蝗害とは。 蝗害はなぜ起きる?蝗害発生の謎と本当にあった各地の蝗害

どうして中国人はイナゴが大発生した時に食べなかったんですか?

蝗害とは

草むらや公園ではバッタを見かけることがあり、特に珍しいことではないですね。 バッタは普段から人間に害を与えるような存在ではなく、人間が近づけば飛んで逃げていくし、日本では佃煮にして食べる地域もある身近な存在です。 そんなバッタが大量発生してあらゆるものを食べつくすことを蝗害といい、規模によっては災害に指定されるほどの大きな被害になります。 日本でも昭和の初めころまで起きてきた蝗害について解説します。 普段のバッタたちは多くても数匹程度、ほとんどは一匹で行動するのですが、大量発生により大群になって行動していると徐々に集団でいることを好むようになり、本来のバッタたちとは全く異なるバッタに変化していきます。 この変化を【相変異】といい、一部の昆虫に見られる性質です。 群生相のバッタは長距離飛行に適した体を持ち、場合によっては風に乗って遠く何十キロも飛行、海を渡って大群が押し寄せることもあります。 普段はエサにしないような植物まで食べるようになり、農作物や木材、動物にもかじりつくようになります。 バッタたちが大量発生する理由は不明、相変異の原因もわかっていません。 共通しているのは大量発生したバッタたちが、大量に産卵するので蝗害は一度発生すると数年は続くということです。 ・トノサマバッタ、サバクトビバッタ、モロッコトビバッタ、オーストラリアトビバッタ なかでも世界でもっとも有害と言われるのがサバクワタリバッタです。 1,000万匹のサバクワタリバッタが食べる農作物の量は、100人分の食糧一年分とも言われています。 蝗害の規模はその年、バッタの種類によって異なるものの、1870年のネブラスカ州を襲った蝗害では、幅160キロ、長さ500メートルにも及んだと言われています。 およそ日本の本州全土の三分の一にもなる規模で、平均高さ800メートル、高いところでは2倍の1,600メートルにもなったと報告されています。 バッタの種類によっては体格が小さい種類ほど密度が高くなる傾向で、1立方メートルあたりの個体数も多くなります。 蜂のように獰猛で攻撃的な行為はないのですが、とにかく大量のバッタが全てを食べつくしてしまいます。 農作物、植物、木材は致命的な被害を受けて、ときには人にもかじりつくことがあります。 ただかじりつくと言っても毒のような有害物質は持っていないので、人体にかじりついても痛いだけで済みますが、広大な土地に植えた農作物や果物、植物、建材などは非常に大きな被害を受けることになります。 何しろ大量なので駆除するにも昔は大変だったようですね。 現代でこそ殺虫剤ですばやく仕留めることができますが、昔は手作業で捕まえたり、駆除したりしていたようです。 蝗害は日本をはじめ、海外でもたくさんの被害を受けていて、古くは紀元前までさかのぼります。 そのため蝗害が天災の1つとして認識されていて、皇帝の不徳によるものとされてきました。 中国の各時代では多くの蝗害対策に取り組んできたので、たくさんの蝗害記録が残っています。 なお朝鮮でも蝗害の記録が残っており「三国史記」によると地震や日食、冷害などと一緒に天変地異として扱われていたようです。 そのほか紀元前700年ごろのアッシリアには、串刺しにしたバッタを祭壇に掲げるレリーフが残されています。 近代では2004年11月にエジプトで大量発生したバッタがイスラエルに上陸したことが、世界中で報道されています。 2003年にはサヘル付近をサバクトビバッタが襲い、FAO(国際連合食糧農業機関)のほか2004年には日本も3. 3億円の無償資金援助を行っています。 2007年にはエチオピアの蝗害で発生したサバクトビバッタがインド洋を超えて、パキスタン、インドまで到達した記録があります。 2013年にはマダガスカルでトノサマバッタが国土の半分以上に被害を与え、想像を絶するほどの大きな被害だったことがわかります。 FAO(国際連合食糧農業機関)では2002年からバッタ対策を開始、2005年には幼虫の駆除に成功しています。 アラビア半島南部では2007年にサバクトビバッタの大量発生の可能性が浮上したため、日本を含む世界中から援助を行い、重機材や農薬、専門家を雇うために対策を取っています。 古代の日本でもトノサマバッタによる蝗害が関東平野で発生 日本の古文献でも蝗害についての報告があり、そのほとんどはイナゴによるものが多いです。 古文献では関東平野ではトノサマバッタによる蝗害が、近代では明治初期に北海道での蝗害の記録が残されています。 北海道の蝗害では本州への被害拡大を防ぐために、トノサマバッタの発生源を調査して繁殖地を断定、駆除に取り組んでいます。 1970年代には沖縄の大東諸島で、1980年代には鹿児島県の馬毛島で、2000年に入るとオープン直前の関西国際空港2期空港島でトノサマバッタが大量発生、群生相とみられる個体も見つかっています。 日本では繁殖地の特定と薬剤散布で駆除することで、大規模な被害を避けてきていますが、エントモフトラ属のカビ感染なども手伝って大量発生が終息したとも言われています。 \ SNSでシェアしよう! / 世界の面白い生物たちの 注目記事を受け取ろう•

