アメリカ大統領 20年周期。 テカムセの呪い

テカムセの呪い

アメリカ大統領 20年周期

目次 アメリカ大統領の中で暗殺された大統領は全部で4人。 ここではその4人について順番に説明する。 暗殺された大統領の1人目は第16代。 1865年4月14日午後10時15分に首都ワシントンのフォード劇場でウィルクス・ブースによって狙撃された。 4月11日、ブースは、ホワイト・ハウスに集まった群衆に向けてリンカンが投票権をアメリカ系アメリカ人に与えなければならないと演説するのを聴いたいたという。 暗殺決行の3日前である。 ブースは南部連合の支持者であり、南北戦争が起きた原因はリンカンにあると考えていた。 最初、ブースはリンカンを誘拐して捕虜収容所に収監されている南部連合の兵士と交換する予定であったが、南北戦争の終結を知って計画を暗殺に切り替えた。 上 暗殺現場 右 暗殺者ジョン・ブース 1865年4月14日、リンカーンはメアリ夫人や友人達とともにフォード劇場で観劇中にジョン・ブースによって背後から頭部左側を銃撃され意識が戻らぬまま、翌朝7時22分、亡くなった。 ブースは「暴君の最後は常にかくのごとし」と叫んで逃亡した。 この事件が起きたのは南北戦争が終結して6日後であった。 実はブースとその一味は、リンカーンだけではなく副大統領のと国務長官のスーアードも殺害する予定であった。 行政府の混乱によって南部連合が復活する引き金となることをブース達は期待した。 スーアードは襲撃を受け、首と顔に傷を負った。 その一方でジョンソンを襲撃する予定だった暗殺者は襲撃を実行に移さずに逃亡した。 4月26日、ワシントン近郊の納屋に潜んでいるところを発見されブースは銃殺された。 ブースの共謀者は逮捕され軍法裁判にかけられた。 1865年7月、有罪を宣告された中で4人が絞首刑に処せられた。 2人目の暗殺された大統領は第20代。 1881年7月2日午前9時30分に首都ワシントンのボルティモア・アンド・ポトマック駅でチャールズ・ギトーが大統領を撃った。 ギトーはなぜガーフィールドを暗殺しようとしたのか。 ギトーは大統領から公職に任命されることを期待する一方で、ガーフィールドによるコンクリング一派への攻撃に怒っていた。 ギトーは暗殺の朝、「大統領の悲劇的な死が悲しいが必要であり、それが共和党を1つにし共和国を救うことになる。 私は大統領に対して悪意を持っていない。 彼の死は政治的に必要だ」と記している。 ギトーは逮捕された時、「私は堅固派であり、アーサーが大統領だ」と述べた。 弁護士はギトーが狂っていることを理由に無罪を訴えたが、ギトーは有罪宣告を受け、1882年6月30日、絞首刑に処せられた。 上 暗殺現場 右 暗殺者チャールズ・ギトー 今日の医療技術であればガーフィールドは命を落とすことはなかっただろうと医療史の研究者は考えている。 1881年当時の医療技術では大統領を救うことができず、むしろその死を早めた。 医師は消毒されていない器具で打ち込まれた銃弾を発見しようとガーフィールドの体内を探った。 その頃、発明された金属探知機も使用された。 ガーフィールドは敗血症に罹り、9月19日に亡くなり、副大統領のが大統領に昇格した。 検死の結果、医師は誤った場所を探っていたことが分かった。 銃弾はガーフィールドの背骨の右側に入ったが、左側に移っていた。 嚢腫が銃弾の周りに形成され、実質的に無害になっていた。 自然回復に委ねれば、ガーフィールドはおそらく数週間で復帰できたと考えられる。 暗殺の犠牲になった3人目の大統領は第25代。 1901年9月6日午後4時7分、ニュー・ヨーク州バッファローのアメリカ博覧会場にて無政府主義者レオン・チョルゴシュが発砲。 その日、マッキンリーはバッファローで開かれたパン・アメリカン博覧会を訪問中であった。 公式の歓迎会で大統領に挨拶する列に並んでいたチョルゴシュは手を差し伸べようとした大統領の腹部に向けて2回発砲した。 チョルゴシュの銃はハンカチに包まれた手の下に隠されていた。 それにもかかわらず警護の者は特に何の不審も抱かなかった。 上 暗殺現場 右 暗殺者レオン・チョルゴシュ 1発の銃弾は胃を貫通していた。 ガーフィールドは近くの病院に運び込まれたが、医師は残る銃弾を発見できず、腹腔内を洗浄して縫合するだけにとどめた。 大統領は8日間生存したが、9月14日に壊疽によって亡くなった。 検死によっても銃弾は発見されなかった。 ガーフィールドが亡くなった時、副大統領のがアディロンダック山脈に出掛けていたためにすぐに大統領職を引き継ぐことができず、13時間、大統領職が空席になった。 ルーズベルトが副大統領から昇格した結果、史上最年少で大統領職に就くことになった。 この記録はいまだに破られていない。 そして、4人目の暗殺された大統領が第35代。 1963年午後12時30分、テキサス州ダラスで事件は起きた。 犯人はリー・オズワルドとされているが未だに多くの部分が謎に包まれている。 