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株式会社うすい百貨店 代表取締役 平城大二郎 社長

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中水 青森中央水産株式会社 会社案内 会社案内 会社概要 社 名 中水青森中央水産株式会社 設 立 1972年 昭和47 年8月1日 資 本 金 7,500万円 売 上 高 180億円 (2019年3月期) 代 表 者 代表取締役会長 石川 栄一 代表取締役社長 塩谷 康之助 従業員数 58名 2019年3月31日現在 平均年齢 47歳 事業内容 鮮魚、冷凍魚、塩干魚、加工食品等の仲卸業者、売買参加者への卸売業務 事 業 所 〒030-0183 青森県青森市卸町1番1号(青森市中央卸売市場内) 代表(管理部) TEL(017)738-1181 鮮魚部 TEL(017)738-1281 塩冷部 TEL(017)738-8221 加工部 TEL(017)738-6581 営業企画部 TEL(017)738-1281 当社の歴史 1972年 (昭和47年) 8月会社設立登記完了 10月 農林水産大臣より認可を受け初せり開始 1975年 (昭和50年) 設立 1976年 (昭和51年) 売上高 200億円突破 札幌集配センター冷蔵庫 竣工 社員寮 中水会館 竣工 1980年 (昭和55年) 売上高 300億円突破 1983年 (昭和58年) 水槽設備での活魚取扱開始 1986年 (昭和61年) 設立 1993年 (平成 5年) 低温卸売場竣工 1994年 (平成 6年) 石川 栄一 代表取締役社長に就任 1997年 (平成 9年) 弊社創立25周年記念誌刊行 1999年 (平成11年) 社内ネットワークと情報の共有化へ向けてパソコン増設 新物流センター竣工 設立 2000年 (平成12年) 設立 2001年 (平成13年) 3月 全社員へインターネットmail 導入 2002年 (平成14年) 5月 鮮魚セリ販売へ音声入力システム導入 2003年 (平成15年) 7月 確定拠出年金制度(401k)導入 2004年 (平成16年) 2月 新水産冷蔵庫へ入出庫販売連携システム導入 2006年 (平成18年) 3月 ネットワークシステム リプレース 2010年 (平成22年) 6月 鮮魚処理施設 開設 2011年 (平成23年) 6月 確定給付年金制度導入 2013年 (平成25年) 1月 ネットワークシステム リプレース 2014年 平成26年) 活ホタテ・冷凍ホタテ製品 MSC認証商品取扱い開始 (COC認証取得) 2017年 平成29年) 石川 栄一 代表取締役会長に就任 塩谷 康之助 代表取締役社長に就任 沿革 青森市の市場の始まりは、寛永3牛(1626年)津軽藩2代藩主信枚公が青森で月6回の市を開かせたときから始まる。 当時青森市は、「善知鳥村(うとうむら)」と言う一漁村であったが、寛永元年信枚公が「青森村」と改め開港させ、江戸への租米積出し港として江戸廻船を始め、商港として発展しました。 1900年 明治33年 青森魚莱市場を開設 青森湾内魚を主とした消費市場として開設されました。 1905年 明治38年 青森魚貝市場開設(通称・安方魚市場) 北方漁場開拓や鉄道を利用した大集散市場として活況。 1918年 大正7年 蔬莱の露天市場開設 柳町、堤町に設けられ、生産者の持ち寄りで直接販売される。 1958年 昭和33年 青森市営魚市場発足 青森市が青森県漁連の施設を買収し、市営魚市場となる。 1972年 昭和47年 青森市中央卸売市場開設(水産物部、青果部) 現在地へ移転、総合卸売市場として開設される。 1988年 昭和63年 青森市中央卸売市場花き部開設 市内の花き卸売業者を統合し、花き部の営業を開始する。 市長の承認を受けて、仲卸業者とともに直接卸売業者から品物を買い取ることができる小売商、ホテル、加工業者等です。 農林水産大臣の許可を受けて、全国各地の生産者や出荷者から生産物の販売の委託を受け、・これをせり売りや相対売りで仲卸業者や売買参加者に販売します。 市長の許可を受けた者で、市場を利用する人たちの便宣をはかるために、市場内の店舗で、飲食業、必要品販売業、運送業、理髪業などをいとなむ人をいいます。 市長の許可を受けて、卸売業者から買いとった品物を市場内の店で売買参加者や、買出人に細かく分けて販売します。 売買参加者でない小売業者のうち、開設者へ買出人の届出を行い受理された者は、仲卸業者や関連事業者から生鮮食料品を買い受け、市場外で主として一般業者へ販売する業者をいいます。 「」まで Copyright C 2009 aomorichuosuisan. All Rights Reserved.

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今は亡き祖父から、昔の思い出としてこんな話を聞いたことがある。 昭和10年代後半、太平洋戦争が激化していた頃、当時の郡山駅の裏(東)側は軍事工場や化学工場があり、B29が飛来しては爆撃を行っていた。 また、現在の安積黎明高校周辺にはパラマウント工場があって、そこもかなりの空爆を受けたようだ。 不発弾も見つかっている。 また、街中至るところに防空壕があったそうだ。 郡山一帯は、昭和20年4月から終戦間際の8月にかけて合計5回に渡って被爆したと記録されている。 特に4月12日の爆撃は、最大規模で、多数の被害者を出したようだ。 さらにまた、現在の日本大学工学部付近は、旧海軍の飛行場で、更にその昔(明治~昭和中頃)、開成山一帯は競馬場だったらしい。 更に、今は日本一汚い川との汚名を着せられている逢瀬(大重)川は、昔は水が澄んで綺麗で、魚釣りはもちろん子どもたちが歓声を上げて泳いでいたとか。 生粋の郡山人である私からみて、今から想像すると、俄かには信じ難いほどの変わりようで、時代の流れや郡山の繁栄や発展を痛切に感じる。 私は東京オリンピック開催年の生まれだが、その後、四十数年の間に我が故郷は大きく様変わりした。 まず、電話番号の市内局番はひとケタだったものが、今では3ケタ。 私の実家は、郡山駅からまっすぐに伸びた目抜き通り沿いにあったが、当時はまだ砂利道だった。 当然、庶民が自家用車を持つなど夢のまた夢の時代で、道路の交通量は少なかった。 また、時代を映す鏡と言われるテレビは、幼少時代まで脚がついた箱型の大きなブラウン管の白黒テレビだった。 今のように民放放送が少なく、当時はNHKと民放が2局(FTVとFCT)しかなかった。 菓子パン一個40円で、コーヒーは一杯60円の時代だった。 買い物はというと、近所の肉屋や魚屋、八百屋、雑貨屋といった地元に根差した個人経営の商店で生活必需品を賄っていた。 背の高いビルは皆無で、4号線沿いに建つ、消防署の火の見櫓からは繁華街が一望できた。 今でこそ郡山警察署は4号線と49号線の交差点にあるが、昔は消防署の北側に隣接していた。 百貨店と言えば、「うすい百貨店」と「丸光デパート」、それに呉服店というイメージが強かった「津野デパート」しかなかった。 「うすい」はその後、「第一うすい」と「第二うすい」に分かれた。 母親に連れられて7階のレストランでお子様ランチを食べた楽しい想い出がある。 一方、「丸光」は駅のすぐ前で、屋上には当時、エレベーターも珍しい頃に大型電動遊具(コーヒーカップ・回転飛行機・ゲーセン等)があった。 何が凄いかと言うと、その飛行機が回転しながら高く持ち上がり、一度ビルの外側に飛び出してしまうことが、子供時分にはかなり恐怖だった。 