇太后(こうたいごう=皇帝の母)となった母親アグリッピナの後見が堪えがたい重荷になってきた。 しかし、ネロは勝気で気丈な母親に対しては、幼児の時から恐怖心をいだいていた。 このころ若い皇帝ネロが、その母親を怒らせた事件があった。 それは皇太后の寵臣パルラスの追放であった。 皇太后の公然たる愛人パルラスがともすると横柄な態度に出るので、皇帝ネロは思い切って彼を公職から追放した。 ところ、これが皇太后アグリッピナの逆鱗(げきりん)にふれたのであった。 彼女は若い皇帝ネロを面罵し「お前には皇帝の資格なんてありゃしない。 ブリタニクスこそ正統な帝位の継承者です」といって、息子を弾劾した。 これに皇帝ネロはおびえて慄えあがった。 (五) 追いつめられた皇帝ネロは恐怖心から、母親や義弟ブリタニクスを一挙に除いてしまおうと考えた。 ブリタニクスには、昔から癲癇(かんしゃく)の持病があり、ときどき意識を失うことがあった。 西暦55年(40歳)、17歳の皇帝ネロは宴会の席上で、毒物で動かなくなった16歳のブリタニクスについて「どうせ癲癇の発作だろう。 あいつは子供のころから、いつもこうなんだ。 大したことはあるまい」と言って手当てもせずに死ぬまで放置した。 しかし、一両日のうちに、ブリタニクス毒殺の噂は街々にひろがった。 ここにきて皇太后アグリッピナは、我が子である皇帝ネロの権力を怖れる番になった。 「帝が臥輿 ふこし=人を乗せる乗り物 で母と一緒に運ばれる時はいつも母子相姦の淫欲に耽り、その証拠に服に染みをつけていた」(歴史家、スエトニウス)こうして、彼女は皇帝ネロを懐柔し、反撃の機会を狙った。 だが、17歳の皇帝ネロは、母親の重圧をのがれるために、彼女をパラティヌス丘の宮殿から遠ざけてしまった。 政治の舞台から退いた皇太后アグリッピナの家には、皇帝ネロの支配体制に不満をいだく不平分子たちの集会場となった。 皇帝ネロに冷たくあしらわれていた亡きクラウディウス帝の娘オクタウィアも、この家の常連になった。 (六) 皇帝として独立心が芽生えてきた21歳の皇帝ネロであったが、病的なほど臆病だった彼は、なかなか母親を殺害するまでの決心がつかなかった。 だが、皇帝ネロの側近のなかには、かなり以前から強硬意見を主張する者もあった。 一人は、皇帝ネロの学問上の師であった哲学者のセネカで、温厚な哲学者には、野心家のアグリッピナの振舞が嫌悪の的であった。 もう一人は、当時、皇帝ネロが首ったけになっていた愛人(後に妻となる)のポッパエアであった。 妖艶な美女ポッパエアには、是が非でも皇后の地位につきたいという野心があった。 そのためには、皇太后アグリッピナの存在が何より邪魔だった。 こうしたこともあって皇帝ネロは、ついに母親殺害に踏み切った。 西暦59年(44歳)、皇帝ネロは母親アグリッピナと共に、ナポリに旅行して近郊のバイエアの別荘で母親をもてなした。 そして帰る時、アグリッピナは皇帝ネロが用意した豪華船で帰ることになった。 ところが、豪華船は途中で沈没した。 皇帝ネロは皇太后アグリッピナを溺死させようとしたのだったが、アグリッピナが泳ぎが達者だったことで失敗した。 アグリッピナは九死に一生を得たことを伝える使者を、皇帝ネロの元に派遣した。 だが、皇帝ネロは使者が短剣を所持しているのを理由にして、皇太后アグリッピナが刺客を送り込んだと罪を着せた。 皇帝暗殺の容疑をかけられた皇太后アグリッピナは、邸宅で皇帝の派遣した近衛兵によって殺された。 殺されるときに、近衛兵たちに向かって、皇帝ネロの母親であるアグリッピナは「お腹を刺すがいい。 皇帝はここから生まれたんだから!」と叫んだという。 享年44歳。 (参考) ---------------------------------- (皇帝ネロの後日談) (一) 母親アグリッピナの支配から解き放された皇帝ネロは、次第に残虐、凶暴な性格を現わすようになっていった。 皇帝ネロとその妻オクタウィア(オクタヴィア)の夫婦関係は良くなかった。 そのため皇帝ネロは、若い頃からの遊び仲間であった親友のオト(のちのローマ皇帝)の妻ポッパエアと愛人関係にあった。 西暦62年(24歳)、皇帝ネロは皇后オクタウィアに対し、不妊を理由に離婚を言い渡した。 そして、さらに不倫、姦通(ポッパエアの陰謀による)の罪で皇后オクタウィアを処刑してしまった。 その後、夫のオトと離婚したポッパエアと正式に結婚した。 