伏見 稲荷 大社 英語。 京都「伏見稲荷大社」のひとり旅

外国人に人気ナンバーワンの伏見稲荷大社。インバウンド対策や取り組み事例について徹底解説!

伏見 稲荷 大社 英語

祭神 [ ] は以下の五柱。 これらの神々は の広大な神徳の神名化とされている。 主祭神である 宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿にされた左右の、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている。 (うかのみたまのおおかみ) - 下社(中央座)• (さたひこのおおかみ)- 中社(北座)• (おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)• 田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)• 四大神 (しのおおかみ) - 中社摂社(最南座) 稲荷神は元来、豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった。 田中大神および四大神について 摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒がはっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と何らかの深い関わりがある、あるいは土着神的傾向が濃厚」としている。 下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおりではないかと考えられるが、かつてはや、などとも同一視された。 中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない。 の者、前田夏蔭によれば「」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・のであり、を表す神とも考えられる。 歴史 [ ] 「秦氏の祖霊として創建」の縁起 [ ] 「イナリ」の縁起としては『』にあったとされるのものが有名である。 風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。 乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。 遂に社の名と為しき。 其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。 今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。 — 逸文『山城国風土記』 (大意)風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。 秦中家忌寸 などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。 ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。 後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。 いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。 このについて、もともと近辺に在住していたことが見え(「」『』欽明紀)、また、 秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午 、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒 — 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』 とあり、秦氏ととの関連や、秦氏が年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。 社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ 、とも伝えている。 上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが 、『』にあるの天長4年()正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた。 以降、『』には「 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、に列し・の幣帛を受けた。 なお、この木を植える伝承はとして現代にも伝わっている。 「弘法大師が出会った竜頭太」の縁起 [ ] などに伝わる文献では、以下のようにと稲荷神の関係が伝承されている。 これらの説話は初期を舞台としているが、文献自体の成立は頃である点には留意すべきである。 『』 などにはこうある。 稲荷大明神流記 眞雅記云ゝ 弘仁七年孟夏之比。 大和尚斗藪之時於紀州田邊宿遇異相老翁。 其長八尺許骨高筋太内大權氣外示凡夫相。 見和尚快語曰「吾有神道聖在威徳也。 方今菩薩到此所弟子幸也」。 和尚曰「於霊山面拝之時、誓約未忘此主他生、形異心同。 予有秘教紹隆之願。 神在仏法擁護之誓、諸共弘法利生、同遊覚台。 夫帝都坤角九條一坊、有一大伽藍、号東寺。 為鎮護国家、可興密教霊場也。 必々奉待々々而巳」。 化人曰「必参会」。 守和尚之𣳬 命等云々。 同十四年正月十九日。 和尚忝賜東寺。 為密教道場也、因之請来法文曼荼羅道具等、悉納大経蔵畢。 其後同四月十三日、彼紀州之化人来。 臨東寺南門。 荷稲提椙葉、率両女二子矣。 和尚歓喜、授与法味、道俗帰敬、備飯献果。 爾後暫寄宿二階柴守、其間点当寺杣山。 定利生勝地。 一七ヶ日夜之間、依𣳬 鎮壇法示荘厳。 額然而円現矣、為後生記綱目耳。 — 『稲荷大明神流記』 (大意)7年()4月頃、ので修行中の(弘法大師)は田辺の宿で常人とは思えない老翁に出会った。 身の丈は八尺 、立派な体躯で威厳が感じられるが、それを表に出さない顔立ちだった。 その老人は空海に会えたことを喜んで語った。 「自分は(以前そなたに会ったことのある)神である。 そなたには威徳がある。 私とともに修行して弟子となるがよい」空海は答えた。 「霊山であなたに会った時の約束は、たとえ見かけが変わろうと心は同じであり、まだ忘れていません。 私は密教を広めたいという願いが有ります。 あなたには仏法でそれを守ってくださるようお願いします。 京の都の西南の方角の九条というところに東寺という大伽藍があります。 ここで私は国家を護るための密教を興すのです。 この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」。 睦まじく語らい合って約束を交わした。 弘仁14年()正月19日、空海は東寺を賜って道場を開くため法文や曼荼羅、道具等を運び、経蔵を納めて真言の道場とした。 この年の4月13日、紀州の神が東寺の南門にやってきた。 神は椙 すぎ の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れていた。 空海は大喜びで崇敬の心で一行を食事や菓子でもてなし、周りもこれに倣った。 しばらく一行は八条二階の柴守 しばのかみ の家に留まり、その間に空海は東寺の杣(すぎ)山に17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。 この事が現在まで伝わる由縁となっている。 また、に伝わる『稲荷大明神縁起』 では 或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。 其の面竜の如し。 顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。 其の姓を荷田氏と云ふ。 稲を荷ける故なり。 而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。 我は是当所の山神也。 仏法を護持すべき誓願あり。 願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし。 然者愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮に弘法の練宇を守るべしと。 大師服膺せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ。 是以其面顔を写して、彼の神体とす。 種々の利物連々に断絶する事なし。 彼の大師御作の面は当社の竃戸殿に案置せらる。 — 『稲荷大明神縁起』 (大意)ある書物では、100年の昔の和銅年間から 竜頭太という者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。 その顔は龍のようだった。 頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。 姓は 荷田、名は竜頭太といった。 これは稲を背負っていたからという。 (中略)空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは収穫が絶えることがなくなった。 この面は東寺の竃戸殿に祀ってある。 とあり、当時伏見稲荷大社の社家であったの出自を述べていて、社家が秦氏の出身としている。 社家の荷田氏は、「和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、この神は、秦氏人等が・として春秋の祭りに仕えた」。 伝統的なには、この秦氏を出自とする荷田氏、西大路氏、大西氏、森氏などがいる。 なお、東寺が空海(弘法大師)作という面を竃戸殿に置いた由来についてここでは述べられていない。 縁起にある竜頭太は自ら稲荷山の山神を名乗り、「その顔は龍のようだった。 頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。 」とあり、これはを背したを想起させる。 