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なんでも実況VIP

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公園につくあの漢字!「恩賜」の読み方、わかりますか? 普段はあまり気に留めないけれど、いざ読み方を聞かれたら分からない漢字ってありますよね。 例えば、などなど。 読み方を知らないままでいるのはとてももったいないです! 今回も読めそうで読めない、どこかで見たことはある漢字をクイズで出題。 お題はこちらです! 「恩賜」。 この正しい読み方、知ってますか? なんとなく見慣れた漢字に似ているので「おんちょう」と読みたくなってしまうところですが「おんちょう」ではありません。 まずは『デジタル大辞泉』(小学館)でその意味を見てみましょう。 天皇・君主から物を賜ること。 また、その賜り物。 「恩を賜る(たまわる)」と書きますが、意味もその通りでしたね。 「恩賜」とだけ聞くと耳なじみがあまりないように思えますが、都内にある有名な公園 「上野恩賜公園」や「井の頭恩賜公園」なら聞いたことがありそう。 これはもともと宮内省が御料地として所有していた土地が公に恩賜されて、整備された公園のことなんです。 あの広い公園ももとは天皇の所有地だったと知ると納得ですね。 さて、正解はわかりましたか? 今回はヒントが少なかったかもしれません…。 わかった方もわからなかった方も正解を見てみましょう! 「おんし」でした。 正解できましたか? 「恩」は「与える、めぐむこと」、「賜」は「天皇や君主から物品を賜ること、またその贈り物」を指します。 また、「恩賜」に似た言葉で「下賜」という言葉があります。 これは、「天皇などの身分の高い人が、身分の低い人に金品を与えること」という意味。 与える側と与えられる側で、使う言葉が違うなんておもしろいですよね。 CanCam. jpでは毎朝6時に漢字クイズを更新しています。 他の問題にもぜひチャレンジしてみてくださいね!(岩川菜奈) 2020. 25 作成.

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陰陽道とは

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中国古代のに基づいて形成された俗信。 木火土金水の五行と,日月,十干十二支の組合せに,相生相克の理をあてはめて吉凶を判断するもので,日時,方角をはじめ,人事全般に行為,運勢の良否を規定した。 推古 10 602 年 10月百済 くだら 僧観勒が来朝し,暦本,天文地理書および遁甲方術の書を献上したので,学生3~4人を選んでこれを学ばせたと『日本書紀』にあるのが,陰陽道伝来の文献にみえる初めである。 大宝令では,の管掌するところで,,,,などの技術者がおかれ,制度として整備された。 平安時代中期,忠行,保憲父子,その門人の頃,陰陽道は隆盛をきわめた。 保憲はその子家栄に暦道を,晴明に天文道を分け授けたので,以後朝廷では,賀茂,両家がそれぞれの陰陽道を相伝し,家業とした。 晴明は傑出したとして伝説が多い。 これら禍を除き福を招くため,は祓 はらい や祭りを行う。 出行のとき行う呪法である反閉 へんぱい ,身体が強くなるよう加持する身固 みがため ,身体をなでて穢 けが れ災いを移した撫物の祈祷,人の寿命やを司る山神を祭る泰山府君祭などはそれである。 こうして陰陽道は次第に民間への流布と俗信化を強めていった。 その信仰の残りは,今日,結婚,葬式などの日選び,建築の かたいみ ,星占いなどにみられる。 【道教】より …獣の構造 を下敷きにし,天武をはじめとして皇族の陵墓の多くが,朱鳥もしくは朱雀の象徴する南方,火の方角,道教の神学でいわゆる死者のよみがえりの宮,すなわち〈朱宮〉 〈朱火宮〉 の方向に築かれているのも,このことと密接に関連するであろう。 [陰陽道と道教] 7世紀後半の天武・持統の治世,ないし8世紀初めの元明・元正の時代に道教の思想信仰への関心の高まりが見られること上述のごとくであるが,《古事記》成立の6年後,《日本書紀》成立の2年前,元正天皇の養老2年 718 ころに成立した現存最古の律令の養老律令では,道教と関連する記述がほとんど表面に見えていない。 これはなぜであろうか。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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御柱祭

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(27KB) 4分40秒 この音声や映像がうまく視聴できない場合は、をご覧ください。 玉音放送 ( ぎょくおんほうそう )とは、の肉声(「玉音」)をすることをいう。 特に(20年)()に、当時唯一の放送局だった(現在の)から放送された、による 終戦の( 大東亜戦争終結ノ詔書)の放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。 この放送は、第二次世界大戦における日本のポツダム宣言受諾による終戦をに伝えるもので、日本ではこの玉音放送のあった8月15日を あるいは 終戦記念日と呼び、以後毎年のように、主催でを行い、正午にを行うのが通例となっている。 なお、正式に日本が降伏したのは、それから半月後のが調印された同年のことである。 6・7頁目 を受けて、1945年(昭和20年)、はにおいてが昭和天皇のを仰ぎ、に連合国から示されていたの受諾を最終決定した(いわゆる)。 ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において、することを意味した。 御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案がにかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。 詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(、戦争終結ニ関スル詔書)としてされた。 この詔書は、に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。 ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、のおよび駐在の日本公使館を通じて側に伝えられた。 昭和天皇は詔書を朗読してにさせ 、翌15日よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。 この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。 当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。 鈴木貫太郎以下による御前会議のあともの一部には徹底抗戦を唱え、を意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(、録音盤事件)。 