その日、ケネディはダラス市内で行われたパレードの最中に大勢の群集の前で狙撃された。 ケネディは翌年に迫った大統領選挙でテキサスの支持を集めるためにダラスに行った。 目撃者によって銃声の数に関する証言は異なっている。 少なくとも2発、もしくは3発か4発がケネディと同乗者のテキサス州知事のジョン・コナリーに命中した。 銃弾はケネディの首の後ろに命中し、気管を破った。 さらにもう1発の銃弾が大統領の頭部を貫通し、頭蓋骨の一部を吹き飛ばした。 ケネディは近くの病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。 ダラスの政治的状況はアメリカの中でも最も加熱していた。 公民権運動が高まりつつある中、過激な保守派はケネディのリベラルな政策に強く反対していた。 また多くの者はケネディの共産主義の脅威に対する姿勢にも反対していた。 テキサス州知事やウィリアム・フルブライト上院議員は大統領にダラス訪問を考え直すように求めたが、ケネディはそれを拒んだ。 犯人としてリー・オズワルドがすぐに逮捕された。 テキサスの監獄から移送中にオズワルドはジャック・ルビーに銃殺された。 その結果、暗殺の真相は闇の中に隠された。 1964年、ルビーは殺人罪で有罪判決を受けた。 オズワルドは犯行を自供しなかったために、オズワルドの死は多くの者にケネディの暗殺に何らかの組織的関与があるのではないかという疑念を抱かせた。 1963年11月29日、ケネディの後を引き継いだはアール・ウォレン最高裁長官を長とするケネディの暗殺を調査する委員会を立ち上げた。 委員会の正式名称はケネディ大統領の暗殺に関する大統領委員会であるが、ウォレンの名前を冠してウォレン委員会と呼ばれた。 数ヶ月の調査の後、ウォレン委員会は、暗殺はオズワルドによる単独犯行だと結論付けた。 しかし、銃声の数やその方向、その他の詳細について、コナリーと主要な目撃者の間に多くの食い違いが見られた。 多くの者はウォレン委員会の結論を信じなかった。 1977年、下院は調査を再開した。 そして、1979年、暗殺者に関する下院特別調査委員会は、ケネディの暗殺はおそらく共同謀議によるものであるが、その他の暗殺者を特定することも、共同謀議の範囲を特定することもできないと結論付けた。 1994年、議会は連邦暗殺再考委員会を設立して、ケネディの暗殺に関する記録を集めて公開したが、未だに暗殺に関する決定的な説はない。 今後、さらなる詳細を随時更新。

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アメリカ大統領 20年周期

- 07月14日 火 12:00 非営利シンクタンク言論NPO(東京都中央区、代表:工藤泰志)は、7月13日から、日本の民主主義に対する信頼を立て直すため、議論を再開します。 コロナウイルスの感染の脅威はまだ続いており、世界でも劇的な収束が期待できないことがはっきりしています。 東京ではコロナウイルスの感染者数が200人を超え、第二波の様相を呈する中、今回のコロナウイルスの深刻な影響は、日本政府自体の危機管理の在り方や、民主主義下における政府の信頼の問題を浮き彫りにしました。 そこで、私たちは議論の再開にあたって、日本の危機管理の問題から議論を始めます。 日本が将来に向けた困難を解決するためには、危機感を市民と政治が共有できるかにかかっていますが、言論NPOが実施した有識者調査結果では、政府に対する信頼は低下していることが明らかになっています。 言論NPOはこれから再開する議論を通じて、解決すべき様々な課題を明らかにし、その解決に多くに人が力を合わせていくための取り組みを始めます。 報道関係者の皆様には、ぜひとも私共が再開する議論にご期待いただくと同時に、ご取材いただければ幸いです。 なお、詳細な議論等の内容は、言論NPOのホームページをご覧ください。 議論の再開にあたって、代表の工藤がコメントを発表しました(抜粋)コロナウイルスの感染の脅威はまだ続いており、当分、劇的な収束が期待できないことがはっきりしてきた。 東京では自粛の解除 後、感染者が急増しているが、回復はこうした危機を繰り返しながら、かなり長期化するだろう。 これまでの多くの危機がそうだったように、コロナ後の世界はこれまでとは全く異なる世界を生み出す可能性がある。 それでも、私がその行方を期待しているのは、世界のほとんどの人がこの危機を実際に経験し、家族や友人の命を心配し、社会を持続させる多くの仕組みや人たちの大切さを感じたからである。 この日本も未来に向けて変われるのではないか。 そうした手ごたえを感じているのは私だけではあるまい。 もちろん、そのためには相当の努力が必要である。 今回のパンデミックだけではなく、異常気象や社会的な困難に私たちはこれからも断続的に直面するだろう。 