平安期の隆盛 [ ] 4年()、が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかりが派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下のが下賜された。 以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。 現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。 社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日としてを興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている。 稲荷祭は神幸祭(稲荷のお出で)が、旧暦3月中のの日に、還幸祭(稲荷のお旅)が旧暦4月上のの日、と定められていた。 8年()にはの寄進により社殿が造営され、5年()の『』には、またの上七社に列し、5年()にが授けられた。 当時はは天皇以外の参拝が禁止されており 、京からも近い当社が多くの参詣者を集めるようになった。 平安時代の隆盛が『』などにも見え、『』は初午に7度も詣でる元気な女性がいて羨ましかった、とある。 こうして稲荷祭はの、のとならぶ人気を博したという。 4年()、が初となる行幸があった。 神社ごとに勅使を送るでは6年()の・が初めてである。 鎌倉時代に進んだ神仏習合 [ ] しかし、山城国風土記よりも後の鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』 では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。 この頃になると、が進み、神社の祭神にもが解釈されるようになる。 また、それまで三座だった祭神が五座となる。 前出の『稲荷大明神流記』には、• 一、大明神。 (上御前是也)• 二、中御前。 (大明神之当御前也)• 三、大多羅之女。 (下御前是也。 大明神之前御前也)• 四、四大神。 (中御前御子。 即同宿中御前)• 五、田中。 (先腹大多羅之女郎子也) とある。 このような仏教系の伝承に、後に伏見稲荷のとされるに関する伝承が現れている。 時は平安初期の年間(~)のこと、平安京の北郊、の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐の夫婦が棲んだ。 夫婦は心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、狐という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。 そこで、夫婦は意を決し、五匹の子狐を伴って稲荷山に参拝し祈った。 「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神の厳かな託宣がくだった。 「そなたたちの願いを聞き許す。 されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」明神からは男狐はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。 — 『稲荷流記』他 また中国から派生したと思われる狐に関する寓話(「」や「」など)から、次第に仏の像容を白狐にまたがる女天形と解釈して、日本独自の形容を持ったを併せた。 由来についても様々に解釈や説話がある。 実は、これらの説話は、先の東寺を開いた空海の縁起と合わせ、平安時代初期を舞台とする説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃に世に広まりはじめてきていることには留意すべきである。 空海の興したはこの頃には熊野のとともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山のの密教とは内容が異なるとして、「」が京の鎮守であったのに対して「」はこの時代以降に「」の名を称するようになる(「密教」の項を参照)。 護国として実際に帰依した天皇や皇族が多く、増えすぎた貴族が没落して都落ちし、緩みはじめた律令を背景に、として、後にはやなどとして荘園地主となり、武家を興したり擁したりして台頭し始める時期にあたる。 これに呼応するように全国にや稲荷社が勧請されて急速に広まった時期にもあたる。 これらの説話はを通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり 眷属である狐を併せていくことになる。 山麓への遷座 [ ] この頃、地方領主やからのの倣いが起こり 、有力となったが独自のやを持つようなると武家同士や寺社同士の争いに巻き込まれるようになる。 社家一族のうち、はこの頃、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒して社家を継いだことが疑われている が、江戸期の国学の大家であるはこの氏族から出ている。 10年()、の勅命で、6代将軍により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓に移した、とする伝承がに伝わっている。 これによると、現在社地となっている稲荷山麓の当地に天平宝字3年() から藤尾社という、その父のを祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内の東殿へ遷座した 、現在の藤森にあったを藤森から西に移した(現在の)、という。 つまりそれまで稲荷社は稲荷山山中(現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)に限る狭い範囲にあった。 このことは、現在でも稲荷大社が藤森神社のほぼ中央に位置し、かつ自身の氏子圏ははるか西方の東寺近辺に限られることからも首肯される。 また清少納言が「枕草子」に記すところでは、稲荷参拝に際してあえぎあえぎ登山している様子が伺え 、このころやはり稲荷社は山上の社であったと考えられる。 現在、山中四つ辻から北に下る道を「御幸道」と呼び、さらにその下方に「車坂」の地名が残るのも、かつての参宮路の名残だと考えられる。 なお、藤森神社には永享10年に将軍足利義教から寄進された重要文化財の「八幡宮」「大将軍社」二棟が建つが、これも義教による稲荷遷座に伴うものと推測される。 が始まると、東軍の側のが稲荷社に陣を置き、後方から西軍の側を撹乱・攻撃する戦を展開していたが、翌2年()3月に西軍の攻撃を受けて道賢は討死し、稲荷社は山上の建物を含めてすべて焼きつくされた。 勧進による復興 [ ] 応仁の乱の戦渦は甚大であり、文明18年()に起きたでは伏見稲荷大社のの役割を果たしていた東寺の伽藍も焼失 、終戦後は稲荷祭でさえ執り行えなかった年があったという。 そこで伏見稲荷本願所にのであったを改めて神宮寺とし、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され 、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、、を管理、によって諸国勧進も進められた。 このころの勧進とは、寺社造営のために寄進を募ることだった。 を築城したは、16年()、母のの平癒を祈願、成就したことから大規模な寄進を行い、現在の楼門はその折の建立という。 商人に人気となる江戸時代 [ ] 戦国時代を経て江戸幕府を開いたはに帰依し、幕僚として仕えたはの僧であり、稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われた。 特に活発となった商いの成功()を祈る商人には人気があった。 狐が棲む穴ぐらを見つけては稲荷神を勧請する者まで現れる。 併せて、勧請された稲荷神社に「」を冠するものが出てくるのもこの頃である。 これはが死後へ神格化されて正一位を追贈されたように朝廷が認めるの最高格 を意味し、奉行所から当社へ名の使用について問い合わせがあったことも記されている。 そして結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、膨大な千本鳥居を形成するに至るのである。 現在伏見稲荷大社の楼門内に、江戸時代に社家から出た国学の大家・荷田春満の旧宅が保存されている。 隣設して荷田春満を祭神とする(あずままろじんじゃ)があるが、この神社は旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社のではなく独立した神社である。 明治36年()に規模の割に高い社格の府社に列し、学問の神として信仰されている。 明治から現在まで [ ] 慶応4年(=明治元年、1868年)のでは再び戦場となりかけたが、幕府軍は早々に戦闘行為を諦めて大坂に退却したため、稲荷社の被害はほとんどなかった。 しかし、同年の・によって愛染寺や社内の、本殿内の類は廃された。 文化財の保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響は大きかったわけである。 ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。 また、明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。 4年()にはのもとでに列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。 文学者のは「伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。 見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。 これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。 」と評価している。 戦後の21年(1946年)に近代社格制度の廃止に伴い化したが、とは独立した宗教法人となった。 これは神社本庁がをとするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。 宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。 