こ せき ゆうじ 写真。 古関裕而の経歴を若い頃から晩年まで!嫁の金子と息子の現在は?

朝ドラ「エール」主人公のモデル、古関裕而(こせき ゆうじ)さんとは?

こ せき ゆうじ 写真

5000曲を世に送り出したといわれる日本が誇る大作曲家。 校歌もたくさん作っていて、福島県内109校と含め日本全国で350校以上の校歌を作曲しています。 古関裕而さんの曲は、校歌や応援歌が多いんです。 福島の古関裕而記念館では、古関裕而さんの曲が現在も歌い継がれています。 昭和54年には福島の最初の名誉市民に選ばれるなど、現在でも地元でフラッシュモブやるくらい愛されています。 福島駅東口の古関裕而先生。 是非、会いに来てください😉 — 信夫山鉄男 yamahei6 朝ドラ「エール」のモデルとなった経緯は、福島商工会議所青年部などが5年前からドラマ化してもらうために、福島市・豊橋市と署名15万以上を集めてNHKに陳情した結果だそうです。 戦後の日本を音楽で元気づけ、1964東京五輪の入場行進曲を手掛けた古関裕而さん夫婦をモデルにした朝ドラが、2020東京五輪の開催される前に放送されるのはスゴイ。 それに、福島市は東京五輪聖火リレーの出発地で、五輪競技でも最初の開催地だったりと、復興五輪の象徴なのです。 古関裕而が死去。 昭和の作曲家。 日本コロムビアに入社し歌謡曲・応援歌など生涯に5000曲を作曲。 主な作品に『六甲おろし』『栄冠は君に輝く』『長崎の鐘』『君の名は』がある。 気品ある格式高い曲風から現在まで多くの作品が愛されている (80歳・脳梗塞) — 岡村 義視 kamo1868 名前:古関 裕而(こせき ゆうじ) 本名:古関 勇治 生年月日:1909年8月11日 出身地:福島県福島市 年齢:享年80才(1989年8月18日死去) 職業:作曲家 結婚歴:1回。 嫁は金子(きんこ) 古関裕而さんは作曲するとき、なんと楽器を使いません。 書斎には楽器がないので、本・五線譜・鉛筆だけでまるで作家の書斎。 頭で描いた曲を、五線譜に書いていく天才スタイル。 老舗呉服店「喜多三」の後継者として育てられましが、周囲からはぼんやりして取り柄がない子供だと思わてました。 一方で音楽好きの父親・三郎次さんがなかなか手に入らない蓄音機を買ったことで、そこから流れる浪曲・民謡・吹奏楽を聴いて楽しんでると、母親・ヒサさんが小さなピアノを買ってくれました。 当時の福島は絹織物産業で潤う豊かな街で、絹製品の買い付けでたくさん外国人が訪れて、古関裕而さんは西洋の新しい音楽に触れていくことができました。 福島県師範学校附属小学校では、音楽好きな担任の遠藤喜美治先生が音楽指導に熱心なおかげで、古関裕而さんは10才で楽譜が読めるようになると、市販の妹尾楽譜を買って作曲に夢中になり、同級生たちから作曲をリクエストされるほどの人気に。 また、近所に住んでいた5才年上の作詞家・野村俊夫さんとは、のちに戦時中にコンビで作品を作っていくことにになります。 昭和30年前後の旧校舎、商業実践室付近の写真です。 いつもハーモニカを持ち歩いて勉強より作曲に夢中で、学校の弁論大会では書き溜めていた曲が初めて人前で演奏されるなど、独学で作曲の才能を開花させてゆきます。 一方で、昭和恐慌の大不況で呉服店が倒産・・・。 しかし呉服屋を継ぎたくなかった古関裕而さんは内心ほっとしたのでした。 こうして音楽に没頭できる環境をゲット。 高校卒業する頃には日本でも有数のハーモニカバンド「福島ハーモニカーソサエティー」に入団して作曲・編曲・指揮を担当。 この頃、近代フランスうやロシアの音楽と衝撃の出会いを果たしています。 18才の時はラジオ好きだったのペンネーム「楽治雄(らじお)」を名乗り、高校の寄せ書きには『末(すえ)は音楽家だよ』と書いてました。 高校卒業後、川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職して働きながら、憧れの作曲家・山田耕筰さんと手紙のやりとりをしたり、仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演したり、聖歌の作曲家・金須嘉之進さんに師事しています。 1977年68才のとき夏の甲子園の開会式に招待されると、母校が甲子園で初勝利する奇跡が起きて、自分が作った校歌を生で聴いたのでた。 1988年11月12日、脳梗塞で入院中、出身地に「福島市古関裕而記念館」が建ちました。 1989年(平成元年)8月18日、聖マリアンナ医科大学病院で死去・・・死因は脳梗塞でした。 葬儀は盛大な音楽葬となり、早稲田と慶応の両大学の応援団が応援歌を浮くってくれました。 2009年は生誕100年記念。 JR福島駅の発車メロディに古関裕而さん作曲の「高原列車は行く」「栄冠は君に輝く」が採用され、福島駅東口駅前広場にはオルガンを弾く姿をデザインしたモニュメントが建てられました。 高等女学校に進学し、声楽家を夢見た少女でした。 イギリスのコンクールで2位入賞した古関裕而さんの新聞記事を見て、その才能に惚れてファンレターを送り、4か月の文通で恋愛し、豊橋市で会うと、そのまま福島に行って、結果わずか半年でスピード結婚したのでした。 昭和5年、古関裕而さんの年齢20才、嫁の金子さん18才での結婚でした。 秋に古関裕而さんが日本コロンビアに声をかけられ、契約して翌年1936年(昭和6年)に夫婦で上京。 世田谷区代田の自宅で暮らしました。 昭和7年20才の頃1月に長女・雅子さんを出産。 昭和9年22才の頃7月に次女・紀子 みちこ さんを出産。 その後、帝国音楽学校に入学して声楽に励んだ嫁・金子さんでしたが、戦後昭和21年34才の頃に長男・正裕さんを出産してからは子育てに専念するため音楽の道は辞めています。 でも音楽好きだから家では毎日歌っていました。 晩年は1980年7月23日に病気で死去。 享年68才。 死因は乳がんの全身転移でした。 旦那の古関裕而さんより先に亡くなっているんですね・・・。 大学卒業後、日本経済新聞社に就職し、データベース、オンライン情報サービスなどシステム開発の仕事に関わりました。 新聞社を早期退職後、青山で輸入婦人服のセレクト・ショップ「ブティック・ラフィーナ」を経営しながら、2008年に小説「緋色のラプソディー」を出版したりと、多岐にわたって活動。 また、若い頃のバンド活動を活かして2013年に音楽ユニット『喜多三』を結成。 父の楽曲をメインに歌とトークのライブ活動を行っています。 プライベートでは息子・古関正裕さんは現在、結婚して子供もいるようです。 嫁・金子さんと古関裕而さんは現在すでに亡くなっていますが、息子の古関正裕さんは音楽活動もしているので、やっぱり音楽好き一家なんですね。 朝ドラ「エール」では主人公の幼少期から、夫婦が戦争という苦難を乗り越え、日本中を明るく励ます応援歌を作っていく姿が描かるようです。 代表曲が生まれるエピソードには、生涯の出会いやドラマチックな秘話があると思うので楽しみです。

