横山やすし やしきたかじん。 「ゆめいらんかね」やしきたかじんに関する雑学 素顔は繊細な人?

横山やすしの「年収」の噂検証

横山やすし やしきたかじん

まいど、町民です。 まいど、というには間延びが過ぎましたが、備忘録ついでの書き込みである。 元々、やしきたかじんの大阪での活躍を知らず、歌手としても何の興味もなかった町民だが、死後はじめてその出自を冷静な筆致で明らかにしたのが本書であると聞き及び、学習を兼ねての購入であった。 角岡氏の著書を買ったのは初めてだが、雑誌記事には何度か目を通し、その部落問題や人権問題に対するアプローチの斬新さを記憶していたことも購入の動機に挙げられるだろう。 出自に関する記述、つまり在日韓国人の父をもって西成区に生まれ育った経歴は、つい先日読了した、佐野真一の手になる孫正義伝『あんぽん』(小学館文庫)に詳述された在日韓国人の父親の姿と父子の葛藤に重なるものもあり、それなりに興味深く読んだものの、わりとありがちなストーリーでもあった。 そうこうして読み進むうち、全く別なテーマで、町民には看過できない印象深い記述に遭遇したのである。 1993年リリースのシングル<東京>に、大阪弁の歌詞を載せることにより、結果的に関西中心でしか売れていなかったたかじんの歌が初めて関東圏でヒットした製作秘話を詳述した、その結論部分にあたる。 それにしても、東京嫌いのたかじんの最大のヒット曲が『東京』というのも皮肉である。 この楽曲の場合、作曲家の川上明彦は東京出身、作詞家の及川眠子、ディレクターの田中雅弘は関西出身であるが、東京在住が長い。 「大阪の〝濃さ〟が全国的になるためには、東京の人間が何か料理するしかないんですよ」と田中は言う。 いくら東京嫌いであっても、東京を排除してモノはつくれない。 奇しくも『東京』がそれを証明したのであった。 (164頁) この記述に接したとき、町民は不覚にも少し涙ぐんでしまったことを正直に告白しておきたい。 何か自分の琴線に触れたのであろうか、その後少し理由を考えてみたとき頭に浮かんだのが、高校のときに千葉で遭遇した漫才ブームとやすきよ漫才だったのだ。 簡単に言うと、おそらくたかじんの<東京>は、漫才ブーム時におけるやすきよ漫才の演出のされ方に構造的に似ているではないか、とふと思ったのである。 すでに司会としては全国区であったやすきよも、その漫才が受け入れられるには、漫才ブームという東京側の演出が不可欠ではなかったのか、そんなことを考えてしまったようなのだ。 おまけに、やしきたかじんと横山やすしは少し似ている。 二人ともしゃべくりは天才的で司会役に天賦の才を発揮し、でも素は極端にシャイであり、酒の力を借りなければ偉そうにできず、借りたらかりたで常軌を逸した説教酒やからみ酒となり、果ては暴力沙汰で信頼を失い、疑心暗鬼が肥大して周りは敵ばかりだと妄想し、最終的に大切な仕事仲間を自分から失っていき孤独に陥る、という流れまでそっくり同じである。 片や西成育ちで在日の父を持ち、片や堺での在日の子との喧嘩話を回想した自伝を書いて発禁を食らっている(でも発禁は不当だと思いますし、絶対復刊すべき!)わけで、じつは親友になれそうな感じすらしてしまう。 逆に最大の違いは、やすしがきれいに金を使い果たし寂しい晩年を享受したのに対し、たかじんは藤山寛美の「芸人はお客さんよりお金をもったらいけない」という教えに感銘を受けながらもそれなりに蓄財し、結果晩節をやや汚す事態を招来してしまったことぐらいだろうか。 でも、冥界では二人仲よく酒を酌み交わしながら、世間に悪態をついていそうな感じのする町民であった。 島田紳助が、やくざとつきあうこと自体の何が悪いのか。 と、思っていたら、紳助が書いたと思えるすごく面白い署名寄稿を見つけてしまった。 題して「やすし・きよしがBIGになった理由 わけ 」。 出典は『漫才ブームメモリアル』 澤田隆治編・著/レオ企画、1982年)。 ブーム当時の新聞雑誌や公演パンフレットから記事を採録した資料本である。 紳助の寄稿は、「花王名人劇場パンフレット20号」から。 編年体の本書から類推すると、パンフレットの発行は昭和55年、1980年の11月頃である。 ここで紳助は、やすし・きよしをきちんと持ちあげつつ、同時にタイトルに即した冷静な新世代漫才コンビ分析を行なっているのだ。 その分析に先立ち、なぜやすし・きよしはビッグになったか。 紳助によると、その理由は大きく三つに分けられるという。 まず一番目。 やすし・きよしが世に出るまでの漫才には、年寄りがやるもんだという観念があった。 それを、やすし・きよしはぶちやぶり、二十歳そこそこで漫才界のスターとなった。 これがきっかけで、漫才というものは、若い者が、どっと、漫才界の門をたたいた。 (略) 俺達今の若手はこれにくらべれば、ニューウェーブどころか、さざなみにすぎない。 このやすし・きよしにならぶ漫才師が出てくるのは、早くても十年後だろう。 195-196頁 つまり、やすし・きよしは漫才革命コンビであるという分析がその一。 では、二番目の理由は何か。 ふつう師匠と言われる人は、若手の芸を認めようとしない。 自分の芸が最高だと思っている。 あたりまえの事かも知れないが、やすし・きよし師匠は違う。 