義弟(ブリタニクス)・実母(アグリッピナ)・妃(オクタウィア)の殺害を貫いた皇帝ネロの姿を見て、側近で皇帝の補佐をしていた哲学者セネカは身の危険を感じ引退した。 その上、同年(西暦62年)に同じく皇帝の補佐をしていた近衛軍団長官ブルルスが没したことで、皇帝ネロの良き指導者の二人は姿を消した。 以後、皇帝ネロは、悪臣の近衛軍団長官ティゲリヌスを重用するようになり、ローマの国政は大いに乱れて行った。 (二) こうした中、西暦64年(26歳)にローマで大火がおこり、市の大半が焼失した。 皇帝ネロは陣頭指揮をとり、民家や道路なども含め、急ピッチで 再建がおこなわれた。 しかし、この時かねてより計画していた「黄金宮殿」の建築を始めてしまった。 火事からわずか2年ほどで、以前よりも美しいローマの街が甦(よみがえ)った。 しかし、ローマ市民は皇帝ネロが「黄金宮殿」の建設を口実として、放火したと噂するようになった。 この噂を抑圧するため、ネロ帝は当時、増えつつあったキリスト教徒に目を向け、大火の責任を彼らに転嫁した。 この時代の皇帝は、現人神(あらひとがみ)として崇拝(皇帝崇拝)する観念を重んじ、皇帝の権威は絶大なものであった。 皇帝崇拝を拒否すると謀反罪に問われるため、キリスト教徒は、常に標的(又、一神教のキリスト教は、多神教であり他の宗教に対しても寛容だったローマの敵)となっていた。 皇帝ネロは皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒を謀反とみなし、未曾有の弾圧(「処刑はまるでスポーツのようだった。 信者は野獣の皮をかぶせられ、猛犬にかみ殺された」(タキトゥス))を行った。 キリスト教の始祖イエスの十二使徒の一人ペテロや、十二使徒ではないが伝道に尽力したパウロらは、この迫害で殉教した。 西暦65年(27歳)、皇后ポッパエアは第2子(第1子は生後、数カ月のちに夭折)を懐妊中、ネロの放蕩に我慢ができず激しく口論した。 そしてネロは、怒りのあまり彼女の腹部を蹴り上げて殺してしまった。 皇帝ネロは悲嘆にくれ、皇后ポッパエアの死後は、ポッパエアに酷似した解放男性奴隷スポルス・サビナを去勢し、花嫁衣装に身を包んだスポルス・サビナと荘厳な結婚式を挙げ、彼を女王と呼ばせた。 こうして、皇帝ネロの性格破綻はますます顕著になっていった。 同じ年には元老院議員のネロ帝暗殺の陰謀が発覚し、これに加担した多数の人物を処刑した。 かつての皇帝の補佐役、哲学者セネカも事件に関与したとして、皇帝ネロに自殺を強要されて、死に至った。 この事件によってネロ帝の恐怖政治は一層エスカレートし、属州(イタリア半島以外の征服地)に重税を負担させ、富裕者から財産を略奪し、拒む者は処刑された。 皇帝ネロに代わる次期皇帝候補の人物も次々に殺して行った。 西暦68年(30歳)、ガリア(現フランス地方)の総督が反乱を起こした。 これがヒスパニア(現スペイン地方)に波及し、同地のガルバ総督が挙兵しローマに進軍した。 そして、この年、ガルバは皇帝即位の宣言を行い、元老院はこれを認め、ネロを「国家の敵」とみなし、ネロ本人が不在のまま「死刑」を宣告した。 元老院、軍隊、市民から見放されたネロはローマを逃れ、西暦68年6月8日、「世界は偉大なる芸術家を死して失う」と泣きながら自殺した。 享年30歳。 死後、ネロの墓参りをして花を供える人々は、長い間、絶えなかったという。 又、ギリシャを初めとする属州ではネロは人望があり、死後もネロを名乗る人物が後を絶たなかったという。 立ち去れ、母親殺しめ。 73という数字が、そなたの没落のときを告げよう」。 皇帝ネロは、73という数字が自分が死ぬときの年齢だと思ったが(当時彼は29歳)、巫女の言葉に激怒し、神官の手足を切り落したあとで、彼らとともに巫女を生き埋めにしてしまった。 その翌年、皇帝ネロは反対派を抑えることができずにローマから逃げ出し、自殺した。 ネロの後継者には、ガルバが選ばれ、そのとき、ガルバは73歳であったという。 当時の有名な書家である長三州は、山岡鉄舟が一日に五百枚、千枚でも書いてしまうことを聞いて「そんなに書けるものではない」と信じていなかった。 それを聞いた鉄舟は「長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけもない」(うまく書こうなどと思わず無心に書いた)と答えた。 