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5000曲を世に送り出したといわれる日本が誇る大作曲家。 校歌もたくさん作っていて、福島県内109校と含め日本全国で350校以上の校歌を作曲しています。 古関裕而さんの曲は、校歌や応援歌が多いんです。 福島の古関裕而記念館では、古関裕而さんの曲が現在も歌い継がれています。 昭和54年には福島の最初の名誉市民に選ばれるなど、現在でも地元でフラッシュモブやるくらい愛されています。 福島駅東口の古関裕而先生。 是非、会いに来てください😉 — 信夫山鉄男 yamahei6 朝ドラ「エール」のモデルとなった経緯は、福島商工会議所青年部などが5年前からドラマ化してもらうために、福島市・豊橋市と署名15万以上を集めてNHKに陳情した結果だそうです。 戦後の日本を音楽で元気づけ、1964東京五輪の入場行進曲を手掛けた古関裕而さん夫婦をモデルにした朝ドラが、2020東京五輪の開催される前に放送されるのはスゴイ。 それに、福島市は東京五輪聖火リレーの出発地で、五輪競技でも最初の開催地だったりと、復興五輪の象徴なのです。 古関裕而が死去。 昭和の作曲家。 日本コロムビアに入社し歌謡曲・応援歌など生涯に5000曲を作曲。 主な作品に『六甲おろし』『栄冠は君に輝く』『長崎の鐘』『君の名は』がある。 気品ある格式高い曲風から現在まで多くの作品が愛されている (80歳・脳梗塞) — 岡村 義視 kamo1868 名前:古関 裕而(こせき ゆうじ) 本名:古関 勇治 生年月日:1909年8月11日 出身地:福島県福島市 年齢:享年80才(1989年8月18日死去) 職業:作曲家 結婚歴:1回。 嫁は金子(きんこ) 古関裕而さんは作曲するとき、なんと楽器を使いません。 書斎には楽器がないので、本・五線譜・鉛筆だけでまるで作家の書斎。 頭で描いた曲を、五線譜に書いていく天才スタイル。 老舗呉服店「喜多三」の後継者として育てられましが、周囲からはぼんやりして取り柄がない子供だと思わてました。 一方で音楽好きの父親・三郎次さんがなかなか手に入らない蓄音機を買ったことで、そこから流れる浪曲・民謡・吹奏楽を聴いて楽しんでると、母親・ヒサさんが小さなピアノを買ってくれました。 当時の福島は絹織物産業で潤う豊かな街で、絹製品の買い付けでたくさん外国人が訪れて、古関裕而さんは西洋の新しい音楽に触れていくことができました。 福島県師範学校附属小学校では、音楽好きな担任の遠藤喜美治先生が音楽指導に熱心なおかげで、古関裕而さんは10才で楽譜が読めるようになると、市販の妹尾楽譜を買って作曲に夢中になり、同級生たちから作曲をリクエストされるほどの人気に。 また、近所に住んでいた5才年上の作詞家・野村俊夫さんとは、のちに戦時中にコンビで作品を作っていくことにになります。 昭和30年前後の旧校舎、商業実践室付近の写真です。 いつもハーモニカを持ち歩いて勉強より作曲に夢中で、学校の弁論大会では書き溜めていた曲が初めて人前で演奏されるなど、独学で作曲の才能を開花させてゆきます。 一方で、昭和恐慌の大不況で呉服店が倒産・・・。 しかし呉服屋を継ぎたくなかった古関裕而さんは内心ほっとしたのでした。 こうして音楽に没頭できる環境をゲット。 高校卒業する頃には日本でも有数のハーモニカバンド「福島ハーモニカーソサエティー」に入団して作曲・編曲・指揮を担当。 この頃、近代フランスうやロシアの音楽と衝撃の出会いを果たしています。 18才の時はラジオ好きだったのペンネーム「楽治雄(らじお)」を名乗り、高校の寄せ書きには『末(すえ)は音楽家だよ』と書いてました。 高校卒業後、川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職して働きながら、憧れの作曲家・山田耕筰さんと手紙のやりとりをしたり、仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演したり、聖歌の作曲家・金須嘉之進さんに師事しています。 1977年68才のとき夏の甲子園の開会式に招待されると、母校が甲子園で初勝利する奇跡が起きて、自分が作った校歌を生で聴いたのでた。 1988年11月12日、脳梗塞で入院中、出身地に「福島市古関裕而記念館」が建ちました。 1989年(平成元年)8月18日、聖マリアンナ医科大学病院で死去・・・死因は脳梗塞でした。 葬儀は盛大な音楽葬となり、早稲田と慶応の両大学の応援団が応援歌を浮くってくれました。 2009年は生誕100年記念。 JR福島駅の発車メロディに古関裕而さん作曲の「高原列車は行く」「栄冠は君に輝く」が採用され、福島駅東口駅前広場にはオルガンを弾く姿をデザインしたモニュメントが建てられました。 高等女学校に進学し、声楽家を夢見た少女でした。 イギリスのコンクールで2位入賞した古関裕而さんの新聞記事を見て、その才能に惚れてファンレターを送り、4か月の文通で恋愛し、豊橋市で会うと、そのまま福島に行って、結果わずか半年でスピード結婚したのでした。 昭和5年、古関裕而さんの年齢20才、嫁の金子さん18才での結婚でした。 秋に古関裕而さんが日本コロンビアに声をかけられ、契約して翌年1936年(昭和6年)に夫婦で上京。 世田谷区代田の自宅で暮らしました。 昭和7年20才の頃1月に長女・雅子さんを出産。 昭和9年22才の頃7月に次女・紀子 みちこ さんを出産。 