どんな新人の漫才師の舞台でも、いつも真剣に見ておられる。 そして、いいものはいいと素直に認められる。 196頁 いいものはライバルにしかならないやすしの感覚とはちょっと違う気もするが、まあ、聞いておこう。 で、三番目。 やすし・きよし両師匠とも、人間的にすばらしい人だ。 196頁 それだけである。 でも、やすしがすばらしい人間であるわけがない。 そう、この寄稿の眼目は、その後に展開される、世代論にある。 なぜ、都会の若者はあんなしょうもない映画を観に行くのか。 それは、他に何もする事がないからである。 都会の若者は、欲求不満の限界に達している。 だからこそ紳助バンドのコンサートに、何百人もの若者が来てくれる。 大声で叫ぶことによって、自分たちの不満とストレスを、紳竜と一緒に発散させているのだ。 紳助バンドは都会の若者にとって欲求不満のはけ口、いわばトルコ嬢バンドだ。 (略) 昔は、敗戦のどさくさで世の中がメチャクチャで、一発あてる事も出来た。 でも今は世の中が平和すぎて俺達は一発あてる夢もない。 そんな若者に、たとえ一瞬でもいいから夢を与えたい。 197頁 だから、こんな宣言に行き着くのは必然だ。 やすし・きよしが新しい漫才を作ってBIGになったように、俺も、必ずBIGになってやる。 197頁) でも、オチもやっぱり紳助らしいのだ。 ここがやっぱりやすしとは決定的に違うところだろう。 そして、西川きよし師匠の二億円の家のとなりに、五億円の家をたててやる。 197頁 この寄稿の価値は、漫才ブーム真っ只中で、その中心にいたコンビによって書かれていることにある。 もしも漫才ブームを回顧するその後に書かれたものであれば、それほど価値はないだろう。 自分たちは使い捨てだ、と事あるごとに発言していたと言われる紳助だが、このとき、その後の流れをどう読んでいたのか。 記事を読む限り、このときはまだ、もうすぐ漫才を辞めることになるとは思っていなかったんじゃないか、だから、記事タイトルを逆手にとった挑戦状を突きつけることができたのではないか、そんな気がする町民なのであった。 おそらく紳助が、やすしよりもきよしを人生のロールモデルとしたかったとしても、である。 島田紳助が現役引退を宣言した。 だからというわけでもないが、久々にやすきよネタである。 さて、昨年初秋、大阪に越してきてから手に入れた本に、香川登志緒著『大阪の笑芸人』 晶文社、1977年 がある。 この本、《スチャラカ社員》や《てなもんや三度笠》の台本作家として名を馳せた香川が、著名な喜劇系芸人へのインタビューを中心に編んだもので、すでに史料としても非常に貴重なものとなっていて不明を恥じた一冊である。 当然、やすし・きよしのインタビューも収録されていて、そこで語られているギャラの話がとても興味深かったので、紹介しておきたい。 取材をしたのは昭和50年のある日のこと、やすしの謹慎がとけて再び仕事が軌道に乗った時期にあたる。 ちなみに、木村政雄がやすきよ担当事務員(自称マネージャー)になったのが5年前の昭和45年である。 香川 二人は今いくつ? やすし 31です。 きよし 29になりました。 香川 これは非常に残酷なことを聞くけど、二人がまあ30として、30歳の芸人は月に収入がなんぼあったらええやろ。 こんだけあればアクセクと余興に走ったりせん、という額は。 きよし 僕は月80万。 80万というのは実は一番収入が多くて税金がとられない額なんです。 年間1千万で納められれば実に優雅な生活が送れる。 家庭でええおかず食べて嫁さんが20万ほど使うても、あとまた僕が小遣いで20万か30万使うても、まだあと20万貯金できるんです。 それでなおかつ子供になんか買うてやり月賦の払えるのが月80万なんです。 香川 月80万ということは二人で160万、そしたらテレビのギャラの単価にしたらいくらになるかな。 仮にテレビだけで生きるとしたら。 きよし 週4本レギュラー持って10万位かな。 正直いうとテレビでは食っていけません。 香川 そしたら今二人の生活の大部分を支えているものはなんですか。 きよし 舞台です。 安心して食っていけるのは舞台の収入やね。 香川 舞台は吉本、固定給ですか。 きよし そうです。 僕らは月に20日出演の年間契約です。 (同書73~74頁 テレビでは食えない。 そう断言するきよしがやすしとともに司会をつとめる関西テレビの《パンチDEデート》は、前年、全国ネット放映に突入していた。 テレビでそこそこ満足に食うには、漫才ブームが訪れる昭和55年を、つまり木村による東京事務所開設を待たなくてはならなかったのか。 それほど、漫才ブームによる吉本系漫才師の全国認知度アップ(すなわち社会的地位向上)とギャラの高騰はインパクトがあったということなのだろうが、いったいどのあたりで吉本Aランク芸人のテレビと舞台の収入の比率が逆転していったのか、それは興行の衰退や関西系テレビ局の相対的地位低下とどう相関しているのか、具体的な数字で知りたいところである。 テレビの仕事で名声と財を手に入れた香川であればこそ、きよしの踏み込んだ発言に対して、より話を膨らますべきではなかったかと思うが、残念なことである。 などと思う一方、ギャラの話になると全然乗ってこないやすしのキャラも面白い。 