前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。 当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。 また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。 アメリカ軍は数日前からなどに15日の空襲予告を行っていたが 、15日の未明のを最後に爆撃を停止した。 放送は正午に開始された。 はじめに日本放送協会の放送員()・によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。 続いて総裁・が天皇自らの朗読であることを説明し、の演奏が放送された。 その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。 再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。 放送は のレコード、 玉音盤 ( ぎょくおんばん )再生によるものであった。 劣悪なラジオの放送品質のため音質がきわめて悪く 天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解なが相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。 玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった。 朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい。 私はここにを護持することができ、忠実なお前たちの赤誠を頼って常にお前たち臣民とともにある)と続く)。 終戦詔書 [ ] 『 大東亜戦争終結ノ詔書』は「 終戦詔書」とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された。 大まかな内容は・が作成し、以降に漢学者・(内閣嘱託)が起草、さらに14日に(顧問)が刪修して完成 し、同日の内に天皇のがあった。 大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。 第7案まで議論された。 喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるを恐れた・が「 戦局日ニ非 ( あらざる ) ニシテ」の改訂を求め、「 戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。 このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末のを十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例なである。 全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。 終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官・佐野小門太が浄書したものである。 当初、迫水久常は分かりやすい口語体による放送にしようと考えていた。 内閣嘱託の木原通雄とともに案を作り始めたが、一人称と二人称をどうするかという基本的な点で行き詰まってしまった。 つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできなかった。 録音と放送 [ ] 終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は次長・が内閣情報局総裁のに提案したものというのが通説である。 日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、このへの出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人) が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。 録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。 録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定であった。 しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『』によると、は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、や侍従長らが見守る中で朗読は行われた。 2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。 2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらにが抜けていたことから、天皇から3度目の録音をとの話もあったが、下村がこれを辞退したという(下村宏『終戦秘史』)。 玉音放送は、日本電気音響(のちの)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製のセルロース製に録音された。 この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。 作業は翌午前1時ごろまでかかって終了。 情報局総裁・下村宏および録音班は、を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。 録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた()。 録音盤は、録音後にのにより事務官室の書類入れの軽に、ほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。 事件鎮圧後、宮内省は1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる )」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる )」と定め、「正盤」はへ、「副盤」はの予備のスタジオへと持ち込まれた。 当日正午ののあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)・和田信賢である。 ()ではが厳格なによる訳文書()を朗読し、国外向けに放送した。 この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付の紙に全文が掲載されることとなった。 玉音放送と前後のラジオ放送 [ ] 8月15日午前中に配布された玉音放送予告の特報() 正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。 