しかし、もはやそれは、他人事ではなく、無関心を決め込むことはできないのである。 genron-npo. html再開にあたって公開したコンテンツ(1)「コロナ危機の世界史的な意味と世界の今後をどう見るか」と題して、五百旗頭真(ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長)、古城佳子(青山学院大学教授)、下斗米伸夫(神奈川大学特別招聘教授)、納家政嗣(上智大学国際関係研究所客員研究員)の4氏が議論今回のコロナ対策における危機管理について、民主主義よりも強権的に動ける権威主義体制の方が有利だ、との見解に対しては、民主主義の弱点は危機が起きた瞬間に、権威主義体制のように大胆な対策はとれないが、政府が市民に信頼できる情報を提供し、市民との相互作用の中で危機に対応する民主主義国は政府の信頼を回復していること、さらに科学的な専門家との知見と政府が連携する民主主義の成熟さも評価すべきとの見方が示されました。 また、今回のコロナ危機において、国際協調そのものの限界が言われる中で参加者は国際協調こそが必要との見解で一致。 しかし、現状ではWHO等の国際機関の在り方、さらに各国の国内格差などから生じる国内の「分断」から国際協調が非常に困難な状況に陥っており、今後、新しい国際協力の仕組みを模索していく必要があるとの認識が示されました。 genron-npo. html再開にあたって公開したコンテンツ2「危機管理の文化」の不在が初動の遅れを招いたとして、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議で副座長を務めた尾身茂氏と、1987年から95年まで官房副長官を務め、阪神大震災で危機管理対応に当たった石原信雄氏が政府のコロナ対応を総括しました言論NPOが実施したインタビューの中で、尾身氏は、「リスクコミュニケーションや危機管理を皆で醸成していく文化が、日本にはなかった」と総括。 感染症対策の要諦として、「平時からの不断の準備」と「初期対応のスピード」を挙げた上で、今回のコロナ対応を振り返り、政府の危機管理体制の整備や地方、専門家との連携が前もって実行されない中で、政府はダイヤモンドプリンス号に忙殺され、専門家もかつてのインフルエンザと異なる感染傾向を持つ新しい脅威に、危機感から「半歩進んで」向かうしかなかったなどと述べました。 石原氏は、現在では改善されているとしながらも、当初は政府全体のコロナウイルスの危険性に対する認識が十分でなかったことが初動の遅れにつながったとの見方を示し、またその後の対応を見ても内閣が一体として取り組んでいるようには見えなかった、と内閣の危機管理体制にも疑問を提起しました。 genron-npo. html再開にあたって公開したコンテンツ3有識者アンケートでは65. 8%の人が「日本政府の危機管理対応」を評価せず言論NPOが7月13日に公表した有識者調査「コロナ禍の世界と日本」では、今回の日本政府の危機管理対応について、6割を超える人が「評価しない」と回答しました。 その理由としては、「首相と首相側近の思いつきの行動やそれに対する忖度が目立ち、省庁間との協力関係が十分に機能しなかったこと」という回答が半数近くに上っています。 さらに今回のコロナ対応の評価について、安倍政権に対する否定的な見方が7割を超え、日本政府に対する信頼についても6割を超える人が「信頼していない」と回答するなど、厳しい見方が多数となりました。 genron-npo. html再開にあたって公開したコンテンツ4「第16回 東京-北京フォーラム」は11月下旬にテレビ会議を通じての開催で中国側と合意言論NPOは、これまで15回にわたって開催してきた「東京-北京フォーラム」を、11月末をめどに開催することで、中国側の主催者である中国国際出版集団(外文局)と合意しました。 コロナウイルスによるパンデミックが世界中に大きな影響を与える中、世界の先行きに不安が高まり、アジアでも中国の様々な行動が議論を呼んでいます。 こうした状況だからこそ、両国がまず民間を舞台に率直に議論し、お互いの相互理解を進め、世界が協調して対応に当たらなければならない大きな課題の解決に向けて対話を行う予定で、今回はテレビ会議を導入し開催予定です。 なお、7月16日には日中両国の実行委員長などが参加する事前協議が行われ、開催に向けた動きが加速します。 フォーラムの準備の状況は、適宜、言論NPOのホームページで発信していきます。 genron-npo. html今後の議論の予定以下の議論は、全てWeb座談会として公開します。 お申し込みは、言論NPOのホームページからお願いいたします。 なお、メディアの皆様からも参加費を頂戴いたします。 あらかじめご了承ください。 genron-npo. genron-npo. html---------------------------------------------...