謹慎時期にマラソンへの夢を絶たれ、よりボートにのめり込んだといわれるやすし。 このインタビューでも、舞台での独特の動きをボートレースによって培われた才能であると真剣に語っており、それはきよしのギャラ話への真剣さに通底している。 そんなやすしにとって、きよしの計算高さは、腑に落ちてこない不思議な感覚だったのかもしれない。 やくざへの親近感を表明する点でおそらく紳助はやすしに似ているが、ギャラやお金へのこだわり方はどう見てもきよし似である。 だからどうというわけではないが、今は昔、ちょうど大阪から千葉に移住した頃の話を少し書いてみたくなった町民なのであった。 まいど、町民です。 さて、芸人やすしの原点、伸スケ正スケデビュー記事の紹介である。 出典は、またもや『大阪日日新聞』昭和34年5月11日(月)付二面。 貴重ではないかと思われる記事なので、全文転載しておく。 樂・屋・ウ・ラ 新卒コンビ登場 漫才界も歌謡界なみ、ローティーン・コンビの堺正スケ 一五 ・伸スケ 一四 が道頓堀角座中席(十一-二十日)にデビューする。 既報のとおり、朝日放送「漫才教室」最優等の卒業生で、学校の方もこの春、堺の旭中学を仲よく終えたハイトコ同士。 ともに両親、先生、友だちの賛成をもらい、松竹新演劇社員として就職、第二のダイマル・ラケュト、Aスケ・Bスケをめざしてお笑い界にセン風をまき起そうというわけ、リボンタイ、濃いサーモンピンク色の背広をリューと着こなしている。 「頭のてっぺんから足の先きまで新調だね」というと、すかさず「おマケに笑いも新調ですねン」とおうむ返しに合の手をうつ伸スケクン、いち早く夢はヒノキ舞台に飛んでいる。 =写真は正スケ 右 伸スケ やすしの自伝『まいど!横山です』には、やすきよデビューよりも詳しいぐらいに、このときの経緯が書かれている。 おそらく、やすしにとっても忘れがたい日々であったのだ。 そしてデビューのときがやってきた。 漫才作家の秋田實先生の名付によって、私達コンビの屋号は、堺市出身という所で堺となり、名前の方は、私が伸スケで、岡田君が正スケとなり、堺正スケ、伸スケが誕生し、当時の新聞には少年天才漫才師誕生と、もてはやされたもんだった。 87頁 そして、没落も早かった。 その後の全国ドサ周りの日々を克明につづる次節は、芸能社の名前まで細かく書いてあって面白い。 当然、神戸芸能(社)も登場する流れである。 中学を卒業したばかりの漫才コンビがいきなり全国ドサ周りに投げ込まれる芸能界、そこでしたたかに煮え湯を飲まされたやすしの苦難の道は、まだまだ続くのであった。 なお、記事中の「既報」は未調査である。 おまけとして、デビュー記事掲載頁に載っていた花月と角座の広告を。 やすしが出演するのは、松竹の角座。 一方、うめだ花月は吉本興業の一度は壊滅した演芸場経営復活の橋頭堡として、広告掲載と同年の1959 昭和34 年にこけら落としをしたばかり。 のちの吉本新喜劇も、この時はまだ「吉本ヴァラエティ」であり、第8回公演という初々しさである。 うめだ花月の成功により、戦後の吉本花月経営が復活を遂げることになるのである。 つまりやすしは、吉本のリベンジののろしが上がったちょうどそのとき、ライバル会社で天才ともてはやされていたのだ。 没落あってこその吉本転職なのである。 木村政雄が自著のなかで、やすしの本当の友だちといえるつきあいは松竹の時期の知り合いに多い、おそらく「横山やすし」ではなく「木村雄二」としてつきあえる知り合いがそこには多いのだろう、というようなことを書いていたのをちょっと思い出してしまった町民であった。 まいど、町民です。 さて、町民の手元に一風変わった推理小説がある。 その名は、『吉本興業殺人事件』。 著者は、吉本ベテラン芸人のなかでは異例の高学歴、関西大学商学部中退の肩書きを持つ、桂三枝である。 バブル熱さめやらぬ1988年12月に扶桑社から刊行されたこの本は、林正之助会長はじめ、吉本の幹部及び制作側の中堅社員が実名で続々登場、まるで《吉本興業総進撃!》といった趣を呈しており、刊行から22年を経た今となっては、当時の吉本興業の内実を想像するに決して誤解ばかりを与えない貴重な資料となっているはずである。 刊行間もなくテレビドラマ化もされたそうだが、ドラマよりも原作の方が何倍も資料性が高いことであろう。 各自に付されたパーソナリティも簡潔なだけに興味深い。 年齢付でもあるため、木村政雄 42 のポジョションが、年齢に比して相当に高いことも一目瞭然なのである。 本書刊行の1988年は、林正之助が三度目のトップ就任から2年目にあたり、木村が8年ぶりに東京から大阪へ戻されてきた年にあたり、物語の舞台となる吉本会館は前年に竣工したばかりである。 そんな実在モデルが数多登場する推理小説中、林正之助は度外視するとして、木村政雄と横山やすしのキャラクターもかなり面白おかしく描かれており、中堅では、木村同様に酒を飲まない大崎洋と京大卒の大酒飲みである田中宏幸が、比較的クローズアップされているように思える。 とりわけ、木村政雄のキャラクター描写では、三枝の筆が冴えており、両者の良好な関係を感じさせてくれる。 