境内 [ ] 表参道の一番鳥居から楼門、外拝殿(舞殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶ。 本殿の背後に、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群がある。 千本鳥居をはじめとする信者の寄進による鳥居は山中に約一万基あると言われる。 本殿右には稲荷神明水がある。 一番鳥居• 熊野社祠(重要文化財)、藤尾社祠(重要文化財)• 二番鳥居• 楼門(重要文化財)・南廻廊(重要文化財)・北廻廊(重要文化財)• 外拝殿(重要文化財):軒下四周に吊るされた12基の鉄製灯篭には、(おとめ座、ふたご座など)の透かし彫りが見られる。 これは「星曼荼羅」などにも見られ、密教の影響を示すものと考えられる。 内拝殿・本殿(重要文化財):で焼失した後、8年(1499年)に再建。 神楽殿:本殿の右脇• 御茶屋(重要文化財):本殿の右脇奥で非公開、17世紀初建造• 権殿(重要文化財):本殿の左後ろ• 授与所:本殿の左脇。 朱印所。 おみくじ授与。 上末社(重要文化財):長者社、荷田社、五社相殿、両宮社• 白狐社(重要文化財)• 奥宮(重要文化財)• 千本鳥居:奥社への参道に密に並ぶ鳥居を言う。 二股に分かれている。 奥社「奥の院」:奉拝所。 おもかる石、願掛け絵狐(のかわりに狐)。 御旅所 御旅殿 稲荷山 [ ] である稲荷山は、の最南端に位置し、標高233m。 3つの(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつてはで、それぞれに円墳が確認されている。 三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。 この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できるには、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。 参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「」や「」などを唱えている人もおり、日本でが行われる前の信仰(を参照)が今でも保たれているのを見ることができる。 奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。 この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。 また稲荷山には信者からされた約1万基のがあり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。 鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。 応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。 明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。 お塚は、その周りを取り囲む形となっている。 親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。 七神蹟地、およびその親塚にある神名• 一ノ峰(上之社神蹟) - 末広大神• 二ノ峰(中之社神蹟) - 青木大神• 三ノ峰(下之社神蹟) - 白菊大神• 荒神峰(田中社神蹟) - 権太夫大神• 間ノ峰(荷田社神蹟) - 伊勢大神• 御膳谷遙拝所 - 往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられている• 釼石(長者社神蹟) - 社殿の後ろに御神体の剱石があり長者社には加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祀る• 出発を待つ五基の神輿• 大山祭 (1月5日)• 本殿の儀 御饌石の上に供物を捧げたという故事に基づく。 山上の儀(御膳谷祈祷殿) 斎土器に中汲酒を盛ったものを御饌石に供えて、五穀豊穣と家業繁栄を祈る。 初午大祭(はつうまたいさい) (2月初午の日) 稲荷大神が稲荷山の三ヶ峰に初めて鎮座した和銅4年2月の初午の日をしのび、大神の神威を仰ぐ祭• 稲荷祭 (4月20日最寄の日曜-5月3日) 平安時代に起源を持つ祭りで4月20日最寄の日曜の「神幸祭」、4月下旬の「区内巡幸」、5月3日の「還幸祭」まで氏子地域の御旅所に神輿が置かれる。 田植祭(6月10日) 神前に捧げられる料米の稲苗を神田へ植える祭で、「御田舞」が演奏される中、早乙女らによって田植が行われる。 本宮祭(もとみやさい) (7月土用入り後の最初の日曜または祝日) 前日の宵宮には境内の提灯や灯籠に一斉に灯を入れる万灯神事が行われる。 講員大祭(10月体育の日の前々日・前日) 伏見稲荷大社の神徳を広く宣揚し、全国の講員が参拝して神恩に奉賽するとともに、家内安全・生業繁栄を祈願する祭。 火焚祭(ひたきさい) (11月8日) 「おひたきまつり」とも言われ、社前に火を焚く神事。 伏見稲荷大社では丁度初午に相対するものであるとしている。 大祓式(12月31日) 「師走の大祓」と称され、後半年の罪穢れを祓い、形代を河海に流して新年を迎える行事。 その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。 しるしの杉 [ ] 平安時代後期に熊野詣が盛んになると、京の公家や民衆は参詣の途中で伏見稲荷に立ち寄り、縁起に因む杉木の枝を頂いて身体につけることが流行した(『』など)。 『』でもが急なへの警備にも「先ず稲荷の杜にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして(略)」とある。 初午参詣で皆が杉木の枝をとっていくので稲荷山の杉はすっかり葉がなくなった」と詠んだの歌が残っている。 文化財 [ ] 重要文化財(国指定) [ ]• 伏見稲荷大社(8棟)• 本殿 - 五間社流造、檜皮葺き、明応3年(1494年)建立• 権殿 - 五間社流造、寛永12年(1635年)建立• 外拝殿(げはいでん)• 楼門 - 天正17年(1589年)再建• 南廻廊• 北廻廊• 白狐社• (附指定)長者社、荷田社、五社相殿、両宮社、熊野社、藤尾社• (附指定)城州稲荷社御修復御入用金高目録帳 9冊• 御茶屋 - 後水尾上皇より下賜され、仙洞御所から移築 重要文化財の社殿の画像• (左)熊野社、(中央)藤尾社 拝観 [ ] 24時間稲荷山を含む境内に入り参拝できる。 拝観料の類はなく無料で参拝できる。 ただしなどを販売する「授与所」は、7:00〜18:00頃のみにしか開いていない。 稲荷山の茶屋等の営業時間や休日はそれぞれ異なる。 また、旧宅が観光シーズンなどに特別公開されることがあるが、この時は特別公開部分のみ有料となる。 参集殿 [ ] 境内駐車場脇に伏見稲荷大社が経営する宿泊施設である「参集殿」があり、設備はかなり古いが比較的安価で宿泊できる。 ここに宿泊して夜の稲荷山を体験する観光客も増えている。 ただし、22時の門限と21時の浴場の終了時刻は考慮しなければならない。 また、日中は食堂を営業している。 玄関ロビーにはコインロッカーがあり、JR駅よりも安い値段で利用できる。 外国人観光客の増加 [ ] 近年は外国人観光客からも観光地として人気があり、による2013年の「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2位を、2014年の調査ではを抜いて1位を獲得し、その後も2019年まで6年連続で1位となっている。 これは、駅のごく近くに赤い鳥居が続く風景が非常に日本的な上、拝観料不要で閉門時間が無いことも理由であり、稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることも高評価の理由とされる。 平日のほとんどの日で外国人観光客の方が日本人よりも多くなっており、夕暮れのあとも稲荷山に登る外国人が多くなっている。 なお、本殿付近はライトアップされており、稲荷山への参道も脇道以外は全区間で街灯が1晩中点灯されているため夜間の参拝は容易であるが、夜間はイノシシが出没することがあり注意を呼びかける表示がある。 現地情報 [ ] 所在地• 深草藪之内町68 交通アクセス 鉄道• (稲荷大社のすぐ前)- からの所要時間は約5分。 正月3が日と1月4日を除いては停車しない。 (徒歩約5分)- 大阪のから特急を利用する場合の所要時間は約45分だが、特急は伏見稲荷駅に停車しないためで準急あるいは普通への乗り換えが必要。 また、快速特急「洛楽」は京橋駅を出ると七条駅まで停車しないため注意が必要となる。 京都駅及び竹田駅(一部中書島・横大路車庫まで延長)とを結ぶ・および京都駅八条口と醍醐バスターミナルとを結ぶで「稲荷大社前」バス停下車 - 京都市営バスは日中は1時間に2本ずつ、計4本が、京阪バスは同1時間に1本が運転されている。 自動車• 駐車場:表参道から入って参集殿の前の境内駐車場に普通車が停められるが、初詣の期間や祭事の日など、使用できない時もある。 境内駐車場は24時間利用可能。 伏見稲荷大社の駐車場はすべて無料である。 周辺 [ ]• 深草キャンパス• ・・ 脚注 [ ] []• 生玉稲荷神社(名古屋市守山区)では、倉稲魂神を主祭神として、、、、とともに五柱の神を稲荷五社大明神として祀るが、伏見稲荷大社と同様にこれら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。 『水台記』では「、」の四柱、『神祇拾遺』では「、、事八十神」の四柱とする。 伏見稲荷大社と同じくによって創建されたでは、境内末社の四大神社(しのおおかみのやしろ)で「春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神」を祀っており、その名から四季の神であることが明確にうかがえる。 最古の写本においては「伊禰奈利生」ではなく「生子」、すなわち「子を生んだ」と記されているが、江戸時代の国学者・により「伊禰奈利生」との表記がされるようになった(中村陽・監修『稲荷大神』戎光祥出版、平成21年、50-51頁参照)。 