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アメリカ合衆国大統領

アメリカ大統領 20年周期

目次 まずアメリカ大統領の任期は1期4年。 歴代大統領の平均では5年68日になる。 途中で死亡したり、再選できなかったりしたせいで任期の長さにはばらつきがある。 実は第2次世界大戦以前は何度でも再選が可能だったので任期に制限はなかった。 つまり、理論上は居座ろうと思えば何年でも大統領を続けることができた。 しかし、が2期8年の任期で退職したために、アメリカ大統領の任期は2期8年務めることが慣例になっていた。 が慣例を破って2期以上の任期、つまり、4期務めた 在任中、任期満了前に病死。 その後、合衆国憲法憲法修正第22条第1節でアメリカ大統領の任期は以下のように決められた。 「何人も二回を超えて大統領の職に選出されてはならない。 また大統領に選出された他のものの任期のうち二年を超える間、大統領の職に就き、もしくは大統領の職務を行ったものは、何人も一回を超えて大統領の職に選出されてはならない。 ただし本条は、本条が連邦議会に提議されたとき大統領の職に就いているものについては適用されることなく、また本条が、大統領の職に就いているか、もしくは大統領の職務を行っているものの在任中に効力を生じる場合においてもそのものが残りの任期の間、大統領の職に就き、もしくは大統領の職務を行うことを妨げない」 つまり、現在では2期8年以上に任期を延ばすことはできない。 4期の任期を務めたルーズベルト以上に将来のアメリカ大統領が長い任期を務める可能性はない。 最大でも引き継ぎの任期を含めて3期10年未満となる。 たとえ現職大統領が自分の任期を延ばそうと憲法を改正しても、改正が適用されるのは次の大統領からになるので意味がない。 大統領の選出方法、再任を認めるか否か、そして任期の長さはそれぞれ独立して考えられない問題であった。 ヴァージニア案では行政府の長の任期は空白のままであり、再任は認められていなかった。 6月1日、こうした規定が全体委員会で検討された時、再任を認め任期を3年とする案、再任を2回認め任期を3年とする案、再任を認めず任期を7年とする案など様々な案が提案された。 6月9日、エルブリッジ・ゲリーは行政府の長を連邦議会の投票ではなく諸邦の知事の投票で選ぶ案を提案した。 邦知事は自身も邦の行政府の長であるため議会よりも有能な行政府の長を選ぶことができると期待された。 しかし、ゲリーの案は否決された。 代表達の選択は、再任を認めるか否かという点、そして連邦議会による選出を認めるか否かという点に絞られた。 は再任を認める点と行政府の長を連邦議会によって選出する点の両方を憲法案に盛り込むことはできないと主張した。 なぜならもし大統領が議会によって選ばれ、かつ再任を認められた場合、大統領は再任されるように政治的影響力と官職任命権を使って議員を抱き込む危険性が考えられたからである。 最終的に6月13日に以下のような決議がまとまった。 「1人からなる国家行政首長が設けられ、国民議会によって選出され、任期は7年とし、連邦法を執行する権限を持ち、その他の規定で定められる場合を除いた官吏を任命する権限を持ち、2回選ばれる資格はなく、弾劾され、不正行為、もしくは義務の怠慢で有罪判決を受ければ免職され、固定給を受け、それによって公務に彼の時間を捧げる報酬とし、国庫から支払いを受けると決議する。 国家行政首長はあらゆる法を拒否する権限を持ち、その後、国民議会の各院で3分の2の票を得なければ可決されないと決議する」 マディソンの指摘にも拘わらず、7月17日、憲法制定会議は再任を認める点と行政府の長を連邦議会によって選出する点の両方を認めた。 しかし、ジェームズ・マックラーグが両方を盛り込むことの矛盾点を指摘した時、大統領を1期に限るように戻された。 さらにマックラーグはグヴァヌア・モリスとジェイコブ・ブルームの支持を受けて、矛盾点を解決する別の方法を提案した。 すなわち、大統領を連邦議会が選出し、任期を罪過なき限り終身とする案である。 マックラーグの考えでは、任期を7年とし、議会による再選を認めることは、行政府の長を永久に議会の従属させることを意味した。 