ゆえに、あくまでフィクションではあるが、他の吉本関連書ではお目にかかれない面白さであるゆえ、少々そのキャラ描写を紹介しておきたい。 木村は四十二歳の若さながら次長の地位にあり、制作部のラジオ、テレビのチーフを務めていた。 すご腕は内外に知れ渡り、買われて吉本興業東京事務所の所長をも兼任していたから、毎日のように東京、大阪間を行ったり来たりしている。 東京から帰る日は朝七時の飛行機で大阪へ着き、本社へ向かうのが常だった。 12頁) 「せやけど木村さんていつもブランド品でバッチリきめてはりますね」 広江が木村の服装を上から下まで見回した。 「そうかい?」 若い女にほめられて、満更でもない様子で、木村はうなずいた。 この日の木村のいでたちはネクタイはミラショーン、カバンは黒のルイ・ヴィトン、靴はバリー、靴下はレノマ、コートはバレンチノだったからだ。 (これだけ金をかけたかいがあったというものだ……) 木村は『一流の男には一流品がよく似合う!!』という、男性雑誌の記事を縮小コピーし、六穴バインダーにとじ込んでいた。 14頁 木村は全く酒を飲まない男だった。 会議中でも明治の「きのこの山」や「たけのこの里」を手にしているぐらいだったから、木村は制作部の、主に酒を飲まない女性たちの情報収集役を買ってでたのだ。 93頁 木村はマルボロを口にくわえると、カルチエのライターをまたカチリと鳴らした。 火が出ない。 何度かカチカチやってみたが出ないので、カルチエのライターをジャケットの右のポケットにしまうと、左のポケットからダンヒルのライターを取り出してカチリとつけた。 258頁 まあ、相当なナルシスト、ええかっこしい、というキャラである。 これが実在の木村とどれだけかぶるのか、町民は全く分からないが、愛すべき性格であることだけは確かだ。 三枝の超高級スーツによるイメチェン 死語?)も、もしかしたら木村の影響なのかもしれない。 一方、横山やすしは相変わらずである。 そのキャラクターはだいたい想像通りであり、それでもやっぱり面白いのだ。 実はやすしは、この推理小説における、第二の伏線の主役となっている。 その伏線の核に位置するのが、やすしの擁護者であった正之助会長がやすしに向かって言い放つ、次のひと言なのだ。 次々起こる謎の殺人事件の真っ只中、ついにやすしにも脅迫状が届いた、そのあとのシーンでのひと言である。 「どっちみち、君は誰ぞに狙われるで」 246頁 この一文を目にしたとき、町民の脳裏には、解雇後のやすしが誰かに頭を強打されたあの事件が浮かんだことは言うまでもない。 この会長のひと言に、どんな意図が隠されているのか、それは、本を読んでのお楽しみである。 会長が亡くなる2年前に出た本であるからこそ、今となっては、その第二の伏線に、さらなる第三の伏線を読み込めてしまうのである。 そう、平成も20年を経た今だからこそ読みがいのある推理小説、扶桑社も無理に新刊ばかり出してないで、たまにはこんな本を木村政雄の解説付きで再刊してみては如何か。 すでにこんな変な推理小説をお抱えの芸人に出版許可している企業である以上、通常の大企業には期待しえ ない、思わぬ展開を待ち望んでしまう町民なのであった。 まいど、町民です。 さて、1967(昭和42)年に続き、1970 昭和42 年3月2日 月 ~同年3月8日 日)、1週間の在阪テレビ局お笑い大衆演芸番組放映に関する基礎データ集計及び比較分析である。 なお、前回の同コーナーは。 【 】 内は、昭和42年時の同データ。 関西テレビ・KTV 総放映時間: 146分 局別占有率:10%) 自局製作番組放映時間: 30分(占有率:21% 内、系列放映時間: 0分 自局製作コメディ・ドラマ番組本数: なし 読売テレビ・YTV 総放映時間: 231分 局別占有率:16%) 自局製作番組放映時間: 75分(占有率:32% 内、系列放映時間: 15分 自局製作コメディ・ドラマ番組本数: 1本(松竹新喜劇) NHK大阪 総放映時間: 175分 局別占有率:5%) 自局製作番組放映時間: 0分 内、系列放映時間: 0分 自局製作コメディ・ドラマ番組本数: なし 以上、3年前のデータと比較したうえで、読み取れる事実をあげてみたい。 ただし、深夜番組が増え、総放送時間が増えているため、総放送時間に占めるお笑い番組の比率はやや下がっていることになる。 理屈をこねだすと歯止めが効かなくなるので簡単に留めるが、一番の特徴は、新人賞受賞時よりも、町民が物心つきだした大賞受賞時の方が、東西お笑い番組の独自性は強まっているということである。 これは大雑把に言うと、大阪TV局製作お笑い番組のローカル化が、たった3年で急速に進んでいたということだ。 通説では、やすし・きよしの知名度アップに大きな役割を果たしたといわれ、実際、《てなもんや》シリーズに打ち勝った番組として関西では著名なバラエティ《ヤングおー!おー!! 》が、通常の系列であるNETではなく、東京12チャンネルでの放映であったことも新鮮な驚きである [*1]。 この時期、東京の子どもは、ドリフやコント55号に加え、浅草系の芸人をたくさん見ていたのであり、大阪の子どもは、ドリフやコント55号に加え、吉本・松竹系の漫才・新喜劇を見ていたわけだ。 