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どうして中国人はイナゴが大発生した時に食べなかったんですか?

蝗害とは

トノサマバッタの大群が起こす恐ろしい災害「蝗害」 トノサマバッタはおとなしい草食の昆虫です。 まあ言うほど大人しくありませんが、少なくとも人が近づけば逃げ出す程度で特に獰猛だとか怖いだとかは感じません。 しかしトノサマバッタの大量発生が続いた場合、トノサマバッタは集団でエサを食い尽くす恐ろしい生物へと変貌します。 草木、農作物、家の建材、果ては人にまで齧りつき、普段のトノサマバッタとは似ても似つかない獰猛な性格になります。 トノサマバッタが大量発生して植物を食べ尽くすことを「蝗害」と言い、災害に指定されるほどの被害が出ます。 殺虫剤が発達した現代においては見られなくなりましたが、日本でも昭和初期頃までは蝗害が起きていたんですよ。 目次 [閉じる]• ワタリバッタの集団が起こす災害「蝗害」 トノサマバッタは体長3~6cm程度のやや大柄なバッタで日本のバッタの中では最大級の大きさを誇ります。 食性は草食寄りの雑食で肉食昆虫が持つような攻撃性や強力な武器を持っていないので、小さな子どもでも安心して捕まえられる部類の昆虫です。 しかしこのトノサマバッタ、時として大群となり何もかも食べつくす獰猛な集団となります。 これを「蝗害」と言い、災害の一つに数えられるほどに甚大な被害をもたらします。 なお蝗害はイナゴの害と書きますがイナゴは関係なく、ワタリバッタやトビバッタなどの一部のバッタが引き起こします。 トノサマバッタに限った話ではありませんが、本稿においての記述はトノサマバッタで統一します。 蝗害ではトノサマバッタが数千万~時に数百億匹の集団を作り、辺り一面の植物を根こそぎ食べつくします。 日本においても昭和初期頃まで蝗害は度々発生しており、明治に北海道で発生した蝗害では360億匹ものバッタを駆除した記録が残っています。 そんなトノサマバッタが集団で大移動するから大変です。 時に数百キロの列を作ることもあり、過ぎ去るのに数日かかることもあります。 しかもこの集団も普通に道中で繁殖活動を行うので、一度蝗害が起きると翌年・翌々年と何年も蝗害が続くこともザラです。 殺虫剤が発達して未然に防ぐことが可能になった現代日本においてはあまり聞かなくなりましたが、発展途上国などでは未だに発生している恐ろしい災害なのです。 こんな恐ろしい生き物が我々が知るトノサマバッタだとはとても思えませんよね。 実際に蝗害の原因となるのは我々の知るトノサマバッタとは少し違うトノサマバッタが引き起こしています。 違うと言っても種が違う訳ではなく「群生相」のトノサマバッタによるものなのです。 蝗害のバッタを食べるのは危険 蝗害で食料が無くなるのなら、この大量のバッタを食べれば良いと思うかもしれません。 しかし食べるには大きな問題があります。 蝗害を防ぐために大量の殺虫剤を撒くので、蝗害のバッタは殺虫剤の成分を体に貯め込んでいる可能性があります。 通常殺虫剤は人への影響が少ない成分のものが使われますが、蝗害はそんな人に優しい殺虫剤を撒いている場合ではないのです。 そのため蝗害時にはバッタの売買が禁止されているほどです。 だから食べてどうにかするのは、あまり現実的ではありません。 環境によって生態が変わる「相変異」 我々が普段から見かけるトノサマバッタは「孤独相」のものです。 基本的に単独で生活し、同種同士は互いに距離を取ろうとします。 しかしトノサマバッタが大量発生して個体の密度が高い環境で育つと「群生相」の子を産むようになります。 群生相の個体は孤独相のものと比べて暗色・長い翅・短い足・幅広い頭などの特徴を持ち、また集団でいる事を好むようになります。 このように環境によって子の特徴や性格が変わる性質を「相変異」と言います。 相変異は一部の昆虫に見られる性質です。 群生相のトノサマバッタは長距離を移動するのに適した体を持っており、風に吹かれて遠くまで飛行できます。 時に何十kmも飛行することもあり、海を渡ってやってくることすらあります。 そして普段は食べない植物も食べる悪食になり、農作物・家の建材・動物に齧りつくようになるのです。 これはトノサマバッタが快適に暮らすのために住む場所を移動しなければならないための変化と考えられます。 要は互いの距離が近すぎる=数が多すぎて生きていくのが難しいから新天地への移動が必要になり、それに適した体や性格の子を産む訳です。 そして移動した先々で産卵し、トノサマバッタの生息域がより広がることになります。 個体の密度で子の特徴を変えてしまうなんて凄い仕組みですよね。 生命の神秘を感じます。