山岡鉄舟は一生、赤貧(せきひん)洗うが如くであったが、揮毫(きごう)することにより、社会公益事業、教育事業、災害救助、各寺院の復興をした。 揮毫したときの謝礼を、これらに充てることにより寄付行為をしたのであった。 鉄舟は、揮毫の謝礼を頂くと「ありがとう」といって快く受け、そのまま本箱の中にしまった。 その後、困ったものが来て救助を頼まれると、自身で玄関に出ていきその実状を見て、例の本箱の中より、相応の恵みをした。 鉄舟門下の千葉立造がこれを見て「先生は、ご揮毫のお礼をみんな人におやりになってしまうのですか?」と質問したところ「字を書いて礼を取る気持ちはないが、困っているものにやりたいと思っているから、頂ければそのまま有り難く頂戴しているのだ」と答えた。 ある人が鉄舟に「海舟さんや泥舟さんは大いに自重されているが、先生のように無造作に揮毫されていると書の値打ちがなくなりなりますよ」と言うと鉄舟は「おれのような者にも頼む人がいるので、断るのも悪いから書いているのであって、書を売るのではないから値打ちがあろうがあるまいが関係ない」と気にかけなかった。 鉄舟の書は、年齢に応じて変化してきたので「活(いき)きている」といわれていた。 又、揮毫の一枚一枚に対し「衆生無辺誓願度 しゅじょう・むへん・せいがんど=生きとして生きる物をすべて救済するという誓願 」と唱えながら書いたという。 通称は鉄太郎(鐵太郎)。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 鉄舟の書を初めて見たときに「これ程の達者とは思わなかった」と述べ「草書では三百年来の書き手であると感嘆」しのている。 鉄舟の書は本物であった。 特に、知名人が頼まれて書をかくこと。 勝海舟は理知の人、山岡鉄舟は情熱の人、高橋泥舟は士道の人とも言われた。 (ニ ある時、山岡鉄舟のところに牛屋(牛肉屋)が、店の看板の揮毫(きごう)を依頼しにやって来た。 すると門人達は立腹して「不届きの牛屋め、恐(おそ)れおおくも鉄舟大先生に対して、貴様のところの看板を書けとは何事だ。 無礼極まる」とその軽率をとがめた。 すると蔭からその声を聞きつけた鉄舟は、直ちに彼らを止めて「何かまわん、わしが書いた看板で商売の繁盛(はんじょう)ができたら、この上もない結構なことだ」と言って、直ちに書いてやり「拙者は書を商売にするものではない。 書いてくれという者には、誰でも書いてやる。 露店の看板でも、出産届けでも、手紙でも証文でも何でも書いてやる」と言ったという。 又、ある日、鉄舟が柳原を散策していると、鉄舟自筆の書が骨董店に並んでいた。 しかし一見して贋物だということがわかったが、よくよく見てみると筆意玄妙(ひついげんみょう)、はるかに自分に勝るところがあり、鉄舟は感心してこれを買い求め、我が居室に飾ったという。 山岡鉄舟は45歳で大悟し、49歳で更に悟りを深めた。 以後、亡くなるまでの8年間で百万枚を揮毫したという。 鉄舟自身、国民全員に一枚づつ渡すつもりだったというからその気概は凄い。 日本の人口が当時 3500万人だった。 又、鉄舟は幼少の8、9歳のころから母に習字を学び、11歳より富田鉄斎に、習字と素読を。 15歳で岩佐一亭に書法を学んだ。 ネズミが顔を駆け抜けたのだ。 ライオンは、いきりたってネズミを捕まえると殺そうとした。 ネズミは、必死に哀願した。 「命を助けて下されば、必ず恩返しを致します」。 ライオンは、鼻で笑ってネズミを逃がしてやった。 それから数日後、ライオンは、猟師の仕掛けた網にかかって動けなくなってしまった。 ネズミは、ライオンのうなり声を聞きつけると、飛んで行き、歯でロープを、ガリガリとかじり、ライオンを逃がしてやった。 ネズミは、得意になって言った。 「この前、あなたは私を嘲笑しましたが、私にだって、あなたを、助けることができるのですよ。 どうです。 立派な恩返だったでしょう?」。 (二)「炭屋と洗濯屋」 あるところに、働き者の炭屋が住んでいた。 ある日のこと、炭屋は友人の洗濯屋にばったり出合った。 そして洗濯屋に、自分の所へ来て、一緒に住まないか? そうすれば、家計は助かるし、一生楽しく暮らせるからと熱心に誘った。 すると、洗濯屋はこう答えた。 「私は、あなたと住むことなどできません。 だって、私が洗濯して、白くしたそばから、あなたは、黒くしてしまうでしょうからね」。 (水と油は混ざらない) (三)「父親とその息子たち」 その男には、息子が大勢(おおぜ)いたのだが、兄弟喧嘩が絶えず、いつもいがみ合ってばかりいて、父親が止めても、喧嘩をやめないというありさまだった。 この期に及んで、父親は、内輪もめが如何に愚かなことであるかを、教え諭さなければならぬと痛感した。 ころ合いを見計らって、男は息子たちに、薪(まき)の束を持ってくるようにと言いつけた。 息子たちが薪の束を持って来ると、男は、一人一人にその束を手渡し、そして、それを折るようにと命じた。 息子たちは、懸命に力を振り絞ってみたが、薪の束はびくともしなかった。 そこで、男は、束をほどくと、今度は、一本一本バラバラにして、息子たちに手渡した。 すると息子たちは、たやすく薪を折った。 そこで、彼は息子たちに、こんなことを語って聞かせた。 「よいか、息子たちよ。 もしお前たちが、心一つに団結し、互いに助け合うならば、この薪の束のように、どんな敵にもびくともしない。 しかし、互いがバラバラだったなら、この棒きれのように、簡単にへし折られてしまうのだ」。 小話885 「空から落ちた久米仙人」の話・・・ (一) 今は昔、大和国吉野郡に竜門寺という寺があった。 寺には二名の者がこもり、仙人になる修行をしていた。 その仙人の名を、一人は「あづみ」と言い、もう一人を「久米」と言った。 その後、あづみは先に修行を成し遂げ、飛んで空に昇って行ってしまった。 続いて久米も仙人となり、空へ昇り飛んでいると、吉野川のほとりに、若い女が衣を洗っていた。 衣を洗おうと、女はふくらはぎまで裾(すそ)をめくりあげると、ふくらはぎのその白さを見て、久米は心けがれてその女の前に墜落した。 その後、その女を妻として暮らした。 久米の仙人修行の様子は菅原道真(すがわら・みちざね)によって竜門寺の扉に記されている。 それは消えずに今もある。 その久米の仙人は、ただの人になり下(さ)がり、馬を売ったときには証文に「以前は仙人だった、久米」と書いて渡した。 宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。 901年、藤原時平の讒訴 ざんそ で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。 没後学問の神天満天神としてまつられた。 (二) それから、久米の仙人は、その女と夫婦暮らしをしている頃、天皇が、その国の高市郡に都を造ることになり、大和国の人足を集めてとりかからせた。 そのとき、久米も人夫として駆り出された。 他の人夫たちは、久米を「仙人、仙人」と呼ぶ。 役人の者たちが、それを聞き「お前たちはなぜその男を仙人と呼ぶのか」と尋ねた。 光明皇后とともに仏教を厚く信仰。 全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した。 (三) 役人らは、それを聞き「では、ただ者ではないのだな。 もとは、仙術の修行をして一度は仙人となった者だ。 その徳は失われてはおるまい。 それなら、このたくさんの材木を自分たちで運ぶよりは、仙術でもって飛ばさせればよかろう」と冗談半分に言っているのを、久米が聞き「私は仙術を忘れ、ずいぶん時が経ちます。 今はただの人間に過ぎません。 そのような霊験は施せないでしょう」と言った。 それでも、心の中では、「私は仙術を会得したといえども、凡夫の愛欲のために、女性に心を穢(けが)してしまい、もはや仙人とはなれまいが、長い年月、身を修めた法だ、ご本尊もお見捨てにはなるまい」と思い、役人らに向かって「しかしながら、できるかどうかわかりませんが、試しに祈ってみましょう」と言った。 役人は、これを聞き「なんてことを言う奴だ」と思いながら「まことに貴いことだ」と答えた。 (四) その後、久米はとある静かな道場にこもり、心身を清め、断食を行い、七日七晩の間、休むことなく礼拝を続け、心をひたすらこめてこれを祈った。 そうして、七日が過ぎた。 役人らは、久米の姿が見えないのを、笑ったり、疑ったりしていた。 そして、八日目の朝になると、にわかに空が掻(か)き曇り、闇夜の如くなった。 雷は鳴り、雨が降り、何ひとつ見えなくなってしまった。 それを不思議に思っていると、しばらくして雷は止み、空が晴れてきた。 そのとき見れば、大きなものから小さなものまで多くの材木が、皆、南の山の斜面の材木置場から空を飛び、都を造るところへと行ったのだった。 そのときに、多くの役人たちは、敬(うやま)い貴(とうと)んで久米を拝んだ。 