一方の「津野デパート」は、駅前大通りと4号線交差点の北東側の角地(現在はホテルリッチフィールド)にあって、銀塗りのパネルが張り巡らされ、窓が少ない風変りで印象的な建物だった。 その経営者の津野一族は、代々郡山一円の大地主であり、実家の近所にはその親類が住んでいた。 私が幼稚園に通う頃には、町並みは劇的に変貌を遂げた。 市役所庁舎が現在の合同庁舎から開成山の向かい側の朝日町に移転し、新築された。 また、さくら通りはすべて舗装され、49号線までつながった。 私は子供の頃、家から2km以上離れた幼稚園まで、兄と二人、バス通学させられた。 昭和50年代になると、国鉄郡山駅は、新幹線発着用に大型化増改築工事が始まり、駅前には「ダイエー」や「西武デパート」、「丸井デパート」と続々進出して来た。 「西武デパート」の外側が丸見えのガラス張りエレベーターは画期的で、物珍しさもあって人気があった。 私はこまっしゃっれた子供だったので、両デパートを交互に探検し、エレベーターガールの美しさを勝手に友達と自己採点していた。 今となっては「ダイエー」VS「うすい」で安売り合戦を展開していた時のことが妙に懐かしい。 また客寄せのために、当時ブームを巻き起こしていた本物のスーパーカーの展示イベントまで催していた。 「第一うすい」の屋上がその会場で、クレーンで車を吊り上げたのだ。 斬新なガルウイングのランボルギーニカウンタックやフェラーリなど超レアな高級スポーツカーを間近で見て、幼心にわくわく興奮した記憶がある。 しかし、「うすい」を除く3店舗は、その後、郊外に住宅地が造成されると、客足は遠のき、売り上げはガタ落ち、先を争うように撤退してしまった。 また、中心市街地の空洞化によって、その空きビルの再利用が立ち行かなくなっている。 「ダイエー」はその後、同じ系列の「トポス」という名のディスカウントストアーになったが、それも長続きせず、完全閉店してからすでに20年近い年月が過ぎた。 一等地にありながら、買い手がつかず、空きビル状態のままであることから、「幽霊ビル」というありがたくないレッテルを張られている始末だ。 「丸井」も未だに再利用の目途が立っていない。 駅前の西口再開発事業は、計画段階から地権者と折り合いがつかずに何度も頓挫し、その都度見直しを強いられて来たが、現在は「MOLTI」が入る高層商業複合ビル「ビッグアイ」が建っている。 通信制・定時制の公立高校まで入っているのは首をかしげるが。 駅前広場も大きく綺麗に整備された。 仙台駅を髣髴させるペデストリアンデッキも玄関口としては立派な造りだ。 郡山の開拓には欠かせない安積疎水のシンボル、麓山の名瀑を模したモニュメントがひと際目立ち、周辺は植え込みも多く、ちょっとした市民の憩いの場となっている。 半円状で利用しやすいと評判のバスターミナルやタクシープールもすこぶる景観が良くなった。 また、現在の「住友生命ビル」が建つあたり(平成23年1月に古い地図との照合により、現在の「スカイパーク」と判明)に、昔は「郡山中央スケートリンク」という屋内スケート場まであった。 2階のデッキから滑っている様子を見物出来た。 その後、安積町日出の山にある現「アミューズパークこおりやま」に移転したが。 また、目を西に移すと私の学区だった郡山市虎丸町には、雑居ビル(野替ビル)があった。 当時は斬新な5階建てビルで、「まるさた」というおもちゃ屋やその隣の文房具屋などに良く買い物に行った。 当時流行していた仮面ライダーのグッズやプラモデルを買ってもらった想い出がある。 また、その近くの「ヨークベニマルさくら通り店」(今はもうない)の裏手には、子供たちの社交場「鐘堂公園」があって、15時くらいになるとどこからともなく紙芝居のおじさんが自転車で現れ、紙芝居実演後に販売している水飴やニッキを塗りたくった菓子煎餅が大人気だった。 そのベニマルの前(現在はブックオフ)にはトキワスーパーという衣類や玩具、生活品を売る店まであった。 その近辺に「染本ホテル」や「倫敦」という喫茶があったのを何人の方が覚えているだろうか。 また、駅前周辺にあった懐かしい店舗を幾つか挙げると、駅前通りと中央通りの両側から出入り可能で、内部が迷路のような作りとなっていて、文具&日用雑貨専門店として名を馳せた「山乃井」、駅前大通りの一等地、現在「ビューホテルアネックス」がある場所には、「角海老」という焼き鳥屋さんがあった。 更に中央通りには、現在の「うすい」の向かい側に女子中高生に大人気のファンシーショップ「チロンヌップ」があった。 個人的には、今の中町立体駐車場がある場所に「イトートーカドー」があったこと、そしてその近所に「ヤマト無線」というアマチュア無線の専門店があったことのほうが懐かしい。 どうでしょう。 少しは30年以上前の郡山にタイムスリップ気分を味わってもらえたでしょうか? 次の話題に移るが、小学生時分によく通っていたのは、やはり駄菓子屋だろう。 学校の近くにあった「おのざわ」にしょっちゅう入り浸っていた。 おばさんが作る特製のお好み焼きや玉子焼き丼は絶品で、よく買い食いをしていた。 また、小学校の前にあった文房具屋「まるせい」では、夕方にソフトボールで疲れ、空腹を満たすのに、バラで一個から買えるサンドウィッチをよく食べたものだ。 今思えば、小学校の頃の出来事が一番思い出に残っている。 また、現在は「Mall」になっているが、かつて巨大な日東紡第二工場があった場所は、近所の子供たちの格好の遊び場で、一方通行で車が少なかったので、よく路上でローラースケートや壁に向かってボール投げ、テニスの壁打ちなどをやったものだ。 更に、さくら通りを跨ぐ歩道橋を渡った北側には、百軒長屋と呼ばれる家屋・店舗が軒を連ねていた。 カメラ小僧だった私がよく現像を頼んだ松美写真館、道路にまで煙が充満して、いかにも食欲をそそる焼き鳥屋や床屋、印刷屋などが林立していた。 そしてその四つ角には、今ではもうないが、釣具店まであった。 また、私が通った小学校の北側には、寺院でもないのに巨大な鉄骨造りの五重塔があった。 それは女子の洋裁専門学校の校舎だった。 また、実家の近くに通称長者通り商店街があって、子供の頃はよく買い物に出向いた。 それはワンブロックの横並びの商店街で、床屋から始まり、靴屋、小さなパン屋、八百屋、衣料品店、パーマ屋、クリーニング屋、電気屋、工業所、魚屋、駄菓子屋(後にマッサージ屋)、私がよく買い物に訪れる酒屋、そして大工屋、そして西側の外れには軽食(たぬきうどんやかき氷は絶品)のできる駄菓子屋(現在はお茶屋)があった。 ドリフターズのコントに出てきそうな昔ながらの風情がある商店街の配置で、そこには義理や人情味が溢れていた。 残念ながら、今ではその大半が採算が合わなくなったのか、はたまた後継者不足なのかは定かではないが、立ち退いてしまい、姿を消してしまっている。 現在大型ドラッグストアがある場所も、一昔前にはベニマルが、そのまた昔は「朴」のガソリンスタンドがあった。 よくそのコンクリート製の壁に投げ込みをしたり、今は亡き父親とキャッチボールをした。 その裏手は広い田んぼだったのだが、現在は20年ほど前に建てられた高層マンションになっている。 今、郡山の旧市内は、高層マンションが所狭しと立ち並んでいる。 駅まで至便で、土地の有効利用の最善策だからなのだと思う。 スタンドの東隣りにあった製麺所のビルは、最近になって建物の老朽化により取り壊されてしまった。 また、昔のおぼろげな記憶として、子どもの頃(昭和44年)、磐梯熱海町にあった温泉保養娯楽施設、「磐光パラダイス」が火事になった際、実家の前をけたたましくサイレンを響かせ、赤い消防車が何台も緊急走行して行ったのを覚えている。 その火災では31人の尊い人命が失われた。 