その後、帝国音楽学校に入学して声楽に励んだ嫁・金子さんでしたが、戦後昭和21年34才の頃に長男・正裕さんを出産してからは子育てに専念するため音楽の道は辞めています。 でも音楽好きだから家では毎日歌っていました。 晩年は1980年7月23日に病気で死去。 享年68才。 死因は乳がんの全身転移でした。 旦那の古関裕而さんより先に亡くなっているんですね・・・。 大学卒業後、日本経済新聞社に就職し、データベース、オンライン情報サービスなどシステム開発の仕事に関わりました。 新聞社を早期退職後、青山で輸入婦人服のセレクト・ショップ「ブティック・ラフィーナ」を経営しながら、2008年に小説「緋色のラプソディー」を出版したりと、多岐にわたって活動。 また、若い頃のバンド活動を活かして2013年に音楽ユニット『喜多三』を結成。 父の楽曲をメインに歌とトークのライブ活動を行っています。 プライベートでは息子・古関正裕さんは現在、結婚して子供もいるようです。 嫁・金子さんと古関裕而さんは現在すでに亡くなっていますが、息子の古関正裕さんは音楽活動もしているので、やっぱり音楽好き一家なんですね。 朝ドラ「エール」では主人公の幼少期から、夫婦が戦争という苦難を乗り越え、日本中を明るく励ます応援歌を作っていく姿が描かるようです。 代表曲が生まれるエピソードには、生涯の出会いやドラマチックな秘話があると思うので楽しみです。

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こ せき ゆうじ 写真

概要 [ ] に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期にはに師事。 に主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品として、自身の作品がノミネート。 これを日本の新聞で「 チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出。 クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの・や、の作曲を手掛け、の「」、・らの「」、の「」、・の「」などを発表した。 戦後は、「」の主題歌「」や、の「」、の「」、伊藤久男の「」、の「」、の「」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。 他方で、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「あゝ中央の若き日に」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手がけ、 和製と呼ばれた。 巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関本人はスポーツが苦手で、プロ野球にもあまり興味がなかったため、球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。 また、母校である福島商業高等学校の校歌「」を作曲している。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年が住んでおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現)へ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販のなどを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を作って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 青少年期 [ ] (大正11年)、旧制福島商業学校(現)に入学した。 同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 妹尾楽譜や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。 学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現川俣支店)に勤務した。 町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ [ ] (昭和4年)、イギリスロンドン市のチェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』第10巻第77号 に掲載された管弦楽作品の懸賞募集を見て、同年7月に管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を含む5つの作品を応募した。 同年12月に福島商業学校の恩師、丹治嘉市に「2等に5曲共入賞致しました。 」と手紙で報告し 、(昭和5年)1月23日のなど各紙で入賞を大々的に報道された。 これらを典拠として『竹取物語』を日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品とする文献があるが 、この作品が二等に入賞したとされる作曲懸賞募集の詳細は明らかになっていない。 これは主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。 日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのはの「やまとの声 」である。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で在住 の(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、自身の内気な性格と当時の不況などが重なりそれは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品には、を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)7月、古関が25歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへ進んでいた。 