再選を認める議決の後で行政府の長の独立を保つためには任期を終身にするしかないとマックラーグは主張した。 モリスはマックラーグの提案を支持し、終身制により行政府の長の独立が保たれるのであれば、どのような選任方法をとっても問題はないと述べた。 メイスンは、行政府の長に終身制を認めることは容易に世襲君主制に添加する危険性があると指摘した。 マディソンは、人民による選挙か、もしくは任期を長くすることで行政府の長を議会から独立させることは共和政体を保持するために不可欠であると論じた。 マックラーグの提案はメイスンが述べたように過度に君主制を想起させるものだったので代表達にとって受け入れられるものではなかった。 7月19日、マーティンは行政府の長の再選を制限するべきだと動議した。 ランドルフはマーティンの動議を支持して、もし行政府の長が議会により再選されることになれば、行政府の長は議会をまったく抑制できなくなると述べた。 モリスは、行政府の長が議会により自由に任命され弾劾されるようになれば、行政府の長が人民の利益の保護者になることもできず、単なる議会の従属者になると警告した。 そして、モリスは行政府の長を議会から独立させるために、行政府の長を人民の選挙で選び、再選資格を与えるべきだと主張した。 キングも再選資格を奪うのに反対して人民が選ぶ選挙人による行政府の長の選出が最善であると主張した。 マディソンは一般人民による選挙が望ましいと述べた。 ウィルソンは再選資格をなくさない限り、行政府の長を議会が選出すべきではないという見解の一致が見られると指摘した。 そして、人民による直接選挙、もしくは間接選挙が受け入れられるようになってきたのは喜ばしいことだとウィルソンは述べた。 最終的に憲法制定会議はマーティンの動議を否決する一方で、大統領の任期を7年から6年に短縮することを決定した。 任期をもっと短くすべきだと主張するモリスに対してエルズワースは、もし選挙が頻繁に行われれば、行政府の長の地位は十分に強固なものとならないと論じた。 エルズワースの考えでは、たとえ不人気になっても行政府の長は遂行しなければならない義務を持っている。 7月24日、行政府の長をどのように選出するべきかという問題が再び議題にのぼった。 ウィリアム・ホーストンは、既に同意が成立していたように選挙人が行政府の長を選出する代わりに連邦議会が行政府の長を選出する方式を再び提案した。 ホーストンは、選挙人方式は非常に不便であり、多額の費用を要するうえに、有能な人物は選挙人になりたがらないだろうと述べた。 結局、憲法制定会議は行政府の長を選出する方式を選挙人による方式から連邦議会による方式に戻すように決定した。 任期と再任を認めるか否かも再び議論の対象となった。 ウィリアムスンは選挙方法だけではなく任期を7年とし再任を認めない規定も復活させるべきだと主張した。 エルズワースは再任を認めない規定を復活させることに反対して、もし再選を認めれば行政府の長は職務に励むことが期待されると主張した。 ゲリーは、再任を認めないのであれば、任期を長くすればする程、行政府の長が議会に従属する危険性も抑えられるので任期を10年ないし20年に延期するべきだと主張した。 さらに7月26日、憲法制定会議は行政府の長の任期を1期に限るように決定した。 具体的にどのような条文にするかは細目委員会に委ねられた。 再任を認めるか否か、それとも連邦議会による選出か否かという問題はまた任期の長さを決定する問題でもあった。 もし大統領が連邦議会によって選ばれ、再任が認められない場合、任期を長くするべきだと代表達は考えていた。 一方でもし大統領が議会によって選ばれず再任が認められた場合、任期を短くするほうが好ましいと代表達は考えていた。 8月6日、細目委員会は草案を提出した。 行政府の長に関する条文は以下の通りである。 「第1節、合衆国の行政権は1人の人物に属する。 彼の肩書きは『アメリカ合衆国大統領』であり、彼の称号は閣下』である。 大統領は議会の投票によって選出される。 大統領は7年間、在職し、2回選出されることはない。 第2節、大統領は、随時連邦の情報につき情報を議会に与える。 大統領は必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する。 