その後、このことは天皇にも伝えられた。 天皇もこれを聞き、貴び敬い、免田三十町を久米に与えた。 久米は喜び、その田(免田)によって、その郡にひとつの伽藍(がらん)を建てた。 久米寺というのが、それである。 その後、高野山の弘法大師(空海)が、その寺に丈六(じょうろく=4. 85メートル)の薬師三尊を、銅で鋳造して奉った。 大師は、その寺で大日経を見つけ、これぞまさしく「速やかに仏となるべき教えである」として、唐へ真言密教を習いに渡ったという。 こうした経緯から、立派な寺である、と語り伝えられているという。 85メートル)・・・仏陀の身長と伝えられ、仏像最大の大きさとされる。 それ以上のものは「大仏」。 以下、原文。 「今昔、大和国、吉野の郡、竜門寺と云寺有り。 寺に二の人籠り居て仙の法を行ひけり。 其仙人の名をば、一人をあづみと云ふ、一人をば久米と云ふ。 然るに、あづみは前に行ひ得て既に仙に成て、飛て空に昇にけり。 後に久米も仙に成て、空に昇て飛て渡る間、吉野河の辺に、若き女衣を洗て立てり。 衣を洗ふとて、女の脛まで衣を掻上たるに、脛の白かりけるを見て、久米心穢れて其女の前に落ぬ。 其後、其女を妻として有り。 其仙の行ひたる形于竜門寺に其形を扉に北野の御文に作て出し給へり。 其れ不消して于今有り。 其久米の仙、只人に成りにけるに、馬を売ける渡し文に「前の仙、久米」とぞ書て渡しける。 然る間、久米の仙、其女と夫妻として有る間、天皇、其国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内に夫を催して其役とす。 然るに、久米其夫に被催出ぬ。 余の夫共、久米を、「仙人々々」と呼ぶ。 行事官の輩有て、是を聞きて云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。 夫共答て云く、「彼の久米は、先年竜門寺に籠て仙の法を行て、既に仙に成て、空に昇飛渡る間、吉野河の辺に、若い女、衣を洗ひ立てりけり。 其女のかかげたる脛白かりけるを見下しけるに、(欲を生じ、女の)前に落て、即ち其女を妻として侍る也。 然れば、其れに依りて、仙人とは呼ぶ也」。 行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。 本、仙の法を行て既に仙人に成にける者也。 其行の徳定めて不失給。 然れば、此の材木多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て空より飛めよかし」と戯れの言に云い合へるを、久米聞きて云く、「我れ仙の法を忘れて、年来に成ぬ。 今は只人にて侍る身也。 然計の霊験を不可施」と云て、心の内に思はく、「我れ仙の法を行ひたりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ、年来、行ひたる法也、本尊何か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。 行事官、是を聞て、「嗚呼の事をも云ふ奴かな」と乍思、「極て貴かりなむ」と答ふ。 其後、久米一の静なる道場に籠り居て、心身清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此事を祈る。 而る間、七日既に過ぬ。 行事官等、久米が不見る事を且は咲ひ、且は疑ふ。 然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り、暗夜の如く也。 雷鳴り雨降て、露物不見え。 是を怪び思ふ間、暫計有て雷止り空晴れぬ。 其時に見れば、大中小の若干の材木、併ら、南の山辺なる杣より空を飛て、都を被造る所に来にけり。 其時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す。 其後、此事を天皇に奏す。 天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田三十町を以って久米に施し給ひつ。 久米喜で、此の田を以て、其郡に一の伽藍を建たり。 久米寺と云ふ、是也。 其後、高野の大師、其寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。 