すでに好みが固定化している大人の世界では、ドリフやコント55号のような、馬鹿なガキ向き共通項は希薄になり、双方独自のお笑い文化を楽しむスタイルに、より変化していたのだ。 つまり大阪側から見れば、キー局の立場をどんどん崩されていったわけであり、東京側から見れば、朝日放送の製作スタイルをあっという間に吸収して己のものとしていった、ということになるのではないだろうか。 やすし・きよしに関しては、自分らが司会や主役を張る番組をまだもっておらず、全国ネットのレギュラーは《ヤングおー!おー!》のみ、関西ローカルの(おそらく)レギュラーも《ただいま恋愛中》だけ。 こちらは深夜番組なので、町民のようなバカ少年が見ることもなかったであろう。 それにしても、この時期なぜ大阪側から、ドリフやコント55号に匹敵する番組を生み出せなかったのか、その理由を考えてみるのも、町民のこれからの課題の一つである。 まいど、町民です。 さて、データ集計前に 、『東京新聞』(昭和45年3月6日付 掲載の視聴率ランキングを再録しておきたい。 朝日放送発の上方コメディがランクインしておらず、ほかにも大阪製作の番組が一本もランクインしていなであろうことなど、一目していろいろなことが分かるデータかと思う。 また、アニメ《巨人の星》が堂々1位のこの時代、プロ野球ナイターが始まれば、巨人戦は必ずランクインしてくるであろう。 4% 1位 サインはV TBS 34. 4% 3位 夜のヒットスタジオ フジ 30. 2% 4位 タイガーマスク 日本 29. 3% 5位 コント55号の野球ケン!! 日本 29. 2% 6位 ザ・ガードマン TBS 28. 9% 7位 万国ビックリショー (フジ 28. 6% 8位 キイハンター TBS 28. 4% 9位 日本プロレス中継 日本 27. 2% 10位 8時だよ!全員集合 TBS 27. 1% 10位 フラッシュニュース TBS 27. 1% 12位 銭形平次 フジ 26. 9% 13位 サザエさん フジ 26. 8% 14位 水曜劇場・時間ですよ TBS 26. 0% 15位 日曜劇場・本当の本妻 TBS 25. 8% 16位 水戸黄門 TBS 25. 2% 16位 樅ノ木は残った NHK 25. 2% 18位 巨泉・前武ゲバゲバ90分! 日本 24. 8% 19位 魔法使いサリー NET 24. 4% 20位 もーれつア太郎 NET 23. 3% 以上。 さて、基本データの最後に、東京キー局でのみ放映された番組リストである。 ただし、大阪以外のテレビ局で放映されているかどうかは不明である。 次いで、データ集計及び簡単なまとめです。 さて、続きです。 読売テレビの「新喜劇」は、松竹新喜劇です。 【凡例】 1)用いる元データは、大阪の方は、『産経新聞』の1970 昭和45 年3月2日 月 ~3月8日 日 付までの朝刊テレビ番組欄。 東京の方は、『東京新聞』の同日同欄。 2)黒の番組名は、同時期に東京でも放送されているものを示す。 3)青の番組名は、同時期に東京で放送されていないものを示す。 4)4ケタの数字は、24時間表記の放送時間を示し、矢印はキー局の所在を示す(推測に基づくものも含み、それは出演者から判断した)。 5 【再】は、再放送を示す。 6)《シャボン玉ホリデー》などのミュージック・バラエティや、《お浜小浜の千客万来》《都はるみショー》などのタレント名冠番組は、原則として、お笑い芸人が出演していても対象から除外した。 7)主に出演者の略表記や誤植は、適宜訂正し補った。 続いて、澤田隆治が陣取る、朝日放送です。 東京製作の可能性が高いと思うが未検証。 「後2・0 お笑い花月劇場 吉本新喜劇 「バス停留所」朝日テレビ系/山のケーブル工事現場で働く八郎(岡八郎)とバスガールの光子(安田光子)は相思相愛の仲。 その光子が客といっしょに山のバス待合所にのぼってきた。 ところが、待合所の中で乗客の一人、料亭のおかみ(高勢ぎん子)が、心中しようとしたむすこの太郎(船場太郎)と女中のスミ子(山田スミ子)を前に意見をした。 二人の結婚は身分が違うから絶対許さないというのだ。 そばで聞いていた八郎は、太郎とスミ子のいくじなさに突然怒り出す。 」 吉本新喜劇がなんであるか分からない人がこれを読んでも、まず見たいとは思わないであろう。 【凡例】 1)用いる元データは、大阪の方は、『産経新聞』の1970 昭和45 年3月2日 月 ~3月8日 日 付までの朝刊テレビ番組欄。 東京の方は、『東京新聞』の同日同欄。 2)黒の番組名は、同時期に東京でも放送されているものを示す。 3)青の番組名は、同時期に東京で放送されていないものを示す。 4)4ケタの数字は、24時間表記の放送時間を示し、矢印はキー局の所在を示す(推測に基づくものも含み、それは出演者から判断した)。 5 【再】は、再放送を示す。 6)《シャボン玉ホリデー》などのミュージック・バラエティや、《お浜小浜の千客万来》《都はるみショー》などのタレント名冠番組は、原則として、お笑い芸人が出演していても対象から除外した。 7)主に出演者の略表記や誤植は、適宜訂正し補った。 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010. 2010.