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中国蝗災史

蝗害とは

概要 [ ] 中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災()、旱災()が3大災害の扱いを受けている。 そもそも【蝗】の字は農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので虫へんに皇と書くとする説がある ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた。 『』巻第八、務農第三十にあるのが蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている。 の1937年の著『中国救荒史』によると、代の蝗害は平均で8. 8年おき、時代には3. 5年おき、には1. 6年おき、代には2. 8年おきであり、中国は世界規模で見ても蝗害を多く受けてきた地域の一つである。 中国の蝗害のほとんどはによるものである。 明末の農学者は著書『除蝗疏』 ()の中で「政府が非常時の食を蓄えておかずに飢餓の被害が広がったとすれば、それは人災というべきものである。 飢餓の主因は3つ、洪水、旱魃、バッタである(國家不務畜積、不備凶饑人事之失也。 凶饑之因有三、曰水、曰旱、曰蝗)。 」と述べている。 旱魃の後には蝗害が発生しやすく、農作物の被害を一層大きくする。 歴史 [ ] 殷周 [ ] 古くはのにも蝗害の記録が見られる。 の詩篇『』には「既方既皁、既堅既好。 不稂不莠、去其螟螣。 及其蟊賊、無害我田穉。 田祖有神、秉畀炎火」とバッタの駆除の様子が詠われている。 漢代 [ ] 紀元前175年(6年)4月、旱魃と蝗害が起こっている(『』文帝紀 )。 この他に『』志第十五には建武22年、23年、28年、29年、30年、31年、中元元年、永平4年、15年、永元8年、9年、永初4年、6年、7年、元初元年、2年、延光元年、永建5年、永和元年、永興元年、2年、永壽3年、延熹元年、熹平6年、興平元年、建安2年と連綿として蝗害が起きた様子が綴られている。 の思想家は著書『』巻16の中に「虫食穀者、部吏所致」と記載している。 または「蝗者、在上貪苛之所致也」と自説を述べている。 魏晋南北朝 [ ] 東晋永嘉4年(310年)、幽并司冀秦雍六州で蝗害が発生。 建武元年(317年)にも司冀并青雍の五州に蝗害が発生したとする。 (『』) 高宗文成帝の時代、癸亥、営州で蝗害が発生したので、詔を下し、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある(『』巻二・魏本紀第二)。 唐代 [ ] の記録として「夏にバッタが発生し、作物を食い荒らして民を苦しめた。 儒学者は、祭礼を怠っているから旱魃が起こり、魚貝が害虫に変わったのだと主張した」 と書かれている(『新唐書』 )。 (二年)、首都に旱魃が起こり、飛蝗も大発生した。 『』には皇帝自身が視察を行った様子が書かれている。 、流域で「羽音、風雨の如し(聲如風雨)」というレベルで飛蝗が大発生し、当時の宰相は地元の官僚(汴州刺史)倪若水に命じてその駆除を実施し 、その量は14万石(約2万5千立方メートル)に上っている。 に山東諸州に蝗害が発生している(『』巻7)。 、現在のに飛蝗が発生したが、鳥がこれを捕食したために被害は抑えられている(『』 )。 4月、「春からの大規模な旱魃で麦が枯れ、苗が育たず、関中でバッタが発生した」 と記録されている。 は、「夏にバッタが発生し、東は海から西は黄河の上流まで、10日以上にわたって群れが天を覆った。 