これはが15世紀頃にの注記のため作成した『』で書かれている山城国風土記伊奈利の社条のであり、また兼倶はの創設者でもあることから、信ぴょう性を疑問視する意見もある。 また、山城風土記は編纂の始まる3年(925年)以前に伝わる歴史や文物を記しており、和銅年間以降の風聞も含まれる可能性はある。 「忌寸」はでの位の1つ。 和銅4年()2月7日。 なお、この縁起を伏見稲荷の創建とみる場合、(旧・糸我町)の「」が日本最初・最古の稲荷神社となるという説がある。 文化7年()当時の神官、林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」によると、創建は「37代孝徳天皇白雉3年()壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあり、伏見稲荷神社より約60年遡ることになる。 (有田市HP )• 14世紀頃の成立。 およそ2m40cm。 南北朝時代の成立。 東寺に伝わる。 これを「私幣禁断」という。 天皇以外の個人的な参拝を禁止し、たとえやであっても天皇の勅許が要った(伊勢神宮HP 参照)。 空海の弟子。 塚の規模や由来に関わらず、稲荷社を伴い、または「稲荷」「狐」を称するは全国に存在する。 天皇以外の参詣を許さなかった伊勢神宮も、この頃から勧請を積極的に行っている。 秦氏創建とする711年より以降、空海が遷座したとする823年より以前ということになる。 「中の御社のほど、わりなう苦しきを念じのぼるに、いささか苦しげもなく遅れて来とみる者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし。 」「坂の半らばかり歩みしかば…やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、などかからでよき日もあらんものを、なにしに詣でつらんとまで、涙もおちて休み困ずるに…」と記す。 の時点では伏見稲荷大社はの扱いであり、秦氏と関わるやがすでに正一位に列していたのとは対照的である。 伏見稲荷大社の正一位は前述の通り5年()からである• 5年()にが行幸した際に「信心からの勧請には神体に正一位を書き加えるべき」としたが、江戸時代のこの問い合わせに対し大社側は「一子相伝でない勧請は迷惑」と返答したとある。 (『稲荷社事実考証記』) 出典 [ ]• 伏見稲荷大社. 2013年8月1日閲覧。 MAPPLE観光ガイド. 2011年1月19日閲覧。 2016年2月21日閲覧。 伏見稲荷大社. 2016年3月9日閲覧。 2016年2月1日閲覧。 上田正昭「稲荷神はどこから来たか」『稲荷大神』、戎光祥出版、2009年。 「稲荷社禰宜祝等甲状」(『神祗官勘文』に見る引用から)• 伏見稲荷大社. 2016年2月3日閲覧。 デジタル大辞泉『稲荷祭』。 2016年2月3日閲覧。 伏見稲荷大社. 2016年2月3日閲覧。 世界大百科事典 第2版『年中行事秘抄』。 ただし、この書はもともと式次第や縁起を詳述する態度をとっていない。 2016年2月21日閲覧。 『神道史の研究』第2巻、p86。 雄山閣、。 2016年2月21日閲覧。 2016年2月21日閲覧。 「稲荷一流大事」(伏見稲荷本願所愛染寺初代住職の天阿上人の著作)• 伏見稲荷大社. 2016年2月3日閲覧。 共著修論• 伏見稲荷大社. 2011年1月19日閲覧。 坂口安吾『』• 石田兼之、「」『法政大学大学院紀要. デザイン工学研究科編』 1巻 p. 1-14 2012年, 法政大学大学院デザイン工学研究科。 注記:書誌情報頁は『得意』、論文本体は『特異』と記述されている。 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p. 208• 田中重久「稲荷大社拝殿の鉄造十二宮文の吊灯籠」 史迹美術同攷会『史迹と美術』308・309号所収• 丘眞奈美『京都のご利益徹底ガイド』「伏見稲荷大社」、PHP文庫。 島田裕巳『宗教常識の嘘』朝日新聞社、2005年、p. トリップアドバイザー 2014年6月4日. 2014年12月17日閲覧。 参考文献 [ ]• 編『稲荷信仰事典』、1999年。 関連項目 [ ] 伏見稲荷大社関連• - 俳優。 実家は伏見稲荷大社境内の稲荷山山上の茶屋。 - 伏見稲荷大社をモデルとした伊奈里神社が登場する。 アニメ製作の際には、全面バックアップを行った。 「伏見稲荷」を称する他の神社• () - 当社より勧請• () - 当社より勧請• (神奈川県)• () - 当社より勧請• 元稲荷• (ゆわさかいなり) - 亀岡市()。 日本初の稲荷社で、当社の勧請元。 その他の神社• - 123基の鳥居が断崖絶壁に向かって100m以上続き、伏見稲荷大社同様フォトジェニックな神社として有名。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 オープンストリートマップに があります。 (公式サイト)• (京都観光Navi 京都市役所 )• (國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」).

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伏見稲荷大社(フシミイナリタイシャ)とは

伏見 稲荷 大社 英語

祭神 [ ] は以下の五柱。 これらの神々は の広大な神徳の神名化とされている。 主祭神である 宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿にされた左右の、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている。 (うかのみたまのおおかみ) - 下社(中央座)• (さたひこのおおかみ)- 中社(北座)• (おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)• 田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)• 四大神 (しのおおかみ) - 中社摂社(最南座) 稲荷神は元来、豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった。 田中大神および四大神について 摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒がはっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と何らかの深い関わりがある、あるいは土着神的傾向が濃厚」としている。 下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおりではないかと考えられるが、かつてはや、などとも同一視された。 中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない。 の者、前田夏蔭によれば「」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・のであり、を表す神とも考えられる。 歴史 [ ] 「秦氏の祖霊として創建」の縁起 [ ] 「イナリ」の縁起としては『』にあったとされるのものが有名である。 風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。 乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。 遂に社の名と為しき。 其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。 今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。 — 逸文『山城国風土記』 (大意)風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。 秦中家忌寸 などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。 ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。 後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。 いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。 このについて、もともと近辺に在住していたことが見え(「」『』欽明紀)、また、 秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午 、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒 — 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』 とあり、秦氏ととの関連や、秦氏が年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。 社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ 、とも伝えている。 上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが 、『』にあるの天長4年()正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた。 以降、『』には「 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、に列し・の幣帛を受けた。 なお、この木を植える伝承はとして現代にも伝わっている。 「弘法大師が出会った竜頭太」の縁起 [ ] などに伝わる文献では、以下のようにと稲荷神の関係が伝承されている。 これらの説話は初期を舞台としているが、文献自体の成立は頃である点には留意すべきである。 『』 などにはこうある。 稲荷大明神流記 眞雅記云ゝ 弘仁七年孟夏之比。 大和尚斗藪之時於紀州田邊宿遇異相老翁。 其長八尺許骨高筋太内大權氣外示凡夫相。 