金子は後に声楽家の(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた。 また同時期に古関は同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 太平洋戦争中から戦後 [ ] 1955年 中の古関は数々の名作を発表した。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」「」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」「」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるの唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱するなどの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。 晩年と死後 [ ] 系の音楽番組『』の審査員を、の放送開始から初代司会者のとともにに降板するまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ 、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 同年の秋ごろ、古関へのの授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動している時ならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 なお、このタイミングでの国民栄誉賞受賞となれば、作曲家としては(昭和53年)のに次いで史上二人目となる予定であった。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 2020年6月30日、「高原列車は行く」のモデルとなった(出典原文では「沼尻軽便鉄道」記載)の歴史をたどり住民有志が作製したDVDが古関の出身地・福島市に寄贈された。 家族 [ ]• 妻・金子との間に2女1男• 娘2人は戦前の生まれ。 終戦間際に娘2人を福島県の知人宅に疎開させ、裕而も一時同居している。 長男・は戦後生まれ。 アマチュア時代ののキーボード担当だったが脱退。 会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当。 父母を回想する新聞雑誌や音楽番組にも協力している。 主な作品 [ ] 太平洋戦争前 - 戦中期 [ ]• 1931年「 ~応援歌~」(作詞:住治男)• 1931年「福島行進曲」(作詞:、歌:)• 1931年「福島夜曲(セレナーデ)」(作詞:、歌:阿部秀子)• 1932年「恋の哀愁(エレジー)」(作詞:西岡水郎、歌:天野喜久代)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1934年「利根の舟唄」(作詞:、歌:)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)• 1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1937年「」(作詞:広瀬喜志、歌:)• 1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子、松平晃)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:松平晃、松原操、二葉あき子、、渡辺はま子)• 1939年「月のバルカローラ」(作詞:服部竜太郎、歌:)• 1940年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、松原操、高橋裕子)• 1941年「野口英世」(作詞:、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:霧島昇)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 太平洋戦争後 [ ]• 1946年「」(作詞:藤浦洸)• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1949年「を讃える野球の歌」(作詞:青木薫、補作詞:サトウハチロー)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「福島県スポーツの歌」(作詞:小林金次郎、歌:藤山一郎)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:、コロムビアゆりかご会)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1951年「白いランプの灯る道」(作詞:丘灯至夫、歌:)• 1951年「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1952年「いつだったかな」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1952年「ジロリンタンのうた」(作詞:サトウハチロー、歌:安西愛子、杉の子こども会)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作詞:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「秋草の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1954年「綾の歌」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「郡山市民の歌」福島県郡山市(作詞:内海久二)• 1954年「君は遙かな」(作詞:菊田一夫、歌:、織井茂子)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1955年「我が家の灯」(作詞:西條八十、歌:美空ひばり)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「忘却の花びら」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1958年「」(作詞:コスティス・パラマス、作曲:スピロ・サマラス。 