大統領は非常の場合には、議会を招集することができる。 閉会の時期に関して両院の間に見解の一致を欠く場合には、自ら適当と考える時期まで休会させることができる。 彼は合衆国の法律の適切かつ忠実に執行されることを配慮する。 大統領は合衆国のすべての官吏を任命し、この憲法に特別の規定あるもの以外のすべての場合の官吏を任命する。 大統領は大使を接受し、諸国の首長と通信できる。 大統領は刑の執行延期と恩赦を与える権限を有するが、彼の恩赦は弾劾を防止するために申し立てることはできない。 大統領は陸海軍及び各州の民兵の最高司令官である。 大統領はその職務に対して定時に報酬を受け、その額は彼の任期の間、増減されることはない。 大統領は行政府の職務の遂行を開始する前に、次のような宣誓もしくは確約をしなければならない。 『私はアメリカ合衆国大統領の職務を忠実に遂行することを[空白]厳粛に誓う もしくは確約する 』。 大統領は、反逆罪、収賄、もしくは汚職で下院によって弾劾され、かつ最高裁で有罪判決を受ければその職を免じられる。 上述のような免職、死亡、辞職、またはその権限及び義務を遂行する能力を失った場合は、別の大統領が選ばれるか、大統領の不能力の状態が去るまで上院議長がその権限と義務を行使する」 憲法制定会議は8月24日まで大統領に関する規定を取り上げなかった。 大統領に関する規定の議論は8月27日まで行われた。 大統領の権限を強めようとする提案も大統領の権限を弱めようとする提案も認められなかった。 8月末、憲法制定会議は様々な問題を考案するために延滞事項委員会を発足させた。 延滞事項委員会は、選挙人によって大統領を選出し、再任は制限されず、任期は4年とすることを推奨した。 憲法制定会議は延滞事項委員会の報告を採択した。 任期を4年とし、再任を制限しないという決定は、任期を1期に限るべきだという主張と任期を終身とするべきだという主張の間の妥協である。 しかし、多くの代表達は再任を制限するという考えに否定的であった。 もし大統領が良い治績をあげたのならば、どうして人民は彼を続投させることが許されないのだろうか。 議員の再任には制限が課せられないことを考えると、議員よりも継続性と経験が必要とされる行政府の長に再任を認めることは妥当である。 国家の緊急時に人民の安全に不可欠な行政府の長が再任できなくするのは懸命なことだろうか。 またもし再任が認められないことで政治的野心を阻まれた行政府の長が暴力や憲法に反した方法で権力を維持しようとする可能性もある。 憲法修正第22条は、何人も2回を超えて大統領に選出されてはならないと規定している。 また前大統領から大統領職を引き継いだ大統領も2年以上、在職した場合、1回を超えて大統領に選出されてはならないと規定している。 もし大統領職を引き継いだ大統領が2年未満しか在職しない場合、2回の選出が許され、合計の任期は10年未満となる。 憲法修正第22条は、議会がこの問題を考えている当時の大統領であったトルーマンを対象外にするように考えられ、「本条の規定は、それが効力を生ずる時に任期にある大統領の職にある者またはその大統領の職を行う者が、その任期の残余期間中大統領の職にありまたは大統領の職を行うことを妨げるものではない」と規定している。 憲法修正第22条は、2期在任の伝統を破って4選を果たしたに対する共和党が支配する議会の非難の表れである。 大統領の在職は2期までに限るべきだと公式に表明した初めての大統領はである。 3期目に出馬するように求めるヴァーモント州議会からの手紙に、1807年12月10日、ジェファソンは以下のように答えている。 「行政首長の業務の終わりについては憲法で定められていませんし、慣習でも定められていませんが、彼の在任は、名目上、4年ですが、実際は終身になるかもしれず、歴史はそれがいかにたやすく世襲に変わるのを示しています。 短い選挙期間で責任を持つ代議政府は人類に多くの幸せをもたらすと信じて私はそうした原理を本質的に傷付けるような行動をとらないことが義務であると感じますし、2期を越えた任期の延長に対する最初の例をもたらした模範的な前任者によって打ち立てられた健全な先例を無視する人物になるのは気が進みません」 ジェファソンがを模範的な前任者として言及したのは完全に適切であるとは言えない。 