また、SLが全面的に廃止された昭和45年には、国鉄郡山駅から大型トレーラーに載せられた黒塗りのどでかいD51(デゴイチ)がさくら通りをゆっくりと移動し、家の前を運搬されていく様を目の当たりにした。 その後、その車両は開成山公園に安置され、一般公開された。 40年近く経過した今でもそこに展示されており、毎年5月の「こども祭り」には、車両に乗ることもできる。 私は、その通りには一段と感慨深い想い出がある。 それは小学6年生の時の鼓笛隊パレードだ。 細沼町の合同庁舎を出発点に、旧ザベリオ学園前を闊歩し、実家の前、旧安積女子高校の前を通り、テレビ中継される資生堂前を抜け、開成山東側駐車場にゴールする、総歩行距離2キロの、当時小学生にとって晴れ舞台と言える一大イベントだった。 残念ながら理由は不明だが、現在は行われていない。 私は、トランペット隊の一員として「錨を上げて」と「ビューティフルサンデー」を演奏しながら通りを練り歩いた。 その際、何と私の顔がテレビ中継の映像で大アップになってしまい、翌日学校で冷やかされた覚えがある。 VTRなどなかった時代(小学校は別だが、中学校で出会った金持ちの友人が当時、ドカベンカセットと呼ばれるビデオに録画していて、後で見せてもらったが)で、私の記憶に鮮明に残っている出来事だ。 最後に、昔は宿場町として栄えた郡山市は、県内のほぼ中心に位置し、交通の要衝であったことから、昭和39年に新産業都市に指定され、高度経済成長と共に商工業の中心地として目覚ましい発展を遂げた。 最近では、ライフラインの地中化工事が進められ、電信柱が街道から姿を消した。 また、「水と緑のまち」というキャッチフレーズの通り、やたらと公園が多く、緑豊かで美しい街づくりが進んでいる。 生活環境は抜群である。 また、栄枯盛衰は自然の成り行きだとしても、「商都こおりやま」に相応しい経済発展の陰で、子供の頃に遊んだ懐かしい風景が失われていくのは実に忍びない。 今思えば、想い出の町並みを写真に残しておけば良かったと反省している。 記憶の中にある少年時代の故郷は、不思議なことに、なぜか色褪せたモノクローム画像なのだ。 時々こうやって「古き佳き時代」を回顧しながら、郡山の歴史や昔話を紐解き、書き綴ることで失われつつある自分の記憶を取り戻していきたい。 そして自分自身の心のフィルムに彩りを添えていきたいと思う。 郡山市出身でこの話を読んで懐かしいと感じた方は、コメントを頂ければ幸いです。 はじめまして。 中央スケートリンクの場所を知りたくてモヤモヤしてたのですっきりしました。 ありがとうございました。 おそらくSUZUさんと私、同じ小学校ですね(ニッコリ 記念館があるところでしょう? 私は現在、東横 インのある通りで育ちました。 あそこら辺も昔は堂々たる商店街だったのですが、今や単なる路地裏になってますね。 また、楽しい記事を載せて、ノスタルジックな淡い気持ちを味わわせてください。 楽しみにしています。 ーありがとうございます。 励みになります。 どちらかというと昔話が好きな古いステレオタイプの人間なので。 ですが、すみません。 私は郡山一伝統と格式があるK小学校卒ではありません。 郡山のナンバースクールと隣り合わせにある、現在耐震工事を行っていて、校庭がプレハブで占拠されている、さくら通りからちょっと入ったH小学校の出身です。 K小学校とは同じ学区の中学校ですが・・・。 よく小学校の頃に、ソフトボールの対抗試合を申し込んで交流していました。 だから知り合いや友人も多いです。 K小学校から来る生徒は皆、頭が良くて差を付けられていました。 商工会議所の裏手に中村英語塾というのがあって、多くの人が通っていました。 フォレストさんのように、同郷出身者といろいろ昔話で盛り上がりたいですね。 「そういえばあそこにあんな店があったな」とか、「今空き地になってしまった場所は、以前は何があったんだっけ?」とか。 お互い情報交換しましょう。 例えば善導寺の北隣りの4号線沿いには「樽川模型店」があったのをご存知でしょうか?よくプラモデルを買いに行きました。 また、ビューホテルの南側の2階には雑貨屋「BLUE HOUSE」があったのも覚えていますか?昔話をし出すとキリがないので、それだけ「自分も歳をとったんだな」と実感します。 質問でもいいので、ぜひまた書き込みお願いします。 (SUZU 投稿: フォレスト suzuさん 本文ではなくコメントにある「樽川模型店」でこのブログにたどり着きました。 はじめまして。 私は1969年から13年間仕事でこの街に住みました。 20代から30代にかけてです。 今でも年に一度程度は郡山を訪れます。 街の変貌にはびっくりしてます。 さて「樽川模型店」ですが、鉄道模型の工具や材料をよく買いに行きました。 店のおやじさんの顔を今でも覚えています。 もうお亡くなりになったでしょうが・・・・・。 プラモデルはもっぱらうすいやダイエーでした。 また、話は変わりますが、今はメジャーなラーメンチェーン「幸楽苑」の初店舗がこの街の駅前アーケードの手前のビル地下だったはずですよね。 丸光の近くでした。 いろいろ、取り留めのないはなしになってしまいました。 また寄ります。 ー「よっちゃん」さん、初めまして。 お仕事で郡山に・・・それではさぞかし懐かしかったことでしょう。 それでは今週、当ブログ記事の人気ランキング8位に入っている「商業激戦都市事情in郡山」の記事もご覧いただけたでしょうか?今では無くなってしまった店の名前も登場しますよ。 ぜひご覧頂き、もっと昔のことを懐かしんで貰えたら幸いです。 私は鉄道模型Nゲージの出始めの頃だったと思いますが、4号線沿いの善導寺北隣りにあった「樽川模型」と西武デパートのおもちゃ売り場によく出入りしていました。 高くてなかなか手が出ませんでしたが、見ているだけでも楽しかった想い出があります。 今はTOMIXですが、当時は積水金属製が列車もリアルで主流でしたね。 またいろいろ覗いて懐かしんでみてください。 コメントありがとうございました。 (SUZU) 投稿: よっちゃん はじめまして、真夜中にお邪魔します。 検索で偶然たどり着きました。 「樽川模型」ですが現在は柏山町の公園近くに 移転し今でもお店は続いています。 当時は模型が主流でしたが 最近では今様になりフィギュアも飾られています。 ーイーストトリムさん、初めまして。 情報ありがとうございます。 柏山というと郡山高校の近くでしょうか?あちらに移転していたんですね。 ヤマト無線も25年くらい前に中町から安積町に移転しましたし、4号線沿いの交通量が凄まじい所に小学生が出入りする模型屋さんがあったなんて、今考えると怖いですよね。 今はコンピューターゲームが主流ですが、私が小学生の頃はプラモデルが男子のおもちゃの王道で、よく買いに行っていました。 車から軍艦、飛行機(戦闘機)、民家シリーズ、そしてお城まで夢中になって組み立てたものです。 その後にジグソーにもハマリましたが。 貴重な情報ありがとうございます。 そのうち訪れてみたいと思います。 (SUZU) 投稿: イーストトリム SUZUさんこんばんは。 SUZUさんの書かれたこの記事をよんで、私も郡山で過ごした記憶が蘇ってきました。 SUZUさんはトランペットだったのですね。 私もトランペットをやりたかったのですが、音楽の先生に、指揮をやるように言われ、なんか棒を上に上げたり下に下げたり 音が出ないので・・・ しながら「錨を上げて」を何回も後ろに聞きながら行進した覚えがあります。 あれは6年の時だったのですか。 「ビューティフルサンデー」も演奏にあったことはこの記事で思い出しました。 ちなみに「錨を上げて」は5年生のとき卒業式の演奏をしたのを覚えてますが、このとき私はなぜかアコーディオンでした。 