第1回時の紛失ピアノ楽譜を発見、採譜・オーケストラ編曲。 古関のオーケストラ譜は現在に至るまで用いられる)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1959年「城南信用金庫の歌」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作詞:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1960年「花のスカイライン」(作詞:内海久二、補作詞:野村俊夫、歌:守屋浩)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1961年「ハーモニカ小僧」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作詞:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1969年「青春の鐘」(作詞:丘灯至夫、歌:)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作詞:)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 1978年「」(作詞:岡本淳三、補作詞:春日井市民の歌作成委員会、歌:)• 1979年「若さと英知~社歌」(原案:社内公募、作詞:丘灯至夫、歌:)• 1985年「社歌」(作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 - 佐久間正門 現行版 - 松瀬節夫) 映画音楽 [ ] 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 - 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年 - 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1960年「」(監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・特技監督)• 1962年「」(監督) クラシック音楽 [ ]• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他 [ ]• 1949年 スポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1956年「豊橋市歌」(作詞:辰己利郎、補作詞:丸山薫)• 1959年 日本ライオンズクラブ会員歌「日本ライオンズの歌」(作詞:藤浦洸)• 1959年 「」• 1960年 舞台劇「」• 1961年 舞台劇「」• 1961年 舞台劇「香港」主題歌「われ君を愛す」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1966年 舞台劇「」• 1970年 テーマソング「わらじ音頭」(作詞:茂木宏哉、補作詞:丘灯至夫、歌:)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年「スポーツ日本の歌」(演奏:コロムビア吹奏楽団)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• 1973年 世田谷ロータリークラブ会員歌「日も風も星も」(作詞:)• 1980年「川俣町民の歌」• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 制定歌「の歌」(作詞:春日紅路、補作詞:西條八十、歌:藤山一郎、)1951年• 主題歌「みどりの歌」(作詞:中村利春、歌:藤山一郎、安西愛子)1948年• 「阿武隈の歌」(作詞:)• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 応援歌「紫紺の旗の下に」(作詞:明治大学応援団、補作詞:野村俊夫)1955年• 水上応援歌「水の覇者日大」(作詞:サトウハチロー)• 日大松戸歯学部学生歌(作詞:)• 奥羽大学(旧:東北歯科大学)校歌• 学歌(作詞:)• 横浜市立大学校歌(作詞:西條八十)• 社歌(作詞:)• 城南信用金庫の歌(作詞:西條八十)1959年• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 社歌「呼ぼうよ 雲を」(作詞:)1961年• ホームソング• 社歌(作詞:藤浦洸、歌:伊藤久男、安西愛子、コロムビア合唱団)• 松下電器行進曲「月日とともに」(作詞:山田博夫)1951年• 社歌「清くけだかき白鳥の」(作詞:)1961年• 歌(作詞:)• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 山形県北村山郡大石田町町民歌(斎藤茂吉歌集「白き山」より)• 校歌(作詞:白鳥省吾)1950年• 校歌「若きこころ」• 校歌(作詞:柳澤健)• 校歌(作詞:多田利男)• 校歌(作詞:土井晩翠)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 新潟県見附市立見附小学校校歌• 校歌(作詞:西條八十)• 日光市立日光中学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 