少年 の 日 の 思い出 bl。 少年の日の思い出の感想文

少年の日の思い出の感想文

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起こったこと• 先生の息子・エーミールが珍しいヤママユガをつかまえる• ぼくは どうしても見たくなりエーミールの家を訪れたが、彼はいなかった• 気の迷いか、ぼくはヤママユガを持ち出して 盗んで しまう• ぼくは思い直して元に戻すが、ヤママユガは壊れてしまった• その日のうちに、ぼくはエーミールに謝りに行く• エーミールは ぼくを軽蔑する• ぼくは 自分のチョウやガの収集を粉々にしてしまう エーミールに軽蔑されたことが、ぼくにとっては悔しく苦い思い出になったのですね。 ぼくと対象的なエーミール ぼくと対象的なエーミール。 彼は非のうちどころがない、あらゆる点で模範少年です。 ぼくは彼をねたみ、憎んでいました。 初めて『少年の日の思い出』を読んだとき、穏やかならぬものを感じました。 相手がエーミールでなかったのなら、ここまで苦い思い出にはならなかったのかもしれません。 羨ましがったり妬んだり。 他人と自分を比べてしまうと、そんな感情が生まれます。 仕方ないことだけど・・・。

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【助けて】「少年の日の思い出」の続編【宿題】

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起こったこと• 先生の息子・エーミールが珍しいヤママユガをつかまえる• ぼくは どうしても見たくなりエーミールの家を訪れたが、彼はいなかった• 気の迷いか、ぼくはヤママユガを持ち出して 盗んで しまう• ぼくは思い直して元に戻すが、ヤママユガは壊れてしまった• その日のうちに、ぼくはエーミールに謝りに行く• エーミールは ぼくを軽蔑する• ぼくは 自分のチョウやガの収集を粉々にしてしまう エーミールに軽蔑されたことが、ぼくにとっては悔しく苦い思い出になったのですね。 ぼくと対象的なエーミール ぼくと対象的なエーミール。 彼は非のうちどころがない、あらゆる点で模範少年です。 ぼくは彼をねたみ、憎んでいました。 初めて『少年の日の思い出』を読んだとき、穏やかならぬものを感じました。 相手がエーミールでなかったのなら、ここまで苦い思い出にはならなかったのかもしれません。 羨ましがったり妬んだり。 他人と自分を比べてしまうと、そんな感情が生まれます。 仕方ないことだけど・・・。

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ヘルマンヘッセ『少年の日の思い出』の語り手、「友人はその間に...

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