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やしきたかじん ジョーカー 歌詞

横山やすし やしきたかじん

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横山やすしの「年収」の噂検証

横山やすし やしきたかじん

はじめに 天才、破滅型、トラブルメーカー、実は寂しがり屋だった……いろいろなことを言われながら、今も語り継がれる伝説の芸人、横山やすし。 不世出の天才とも言われる、この方に関する雑学を集めてみました(文中・敬称略) プロフィール 1944年3月18日、高知県宿毛市出身。 生まれたときは未熟児だったとか。 血液型はB型。 瀬戸内海の小さな島、沖ノ島の旅館で働いていた小川輝子と旅回り一座の男性との間に生まれた私生児です。 生後すぐ木村庄吉という人物のもとに養子に出され、木村雄二と名付けられました。 大阪府堺市で育ちます。 生みの親と育ての親は違うと弟子に話していたとのことです。 ちなみに後の相方、西川きよしも高知県出身(高知市)です。 輝子は空襲を避けるため、一時、沖ノ島に戻ります。 そして、なぜか1月末にもう一度堺に戻り、3月に雄二(やすし)を出産。 しかし、産後の肥立ちが悪く、輝子は子供を庄吉に預けたまま、沖ノ島に再び戻ります。 子供の面倒を見られる人がいないので、父、庄吉は友人の床屋、若林真吉の妻タキヨに頼んで面倒を見てもらいました。 ちなみにそのとき、床屋の旦那は出征中だったとか(後に戦死)。 数ヶ月して、沖ノ島からタキヨの元に実母、輝子がやって来ますが、情が移ったタキヨは輝子に子供(やすし)を返さなかったと言われています。 結果、戸籍上ではタキヨが母になっているとのことです。 このタキヨはやすしの息子木村一八の著書によると、後に遊郭の女将になったということです。 なお、実母輝子とやすしは何度か会っていたとのことです。 後に輝子は堺から追い出される形となり、四国に戻り水商売をしていたとか。 出生に関しては、非常に複雑な事情があるようで、やすし本人にも詳細はわからないということです。 しかし、やすしが実母の輝子に聞いたという話では、小田耕一郎という人物が本当の父(旅回り一座の男性と同一人物かは不明)で、この人物も出征して戦死したとのことです。 天才少年漫才師誕生 中学生のとき、ラジオの素人参加番組で同級生と漫才を演じたところ評判となり、そのままプロの道に進みます。 当時は松竹芸能に所属し、「堺伸スケ・正スケ」と名乗り、活動をします。 「堺伸スケ」が後の横山やすしです。 しかし、初めは「天才少年漫才師」と評判でしたが、いわゆる「子供にしてはうまい」というタイプの芸であったので徐々に飽きられて行き、2年ほどでコンビを解散。 この頃、人気があるうちはみんなチヤホヤしてくれましたが、なくなると冷たくなったので、悔しい思いをしたとのことです。 そのため、ちゃんと師匠に付き、漫才の基礎を学びたいと考えたとか。 横山ノックに師事 コンビを解散して路頭に迷っていた頃、横山ノックに声をかけられ内弟子になります。 弟子としてはかなり師匠に尽くしたそうで、後に自分が弟子を取る立場になった際、弟子に厳しく接したのは、その頃の自分の経験があるからだとか。 この頃、「横山やすし」の芸名をもらい、何人かとコンビを組んだが長続きしなかったとのことです。 ちなみに「横山たかし」というと、後のやすしの弟子「横山たかし・ひろし」のたかしが思い浮かびますが、この頃やすしは「横山やすし・たかし」というコンビを二回組んでいて、このときの「横山たかし」は、後の「横山プリン」と「レツゴー三匹の正児」です。 やす・きよ結成 芸人仲間から当時、吉本新喜劇にいた西川きよしを紹介され、やすしは何度も誘います(誰が紹介したかについては諸説あります)。 「コンビ別れの名人」と呼ばれていたやすしの評判を聞いている周囲からは反対が多く、きよしは迷っていたとのこと。 しかし、新喜劇のスターだったヘレン杉本とすでに結婚していた西川きよしは、後がないという覚悟で漫才への転身を決意します。 やすしにとって、八人目の相方でした。 後がないきよしは何度も稽古することを望みましたが、練習嫌いで天才肌のやすしとは合わず、初めは喧嘩が絶えなかったと言われています。 西川きよしは真面目で、横山やすしは気が荒いというイメージがありますが、当時はきよしの方が気の荒く、喧嘩っ早いところがあったということです。 この頃は漫才師として一日の長があるやすしがきよしをリード。 新喜劇出身だけに芝居がかった話し方や動きになってしまうきよしを見て、それならばその動きを活かそうとします。 「どつき漫才」や「メガネ、メガネ」のギャグで知られる動きを取り入れた漫才、さらにはボケとツッコミが激しく入れ替わる漫才を確立、数多くの賞を受賞していきます。 名古屋大須演芸場で当時全盛期だった「コント55号」と共演した際には、55号を食うほどウケたらしく、萩本欽一に強烈な印象を残したとのことです。 