大師、其寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に可成き教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。 落語の三遊亭円朝は、江戸から明治にかけて生きた落語家で、名人としてその名を歴史に残した。 しかしそんな不世出の天才と言われる円朝も、初めから、すごい噺家(はなしか)だったわけではなかった。 彼も自分の芸を磨いているうちに、自分の限界に差し掛かかった。 それで座禅を組むようになり、偶然、「剣禅一如」の剣客、山岡鉄舟と知り合う機会を得た。 ある時、鉄舟が円朝に言った「あんたは噺家(はなしか)らしいが、わしは子供のとき母から桃太郎の話を聞いて実に面白かった。 おまえ、ひとつ、今日は桃太郎を一席語ってくれんか?」。 この申し出に円朝はためらった「なんで今、この俺が、桃太郎のような昔話をしなきゃならないんだ!」と円朝は結局、鉄舟の言った桃太郎の話をしなかった。 江戸の人。 人情噺 ばなし を大道具・鳴り物入りで演じて人気を博したが、のち素噺 すばなし に転向。 近代落語の祖。 代表作「真景累ヶ淵」「怪談牡丹灯籠」「塩原多助一代記」など。 旧幕臣で「無刀流」剣術の流祖。 戊辰 ぼしん 戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。 明治維新後、新政府に仕え、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任の後、明治天皇の侍従になった。 だが、高橋泥舟は何か円朝の噺に物足りなさを感じ、そこで義弟の山岡鉄舟に相談に乗ってやれ、と頼んだことがきっかけであったという。 (ニ) 山岡鉄舟が帰っても、円朝の頭の中では「桃太郎」の噺(はなし)が引っかかっていた。 「なぜ?俺に桃太郎なんだ?」と疑問を抱くつつ円朝は、自分で桃太郎を、手直して、高座でも演じるようになった。 そして大衆には好評を博した。 そこで鉄舟に会った折りに「山岡様、この前、できなかった桃太郎の噺をさせてください。 是非、聞いてもらいたいんです」と言った。 すると山岡は眼光(がんこう)鋭く、小柄な円朝をにらみ据えて、こう言った「もういいですよ。 あの時は、母親が、昔話してくれた昔話を、有名な噺家のあんたさんが、どう話すか、聞いてみたかったんですよ。 ただね、円朝さん、舌で話してはいけませんよ」。 またしても、円朝は、ショックを受けた。 その証拠に彼は、その後、一言も声が出せなかった。 円朝の心は揺れた。 「時節を逃したってことか?それに舌で話すなって、いったいどんな意味なんだ。 口や舌で話さないで、どこで話すと言うんだ、いったい?」と円朝と迷いに迷ってしまった。 (三) しかしそんなこととはお構いなしに、円朝の人気は、ますます高まっていった。 だが円朝の頭の中では、常に「舌で話すな」という鉄舟の言葉が、引っかかっていた。 ついには頭の中が、真っ白になって鉄舟を訪ねて、頭を下げた「先生、どうか、あっしを弟子にしてやっておくんなさい。 どうすれば舌を使わない噺(はなし)ができるようになるでしょうか?」。 山岡は、即座に、ただ一言「無」と答えた。 この「無を発する時点で、鉄舟自身は、円朝が、近々(きんきん)悟りを開いて、本当の名人になることを分かっていた。 だから「無」という問いを最後に与えたのであった。 それから二年の間、円朝は、無心になって、座禅を組み、己の舌を無くす修行に取り組んだ。 すると答えは、向こうから、自然にやってきた。 「舌で語るからいけない。 心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」と、どこからか、そんな言葉が聞こえてきた。 そしてその成果を、鉄舟に披露する時が来た。 もちろん噺は「桃太郎」だが、鉄舟は噺など聞いていない。 ただ心の眼で、じっと円朝の心を観ていた。 そして「円朝さん、今日の噺はいいね。 実にいい。 真がある」と言った。 後(のち)に山岡鉄舟は、天竜寺管長の由利滴水禅師(鉄舟に禅の指導をした)と相談し、三遊亭円朝に「噺家は舌をなくしてこそ名人」と言って「無舌居士」という法名を与えた。 そして円朝の墓銘には、生前の山岡鉄舟が書いて与えた「三遊亭円朝無舌居士」という字が並んでいるという。

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