見和尚快語曰「吾有神道聖在威徳也。 方今菩薩到此所弟子幸也」。 和尚曰「於霊山面拝之時、誓約未忘此主他生、形異心同。 予有秘教紹隆之願。 神在仏法擁護之誓、諸共弘法利生、同遊覚台。 夫帝都坤角九條一坊、有一大伽藍、号東寺。 為鎮護国家、可興密教霊場也。 必々奉待々々而巳」。 化人曰「必参会」。 守和尚之𣳬 命等云々。 同十四年正月十九日。 和尚忝賜東寺。 為密教道場也、因之請来法文曼荼羅道具等、悉納大経蔵畢。 其後同四月十三日、彼紀州之化人来。 臨東寺南門。 荷稲提椙葉、率両女二子矣。 和尚歓喜、授与法味、道俗帰敬、備飯献果。 爾後暫寄宿二階柴守、其間点当寺杣山。 定利生勝地。 一七ヶ日夜之間、依𣳬 鎮壇法示荘厳。 額然而円現矣、為後生記綱目耳。 — 『稲荷大明神流記』 (大意)7年()4月頃、ので修行中の(弘法大師)は田辺の宿で常人とは思えない老翁に出会った。 身の丈は八尺 、立派な体躯で威厳が感じられるが、それを表に出さない顔立ちだった。 その老人は空海に会えたことを喜んで語った。 「自分は(以前そなたに会ったことのある)神である。 そなたには威徳がある。 私とともに修行して弟子となるがよい」空海は答えた。 「霊山であなたに会った時の約束は、たとえ見かけが変わろうと心は同じであり、まだ忘れていません。 私は密教を広めたいという願いが有ります。 あなたには仏法でそれを守ってくださるようお願いします。 京の都の西南の方角の九条というところに東寺という大伽藍があります。 ここで私は国家を護るための密教を興すのです。 この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」。 睦まじく語らい合って約束を交わした。 弘仁14年()正月19日、空海は東寺を賜って道場を開くため法文や曼荼羅、道具等を運び、経蔵を納めて真言の道場とした。 この年の4月13日、紀州の神が東寺の南門にやってきた。 神は椙 すぎ の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れていた。 空海は大喜びで崇敬の心で一行を食事や菓子でもてなし、周りもこれに倣った。 しばらく一行は八条二階の柴守 しばのかみ の家に留まり、その間に空海は東寺の杣(すぎ)山に17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。 この事が現在まで伝わる由縁となっている。 また、に伝わる『稲荷大明神縁起』 では 或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。 其の面竜の如し。 顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。 其の姓を荷田氏と云ふ。 稲を荷ける故なり。 而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。 我は是当所の山神也。 仏法を護持すべき誓願あり。 願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし。 然者愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮に弘法の練宇を守るべしと。 大師服膺せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ。 是以其面顔を写して、彼の神体とす。 種々の利物連々に断絶する事なし。 彼の大師御作の面は当社の竃戸殿に案置せらる。 — 『稲荷大明神縁起』 (大意)ある書物では、100年の昔の和銅年間から 竜頭太という者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。 その顔は龍のようだった。 頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。 姓は 荷田、名は竜頭太といった。 これは稲を背負っていたからという。 (中略)空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは収穫が絶えることがなくなった。 この面は東寺の竃戸殿に祀ってある。 とあり、当時伏見稲荷大社の社家であったの出自を述べていて、社家が秦氏の出身としている。 社家の荷田氏は、「和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、この神は、秦氏人等が・として春秋の祭りに仕えた」。 伝統的なには、この秦氏を出自とする荷田氏、西大路氏、大西氏、森氏などがいる。 なお、東寺が空海(弘法大師)作という面を竃戸殿に置いた由来についてここでは述べられていない。 縁起にある竜頭太は自ら稲荷山の山神を名乗り、「その顔は龍のようだった。 頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。 」とあり、これはを背したを想起させる。 平安期の隆盛 [ ] 4年()、が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかりが派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下のが下賜された。 以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。 現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。 社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日としてを興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている。 稲荷祭は神幸祭(稲荷のお出で)が、旧暦3月中のの日に、還幸祭(稲荷のお旅)が旧暦4月上のの日、と定められていた。 8年()にはの寄進により社殿が造営され、5年()の『』には、またの上七社に列し、5年()にが授けられた。 当時はは天皇以外の参拝が禁止されており 、京からも近い当社が多くの参詣者を集めるようになった。 平安時代の隆盛が『』などにも見え、『』は初午に7度も詣でる元気な女性がいて羨ましかった、とある。 こうして稲荷祭はの、のとならぶ人気を博したという。 4年()、が初となる行幸があった。 神社ごとに勅使を送るでは6年()の・が初めてである。 鎌倉時代に進んだ神仏習合 [ ] しかし、山城国風土記よりも後の鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』 では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。 この頃になると、が進み、神社の祭神にもが解釈されるようになる。 また、それまで三座だった祭神が五座となる。 前出の『稲荷大明神流記』には、• 一、大明神。 (上御前是也)• 二、中御前。 (大明神之当御前也)• 三、大多羅之女。 (下御前是也。 大明神之前御前也)• 四、四大神。 (中御前御子。 即同宿中御前)• 五、田中。 (先腹大多羅之女郎子也) とある。 このような仏教系の伝承に、後に伏見稲荷のとされるに関する伝承が現れている。 時は平安初期の年間(~)のこと、平安京の北郊、の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐の夫婦が棲んだ。 夫婦は心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、狐という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。 そこで、夫婦は意を決し、五匹の子狐を伴って稲荷山に参拝し祈った。 「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神の厳かな託宣がくだった。 「そなたたちの願いを聞き許す。 されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」明神からは男狐はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。 — 『稲荷流記』他 また中国から派生したと思われる狐に関する寓話(「」や「」など)から、次第に仏の像容を白狐にまたがる女天形と解釈して、日本独自の形容を持ったを併せた。 由来についても様々に解釈や説話がある。 実は、これらの説話は、先の東寺を開いた空海の縁起と合わせ、平安時代初期を舞台とする説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃に世に広まりはじめてきていることには留意すべきである。 空海の興したはこの頃には熊野のとともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山のの密教とは内容が異なるとして、「」が京の鎮守であったのに対して「」はこの時代以降に「」の名を称するようになる(「密教」の項を参照)。 護国として実際に帰依した天皇や皇族が多く、増えすぎた貴族が没落して都落ちし、緩みはじめた律令を背景に、として、後にはやなどとして荘園地主となり、武家を興したり擁したりして台頭し始める時期にあたる。 これに呼応するように全国にや稲荷社が勧請されて急速に広まった時期にもあたる。 これらの説話はを通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり 眷属である狐を併せていくことになる。 山麓への遷座 [ ] この頃、地方領主やからのの倣いが起こり 、有力となったが独自のやを持つようなると武家同士や寺社同士の争いに巻き込まれるようになる。 社家一族のうち、はこの頃、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒して社家を継いだことが疑われている が、江戸期の国学の大家であるはこの氏族から出ている。 10年()、の勅命で、6代将軍により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓に移した、とする伝承がに伝わっている。 