また、放送を即時に広く伝達するため10に規制されていたを60kW に増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらにによりを通じて中国占領地、、、、南方諸地域にも放送された。 予告放送 [ ] 玉音放送の予告は14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われた。 内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後1時ごろに配達されるところもあること」などが報じられた。 15日正午の放送内容 [ ] 特記なき文は和田信賢によるアナウンス。 正午の時報• 「只今より重大なる放送があります。 全国の聴取者の皆様ご起立願います」• 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給うことになりました。 これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)• 詔書(昭和天皇・録音盤再生)• 君が代奏楽• 「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)• 「謹んで詔書を奉読いたします」• 終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)• 「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)• 内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)• 交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)• 万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(天皇による終戦決意)• ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)• (カイロ宣言の要旨)• 緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)• 鈴木総理大臣放送の予告(14時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。 実際は総辞職の閣議のため、19時のニュースに続いて放送された) 15日の放送 [ ] 1945年(昭和20年)8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。 7時21分(9分間)• 正午(37分半、玉音放送を含む)• 15時(40分間)• 17時(20分間)• 19時(40分間)• 21時(18分間) 全文 [ ] 朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス 然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ 是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ 朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス 帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク 且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ 御名御璽 昭和二十年八月十四日 内閣総理大臣鈴木貫太郎 読み下し [ ] 朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ 朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所 先に米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず 然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず 世界の大勢また我に利あらず しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや 是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり 朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず 帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く 且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり 思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず 汝臣民の衷情も朕よく是れを知る 然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す 朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む 宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし 汝臣民それ克く朕が意を体せよ 御名御璽 昭和二十年八月十四日 内閣総理大臣鈴木貫太郎 現代語訳 [ ] 玉音放送の全文 現代語訳。 私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。 私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。 そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。 先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。 しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。 それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。 そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。 これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。 日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。 さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。 考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。 あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。 しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。 私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。 感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。 まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。 あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。 天皇陛下署名及び天皇の印 玉音盤 [ ] 玉音盤(副盤) (玉音放送で流すべく、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤) 所蔵 玉音放送の記録媒体であるレコード盤(玉音盤)には、が保管する原盤と、戦後の(GHQ)の複製とがあるとされている。 一般的に知られてきた玉音放送の音声は、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる。 NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年現在はLPが内のライブラリーに保管されている(元の複製盤は行方がわかっていない)。 玉音放送は2回録音が行われたため「玉音盤」には正副の2組存在する。 玉音盤は昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「」に長らく収蔵されたのちに、その後宮内庁の倉庫に移された。 そのうち、1回目に録音され、放送では使われなかった方の玉音盤(副盤)計7枚は(昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁からに移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた。 現在は修復措置を施したうえ、ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。 宮内庁が所蔵する2回目に録音されたもう1組の玉音盤(正盤)計5枚についても劣化が進んでいたものの、(26年)末に宮内庁が再生を試みたところ、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。 その後が実施され、(平成27年)には第125代天皇、、・(現・天皇)、の4人がこの復元された音声を聞いたという。 原盤はこれまで公にされていたものより10秒ほど短い4分30秒であるが、従来の音源は再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推測されている。 宮内庁では戦後70年の節目にあたることから同年にこの原盤と復元音声、(昭和21年)に放送された を録音した原盤も公開 (これは1962年にソノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も(昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した。 エピソード [ ]• 公式には終戦の詔書が最初の玉音放送であるが、(昭和3年)のに、のが昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが一度起こっている。 宮中筋は「天皇の肉声を放送する事は憚りあり」として、これを数日後に封印されたことがあった。 の『』・『』では父・とで玉音放送を聴くが、その際もが動いていたことが描写されている。 (のちの会長)は玉音放送を聴いた瞬間、「これで中等学校野球(現・)が復活するぞ」とひらめき、連盟設立に奔走するきっかけとなった。 の著書『八月十五日の神話』(ちくま新書、)では、「当時の人々は、玉音放送の内容を理解できなかった(のちに流されたアナウンサーの解説で理解した)」「報道機関には前もってが知らされ、記者は敗戦を知ってうなだれるポーズを撮影したを、放送前にあらかじめ準備した」といったエピソードが紹介されている。 詔書作成の過程では「時運ノ趨ク所」(じうんのおもむくところ)は「成り行きまかせ」の意味であるため天皇の言葉としてふさわしくない、ここは道義の至上命令を意味する「義命ノ存スル所」 に変えるべきだ、と迫水久常に進言した。 迫水はこれを受けて文案を作り直したが、そのあとの閣議で、漢和辞典に出ていないような難しい言葉では国民が理解できないだろうという意見があり、元に戻されてしまった。 これについて安岡は「不見識きわまりない」と憤慨し、以後詔書について話すことを一切拒んだ。 詔書の原案では「遺族ニ想ヲ致セハ断腸ノ思ヒアリ」となっていた。 安岡は「断腸ノ思ヒ」は私情であり公の場で使うべきでないとして「五内為ニ裂ク」(ごだいためにさく)に変更するように指示した。 この点も閣議で難解と指摘された。 迫水は安岡から聞いたとおり、これは「五臓が引き裂かれる思い」の意味であって公に使える、と説明するとこのまま受け入れられた。 迫水はのちになって「五内為ニ裂ク」は難解の見本のようなものと回想している。 その後、式典・行事などの報道で天皇の肉声が放送されるのは珍しいことではなくなったが、2011年3月16日、第125代天皇明仁はのあとメディアを通して全国民へ向け自ら語りかける形の を発した。 このような形のおことばは在位中の天皇として初めてであったため、一部では「の玉音放送」とも呼ばれた。 第125代天皇明仁は後に2016年8月8日、自らの地位に関する考えを述べるため、先の「おことば」と同様の形で を発している。 もうひとつの詔書案 [ ] 広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもうひとつの詔書案がある。 8月10日の御前会議のあと、外務省政務局長のはに呼ばれ、詔書案を作るよう極秘の指示を受けた。 安東は詔書案を作るのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もしが襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作ると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。 安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。 迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。 戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。 安東は案を大臣に渡す前に、次官のに見せて賛同を得たと言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、そのことについては記憶がないと述べている。 