自分の卒業式は覚えていないのですが、5年生の卒業式の体育館での演奏は覚えています。 芳山小学校の写真を見ると、あの頃の建物を今も使用しているのでしょうかね。 先ほどの別の記事のコメントで、懐かしさのあまり、実名を記載してしまいました。 たいへん申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。 ーありがとうございます。 お久しぶりです。 33年ぶりで嬉しかったです。 最初のコメントを頂いた時に、実名など個人情報が多く掲載できないと思ったので、お知らせいただいたアドレスから同級生のT・Sさんだとわかり、お店のメールアドレスに返信したのですがお気づきでしょうか?もしよろしければ、これからも私の個人のメルアドにレスいただければ幸いです。 書き込み感謝です。 懐かしかったです。 ありがとうございました。 (SUZU) 投稿: とおりすがりの 2 あらためましてSです。 ご無沙汰しておりました。 先週日曜に東京駅から自由席で立ち通しで郡山に行き、月曜帰ってきました。 ご挨拶も無く大変失礼いたしました。 家内の友だちが郡山に家を建てたというので、伺って来た帰りに、郡山の市内を車で見て、懐かしく感じたので、日曜に郡山について調べていたところ、ここにたどり着いたわけです。 私は親の仕事の都合で中学1年に茨城県の土浦市に引っ越したため、通常は茨城県出身で通っているのですが、私を覚えていてくれた人が郡山にいたことをうれしく感じています。 感慨深い想いです。 SUZUさんからのメールは残念ながら、届いていないようですので、こちらに記載させていただきました。 では、またお邪魔するかもしれませんのでよろしくお願いします。 記事は非公開でお願いできればと思います。 FaceBookは使い方を考えていませんので、本人確認程度とお考えいただければと思います。 ー業務連絡です。 何度もコメントいただきありがとうございます。 同級生からコメントをいただき、久し振りに旧交を温め合えることを嬉しく思いました。 もし、差し支えなければ、個人情報擁護のため、ここでは書く事ができないこともありますので、コメントを記入する際に、Sさんの個人のメールアドレスをご記入いただければ幸いです。 もちろん、それを公開はいたしません。 よろしくお願いします。 (SUZU) 投稿: SUZUさん、はじめまして。 郡山在住の者(昭和40年男)です。 いやぁ、懐かしい。 細かい部分までよく覚えていらっしゃいますね。 僕はSUZUさんの一級下ですが、ひょっとしたら、小学校時代、あるいは中学高校時代にお話をしたことがあるかもしれませんね。 そのくらい身近に感じます。 学校でギターばかり弾いていてよく怒られていましたが。。。 高校のフォークソング同好会では、箭内道彦さんにもお世話になりました。 すっかり変わってしまった郡山、昔の郡山のことを覚えていて一緒に語れる人ってなかなかいないんですよ・・・・。 懐かしい気分にさせていただいてありがとうございました。 これからも時々訪問させていただきます。 ー Mitsuruさん、はじめまして。 ほぼ同世代の方、しかも同じ学校を出られた方とこうして交流できることを嬉しく思います。 この記事は震災前の2009年に書いたものですが、その後「今は無き郡山の建物・店舗」という記事もアップしてありますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。 もしかして、今は故郷を離れ、頑張っておられる方でしょうか?だとしたらこの記事を読むと、もっと懐かしい気分を味わえるかと思います。 アドレスは以下の通りです。 cocolog-nifty. html ほかにも少年時代をいろいろなテーマで振り返った「昔話」(昔流行った遊び・開成山の思い出など)シリーズや「商業激戦都市事情」、「郡山の事件簿」も掲載してあります。 よろしければそちらも一読願います。 (SUZU) 投稿: Mitsuru SUZUさん、お返事ありがとうございます。 大学時代の数年間は郡山を離れていましたが、その後はまた郡山に住んでいます。 「今は無き郡山の建物・店舗」、「開成山の思い出」などなど読ませていただきました。 僕は虎丸町で生まれ育ったので、ほとんど知っているものばかりで懐かしいです。 お店の名前を見るだけで、当時の路地や風景が頭の中に浮かんできて、ちょっと今日はタイムスリップ状態です(笑) 開成山のSLは、僕たちが小学生の頃は自由に乗り降りできたという記憶があります。 週末になるとよく遊びに行っていました。 鼓笛隊パレード、僕たちの頃は「キャンディ・キャンディ」と「錨を上げて」「手のひらを太陽に」でした。 そして、音楽のabe先生は怖かったですね(笑) それから、僕も中学生のときにCB無線をやってました。 ヤマト無線によく行ったものです。。 SUZUさんはご存知かもしれませんが、72年頃に郡山で撮影された「百万人の大合唱」という映画があります。 A高校、市民会館、うすい通り、アーケード街等、当時の懐かしい映像が満載ですので、郡山を懐かしむものとしては必携のDVDです! ーありがとうございます。 見てみたいと思います。 Mitsuruさんとは小中学校は全く一緒ですね。 それに虎丸町出身まで一緒ですよ。 私は学校に近い方の虎丸第二方部でしたが・・・。 そして大学こそK. Oに行きましたが、高校は進学校ではありませんので、同級生で中3の頃同じクラスだった箭内道彦とは高校は違います。 彼と一緒にフォークソングを歌っていましたよ。 シンガーソングライター全盛が中学時代だったので。 当ブログにもいろいろ懐かしい話題が盛り沢山ですので、よろしかったらご覧下さい。 こうしてブログをきっかけに30年振りに再会した同級生や先輩後輩も大勢います。 ぜひまた気になった記事があったら、ぜひコメントをお願いします。 一緒に昔話で盛り上がりたいと思います。 昔話は長く郡山に暮らしている分、得意分野ですので、亡き祖父母のアルバムを探して、選りすぐってお送りできればと思います。 郡山市の記事はこれまで10作以上アップしてありますので、もしよろしければご覧いただき、またコメントをいただければありがたいですし、こちらの励みにしたいと思います。 cocolog-nifty. html (SUZU) 投稿: 無記名さん 初めまして。 四月に福島県を離れた元福島県民です。 生まれは郡山ではないのですが、ちょっとした遠出には最適な距離だったので郡山にはよく行きました。 そこでお尋ねしたいのですが、平成9年か10年頃に郡山でゴジラかゴリラがビルにくっついている建物を見ました。 まだ幼かったこともあり名前や場所等覚えていないないのです。 よく改築する前のうすいでクリームソーダを飲んだり、朝鮮人参をどこかで買った記憶があります。 記事の趣旨とははずれてしまうかもしれませんが、よければ教えてください。 わたしも70、80年代の郡山が見たかったと思います。 ・・・・アズさん、初めまして。 コメントありがとうございます。 お尋ねのビルは、うすいの斜め向かいにあった英語で「KUWA?」か「KUWAN?」という名前のオシャレなビヤホールのような飲み屋が入ったビルです。 ゴリラが2階部分にぶら下がっていました。 今も、プリシード郡山の脇道から陣屋のほうに抜ける細い路地に移築してあると思います。 そこの2Fはバブルから1990年代初期にかけて、プールバーでした。 私もそこで何度か飲みながら友達同士でビリヤード(下手くそでしたが・・・。 )をしたものです。 今でもビル自体は残っているのですが、空きビルだと思います。 靴のタカマツ?