福島市立第四小学校校歌• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 東京都大田区立徳持小学校校歌(作詞:野村俊夫)1955年• 東京都板橋区立成増小学校校歌(作詞:和田隆夫)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:野村俊夫)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:船橋久男)• 愛知県校歌• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:内藤敏夫)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:吉井勇)• 京都府校歌(作詞:能勢佐十郎)• 校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:中河与一)• 北九州市立熊西小学校校歌(作詞:)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:頓田元穂)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 応援歌(作詞:)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:宮崎康平)• 校歌(作詞:)• 鹿児島県肝付町立内之浦小学校校歌• 福岡県校歌(作詞:西條八十)• 神奈川県愛甲郡校歌(作詞:丘灯至夫、歌:) 受賞 [ ]• (1952年度)• (1969年)• 福島市名誉市民(1979年)• (1979年)• 特別賞(1979年)• (1987年) 出演 [ ]• 私の好きな曲(1962年、NHK)• (1972年 - 1984年、フジテレビ)• (1975年、)• 古関裕而ショー(1983年、NHK総合) 著書 [ ]• 古関正裕『君はるか 古関裕而と金子の恋』、、2020年2月• 結婚前の文通録を書籍化。 ビジュアル本 [ ]• 古関正裕『古関裕而の生涯 傑作メロディーCD付き』、、2020年4月 評伝等 [ ]• 齋藤秀隆『歴春ふくしま文庫67 古関裕而 うた物語』歴史春秋出版 2019年6月 978-4897575940• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年• 『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』 、2019年11月• 『古関裕而 応援歌の神様 激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 2020年2月• 『古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月• 『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 2020年3月• 『古関裕而・金子 その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月 参考文献 [ ]• 武満徹 02 古関裕而• 古関裕而全集 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 度重なる古関の「放言癖」(楽器を使わずペンから音楽があふれる等々)から、元からそのような作品群は存在していなかったという説もある。 「福島小夜曲」と表記されることもある。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 同名のが存在する。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 1943年発表の同曲を西郷輝彦がカバーしたもの。 出典 [ ]• withnews. Withnews. 2020年6月7日閲覧。 古関裕而『うた物語』. 福島民友新聞社 2009年1月12日. 2020年7月29日閲覧。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。 川俣町. 2020年4月22日閲覧。 The Chesterian. London: J. Chester, Ltd. March 1929• 古関裕而『うた物語』. 福島民友新聞社 2009年1月26日. 2020年6月29日閲覧。 twitter. com. twitter. 2020年6月7日閲覧。 www. jscm. net. JSCM. 2020年6月7日閲覧。 当時はまだ。 豊橋への編入は(昭和7年)以降。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 刑部芳則『古関裕而』p140• - 福島市古関裕而記念館、2020年5月28日閲覧。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 www. city. fukushima. fukushima. 福島市. 2020年6月14日閲覧。 NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日. 2019年2月28日閲覧。 毎日新聞. 2020年7月4日. 2020年7月4日閲覧。 福島民友. 2020年6月2日閲覧。 産経新聞 2014年2月5日. 2020年6月2日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 2020年5月1日閲覧。 cms. edu. city. kyoto. 2020年4月13日閲覧。 topics. smt. docomo. NTT DOCOMO. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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