三島 由紀夫 思想。 「実に実に実に不快だった」その日の三島由紀夫(平野 啓一郎)

ゲイとマゾヒストとしての三島由紀夫

三島 由紀夫 思想

【内容情報】(出版社より) 三島由紀夫の決定版評伝 「昭和」を駆けぬけるように生きた三島由紀夫。 その政治的行動の背後にある、ひとりの文学者としての 生と思考の軌跡を、現代の読者とともに辿りなおす。 ーー三島文学になにを見いだすか、 あるいは、そもそもなにも見いださないのかーー はじめに --三島由紀夫と高橋和巳ーー 序 章 1970年11月25日 その前日 その当日 その翌日 第1章 「三島由紀夫」の誕生 「盥のふち」の記憶 学習院の 「詩を書く少年」 「花ざかりの森」、あるいはひとつの宿命 第2章 再出発と花形作家への道 戦後文学における三島の位置 戦中と戦後を繋ぐものーー『盗賊』と「岬にての物語」 青春のおわりと『仮面の告白』 若き花形作家ーー『純白の夜』『愛の渇き』から『禁色』へ 第3章 古典主義とロマン主義とのあいだで 古典古代への憧憬ーー『潮騒』執筆の背景 三島文学のひとつの頂点、あるいは『金閣寺』 認識と行為とのあいだーー小説家の結婚と『鏡子の家』 ユートピア小説の系譜ーー『美しい星』と『午後の曳航』 第4章 『豊饒の海』、あるいは時間と永遠とのはざま ガンジスの流れのほとりにてーー『暁の寺』の背景 ロマンの絶頂とロマンの終焉ーー『春の雪』とその世界 行動の文学と、文学者の行動とーー最後の傑作『奔馬』によせて 終 章 『天人五衰』、あるいは1970年11月25日ふたたび あとがき 【内容情報】(「BOOK」データベースより) 三島由紀夫(一九二五〜一九七〇年)は大正末年に生まれ、昭和の三分の二ほどの時間を駈けぬけるように生き、多くの作品を遺して壮絶な最期を遂げた。 戦中すでに耽美的な少年作家として登場し、戦後は無軌道なアプレ・ゲール世代を代弁する青年小説家としても健筆をふるい、やがて古典主義とロマン主義がみごとに結合した代表作『金閣寺』を発表して、創作活動のひとつの頂点をむかえる。 文学者としての華やかな経歴のかたわら、三島はのちに「楯の会」を結成して、自衛隊への体験入隊を繰りかえした。 三島がただことばを玩んでいたのではなかったことを、ひとびとは一九七〇年十一月二十五日に知ることとなる。 本書は、最後の傑作『豊饒の海』にいたる、主要作品の系列を読みなおすことで、その政治的行動の背後にある、作家・三島由紀夫の生と思考の軌跡をあきらかにする。 三島死後五十年を期して上木される、決定版評伝である。 【目次】(「BOOK」データベースより) はじめにー三島由紀夫と高橋和巳/序章 一九七〇年十一月二十五日/第1章 「三島由紀夫」の誕生/第2章 再出発と花形作家への道/第3章 古典主義とロマン主義とのあいだで/第4章 『豊饒の海』、あるいは時間と永遠とのはざま/終章 『天人五衰』、あるいは一九七〇年十一月二十五日ふたたび 【著者情報】(「BOOK」データベースより) 熊野純彦(クマノスミヒコ) 1958年、神奈川県に生まれる。 1981年、東京大学文学部卒業。 現在、東京大学文学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです).