か何かが1Fの店舗だった気がします。 間違っていたらごめんなさい。 参考になると思いますので、下の私のブログ記事をご覧ください。 また、郡山に関する記事はたくさん(30記事くらい)書いていますので、「旅行・地域」のカテゴリーもぜひご覧ください。 cocolog-nifty. html 投稿: アズ はじめましてw 私は管理人さんよりは、後輩にあたる年齢な気がする者ですw 私が小学生の頃のライフワークは、郡山のホビーショップ回りでしたw あの頃のホビーショップといえば、まず思い出されるのが、管理人さんがいうK小学校近くにあった「ピノキオ」。 そして、大町アーケード内にあった「トイスかんの」。 あとはデパートの中となりますが、「第二うすい」の6階玩具売り場。 あとは階数こそはもう忘れてしまいましたが、ダイエー トポス や西武デパートの中にも玩具売り場がありました。 あとはうら覚え気味になってしまいますが、山の井ビルだったかなあ? 当時、ファミコンがブーム真っ最中で、「スーパーマリオブラザーズ」が大ヒットしていた時の頃でありますw 自分は当時ファミコンを買ってもらえなかった為に、こういったショップを歩き回って、タダでファミコンが出来る場所を転々と放浪するのがライフワークだったいう・・・w ですから子供心にも、郡山の町中は、自分にとって庭といっても過言ではないほどの愛着がありますw 中通りなどは、週末ともなると人で溢れかえり、歩行者天国ゾーンを設けるなどの措置も取られていましたよねw ですから、つい最近、中央通りに行く機会があり寄ってみたのですが、週末だというのにその閑散ぶりに時代の流れと哀愁を感じてしまいました。 チロンヌップ 後に時代公園 や確か窓にでかでかとドラエもんのステッカー焼き鳥屋とか・・・wその頃です。 私の時代はw 今もやっているかどうかはわかりませんが、秋になると秋祭りで郡山中の町会の神輿や山車が集まって、とても賑やかだったのを覚えています。 ちなみに自分も子供の時分に山車を引いたり、はたまた、乗って太鼓を叩いたりしてたなぁw さすが20年近く暮らした思い出の街でありますw ここに来て、昔を懐かしんで、つい長々と駄文を書き綴ってしまった非礼をお許しくださいませw 嗚呼・・・あの頃はよかったなぁ・・・w ・・・・桐生一馬さん、はじめまして。 コメントありがとうございます。 まず、ライター名が本名のようでしたので、表紙ページに表示される部分だけを「桐生・K」と改め、掲載させていただきました。 仮名だったらすみません。 ノスタルジックな想い出の数々。 さぞかし郡山で佳き少年&青春時代を過ごされたというのが伝わりました。 おそらく今は郡山を離れてお住まいなのですね。 私も、大学時代と転勤で9年間は郡山を離れましたが、40年間も郡山に住んでいます。 故郷を離れてみると、その良さをしみじみ感じますね。 この郡山に関する記事は「昔話」としてだけでなく、「郡山の魅力再発見」のシリーズ記事など、それ以外にも多数(30記事ほど)書いていますので、ぜひお読みいただけたら幸いです。 また何か気になる記事や感想等がございましたら、コメントをお寄せください。 (SUZU) 投稿: 桐生・K レスありがとうございますw 名前は仮名だったのですが、わざわざのお気遣いありがとうございましたw お察しの通り、今は郡山市を離れて暮らしております。 しかしながら、三十年余り暮らした街でありますので、望郷の思いたるや一入であります。 どうやら現在は音楽の街として、そして、グリーンカレーが名物になっているなど、あれ?いつの間にそんなことにwと時の流れと共に街も移り変わってゆくものなのだと、あらためて痛感致します。 これからも郡山市の時の移り変わりなどを感じるのに、ここのサイトを楽しく拝見させていただきますw 最後に駄文を失礼致しました。 ・・・・・・またのお越しをお待ちしております。 (SUZU) 投稿: 桐生・K ふと、故郷が懐かしくなり、「郡山 角海老 焼き鳥」で検索しましたところ、管理人様のブログに行きあたりまして、懐かしく拝読させていただきました。 昭和37年生まれの私が、「ザベリオ幼稚園」からの帰り道、母親と立ち寄った場所といえば・・・。 パチンコ「二楽」「トーヨー」「毎日会館」でした。 下に落ちていた玉を拾っては、母親に届けて悦に入っていただなんて、今思えば可愛らしい話です。 振り返ってみると当時の「ザベリオ幼稚園」に通う方たちはいわゆる名士の「おぼっちゃま、おじょうちゃま」でしたから、明らかに私のような平民は場違いだったんだろうと思います。 未だに朝と帰りにシスターに向かって「ごきげんよう。 」と挨拶していたり、「天と地と聖霊の御名によりてアーメン。 」とお祈りしていたのが懐かしく思い出されます。 母親曰く、「お心がきれいになるためにザベリオ幼稚園にあげた。 」と話していましたが(何て短絡的な母親)、先立つものが底をついたのでしょう、小学校は市立小学校でした。 (笑)そんな「ザベリオ幼稚園」も移転したのでしょうか・・・。 ひとしきり、パチンコが終わると、「角海老」の焼き鳥(確か、シロとレバーのタレ味だけだったと思います)か、アーケードの入口にあった「珍満」の餃子(正直、今まで食べた餃子の中で一番うまいと思いますが、現在の珍満に久しぶりに行ったら、鉄鍋に入った大ぶりな餃子になっていてがっかり)を買って帰りました。 そういえば、「マルミツ」で売っていた一串10円(なぜか串売り)のたこ焼きもうまかったなあ。 それと、「うすい」では決まって大福を10個単位で買っておりました。 郡山の高齢の方って、密かに大福好きの率が高いと思いますよ。 最後に、生涯のうち食べたラーメンのナンバー1は何といっても郡山駅前にあった「東京まん」の味噌ラーメンでした。 コーンや野菜がたっぷり乗っていて、濃い味噌味のスープを汗を流しながら飲み干す。 あんなに美味かったのに、今はビルだけが残っているんですね。 「津野」の食堂で食べたタンメンも美味かった記憶があります。 高校時代には、うすい通りにある山ノ井でラジオ公開番組を見に行ったり、東北書店で受験参考書を探したり、銀河鉄道999の映画を観に行ったり、阿武隈川沿いのスケートリンクで遊んだり・・・。 結構、駅前の人通りも多かったように思います。 東京まんの味噌ラーメン、どこかでたべられないですかね。 ・・・・てとちゃん、初めまして。 コメントありがとうございます。 この記事でいろいろと郷愁を熱く語っていただいてありがとうございます。 私もあしかけ40年以上郡山に住みましたが、昔の建物や店がどんどん消えているので残念です。 当ブログのカテゴリに、郡山の話題というのがあり、その中に昔の郡山の話題を掲載していますので、ぜひご覧ください。 東京まんについては下を参考になさってください。 welcome-fukushima. livedoor. html 投稿: てとちゃん 偶然たどり着いて、色々読ませてもらいました。 角海老の竹ベンチに座って焼き鳥食べて一休み、、あの濃いタレが懐かしい。 うすい向かいの「ピーコック」にいたチョビ髭でキンキン声のウェイター、、 半分がラーメンコーナーになっていて、そこで食べる「サッポロラーメン」という何味ともつかない美味しいラーメン、、、 グラグラする感覚に襲われる店に至る地下への階段、、 ああ懐かしい。 だいたい、その頃は、現・駅前に遊びに行くことを「街(まぢ)」に行く。 とか言ってました。 これからもちょくちょく覗かせてもらいます。 いいページですね。 それでは。 ・・・・シンザンさん、初めまして。 お褒めをいただきまして恐縮です。 シンザンさんのように、郡山を離れて活躍されている方が、ふと故郷を思い出して懐かしんで貰えたらと思ってこのシリーズ記事を書いてみました。 