これによると、現在社地となっている稲荷山麓の当地に天平宝字3年() から藤尾社という、その父のを祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内の東殿へ遷座した 、現在の藤森にあったを藤森から西に移した(現在の)、という。 つまりそれまで稲荷社は稲荷山山中(現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)に限る狭い範囲にあった。 このことは、現在でも稲荷大社が藤森神社のほぼ中央に位置し、かつ自身の氏子圏ははるか西方の東寺近辺に限られることからも首肯される。 また清少納言が「枕草子」に記すところでは、稲荷参拝に際してあえぎあえぎ登山している様子が伺え 、このころやはり稲荷社は山上の社であったと考えられる。 現在、山中四つ辻から北に下る道を「御幸道」と呼び、さらにその下方に「車坂」の地名が残るのも、かつての参宮路の名残だと考えられる。 なお、藤森神社には永享10年に将軍足利義教から寄進された重要文化財の「八幡宮」「大将軍社」二棟が建つが、これも義教による稲荷遷座に伴うものと推測される。 が始まると、東軍の側のが稲荷社に陣を置き、後方から西軍の側を撹乱・攻撃する戦を展開していたが、翌2年()3月に西軍の攻撃を受けて道賢は討死し、稲荷社は山上の建物を含めてすべて焼きつくされた。 勧進による復興 [ ] 応仁の乱の戦渦は甚大であり、文明18年()に起きたでは伏見稲荷大社のの役割を果たしていた東寺の伽藍も焼失 、終戦後は稲荷祭でさえ執り行えなかった年があったという。 そこで伏見稲荷本願所にのであったを改めて神宮寺とし、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され 、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、、を管理、によって諸国勧進も進められた。 このころの勧進とは、寺社造営のために寄進を募ることだった。 を築城したは、16年()、母のの平癒を祈願、成就したことから大規模な寄進を行い、現在の楼門はその折の建立という。 商人に人気となる江戸時代 [ ] 戦国時代を経て江戸幕府を開いたはに帰依し、幕僚として仕えたはの僧であり、稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われた。 特に活発となった商いの成功()を祈る商人には人気があった。 狐が棲む穴ぐらを見つけては稲荷神を勧請する者まで現れる。 併せて、勧請された稲荷神社に「」を冠するものが出てくるのもこの頃である。 これはが死後へ神格化されて正一位を追贈されたように朝廷が認めるの最高格 を意味し、奉行所から当社へ名の使用について問い合わせがあったことも記されている。 そして結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、膨大な千本鳥居を形成するに至るのである。 現在伏見稲荷大社の楼門内に、江戸時代に社家から出た国学の大家・荷田春満の旧宅が保存されている。 隣設して荷田春満を祭神とする(あずままろじんじゃ)があるが、この神社は旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社のではなく独立した神社である。 明治36年()に規模の割に高い社格の府社に列し、学問の神として信仰されている。 明治から現在まで [ ] 慶応4年(=明治元年、1868年)のでは再び戦場となりかけたが、幕府軍は早々に戦闘行為を諦めて大坂に退却したため、稲荷社の被害はほとんどなかった。 しかし、同年の・によって愛染寺や社内の、本殿内の類は廃された。 文化財の保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響は大きかったわけである。 ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。 また、明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。 4年()にはのもとでに列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。 文学者のは「伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。 見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。 これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。 」と評価している。 戦後の21年(1946年)に近代社格制度の廃止に伴い化したが、とは独立した宗教法人となった。 これは神社本庁がをとするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。 宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。 境内 [ ] 表参道の一番鳥居から楼門、外拝殿(舞殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶ。 本殿の背後に、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群がある。 千本鳥居をはじめとする信者の寄進による鳥居は山中に約一万基あると言われる。 本殿右には稲荷神明水がある。 一番鳥居• 熊野社祠(重要文化財)、藤尾社祠(重要文化財)• 二番鳥居• 楼門(重要文化財)・南廻廊(重要文化財)・北廻廊(重要文化財)• 外拝殿(重要文化財):軒下四周に吊るされた12基の鉄製灯篭には、(おとめ座、ふたご座など)の透かし彫りが見られる。 これは「星曼荼羅」などにも見られ、密教の影響を示すものと考えられる。 内拝殿・本殿(重要文化財):で焼失した後、8年(1499年)に再建。 神楽殿:本殿の右脇• 御茶屋(重要文化財):本殿の右脇奥で非公開、17世紀初建造• 権殿(重要文化財):本殿の左後ろ• 授与所:本殿の左脇。 朱印所。 おみくじ授与。 上末社(重要文化財):長者社、荷田社、五社相殿、両宮社• 白狐社(重要文化財)• 奥宮(重要文化財)• 千本鳥居:奥社への参道に密に並ぶ鳥居を言う。 二股に分かれている。 奥社「奥の院」:奉拝所。 おもかる石、願掛け絵狐(のかわりに狐)。 御旅所 御旅殿 稲荷山 [ ] である稲荷山は、の最南端に位置し、標高233m。 3つの(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつてはで、それぞれに円墳が確認されている。 三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。 この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できるには、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。 参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「」や「」などを唱えている人もおり、日本でが行われる前の信仰(を参照)が今でも保たれているのを見ることができる。 奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。 この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。 また稲荷山には信者からされた約1万基のがあり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。 鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。 応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。 明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。 お塚は、その周りを取り囲む形となっている。 親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。 七神蹟地、およびその親塚にある神名• 一ノ峰(上之社神蹟) - 末広大神• 二ノ峰(中之社神蹟) - 青木大神• 三ノ峰(下之社神蹟) - 白菊大神• 荒神峰(田中社神蹟) - 権太夫大神• 間ノ峰(荷田社神蹟) - 伊勢大神• 御膳谷遙拝所 - 往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられている• 釼石(長者社神蹟) - 社殿の後ろに御神体の剱石があり長者社には加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祀る• 出発を待つ五基の神輿• 大山祭 (1月5日)• 本殿の儀 御饌石の上に供物を捧げたという故事に基づく。 山上の儀(御膳谷祈祷殿) 斎土器に中汲酒を盛ったものを御饌石に供えて、五穀豊穣と家業繁栄を祈る。 初午大祭(はつうまたいさい) (2月初午の日) 稲荷大神が稲荷山の三ヶ峰に初めて鎮座した和銅4年2月の初午の日をしのび、大神の神威を仰ぐ祭• 稲荷祭 (4月20日最寄の日曜-5月3日) 平安時代に起源を持つ祭りで4月20日最寄の日曜の「神幸祭」、4月下旬の「区内巡幸」、5月3日の「還幸祭」まで氏子地域の御旅所に神輿が置かれる。 田植祭(6月10日) 神前に捧げられる料米の稲苗を神田へ植える祭で、「御田舞」が演奏される中、早乙女らによって田植が行われる。 本宮祭(もとみやさい) (7月土用入り後の最初の日曜または祝日) 前日の宵宮には境内の提灯や灯籠に一斉に灯を入れる万灯神事が行われる。 講員大祭(10月体育の日の前々日・前日) 伏見稲荷大社の神徳を広く宣揚し、全国の講員が参拝して神恩に奉賽するとともに、家内安全・生業繁栄を祈願する祭。 火焚祭(ひたきさい) (11月8日) 「おひたきまつり」とも言われ、社前に火を焚く神事。 