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三島由紀夫

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「妻や私や事務所は一切関わっていない。 もしも関わっていたら総理大臣も国会議員も辞める」森友学園問題で、ここまで啖呵を切ったのが総理大臣安倍晋三である。 その言葉のもつ意味は重い……はずである。 また防衛大臣の稲田朋美はこう言った。 「森友学園の事件を受任したことも、裁判を行ったことも、法律相談を受けたこともない。 顧問をやってもらったというのは虚偽であります」。 しかし、虚偽は稲田の側だった。 裁判所への出廷記録が発覚し、前言を撤回し謝罪に追い込まれた。 今ほど「言葉の信頼性」が虐げられている時代ないのではないだろうか。 三島由紀夫は「言葉の混乱」が政治に利用されることを警戒した。 作家・適菜収氏は新刊で三島の言葉を引きながら次のように語る。 安倍でもわかる三島由紀夫のお話~ 民族主義の罠~ 小説家・劇作家の三島由紀夫は、一九六一年に二・二六事件をテーマにした『憂国』を発表。 一九六八年、民兵組織「楯の会」を結成。 『豊饒の海』四部作完成後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊員にクーデターへの決起を呼びかけ、割腹自殺した。 これをもって三島はエキセントリックな右翼と誤解されることが多いが、私の判断では極めて真っ当な保守である。 たしかに晩年、三島は右傾化した。 保守主義者が右翼に転じることはあり得るが、保守主義者であり同時に右翼であることは概念上あり得ない。 保守主義者としての三島は、国家主義や民族主義に対する警戒を怠らなかった。 芸術家が、いかに洗練してつくったところで、ことばというものは、いちばん伝統的で、保守的で、頑固なもので、そうしてそのことばの表現のなかで、僕たちが完全に孤立しているわけではない。 では、日本語を守るためには、どうすればいいのか? 自由社会、社会の靭帯である皇室、議会主義を守らなければならないと三島は考えた。 よって、敵は左と右から発生する全体主義ということになります。 全体主義は近代特有の病です。 だから、近代を知る必要がある。 三島は「アジアにおける西欧的理念の最初の忠実な門弟は日本であった」と言います。 しかし日本は近代史をあまりに足早に軽率に通り過ぎてしまった。 近代化を急ぐあまり、西欧的理念の表層だけを受容した。 そして啓蒙思想の危険性を説いてきた真っ当な知の系譜を軽視した。 1975年山梨県生まれ。 購読者参加型メルマガ「適菜収のメールマガジン」も始動。

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三島 由紀夫 思想

恐らく、複雑な要因が絡み合ってのこと、と思われます。 1.トラウマの克服 三島由紀夫には、自分のコンプレックスを逆転させて克服するような傾向がありますね。 虚弱児というコンプレックスを、強靭な肉体を手に入れることで跳ね返したように。 もしかしたら、思想もまた然り。 自らの書いた文章が右翼の反感を買い、四六時中警察の警護を頼まねばならぬようになった過去が三島にはあります。 この、自らが右翼に脅されるというトラウマを、自らが右翼的思想に入り込むことで克服しようとした・・・三島の兄弟は、この体験が如何にひどく三島を苦しめたか傍で見ていた者として、この説を要因として唱えています。 2.個人的な敬意 早稲田の左翼運動に招かれた際、三島自身多少冗談めかして、何故天皇制に固執するかという点に関し、語っています。 帝大には天皇直々のメダル授与という機会があり、天皇が全く微動だにせず何時間もその場に直立していたという姿に、感銘を受けた、と。 ある種の完全性に、天皇を通じて直に触れたと経験だった、三島は捉えていたのかもしれません。 完全性への執着を天皇への個人的敬意と結びつけたという点も、背景にはあるかと思います。 3.25年後の「天皇万歳」 三島の死は時々遅すぎた「戦死」という風にも語られます。 前の回答者さんがこの点に触れてらっしゃいますが、三島は徴兵からかろうじて逃れたことを、後々恥とし、何とかしてその罪を償おうとした形が、楯の会結成となり、あのような自衛隊駐屯地での自死となった・・・帝大時代の同窓生等、このような見方をしています。 当時徴兵を免れた若いインテリ達の多くが、様々な形で後に後悔や反省の念を表していますから、三島のような流れも有り得ることだと思います。 4.憂国 このタイトルで三島は本も残していますが、上記のような個人的な要因だけでは片付かない問題だとする学者達を中心に、本当に右翼的思想を日本人の持つべき思想として据えていたという見方も、もちろんあります。 アメリカナイズされた戦後日本への憂いを様々なエッセイで綴っており、戦前のスタイルへの回帰を通じた強国を志した。 また、三島は侘び寂び概念が確立される前の、豪華絢爛たる日本的美意識に対する礼賛の言葉を常々書いており、その文化を強固に支えていた天皇制を肯定しても、それは不思議ではありません。 「もはや戦後ではない」と言われた1970年代の始まりの年に、警鈴を鳴らすかの如く自死したことも、興味深いです。 5.完全性の追究 私個人としては、ここも重要な点だと思います。 三島の完全性への執着は、独特で徹底した所があります。 例えば「美」も、完全性という概念を具現化する場として、捉えていたように思われます。 恐らく、「天皇」も、三島にとっては、完全性の具現化された存在として捉えられていたのではないでしょうか。 そしてそれが「完全なる強さ」への執着とも絡み合い、段々と独自の思想理論へと束ねられていったのではないでしょうか・・・。 ・・・以上のような点が複雑に絡み合い、彼の信念を構築していった・・・、と私は考えています。

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