草木や家畜に群がり、死骸が道を塞いだ」 と記されている(『』 )。 6月、「天下旱、蝗食田」 旱魃と蝗害 との記録がある(『旧唐書』 )。 この年の前後は蝗害が酷かったらしく、中国の記録ではないが、慈覚大師()著の『』の開成5年(840年)の箇所には「青州(現在の付近)ではここ3、4年蝗害が起こっている(正月二十一日)」「いなごの群れが穀物をすべて食い尽くし路上足の踏み場も無い(八月十日)」などの記録がある。 五代十国 [ ] 、で「許、陳、汝、蔡、潁の五州でバッタが発生したが、鳥の大群がこれを皆食べた」という蝗害が起こっている。 夏六月、で「バッタが天を覆い、昼から暗くなった」 という蝗害が起こっている(『』呉越忠懿王世家)。 、宋州で「蝗一夕抱草而死、差官祭之」という害が起こっている。 ()の周懐宇は2000年、これを人間が生態系に影響を与えたためと説明している。 宋代 [ ] から、蝗害が発生しており、その後も、、、、、、に蝗害が起こっている(『』 )。 時代にとしても活躍していたは、晩に火を焚いて飛蝗を誘い込む方法を提案している。 元代 [ ] を始めに、しばしば蝗害が報告されている。 特にの被害は大きく、南京(現在の)、諸路が襲われている(『』 )。 また、には長雨による黄河の氾濫、蝗害、旱魃と言った天変地異が頻発し、そのためにが欧州へ移動したとする説がある。 また、『』には蝗害予防の方法が記されており、村(当時は社と記した)単位での管理や予防が共同体約定と言う形式で事実上義務化されていたことがわかる。 明代 [ ] 開国皇帝の「御製皇陵碑」には「値天無雨、遺蝗騰翔。 里人缺食、草木為糧」(雨が無く、バッタが大発生したため、民は食うものが無くなり草木まで食べた)と、元末の蝗害が社会に大きな影響を与えた旨が記されている。 を始めにしばしば蝗害が報告されており、明初からの「首都の天を飛蝗が蔽い、10日間以上続いた」、の「両畿、山西、山東、河南に地面に数尺ものバッタが降り積もり、農被害が起きた」との記録がある(『』 )。 6月初9日、は著書『屯塩疏』の第3編を『除蝗疏』として対策を記し、後に『』に編入された。 明末のには「両京、山東、河南で大旱蝗(旱魃と蝗害)」、には「両京、山東、河南、山西、陝西で大旱蝗」、には「両京、山東、河南、浙江で大旱蝗」と報告されており、国力を大きく疲弊させた (に明は滅亡している)。 清代 [ ] に延安、安定、欒城を飛蝗が襲い、天を覆うほどであったという(『』 )。 、が『』を著している。 また同じ、「渠県に数万の虫が発生した。 バッタに似ているが色が黒く、頭が鋭く、翅が長く、いやな臭いがする」 と記されている(『清史稿』 )。 近代になったこともあり記録も増えており、『清史稿』には「秋、徐州鄰県にバッタが侵入したが、農被害を与える前に皆死んでしまった」 (1716年)、「夏、泗陽西郷の柴林湖にバッタが来て地面に数寸降り積もったため、兵士が怯えた。 」 (1732年)、「河南にバッタが来たが皆すぐ死んだため被害にはならなかった」 (1740年)、「バッタが発生したため、4月までに植物は皆枯れてしまった」 (1787年)などの記録がある。 さらには「柳、慶上年早蝗過重、一二不逞之徒倡乱、飢民随従搶奪、比比皆然」(1852年、『論粤西賊情兵事始末』)、「夏、武郡蝗虫蔽日」(1853年、『武定府志』)、「七月、蝗従南来、飛蔽天日.集田害稼」(1855年、宣統『重修恩縣誌』)の記録がある。 の蝗害は「蝗害により、鳥の数がめっきり減り、妻に売春させる男が増えた」 (1856年、民國『欽縣縣誌』)、「5月に飛蝗が野を覆い、農作物を食った」 (1856年、民國『定陶縣誌』)、「安徽皖北の旱魃により飛蝗が発生し、農作物を食い荒らした」 (1856年、民國『太和縣誌』)、「8月、昌平、邢台、香河、順義、武邑、唐山で飛蝗が発生した」 (清史稿)と多くの記録がある。 