伏見稲荷大社では丁度初午に相対するものであるとしている。 大祓式(12月31日) 「師走の大祓」と称され、後半年の罪穢れを祓い、形代を河海に流して新年を迎える行事。 その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。 しるしの杉 [ ] 平安時代後期に熊野詣が盛んになると、京の公家や民衆は参詣の途中で伏見稲荷に立ち寄り、縁起に因む杉木の枝を頂いて身体につけることが流行した(『』など)。 『』でもが急なへの警備にも「先ず稲荷の杜にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして(略)」とある。 初午参詣で皆が杉木の枝をとっていくので稲荷山の杉はすっかり葉がなくなった」と詠んだの歌が残っている。 文化財 [ ] 重要文化財(国指定) [ ]• 伏見稲荷大社(8棟)• 本殿 - 五間社流造、檜皮葺き、明応3年(1494年)建立• 権殿 - 五間社流造、寛永12年(1635年)建立• 外拝殿(げはいでん)• 楼門 - 天正17年(1589年)再建• 南廻廊• 北廻廊• 白狐社• (附指定)長者社、荷田社、五社相殿、両宮社、熊野社、藤尾社• (附指定)城州稲荷社御修復御入用金高目録帳 9冊• 御茶屋 - 後水尾上皇より下賜され、仙洞御所から移築 重要文化財の社殿の画像• (左)熊野社、(中央)藤尾社 拝観 [ ] 24時間稲荷山を含む境内に入り参拝できる。 拝観料の類はなく無料で参拝できる。 ただしなどを販売する「授与所」は、7:00〜18:00頃のみにしか開いていない。 稲荷山の茶屋等の営業時間や休日はそれぞれ異なる。 また、旧宅が観光シーズンなどに特別公開されることがあるが、この時は特別公開部分のみ有料となる。 参集殿 [ ] 境内駐車場脇に伏見稲荷大社が経営する宿泊施設である「参集殿」があり、設備はかなり古いが比較的安価で宿泊できる。 ここに宿泊して夜の稲荷山を体験する観光客も増えている。 ただし、22時の門限と21時の浴場の終了時刻は考慮しなければならない。 また、日中は食堂を営業している。 玄関ロビーにはコインロッカーがあり、JR駅よりも安い値段で利用できる。 外国人観光客の増加 [ ] 近年は外国人観光客からも観光地として人気があり、による2013年の「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2位を、2014年の調査ではを抜いて1位を獲得し、その後も2019年まで6年連続で1位となっている。 これは、駅のごく近くに赤い鳥居が続く風景が非常に日本的な上、拝観料不要で閉門時間が無いことも理由であり、稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることも高評価の理由とされる。 平日のほとんどの日で外国人観光客の方が日本人よりも多くなっており、夕暮れのあとも稲荷山に登る外国人が多くなっている。 なお、本殿付近はライトアップされており、稲荷山への参道も脇道以外は全区間で街灯が1晩中点灯されているため夜間の参拝は容易であるが、夜間はイノシシが出没することがあり注意を呼びかける表示がある。 現地情報 [ ] 所在地• 深草藪之内町68 交通アクセス 鉄道• (稲荷大社のすぐ前)- からの所要時間は約5分。 正月3が日と1月4日を除いては停車しない。 (徒歩約5分)- 大阪のから特急を利用する場合の所要時間は約45分だが、特急は伏見稲荷駅に停車しないためで準急あるいは普通への乗り換えが必要。 また、快速特急「洛楽」は京橋駅を出ると七条駅まで停車しないため注意が必要となる。 京都駅及び竹田駅(一部中書島・横大路車庫まで延長)とを結ぶ・および京都駅八条口と醍醐バスターミナルとを結ぶで「稲荷大社前」バス停下車 - 京都市営バスは日中は1時間に2本ずつ、計4本が、京阪バスは同1時間に1本が運転されている。 自動車• 駐車場:表参道から入って参集殿の前の境内駐車場に普通車が停められるが、初詣の期間や祭事の日など、使用できない時もある。 境内駐車場は24時間利用可能。 伏見稲荷大社の駐車場はすべて無料である。 周辺 [ ]• 深草キャンパス• ・・ 脚注 [ ] []• 生玉稲荷神社(名古屋市守山区)では、倉稲魂神を主祭神として、、、、とともに五柱の神を稲荷五社大明神として祀るが、伏見稲荷大社と同様にこれら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。 『水台記』では「、」の四柱、『神祇拾遺』では「、、事八十神」の四柱とする。 伏見稲荷大社と同じくによって創建されたでは、境内末社の四大神社(しのおおかみのやしろ)で「春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神」を祀っており、その名から四季の神であることが明確にうかがえる。 最古の写本においては「伊禰奈利生」ではなく「生子」、すなわち「子を生んだ」と記されているが、江戸時代の国学者・により「伊禰奈利生」との表記がされるようになった(中村陽・監修『稲荷大神』戎光祥出版、平成21年、50-51頁参照)。 これはが15世紀頃にの注記のため作成した『』で書かれている山城国風土記伊奈利の社条のであり、また兼倶はの創設者でもあることから、信ぴょう性を疑問視する意見もある。 また、山城風土記は編纂の始まる3年(925年)以前に伝わる歴史や文物を記しており、和銅年間以降の風聞も含まれる可能性はある。 「忌寸」はでの位の1つ。 和銅4年()2月7日。 なお、この縁起を伏見稲荷の創建とみる場合、(旧・糸我町)の「」が日本最初・最古の稲荷神社となるという説がある。 文化7年()当時の神官、林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」によると、創建は「37代孝徳天皇白雉3年()壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあり、伏見稲荷神社より約60年遡ることになる。 (有田市HP )• 14世紀頃の成立。 およそ2m40cm。 南北朝時代の成立。 東寺に伝わる。 これを「私幣禁断」という。 天皇以外の個人的な参拝を禁止し、たとえやであっても天皇の勅許が要った(伊勢神宮HP 参照)。 空海の弟子。 塚の規模や由来に関わらず、稲荷社を伴い、または「稲荷」「狐」を称するは全国に存在する。 天皇以外の参詣を許さなかった伊勢神宮も、この頃から勧請を積極的に行っている。 秦氏創建とする711年より以降、空海が遷座したとする823年より以前ということになる。 「中の御社のほど、わりなう苦しきを念じのぼるに、いささか苦しげもなく遅れて来とみる者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし。 」「坂の半らばかり歩みしかば…やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、などかからでよき日もあらんものを、なにしに詣でつらんとまで、涙もおちて休み困ずるに…」と記す。 の時点では伏見稲荷大社はの扱いであり、秦氏と関わるやがすでに正一位に列していたのとは対照的である。 伏見稲荷大社の正一位は前述の通り5年()からである• 5年()にが行幸した際に「信心からの勧請には神体に正一位を書き加えるべき」としたが、江戸時代のこの問い合わせに対し大社側は「一子相伝でない勧請は迷惑」と返答したとある。 (『稲荷社事実考証記』) 出典 [ ]• 伏見稲荷大社. 2013年8月1日閲覧。 MAPPLE観光ガイド. 2011年1月19日閲覧。 2016年2月21日閲覧。 伏見稲荷大社. 2016年3月9日閲覧。 2016年2月1日閲覧。 上田正昭「稲荷神はどこから来たか」『稲荷大神』、戎光祥出版、2009年。 「稲荷社禰宜祝等甲状」(『神祗官勘文』に見る引用から)• 伏見稲荷大社. 2016年2月3日閲覧。 デジタル大辞泉『稲荷祭』。 2016年2月3日閲覧。 伏見稲荷大社. 2016年2月3日閲覧。 世界大百科事典 第2版『年中行事秘抄』。 ただし、この書はもともと式次第や縁起を詳述する態度をとっていない。 2016年2月21日閲覧。 『神道史の研究』第2巻、p86。 雄山閣、。 2016年2月21日閲覧。 2016年2月21日閲覧。 「稲荷一流大事」(伏見稲荷本願所愛染寺初代住職の天阿上人の著作)• 伏見稲荷大社. 2016年2月3日閲覧。 共著修論• 伏見稲荷大社. 2011年1月19日閲覧。 坂口安吾『』• 石田兼之、「」『法政大学大学院紀要. デザイン工学研究科編』 1巻 p. 1-14 2012年, 法政大学大学院デザイン工学研究科。 注記:書誌情報頁は『得意』、論文本体は『特異』と記述されている。 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p. 208• 田中重久「稲荷大社拝殿の鉄造十二宮文の吊灯籠」 史迹美術同攷会『史迹と美術』308・309号所収• 丘眞奈美『京都のご利益徹底ガイド』「伏見稲荷大社」、PHP文庫。 島田裕巳『宗教常識の嘘』朝日新聞社、2005年、p. トリップアドバイザー 2014年6月4日. 2014年12月17日閲覧。 参考文献 [ ]• 編『稲荷信仰事典』、1999年。 関連項目 [ ] 伏見稲荷大社関連• - 俳優。 実家は伏見稲荷大社境内の稲荷山山上の茶屋。 - 伏見稲荷大社をモデルとした伊奈里神社が登場する。 アニメ製作の際には、全面バックアップを行った。 「伏見稲荷」を称する他の神社• () - 当社より勧請• () - 当社より勧請• (神奈川県)• () - 当社より勧請• 元稲荷• (ゆわさかいなり) - 亀岡市()。 日本初の稲荷社で、当社の勧請元。 その他の神社• - 123基の鳥居が断崖絶壁に向かって100m以上続き、伏見稲荷大社同様フォトジェニックな神社として有名。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 オープンストリートマップに があります。 (公式サイト)• (京都観光Navi 京都市役所 )• (國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」).