ワシントンは自発的に2期で大統領職を退いたが、それは何らかの原理に基づいたわけではなく、政治の世界から引退したいという個人的な欲求が強かった。 しかし、ジェファソンによる任期を2期に限る伝統は大統領制度にすぐに定着した。 はそうした伝統を「暗黙の補足的な憲法」と述べている。 さらにホイッグ党員と多くの民主党員は大統領の任期を1期に限るべきだと議論するようになった。 実際、ジャクソン以降、リンカンが登場するまで選挙で当選して2期務めた大統領は1人もいなかった。 も大統領の任期を6年に延ばす一方で1期に限るように憲法を修正するべきだと主張していた。 ワシントンから大統領までの30人の大統領の中で20人が1期だけか、もしくはそれ以下の任期しか持たなかった。 19世紀後半から20世紀初期にかけて、3期目の問題は時折、議論されるだけであった。 とは3期目に向けて意欲を見せたが、2期目の終わりに人気が低迷していたために大統領候補指名獲得でさえ難しいと思われた。 の事例はさらに複雑である。 ルーズベルトが大統領選挙で当選したのは1904年の1回だけであり、その前に前任者のの任期を引き継いで3年半在職した。 1908年、ルーズベルトは再指名を辞退した。 ルーズベルトの人気を考えると当選は確実に思われたが、ルーズベルトは大統領の任期を2期に限る伝統を「賢明な慣習」と評した。 しかし、4年後、ルーズベルトは再び大統領選挙に出馬した。 1908年にルーズベルトは「3杯目のコーヒー」を飲むことを否定したが、それはコーヒーを再び飲まないと決意したわけではなく、「もちろん私が意味したのは3期続けての任期」だと述べた。 1940年に大統領の任期を2期に限る伝統はフランクリン・ルーズベルトによって破られた。 1937年、ルーズベルトは3期目の可能性を完全に排除しなかったが、1941年1月20日の大きな抱負は後継者に大統領職を引き継ぐことだと述べた。 数多くの民主党員が大統領選挙に出馬する意思を固めた。 しかし、ルーズベルトは2期目が経過するにつれ、自らの政策と計画に抵抗する議会にますます苛立ちを募らせるようになった。 1939年に第2次世界大戦が始まると、アメリカのみが世界情勢の喧騒から逃れ続けることができる見込みはほとんどなかった。 1940年7月の民主党全国党大会でルーズベルトは最終的に3期目への意欲を公表した。 全国党大会の代表達は圧倒的多数でルーズベルトを支持した。 ルーズベルトの立候補の正当性について世論は分かれ、共和党員は彼らの候補者であるウェンデル・ウィルキーを応援するために「3期目を阻止せよ」と叫んだ。 民主党員はリンカンの言葉を引用して「川の流れの中で馬を変えること」は馬鹿げていると反論した。 ルーズベルトは1940年の大統領選挙で勝利を収めたが、一般投票の差は、1936年の1,108万票から494万票に減少した。 第2次世界大戦の勝利が目前となっていた1944年の大統領選挙では、ルーズベルトは360万票差で勝利した。 そして、ルーズベルトは4期目に入って3ヶ月もしないうちに病死した。 議会は大統領の任期を制限していない憲法に決して満足していたわけではなかった。 1789年から1947年に至るまで270もの大統領の任期を制限する決議が議会に提出された。 ルーズベルトの登場は、この長い間、懸案事項だった問題に党派的な側面を付け加えた。 1932年、共和党はルーズベルトのニュー・ディール連合によって権力の座を追われた。 保守的な南部の民主党員は、リベラル派と北部の民主党員に党の支配権を譲り渡した。 1946年の中間選挙で共和党は上下両院で多数派を奪還した。 1947年2月6日、下院は大統領の任期を2期に限る修正を憲法に加える案を285票対121票で可決した。 下院の案は、1期を完全に務め、もう1期を1日でも務めた大統領は再選を求めることはできないと規定している。 共和党議員は全会一致でこの修正を支持し、民主党議員は47人が賛成し、121人が反対した。 民主党議員の賛成票は大部分が南部の民主党議員の票であった。 3月12日、上院は1期を完全に務め、もう1期を半分未満務めた大統領に再選を認めるように変更したうえで憲法修正を59票対23票で可決した。 