続いて「秋7月、飛蝗が戻ってきて天を覆い、農作物に大被害を与えた」 (7月、雍正『遼州志』)、「嵐が発生しえて飛蝗は草に止まったまま死んだ」 (1877年、清史稿)との記録がある。 この清代の蝗害に関しては、中国では光緒14年(1888年)に顧彦輯が『治蝗全法』を記した。 また、同じ清代に『捕蝗要訣』と言う防除法を記した書物が現存している。 日本では楢木野宣が『嘉慶年間における水害と蝗害の一例』と言う論文を執筆するだけの資料が残っている。 近現代 [ ] 1942年のでも飛蝗が大量発生した。 1958年にで四害駆除運動を推奨しスズメを大量に駆除した結果、ハエ、カ、イナゴ(蝗害)、ウンカなどの害虫の大量発生を招いた。 夏にはを飛蝗が襲っており、1平方メートルあたり350-500匹、飛来面積は220万畝に上った。 これは海南省が出来て以来最悪の記録となった。 そのうちの農地は100万畝であり、この年の稲の収穫はほぼ絶望的となった。 被害を与えたのはトノサマバッタの一種、東亜飛蝗 Locusta migratoria manilensis であった。 出典 [ ]• 周同 2003年8月10日. 人民報. 2016年12月28日閲覧。 講談社『中国妖怪人物事典』実吉達郎• 彭邦炯 、1983年、農業考古、1983年第2期• 中國哲學書電子化計劃• (ウィキソース中国語版)。 李純然 [ ]• (ウィキソース中国語版)。 《貞観政要》卷8《務農》、上海古籍出版社1978年版、第237頁。 (ウィキソース中国語版)。 (ウィキソース中国語版)。 王溥:『』巻44、中華書局1955年6月第1版、第790頁• [ ]• 2008年7月24日. 2016年12月28日閲覧。 (ウィキソース中国語版)。 周懐宇 、中国水利報、2000年• (ウィキソース中国語版)など。 陳芳生『捕蝗考』()• (ウィキソース中国語版)• 岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』、2006年、ちくま新書、• 鳳陽論壇 [ ]• (ウィキソース中国語版)。 人民報. 2005年8月20日. 2016年12月28日閲覧。 原文 [ ]• 「夏州蝗。 蝗之殘民、若無功而祿者然、皆貪撓之所生。 先儒以為人主失禮煩苛則旱、魚螺變為蟲蝗、故以屬魚孽」• 「自春大旱、麦枯死、禾無苗、関中有蝗」• 「夏、蝗、東自海、西盡河隴、群飛蔽天、旬日不息;所至、草木葉及畜毛靡有孑遺、餓殍枕道」• 「大蝗蔽日而飛、晝為之黑、庭戸衣帳悉充塞」• 「渠県有虫数万斛、似蝗、黒色、頭鋭、有翅、嗅之甚臭」• 「徐州鄰県秋蝗入州界、不食禾皆抱草而斃」• 「泗陽西郷柴林湖夏蝗蝻遍地、厚数寸。 官兵惶懼、旋尽抱草僵死」• 「河南蝗来境、抱草而死、不為災」• 「蝻起、至四月皆依草附木而枯」• 「夏、蝗虫又起、飛翳天日、棲樹枝折、復値歳飢、木葉草亘、人虫争相取食、衰鴻遍野、売男鬻女」• 「五月、飛蝗遍野。 六月、蝻生、食稼害稼」• 「(安徽皖北大旱)旱、飛蝗大至、食稼幾盡」• 「八月、昌平蝗、邢台蝗、香河、順義、武邑、唐山蝗」• 「秋七月至望復返、群飛蔽日、食稼太甚」• 「大風雨、蝗抱草斃」 参考文献 [ ]• (中国語版) 倪根金、《历代蝗灾及治蝗述要》(《历史教学》1998年第6期)• (中国語版) 陆人骥、《中国历代蝗灾的初步研究——开明版〈二十五史〉中蝗灾记录的分析》(《农业考古》1986年第1期)• (中国語版) 袁林著、《西北灾荒史》(甘肃人民出版社、1994年).

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