ちなみに上岡龍太郎は「漫才の教科書」と呼ばれたコンビ、夢路いとし・喜味こいしとの対談本で「やす・きよの漫才は確かに面白いけれど、いとし・こいし師匠の漫才とはタイプが違う」と語っています。 家族構成など 私生活では、二度結婚しています。 最初の妻 澄子 との間には、長男で後に俳優となる長男(一八)と、長女 雅美 が生まれています。 最初の妻と長女は一般人として暮らしているため、メディアに登場することはほとんどありません。 妻はやすしの浮気に耐えきれず、静岡の実家へ息子と娘を連れて帰り、後に離婚。 再婚した男性との間にひとり子供(女性)がいるらしく、木村一八自身は異父妹と異母妹がひとりずついる形になります。 二人目の妻がテレビにもよく登場していた有名な啓子夫人で、二人の間には娘の光が生まれています。 結婚後、経済的に苦しかった前妻とその子たちの状況を見かねて、やすしが子供たちを引き取りました。 三人の子を育てていた形になりますが、末っ子の光に関しては、やすしは非常に優しかったとのことです。 光は宮川大助・花子の娘さゆみと「さゆみ・ひかり」というコンビを組み、漫才師として活動もしています。 ただし、生前やすしは娘に対して「漫才だけはするな」と語っていたとか。 その理由は、自分がどれだけ優れていても、相手の力量がないと生かされないし、相性の問題もあること、そして人気が出たとしても、手柄はふたりでひとつになるので損だという考えがあったらしいです。 1970年の事件は「上方漫才大賞」を受賞してから数ヶ月後のことで、一番勢いのあったときに2年以上謹慎する形となりました。 一時はコンビ別れも考えたとのこと。 しかし、西川きよしはコンビ決別を拒否し、やすしの復帰を待ちます。 この間、笑福亭仁鶴や桂三枝(現・桂文枝)らと共演したことで、きよしの技量が鍛えられ、やすしへのツッコミが鋭くなったと言われています。 以降、ふたりの漫才はキレにキレ、ボケとツッコミの応酬は真剣勝負の場だったと言われています。 暴行を受け、失語症になって入院していた頃、息子に「愛人たちのことを頼む」と語っていたと、没後、一八が暴露しています。 このとき、一八は「一体何人の愛人がいたのか?」と聞いたところ、「51人」とやすしが答えたのを聞いて、「意外と少ないな、俺のほうが多い」と思ったとのこと。 親子揃ってタクシー運転手と何かと相性が悪いですが、時代背景として、当時は態度が悪い運転手が多く、やすしが殴られることも何度かあったそうです。 息子の暴行事件については、世間的には息子が一方的にタクシー運転手に因縁をつけて暴行したという話になっていますが、事実は、とある有名俳優の息子がタクシー運転手とトラブルになり喧嘩になっていたのを助けたところ、やりすぎてしまったというのが真相とのことです。 やりすぎたことに関しては反省していますが、その有名俳優の息子が何も謝罪してこないのは未だに納得がいかないと、一八は著書に書いています。 有名俳優の息子をかばった形になっていて、そのことを聞いたやすしは一八に対し「よくやった」と言ったそうです。 やすしが涙を流して会見した姿は有名ですが、「息子に対する教育は間違っていない」と発言しているのはそのためです。 また、横山やすしといえば、飲酒のイメージが強いですが、実は、酒はあまり好きではなく、強くもなかったそうです。 イメージを守るために飲んでいた面もあったとのこと。 天才少年漫才師と呼ばれた少年の頃、「酒も飲めない歳のガキが偉そうにするな」と先輩芸人たちから言われたのを悔しく思っていたという説もあります。 喧嘩にも決して強くなかったし、好きではなかったとのこと。 これも横山やすしというイメージを守るための演技だったでしょう。 謎の暴行事件 1992年、暴行を受け、瀕死状態で発見された件について、今も誰からどういう理由で暴行を受けたのか謎とされています。 しかし、当時、息子一八が知り合いの組長たちに電話をかけまくったところ、二時間ほどで相手が何者か、事件の背景に何があるか、詳細がわかったということです。 やすし自身もわかっていたとのこと。 一八自身は仕返しを考えたらしいですが、「家族の安全のために仕返しはするな」とやすしに言われ、思いとどまったとのこと。 この件は、父やすしが公表しなかった以上、口外するつもりはないとのことです。 しかし、自分が二時間ほどでわかったことが、警察にわからないはずがなく、警察が犯人を捕まえず、時効になったことには不信感を抱いているとのことです。 競艇関係 やすしは一時期、相方がなかなか決まらず、別の仕事を探してみるかと考えたことがありました。 小柄で軽量(160センチ、47キロ程度)の自分にピッタリではないかと競艇選手に目をつけました。 しかし、試験を受けましたが、視力が悪かったため、不合格となりました。 ちなみに、このとき一緒に試験を受けた友人の野中和夫は合格し、後に競艇界を代表する選手となります。 モーターボート協会の笹川良一会長(当時)から、やすしはかわいがられていたそうで、映画を撮る際には資金提供も受けています。 後にこの笹川会長から特別にアマチュアライセンスをもらい、以後、アマチュアのレースに参戦、優勝したこともあります。 