安東義良が作成した詔書案 勅語 朕ハ東亜ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平和ニ寄与シ、列国トノ交誼ヲ篤クシ、万邦共栄ノ楽ヲ偕ニセンコトヲ冀ヒタルモ、帝国ノ自存自衛ノ為止ムナク米英両国ト釁端ヲ開クニ至リ、茲ニ四年ニ垂ントス 此間朕カ勇武ナル陸海将兵ハ挺身国難ニ赴キ、朕カ百僚有司ハ砕身職務ニ励精シ、朕カ忠誠ナル衆庶ハ困苦欠乏ニ耐ヘテ其本分ヲ尽シタルニ拘ラス、戦遂ニ利アラス、戦争ハ益々惨烈トナリ朕カ赤子ノ犠牲日ニ月ニ増大シ将ニ国本ヲ危クスルニ至レリ、而モ交戦相手国ノ流血モ止ル処知ラス人類ノ不幸之ニ過キル無シ 朕ハ戦争ノ惨禍ヨリ人類ヲ救フノ道ハ即時干戈ヲ収ムル外無キヲ思ヒ、敢テ米英支及ソ聯ノ参加セル共同宣言ノ条件ヲ受諾スヘク決意シ、朕カ政府ニ命シ交戦各国トノ交渉ニ当ラシム 帝国ノ払フ犠牲ハ甚大ナリ、来ラントスル艱難ヲ克服シテ悠久ナル皇国ノ生命ヲ護持スルハ朕カ忠良ナル衆庶ニ信倚スル所ナリ、汝有衆感情ノ激発ニ動セス、冷静苦難ヲ忍フノ真勇ヲ発揮シ、一致協力平和ト復興ノ大業ニ邁進センコトヲ期セヨ — 安東義良、読売新聞編『昭和史の天皇 4玉音放送まで』中公文庫 p. 472 2012年 参考文献 [ ]• 川上和久『CDブック 昭和天皇 玉音放送』(あさ出版、2015年6月) 関連番組 [ ]• 第25話「最後の決断」(制作・日本テレビ系、1971年放送) - ポツダム宣言受諾から御前会議、玉音放送に至るまでの、下村総裁をはじめ、徹底抗戦を唱え玉音盤を奪取しようとする陸軍の一部将校など、さまざまな立場からの決断が描かれている。 スペシャル「終戦特別企画 誰も知らない玉音放送 "日本のいちばん長い日"の真実」(テレビ朝日、2011年8月14日放送)• NHK BSプレミアム「玉音放送を作った男たち 」 - ら玉音放送の制作状況や放送に携わった人々をドラマ形式で。 製作(、2015年8月1日放送)• 「【終戦の日】玉音放送」 - ニコ生終戦特別企画として玉音放送をノーカットで配信。 2015年以降、毎年8月15日正午からノーカットで配信する。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• この玉音(天皇の肉声)を録音されたレコード盤を 玉音盤という。 のちにレコード盤消滅まで全盛となったビニール盤、バイナルではない。 これが登場するのは。 それに加え当時は電波管制のために全国共通の(860)を用いていたうえに、後述の通り電波出力を通常より大きくしていたため、放送局間の地域では相互の電波が干渉し、受信状態が非常に悪くなった(『真空管の伝説』p. 167)。 この放送では「敗北」や「降伏」といった言葉を用いることができなかったため、昭和天皇はあえてが(28年)のに屈服した際に述べた言葉(「堪ヘ難キヲ…」)を繰り返したとされる。 内閣嘱託の及び大東亜省次官も作成に関与・協力したという。 メイン局の場合。 他の局の場合も可能な限り出力の向上を行ったらしい(『真空管の伝説』p. 167)。 典拠はの『信以て義を行い、義以て命を成す』による。 出典 [ ]• 中国新聞 2009年8月21日. 2013年6月2日時点のよりアーカイブ。 2015年11月7日閲覧。 日本ラジオ博物館• 平和祈念展示資料館• 『天皇陛下の経済学』山本七平監訳、光文社文庫、(61年)p. 153。 国立国会図書館デジタルコレクション. 印刷局 1945年8月14日. 2018年8月15日閲覧。 吉川弘文館『国史大辞典』第7巻「終戦の詔書」(執筆者 : 波多野澄雄))。 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp. 456 - 457 2012年• 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp. 464 - 466 2012年• 2011年8月10日時点のよりアーカイブ。 2011年8月15日閲覧。 朝日新聞. 2015年7月9日. 2015年7月10日閲覧。 毎日新聞. 2015年8月1日. 2015年9月24日閲覧。 半藤一利『日本のいちばん長い日 決定版』文藝春秋、2006年、p284・p291。 この章、竹山昭子『玉音放送』(、1989年、)、および『戦争と放送』(、1994年、)より。 加藤恕(ひろし)のバードビュー Bird's eye view 2015年8月14日. 2019年11月2日時点のよりアーカイブ。 2019年11月2日閲覧。 NHK. 2015年7月9日. の2015年7月8日時点におけるアーカイブ。 2015年8月5日閲覧。 日本経済新聞. 2015年7月9日. 2015年7月10日閲覧。 - NHKアーカイブス・2015年7月31日• 産経ニュース. 2015年8月1日. 2015年9月23日閲覧。 読売新聞. 2015年8月1日. の2015年8月5日時点におけるアーカイブ。 2015年8月5日閲覧。 毎日新聞. 2015年7月9日. の2015年7月10日時点におけるアーカイブ。 2015年8月5日閲覧。 NHK. 2015年8月1日. の2015年7月31日時点におけるアーカイブ。 2015年8月5日閲覧。 読売新聞. 2015年8月1日. の2015年8月5日時点におけるアーカイブ。 2015年8月5日閲覧。 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p. 438 2012年• 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p. 490 2012年• 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp. 458 - 459 2012年• 2011年4月1日. 2013年7月20日閲覧。 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp. 468 - 473 2012年• (テレビマンユニオン)/(NHK番組表)• マイナビニュース. 2015年8月14日. 2015年8月15日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 ウィキソースに の原文があります。 ウィキソースに の原文があります。 - 玉音放送と同様、天皇がマスメディアを通じて自らのメッセージを放送した例• 外部リンク [ ]• - が原盤からされ、27年()に公開された玉音放送の音源など。 - に保管されているによる玉音放送の音声資料。 - (2002年11月22日アーカイブ分) - 開戦の臨時ニュースと終戦の詔書を、文字と音声で確認できる。 - 歴史のページで玉音盤の録音に使用された機材の写真等が掲載されている。 - マンガで読むNHKヒストリー• - 2014年8月14日.

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