もうご存知かと思いますが、「郡山の話題」というカテゴリーに、郡山に纏わるエピソードを交えていますので、ぜひご覧頂ければと思います。 思いついたことを思いついたままに書き綴っていますので、思い込みや記憶違いがある場合もあるかと思います。 その際は、いろいろな情報をお知らせください。 (SUZU) 投稿: シンザン 私の思いでは、ピノキオで駆逐艦が200円の時代になります。 1985~1993 匿名さん、初めまして。 凄い記憶です。 私の記憶と重なりますし、知らないことまで・・・・。 今は無き店舗も多数記載してあり、懐かしくなりました。 ひょっとすると。 私の記事で、「今は無き郡山の建物・店舗」を読んでいただければ、もっといろいろと思い出してコメントをいただけるかもしれませんね。 その記事は下のアドレスにあります。 どうぞご一読下さい。 cocolog-nifty. html 投稿: 匿名 このサイトを訪れますと、何時も望郷の念がぐるぐると胸中を駆け巡る想いに駆られます。 管理人様の掲載されておられる写真を見る度、今は遠くに過ぎ去りし街並みに思いを馳せる事ができます。 サイトの街並写真を眺めていましたら、過ぎ去りし日の記憶が脳裏を掠めましたので、詰まらぬ駄文になる事は承知の上ですが、今回も語らせてください。 先日、うすい前の通りを歩く機会があり、辺りの情景を眺めていたのですが、やはり時の移ろいを感じずにはいられませんでした。 誤解を恐れずに言うならば、やはり街も生きていると言えるのでしょうか。 まるで体が古い皮膚を新陳代謝させたかのように、私の記憶の中に留められていた街並みとは全くと言えるほど違う景色を目の当たりにさせられました。 しかしながらそれは、街が新しい郡山を形成し続けている証拠でもあるのでしょう。 うすい中央通りに面して所在していたやまのい書店をご存知でしょうか。 私が子供の頃、よく立ち読みならぬ座り込み読みをしていた書店なのですが、 当然のように今では影も形も無くなっておりました。 子供とは言え、本を座って読めるなど時代が大らかだったのか、はたまた書店の店員さまの心が寛容だったのか、今思い越してみると冷や汗が噴き出る思いです。 書店と言えば、郡山屈指の豊富な品揃えだった東北書店も店を畳んで久しいですね。 時代の移ろい、時の流れを感じずにはいられません。 最後に、ここに個人的な懐古な思いを吐露してしまった事をお許しくださいませ。 ご厚意、ありがとうございました。 桐生・Kさん、こんにちは。 コメントありがとうございます。 書店の想い出だけでもこれほど熱く語られているということは、佳き少年時代を郡山で過ごされたのだとお察しします。 「故郷は遠くにありて思うもの」を実感されているように思います。 やまのい書店ですか、懐かしいですね。 「やまのい(山の井)自体も私も思い出だらけの店でした。 あの薄暗い店内と確か床が土だった気がするL字型の作りは印象的でした。 中央通りにあった商店も劇的に変り、ほとんどが無くなってしまいましたね。 「タ・タ・タ・タカマツ~タカマツの靴~」という歌がスピーカーで流れていました。 今は石畳風の通りに整備されましたが、昔は電線が横切り、ごちゃごちゃしていました。 でも人の波や活気は昔のほうが凄かったと思います。 また、私は書店と言えば、「東北書店」(アーケード)、「佐藤書店」(駅前通り)、そして同級生の父親が経営していた「叶屋」(さくら通り八幡坂)が想い出深いです。 桐生さんと同様に、よく立ち読みしていました。 友達と街に繰り出して、立ち読みして、帰りがてら「丸光デパート」の地下で、ラーメンを食べ、屋上のミニ遊園地で遊ぶのがルーティーンでした。 なつかしいお話ありがとうございました。 より想い出を深めていただけると思いますので、「今は無き郡山の建物・店舗」の記事もぜひご一読ください。 下のアドレスです。 cocolog-nifty. html 投稿: 桐生・K こんにちは。 SUZUさんの書き込みも、みなさんの書き込みも懐かしい出すね。 私は今54歳なので、私の記憶にないことも沢山あり興味深く読ませていただきました。 ここ何年か、昔ながらのあっさりした魚介出汁の入っていないしょうゆラーメンを探し回っています。 しょうゆラーメンではありませんが、昔、虎丸町にあった製麺所がラーメン店を開いていて、味噌ラーメンが絶品で何度か行った記憶があります。 たぶん、後に東部ニュータウンに移転した「まるさん」だったとおもいますが、違っていたらお教えください。 できれば、昔ながらの、(東京の名もない店で食べるラーメンはどこも皆おいしかたtです。 )しょうゆラーメンに味を今も守り通しているお店をご存知でしたらおお知恵ください。 郡山市周辺だけでも100店以上、郡山市周辺以外も含めれば150店近くはここ数年で言っていますが、むかしあったますや分店よりおいしいラーメンには出会得ていません。 妻は、機器水大会で優勝するろいう「絶対舌感の持ち主で、中華に和風の業界出汁では味が喧嘩する、私がここならうまいと思っても超ッ三町で味をtoとも得ている、スープはおいしいが何故か麺に肉草さ、鶏の臭いで手羽ではなくもも肉の臭いなどと嗅ぎ分け、どのような材料を使っている課も当ててしまいます。 何を食べてもおいしい自分より不幸化も知れません。 妻はラーメンが嫌いではなく、好きなのですが、美味しいはずラーメンに下手に手を加えてまずくしていると言います。 これには、私も同感です。 そこで、昔ながらのごくごくふつうのラーメンを探しているのですが見つかりません。 情報がありましたら、皆さん、よろしくお願いいたします。 今はないお店の昔話でも結構です。 私は郡山市が好きです(東京から来たた政策投資銀行の上司は、郡山市はリトル等t協と感じると言っていました。 )ので、郡山市の良い食べ物などをもっとよく知りたいと思います。 やしさん、初めまして。 ラーメン店ですか。 難しいですね。 ますや分店は郡山市内では超有名店なので、それ以上となると・・・。 富田町の麺屋信成、桑野の春木屋分店あたりがありますが・・・。 これは私のブログをご覧になっている方々に情報をお教えいただくしか手はないかもしれません。 そういう訳で、美味しいラーメン屋でしょうゆラーメンが絶品の店があったら、この記事にコメントを投稿をお願いします。 もしかしたら、食道通で知られる「今夜も無芸大食」さんのブログも参考になるかと思います。 blog60. fc2. 私は山形に住んでいるのですが、友達が郡山に住んでいたため度々おじゃまさせていただいておりました。 郡山といえば山形にも店舗を構えている現在の『ヨークベニマル』の創業の地でもありますが ヨークベニマルの前身である『紅丸商店』は確か郡山市中町の中央通り沿いにあったそうですね!? こちらの記事にもあった『チロンヌップ』というお店が紅丸商店だったと聞いております。 『うすい百貨店』の向かい側に『チロンヌップ』はあったと書いておられましたが、今現在その跡地はどのように変わられたのですか!? 大変申し訳ありませんが、分かる範囲で構いませんので詳しく場所をお教えください!!宜しくお願い致します。 taikiさんへ 当記事をご覧頂きありがとうございます。 昭和40~50年代に中高生で賑わったファンシーショップや雑貨を集めた人気店でしたが、今はその面影もありません。 旧第一うすいのビルだった場所は広大な中町駐車場になっていますが、今はセブンイレブンになっています。 ロカビルはジーンズショップアメリカ屋などが長年入っていましたが、今は安積町と日和田のイオンフェスタ店に移転してしまいました。 昔を知っている方には淋しい限りです。 (SUZU) 投稿: taiki.