やすしの死後、西川きよしが語っていたことですが「仕事をサボって、レースに出て優勝。 新聞に大きく掲載され、会社から怒られた」とのことです。 なお、娘の光も競艇選手を目指しましたが、同じく視力が悪かったため、不合格になったとのこと。 また、やすしはマラソンも好きで、よく走っていたらしいですが、ボートに乗るためには軽量でなければならなかったためとも言われています。 晩年と最期 1992年の参議院選挙にきよしと同様、やすしも出馬しています。 ただし、きよしは選挙区(無所属)、やすしは比例代表(風の会)です。 きよしは当選しますが、やすしは残念ながら落選。 「国民がアホや」と言った発言は何度か取り上げられ、流行語ともなりました。 1996年1月21日、アルコール性肝硬変で死去。 酒をやめるよう散々忠告されていましたが、晩年までやめられなかったとのことです。 死後、「やすしの遺族がきよしを恨んでいる」「きよしはいいところばかり持っていく」などと週刊誌に書かれましたが、一八が明確に否定しています。 やすしの行状を見て、きよしが将来を不安に思うのは当然であると理解しているとのことです。 ただ、やすしの酒量が増えたのは、きよしが国会議員になってからのことらしく、やすしが破滅するきっかけになったのは事実かもしれません。 事実、きよしが出馬することに関して、捨てられたような気分になったやすしは不貞腐れ、当初は選挙の応援に行くかどうかでさえ、揉めていたとのこと。 マネージャーたちがとりなして、最終的に応援に駆けつけたということです。 晩年は「キー坊ともう一度漫才をしたい」と口癖のように語っていたとか。 他の芸人との関わり ビートたけしは死に際してのコメントで「やすしさんには芸も色気もかなわない。 雲の上にいるような人だった」と絶賛。 若い頃、急に「飲みに行くぞ」と連絡が入り、島田洋七とともに千葉の大衆食堂のようなところに連れて行かれましたが、金を払わず置いていかれたそうです。 結局、自分たちが払う羽目になったので、帰りの電車賃がなくなってしまい、ふたりで東京まで歩いて帰ったというエピソードを語っています。 また、近年、テレビ番組などで「あのやすしさんとまともに漫才ができたのはきよしさんだけなんだから、もっときよしさんも評価されていい」と、ことあるごとに話しています。 若い頃のダウンタウンが、番組内でやすしに酷評されたエピソードは有名ですが「晩年のやすし師匠はごっつええ人やった」と松本人志は語っています。 番組内では編集されていますが、実際は一時間半ほど怒られていたそうです。 その他、不思議とやすしに怒られた人ほどよく売れているという現象があったらしく、見る目があったのかなかったのかわかりにくい人だとも言われています。 自分が弟子として苦労しているだけに、いわゆる師匠を持たない若手に対して、反感を持っていたという説もあります。 なお、明石家さんまと島田紳助に関しては将来有望と見ていたとか。 弟子について 弟子は大勢いましたが、指導が厳しかったのでほとんどが辞めていき、最終的に大成したのはホラ吹き漫才で人気だった「横山たかし・ひろし」のふたりくらいと言われています。 横山たかし(大金持ちキャラの方)には、「(師匠から)一万発くらい殴られた」「二階から投げ落とされた」「高速道路で降ろされて、置いていかれた」などの逸話があります。 やすし死後の追悼番組で「最後まであのキャラクターは演技やったのか、本当やったのかわからんかった」と涙ながらに語っています。 なお、最後の弟子とされる「横山ひとし」は一時期、ビートたけしに引き取られ、オフィス北野に所属していたことがあります。 現在は「たかし・ひろし」の弟子たち(やすしから見て孫弟子)が、今も上方演芸の名門、横山姓を継いでいます。 その素顔は? 近年、放送された番組で、長男一八と次女の光が語っていたところによると「素顔の木村雄二さんは心配性で、寂しがり屋な人だった」とのことです。 気遣いの人でもあったとか。 修学旅行に行った際、心配したやすしが旅行先まで仕事のふりをして追いかけて来て、偶然に出会ったようなふりをするので、驚いたことがあるそうです。 横山(木村)家の家訓のひとつに「嘘を付くことは殺人より悪い」というのがあったそうです。 殺人は場合によってやむを得ない場合がありますが、嘘はほとんどが自己防衛のために付くもので必要性がないという理屈だったそうです。 また、やすしは個人事務所などを作っていませんが、愛国者であるやすしにとっては、節税さえ脱税という考えがあったからです。 もし、節税をしていれば、晩年、借金を背負うことはなかったかもしれず、ある意味、不器用な人物と言えるかもしれません。 ちなみに麻雀で得意とする役は「七対子」だったそうで、しかも牌を2個ずつ分けて並べるので、何を狙っているのか丸わかりだったとか。 漫才内では「チョンボのヤス」と呼ばれていました。 <以下、参考文献> 記憶が曖昧なところはネット上の情報などで補完しました。

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