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英語で紹介するFushimi Inari Taisha(伏見稲荷)

伏見 稲荷 大社 英語

「伏見稲荷大社はどんなインバウンド対策をしているんだろう…」 と思っている方。 京都にある伏見稲荷大社は、外国人に人気の観光スポットとして知られています。 伏見稲荷大社のインバウンド対策を1つの事例として押さえておくことで、自社のインバウンド事業に活かすことが可能です。 とはいえ、具体的にどのような点をチェックすればよいのかはわかりにくいですよね。 そこでこの記事では、• 外国人からの人気ナンバーワン!伏見稲荷大社のインバウンド対策事例について解説• オーバーツーリズムにはどう対応する?京都市と伏見稲荷大社の取り組み事例から学ぼう の順にお伝えします。 インバウンド対策は難しそうに感じますが、押さえるべきポイントはそれほど多くありません。 まずはこの記事で、伏見稲荷大社のインバウンド対策や取り組み事例についてチェックしましょう! 外国人からの人気ナンバーワン!伏見稲荷大社のインバウンド対策事例について解説 京都の伏見稲荷大社は、インバウンドから常に高い人気を集めている観光スポットです。 世界的な旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」が毎年実施している「外国人に人気の日本の観光スポットランキング2018」では、 伏見稲荷大社が5年連続でナンバーワンに輝きました。 ちなみにランキングのトップ10は以下の通りです。 【外国人に人気の日本の観光スポットランキング トップ10】• 伏見稲荷大社 京都• 広島平和記念資料館 広島• 宮島 広島• 東大寺 奈良• 新宿御苑 東京• 兼六園 石川• 高野山 和歌山• 金閣寺 京都• 箱根彫刻の森美術館 神奈川• 姫路城 兵庫 京都における観光スポットの中でも、8位の金閣寺を押さえて圧倒的な人気を誇っています。 人気の理由を観光客からの口コミから確認してみると、• 朱色の鳥居が千本もあり神秘的• 駅から近く、時間を気にせず入場できる• 入場料が無料 などの声が多いです。 ちなみに2019年5月時点での口コミ件数は22,818件、そのうち 8割以上が外国人によって投稿されています。 tripadvisor. 伏見稲荷大社は、インバウンドを継続して呼び込むための対策として• 無料wi-fiの設置• ホームページの多言語化• 地元商店街との連携 の3つを実施しています。 1つずつ対策の事例を説明しますね。 対策の事例1. 無料wi-fiの設置 1つ目の対策事例が、無料wi-fiの設置です。 wi-fi環境の有無はインバウンドにとって重要度が高く、観光庁のアンケート調査では 「旅行中に困ったこと」の第1位が「無料wi-fi環境が無い」でした。 【外国人観光客が旅行中に困ったこと】• 無料wi-fi環境が無い:36. コミュニケーションが取れない:24. 目的地までの交通手段がわからない:20. 交通機関の利用方法や料金がわからない:17. 両替やクレジットカードが利用できない:16. 無料wi-fiを整備しておくことで、 撮った写真をその場でSNSにアップしやすくなり、観光地のPRにつなげることが可能です。 mlit. pdf 対策の事例2. ホームページの多言語化 2つ目の対策事例が、ホームページの多言語化です。 外国人観光客は観光スポットを訪れる前に、ホームページなどを通じて情報を集めます。 その際、 多言語に対応していれば情報を集めやすくなり、訪れた時の満足度をより高めることが可能です。 では、• 中国語 簡体字・繁体字• 韓国語 の言語に対応。 ホームページ上では伏見稲荷大社の歴史に始まり、• 季節ごとのイベント• 敷地内のマップ• アクセス などを、画像やイラスト付きでわかりやすく知ることができます。 対策の事例3. 地元商店街との連携 3つ目の対策事例が、地元商店街との連携です。 伏見稲荷大社は2012年頃から、地元の商店街「稲荷繁栄会」と協力しながらインバウンド対策を進めてきました。 具体的な対策としては、• インバウンド向けの観光案内および手荷物預かり所「iStation」の設置• 英語、中国語に対応した商店街マップの作成• 外部講師を招いて、異文化を学ぶ勉強会• 英会話教室の開催• 商店街が運営するポータルサイト「」の開設 などです。 観光地の伏見稲荷大社だけでなく、それを取り巻く地域が1つになることで、インバウンド対策の効果が大きく高まります。 次は、京都市と伏見稲荷大社におけるオーバーツーリズムへの取り組み事例についてお伝えしますね。 オーバーツーリズムにはどう対応する?京都市と伏見稲荷大社の取り組み事例から学ぼう オーバーツーリズムとは、 観光客が増加することで現地に住む人々の生活に支障が出る現象を指します。 すでに世界的な観光地である• イタリアのベネチア• オランダのアムステルダム• フィリピンのボラカイ島 などでは、オーバーツーリズム問題が表面化。 住民によるデモが発生したり、観光客に対する禁止措置が取られたりしています。 日本の京都においても、2017年の外国人観光客による延べ宿泊客数が721万人と過去最高を記録。 地元住民の生活に支障をきたし始めています。 このような事態を受けて京都市は2018年5月、オーバーツーリズムの解決に向けて「京都観光振興計画2020」をアップデートしました。 この計画の中で京都市は、課題として• 外国人観光客の急激な増加とマナー問題• 無許可民泊施設の増加• 観光客の集中と混雑 を挙げており、これに対して 「3つの分散化」で解決する方針です。 【3つの分散化】• 時間の分散• 場所の分散• 季節の分散 1つずつ説明しますね。 時間の分散 1つ目が、時間の分散です。 一般的な観光スポットにはオープン時間が設定されており、その時間帯に合わせて観光客が押し寄せます。 京都市は世界遺産である二条城において、夏季のみオープン時間を1時間早めに設定しました。 混雑なく観光を楽しめる「朝観光」として打ち出し、観光客の分散を図るのが狙いです。 加えて、城内の「香雲亭」を特別公開し、そこで予約制の朝食を提供することで観光客の満足度アップにつなげています。 場所の分散 2つ目が、場所の分散です。 インバウンドから圧倒的な人気を誇る伏見稲荷大社ですが、実は伏見区のその他のエリアはそれほど混雑していません。 空いているエリアに観光客を呼び込む狙いで考え出されたのが、「酒どころ伏見」をアピールするツアーです。 伏見は日本有数の酒どころとして知られており、• 月桂冠• 松竹梅 など、歴史ある17の酒蔵が立ち並びます。 ツアーでは、酒蔵の見学と利き酒体験がセットになっており、日本酒を存分に楽しむことが可能です。 日本酒に興味のある 外国人観光客を空いているエリアに呼び込むだけでなく、体験ツアーを通じて満足度アップも実現しています。 季節の分散 3つ目が、季節の分散です。 京都の観光シーズンは主に• 桜シーズン:3月下旬〜4月上旬• 紅葉シーズン:11月中旬〜12月上旬 の2つで、この期間に観光客が集中します。 この2つのシーズン以外で観光客を呼び込もうと、考え出されたアイデアが「青もみじ」です。 市内の寺社と連携し、SNSを通じた写真の拡散につながるはたらきかけを積極的に実施することで、もみじの美しさが秋の紅葉だけでないことをアピール。 青もみじの認知度も徐々に上がってきています。 伏見稲荷大社のインバウンド対策事例を参考に、さらなるインバウンド集客を図ろう! ここまで、伏見稲荷大社のインバウンド対策事例についてお伝えしました。 おさらいしますと、京都の伏見稲荷大社は、インバウンドから常に高い人気を集めている観光スポットです。 世界的な旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」が毎年実施している「外国人に人気の日本の観光スポットランキング2018」では、伏見稲荷大社が5年連続でナンバーワンに輝きました。 伏見稲荷大社は、インバウンドを継続して呼び込むための対策として• 無料wi-fiの設置• ホームページの多言語化• 地元商店街との連携 の3つを実施。 地域一丸となってインバウンド対策に取り組むことで、大きな成果を上げています。 観光スポットとして人気が出てくると問題になるのがオーバーツーリズムです。 京都市はオーバーツーリズムに対応すべく、• 時間の分散• 場所の分散• 季節の分散 の「3つの分散化」で解決する方針を発表し、徐々に成果を上げています。 観光スポットにおけるインバウンド対策は、先行事例から学ぶのが1番確実です。 伏見稲荷大社の事例をチェックして、インバウンド集客の実現や、問題解決に役立てましょう! 外国人観光客に人気のスポットについて詳しくは、をご一読ください。

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