共和党議員は下院と同じく全会一致で修正を支持した。 民主党議員は13人が賛成し、23人が反対した。 下院の案と上院の案の違いは速やかに調整され、1947年3月24日に議会は最終決定を下した。 憲法修正第22条をめぐる議論は、党派的な問題に憲法上の原理が被されていた。 共和党は、大統領の任期を2期に限ることでアメリカ国民は過度に個人化した大統領制度の脅威から守られると主張した。 さらに共和党のレオ・アレン下院議員は、国民に大統領が在任する期間を制限できる機会を与えるべきだと述べた。 それに対して民主党のエステス・キーフォーヴァー下院議員は、国民はもし大統領が再任を求めれば、4年ごとに大統領が在職を終わらせるべきか否か判断する機会を持つことができると答えた。 大統領の任期に制限を設けなかった憲法制定会議の決定にほとんど注意が払われることはなかった。 また議会は修正が副大統領にもたらす好ましい政治的影響を予見することもなかった。 2期を務めた大統領が再任を禁止されることで、副大統領は政権内の地位を維持したままで次の大統領候補指名を獲得するために公然と選挙運動を行うことができるようになった。 憲法修正第22条が発議された後、批准を求められた各州の反応は様々であった。 憲法修正第22条が成立するまで3年11ヶ月を要した。 議会の発議から成立に至るまでの期間は2番目に長い。 ちなみにその期間が最も長かったのは、議会が議員報酬を引き上げるのを制限する憲法修正第27条である。 1789年に発議されてから1992年に成立するまで203年を要した。 1947年に18の州議会が修正第22条を承認した。 いずれの州も共和党の地盤であった。 その後、批准はゆっくりと進んだ。 南部は民主党の地盤であったが、が公民権法を推進したことによって、人種分離を求める南部の州議会は修正を批准するようになった。 その結果、1951年2月27日、憲法修正第22条は成立した。 成立後、さらに5州が批准し、批准した州は41州となった。 憲法修正第22条が成立して以来、2期を完全に務めた大統領がまだそれ程多くないために、修正が近代的大統領制度と現代的大統領制度にどのような影響を与えたのか見極めることは難しい。 は1期目の3年目で暗殺された。 1963年11月22日に大統領職を引き継いだンはケネディの任期の半分未満しか務めていないので、さらに2期務めることができた。 しかし、1968年に人気が低迷していために、ジョンソンは大統領選挙に出馬することを断念せざるを得なかった。 は1972年に再選されたが、2期目の半分が過ぎる前に辞任した。 はニクソンの任期の半分以上を務めたために、さらに1期しか務めることが認められていなかった。 しかし、フォードは大統領選挙で敗北した。 1976年の大統領選挙でフォードを破ったは1980年の大統領選挙でに破れ、1期で大統領職を追われた。 レーガンの後継者のもに再選を阻まれた。 憲法修正第22条の適用を受けた最初の大統領はである。 1960年にアイゼンハワーは3期目に立候補する意欲を持っていたという。 大統領としてアイゼンハワーは憲法修正第22条に対して「深い懸念」を抱いていた。 レーガンは憲法修正第22条の適用を受ける2番目の大統領であった。 レーガンは2期目に大統領の任期を2期に制限する条項を撤廃するために憲法を修正することを主張した。 ただしレーガン自身には適用されない形式での修正である。 結局、レーガンの主張は認められなかった。 アイゼンハワーやレーガンの人気にも拘わらず、アメリカ国民は憲法修正第22条の撤廃を望む様子をまったく見せなかった。 アメリカ国民の間には、大統領は強力な指導者であるべきだが、強力になり過ぎるのを防ぐために限られた時間のみ指導者であることを許されるという見解の一致が行き渡っているようである。 しかし、大統領の任期を制限することによって、大統領の権限は縮小されることになる。 また大統領は3期目を目指して大統領選挙に出馬できないことで自党の支持を失う恐れがある。 それと同時に大統領の影響力が弱まる恐れがある。

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