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初挑戦

うすい 初 売り

セカンドバンクは同社に隣接する。 創業と百貨店の開業 [ ] (寛文2年)に物産問屋として創業したのが始まりである。 (昭和5年)に 合名会社うすゐとして法人化し、(昭和13年)に百貨店法に基く百貨店営業の認可を受けて正式に百貨店化した。 日本百貨店協会には三越傘下になってから加盟した。 増床と他の大型店と競争 [ ] (昭和34年)には郡山市中町にあった丸伊デパートを買収して 「第2うすい」として増床し、(昭和40年)には年商33. 0億円 売場面積7,565 を上げての地域一番店だったの年商24. 5億円 売場面積7,028m 2 を上回って福島県全体の地域一番店となり、東北地方全体でもの3百貨店(:43. 4億円、:42. 3億円、:41. 5億円)に次ぐ4番目の売上を上げる までに成長した。 (昭和45年)には 株式会社うすい百貨店として分離独立し、同年12月14日に仙台市から進出してきた丸光 や地場の呉服店が百貨店化した津野本店 、(昭和44年)進出してきた 、(昭和50年)に進出してきた (1年後の1976年(昭和51年)11月6日に(郡山西武)となる )や 、 などの大型店と激しい競争を繰り広げた。 特に反対側の大町にあったダイエーとは、開店時には価格面において極端な値下げが行われるなど全面戦争状態と化した。 そして、(昭和55年)に丸光撤退 、(昭和61年)3月に津野本店廃業 、(昭和63年)にイトーヨーカドー撤退 、(平成6年)にダイエーをディスカウントストア業態のトポスでも存続できず撤退 させるなど並み居る競合の大型店を撤退や廃業に追い込んで生き残った。 この当時のうすいは、の通りを挟んだ「第1うすい」「第2うすい」の2棟体制営業され、には加盟していなかった。 新店舗への移転と業績の低迷 [ ] しかし、郊外には既に市内に数店舗進出していたなどのスーパー、さらに郡山市西ノ内に移転したイトーヨーカドー、さらに(平成8年)には同市日和田にとが進出し、うすい含め郡山駅前の商業地の売上を低下させていった。 そんななか、市と共同で県の補助金を利用し第二うすいなどがあった敷地に「中町再開発ビル」建設。 このとき東邦銀行が融資を行わなかったことからメインバンクが秋田銀行になったと言われている。 (平成11年)に現店舗へ移転し 、従来の約2倍 の31,000m 2 で東北最大級の売り場面積 を持つ都市型百貨店を開業した。 (平成12年)10月15日で郡山駅前の西友郡山西武店が閉店して 、11月22日にとして移転するのに対抗したが 、移転・増床前の(平成9年)7月期の売上高162. 49億円が、(平成12年)7月期には年度開始後約3ヶ月で約2倍に増床して9ヶ月間新店舗で営業したにもかかわらず売上高が約155. 34億円と逆に4. 05億円の赤字に転落し 、(平成15年)7月期も売上高約168. 65億円で5. 87億円の赤字 と業績が伸び悩んで過大投資となり、借入金総額がうすい本社と合計で約155. 産業再生機構の支援による再建 [ ] 前項の通り過大投資により業績が低迷したため、(平成15年)8月にメインバンクのからの申請でによる支援が決定され、再生計画が実行されることになった。 この再生計画に基き、メインバンクの秋田銀行を中心に、、、などを中心とした金融機関が約120億円の債権放棄を行って有利子負債のキャッシュフロー倍率を10倍以下に削減し 、売場面積も従来の11フロアのうち2フロアをの支援で誘致した。 (平成16年)10月にを入居 させてテナント化して賃料を約5億円削減すると共に、地代削減分を反映させて他の賃料も約5億円削減して合計約10億円の賃料引き下げを実現し 、三越が社長の派遣 や共同仕入れによる粗利益率の改善 にも協力するなどして再建に取り組み、(平成17年)7月期に約1. 8億万円の黒字に転換 に成功した。 三越の持分法適用会社へ [ ] 産業再生機構の支援による再建が軌道に乗ったことを受けて、社長の派遣を含む業務提携に14. その後、三越(現・)がこの株式を継続して保有し、三越がの経営統合にて誕生したの持分法適用子会社となっていた。 このため、産業再生機構の支援下での再建時に社長に就任した小島浩介 を含め、遠藤潤 、平城大二郎 と近年は三越出身の社長が続いている。 有力テナントの撤退と後継店舗の招致 [ ] (平成21年)に8・9階の2フロアに出店していた・郡山ショールーム(4,800m 2)閉店し 、(平成22年)9月23日には現在地への移転時からの有力テナントだった が閉店する など有力テナントの撤退が相次いだ。 その代替となる有力なテナントとしてに 9階の全フロア約2400m 2で約65万冊の品揃えを誇る福島県内最大の書店としてを開店させると共に、8階にはの期間限定ショップであるトラックマーケット を(平成23年)1月31日まで 招致して集客力と売上の維持を図った。 三越伊勢丹傘下から再び独立 [ ] (平成28年)3月に三越伊勢丹ホールディングスが、うすい百貨店の株式を一部売却した。 これにより、2016年度末より三越伊勢丹ホールディングスの持分法適用範囲から除外となり、再び独立の道を歩むこととなった。 沿革 [ ]• (寛文2年) - 物産問屋として創業。 (昭和5年) - 合名会社うすゐとして法人化。 (昭和13年) - 百貨店法に基く百貨店営業の認可を受ける(「第1うすい」の前身)。 (昭和34年) - 郡山市中町にあった丸伊デパートを買収 して「第2うすい」として開業。 (昭和45年) - 株式会社うすい百貨店として百貨店部門を分離、別法人化。 (平成5年) - 新店舗となるビルの市街地再開発事業が都市計画決定される。 (平成8年) - 新店舗となるビルの市街地再開発組合を設立。 (平成9年) - 第1うすい、第2うすい、USUIパート2の3つに分かれていた店舗を新店舗工事のため、第1うすいの建物北側を増築し、本館(従来の「第1うすい」)と新館(売場面積:14,800m 2)で構成される「うすい仮店舗」に統合。 (平成11年) - 現在の店舗に移転の為、うすい仮店舗を閉鎖(新店舗移転後から複合施設・ONCE郡山となり残っていたが取り壊された後、(平成16年)3月に中町中央パーキングとして開業した)。 1999年(平成11年) - 東北最大級の売り場面積を持つ都市型百貨店としてリニューアル。 (平成15年)8月 - 売上げ不振によりによる支援が決定。 (平成17年)10月 - 産業再生機構から三越へ株譲渡が行われ 三越の持分法適用会社となる。 (平成17年)11月 - 産業再生機構に対しての債権処理完了。 (平成21年) - 8・9階・郡山ショールーム(4,800m 2)閉館(閉店後は仙台ショールームに統合) 、8階は百貨店インテリア・雑貨売場に。 (平成22年)9月23日 - 八重洲ブックセンターが閉店。 (平成22年) - 県内最大規模としてジュンク堂書店が跡の9階にワンフロア出店、8階にはの期間限定ショップであるトラックマーケットがオープン。 (平成28年) - がオープン。 県内初出店。 (平成28年)3月 - 三越伊勢丹ホールディングスが、うすい百貨店の株式を一部売却。 2016年度末より三越伊勢丹ホールディングスの持分法適用範囲から除外となる。 融資系統 [ ]• (メインバンクかつ当社の株主でもあり、うすい隣に郡山支店がある。 広告活動 [ ] かつては、福島県内の・などにおいて、下記の「うすいの歌」によるCMやセール等の宣伝CM、取り扱う商品のイメージCMも放送され、さらには各番組のスポンサー、の路線バスの社外広告、・のテレビ欄中段の広告にも出稿するなど、積極的な広告活動が行われた。 2019年現在は、テレビCMや新聞広告などへの出稿は、催事時のみの散発的なもののみとなっており、スポンサー活動は行っていない。 うすいの歌 [ ] イメージソングとして「うすいの歌」(作詞:、作曲:)がある。 (昭和41年)の作品で、翌(昭和42年)からテレビCMにて使用されるようになった。 このテレビCMは、後述の「うすいファミリー劇場」などで流れ、映像はやの親子を中心に、や・小鳥などが登場するアニメーションであった(一部CMはパンダ・ウサギは登場しない)。 作画は80年代のものは金田常幸。 また、このCMのアニメーションは「FTVニュース」のうすい提供分のものはオープニングとしても使用されていた。 過去に、アヒルやカンガルーの親子のキャラクターは、福島交通の路線バスの社外広告や再開発前の郡山駅前のバスターミナルにも看板として使用されていた。 1999年11月の新店舗開業に伴い、1997年7月の「うすい仮店舗」開業から都市型百貨店へのイメージ転換のため使用を取りやめたが 、2009年10月に「うすいの歌」のイメージソングを用いた前述のアニメーションのCMが復活した。 これはほぼかつてのCMと同様であるが、導入にあわせて16:9サイズとなっており、動物はパンダのみいなくなった。 歌詞の最後にある 「もうすい 夢のデパート」は、現在は広告などで「usui」のロゴと共にとして挿入されている。 第1うすいと第2うすいが統合し、「うすい仮店舗」となった時期から新店舗オープンまでの間、「うすいの歌」とは異なるオリジナルのCMソングが使われ、周辺の街頭放送のスピーカーからも流されていた(うすいの歌もその前後流れていた)。 過去のイメージキャラクター [ ]• (1966年)• (1973年)• (1974年 - 1986年)• 原みゆき(1987年 - 1990年)• 向井田彩子(1991年 - 1993年)• 中村裕美(1994年 - 1996年)• お天気レポート - 午後6時55分から放送されていた天気予報。 とともに長年スポンサーを務めていた。 現在のマークは、の「 USUI」のロゴ()である。 かつては、の標章や福岡の地場デパート「」と同じく、赤地に「井桁」のマークだった。 「井桁」マーク時代には、ローマ字の「USUI」のロゴも併用されていた。 以前、スーパーマーケット部門として「いげたストア」があり、郡山市内や(会津若松店)などに数店舗展開していたが、いずれも2000年代頃までに閉店している。 かつては、ではなく、天井から吊るされたの中にとを用意しておき、会計をする「ざる会計」が行われていた。 脚注・出典 [ ] []• 2003年8月28日. あ・ら・か・る・と 創刊号 福島県折込広告社 1986年7月. 福島民報. 2009年4月4日• 三越伊勢丹ホールディングス. 2011年6月27日. 翁百合 2008-10. フィナンシャル・レビュー October-2006 財務省財務総合政策研究所. 2003年8月28日. デパート新聞社編 『全国百貨店年鑑 昭和42年版』 デパート新聞社、1967年。 『火の人 佐々木光男伝』 丸光、1973年。 現在の朝日生命郡山センタービル• 地方都市における中心市街地の活性化に関する研究 科学研究費補助金基盤研究 C 2 研究成果報告書 Report. 地域調査報告 第11号 地球科学系人文地理学研究グループ 1989年3月. 「昭和50年11月縮刷版」112頁(「『郡山西武』が開店 "視察組"などでにぎわう」「福島民報」()1976年11月7日、朝刊7面)。 読売新聞社. 2005年6月17日• 「商都・郡山市の駅前通りと国道四号線が交差する一等地へ(みち)」『』()、1987年7月17日、地方経済面東北A 2頁。 約1年後の1989年6月に郡山市西ノ内に現行の店舗として開業。 福島民報. 1999年11月4日• 「郡山西武 25年間の歴史に幕 買い物客、閉店惜しむ声」『福島民友』 福島民友新聞 2000年10月16日、朝刊。 「郡山の大型店 モール開店、朝1番に500人」『朝日新聞』福島面 朝日新聞社 2000年11月23日、朝刊。 未上場百貨店の売上高、3年前に比べ8割がダウン ~57社中、48社の売上高が減収~ Report. (2001年). 日本経済新聞社. 2005年9月15日• 福島民報. 2009年6月27日• 敗軍の将、兵を語る - 薄井康氏 うすい百貨店社長. 日経BP社. 2003年11月10日号 120p• 日本経済新聞社. 2005年10月14日• 四国新聞社. 2006年1月27日• 福島民報. 1999年10月6日• 福島民報. 2010年7月27日• 福島民友新聞社. 2010年10月29日• 福島民友新聞社. 2010年9月8日• 福島民報. 1993年2月13日• 「平成9年7月縮刷版」409頁(「仮店舗での営業開始」「福島民報」()1997年7月17日、朝刊9面)。 「平成9年7月縮刷版」216頁( 1997年7月9日、朝刊18面)には、第1うすいの商品をうすい仮店舗で一掃する「手持ち在庫一掃! 全館最終売りつくし」セールの広告が掲載されており、 事実上は1997年7月10日開業。 「福島That's辞典「うすい百貨店・CMソングの知られざる雑学」」()2017年4月4日放送より。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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