あわれなる 意味。 梁塵秘抄

もののあはれ(もののあわれ)とは

あわれなる 意味

「あはれなる」と「あはれなり」は、同じ意味だよ。 活用形が違うだけなんです。 「きれいだ」という言葉は、 1、「バラはきれいだ。 」といっても、 2、「バラが咲いたらきれいだろうな。 」といっても、 3、「バラがきれいに咲いた。 」とか「バラはきれいである。 」か「バラがきれいだった。 」とかとかいっても、 4、「きれいなバラが咲いた。 」といっても、 5、「バラがきれいならば、チューリップだってきれいなはずだ。 」といっても、 「きれいだ」という言葉が表している意味は変わらないでしょう? とにかく全部、「見た目が美しい」という意味だよね。 「きれいだ」という言葉は、「形容動詞」といって、 ものの様子や状態を表す言葉なの。 この品詞は、後にどんな言葉がくるかによって、 ことばの終わりのところの形がかわるんだよ。 1の「きれいだ」は、形容動詞「きれいだ」の「終止形」と言います。 終止形は、基本形ともいって、その言葉の「言いきりの形」です。 2の「きれいだろ」は、形容動詞「きれいだ」の「未然形」と言います。 例文のように、推量(予想)を表す「う」などの上にくるとき、この形になります。 3の「きれいに」や「きれいで」や「きれいだっ」は、形容動詞「きれいだ」の「連用形」と言います。 例文のように、動詞など「用言」と呼ばれる品詞の上にくるときや、過去を表す「た」の上にくるときなどに、この形になります。 4の「きれいな」は、形容動詞「きれいだ」の「連体形」と言います。 例文のように、名詞(=体言)の上にくるときなどに、この形になります。 5の「きれいなら」は、形容動詞「きれいだ」の「仮定形」と言います。 例文のように、仮定(今はまだそうじゃないけれども、仮にそうだと決める)を表す「ば」の上にくるとき、この形になります。 このように、「きれいだ」の後にどんな言葉が続くかによって、 「きれいだ」という基本形は、 「きれいに」になったり、「きれいな」になったり「きれいなら」になったり、 ことばの終わりのところが変わるよね。 こういうことを、「活用」する、というのです。 さて、「あはれなり」は、古語の形容動詞です。 これも、現代語の形容動詞と同じように、「活用」するんだよ。 「あはれなり。 」となっていたら、「あはれなり」は「終止形」、 「あはれなりけり。 」などとなっていたら、「あはれなり」は「連用形」。 「あはれなる名詞」となっていたり、 係助詞の「ぞ」「なむ」「や」「か」が上にあって係り結びの法則が使われていたりしたときなどにこの形になり、これは「連体形」です。 でも、どの形になっていても、「あはれなり」の意味は変わりません。 現代では、「あわれだ」と言ったら、 「かわいそう」とか「気の毒」とかの意味にしか使わないけれど、 古語では、「あはれなり」という言葉の守備範囲はずっと広くて、 なんとなくしんみりした情感をもよおすことについて、広範に表現する言葉なんだよ。 だから、文章の内容をよく読んで、 そこはどんな意味で「あはれなり」が使われているかをよく考え、 「気の毒」だと訳したり、「しみじみと趣深い」と訳したり、 「感動的だ」と訳したり、色々に訳し分けしなければならないのです。 「美しい」などと訳してもいいこともあるよ。 「あはれなり」をどんなふうに訳すかは、訳す人のセンスの問われるところ。 君も、その文脈にぴったりの訳し方を考えて、カッコイイ訳を作ってごらん。

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西行 千人万首(注釈付き)

あわれなる 意味

若山牧水 失恋の悲しみ 前の記事に記したように、若山牧水は、結婚を考えていた女性、園田小枝子に夫と妻がいたことがわかり、驚きながらもそれを受け入れていきます。 しかし、その理解は、牧水の愛の破局を意味するものでした。 牧水の短歌は、いよいよ恋愛の歌から、失恋の色を濃くしていきます。 ひとつの愛の終焉に伴う心境の変化がつぶさに詠われていくのです。 牧水と小枝子 心の断絶 君がいふ恋のこころとわがおもふ恋のさかひの一すぢの河 あなたが言う「恋のこころ」というものと、私が思う「恋」というものとの間に、一筋の河がある。 そのことに気が付いてしまった哀れな牧水なのでした。 憫(あは)れまれあはれむといふあさましき恋の終りに近づきしかな 互いに相手を愛し合うという心境は、相手を「憐れむ」心境へと変わっていく、それが恋の終りというものなのだというな牧水の内省と洞察です。 しかし、牧水には憎むという心はなかったということが救いです。 わがこころ女え知らず彼女(かれ)が持つあさきこころはわれ掬(く)みもせず 私の心を女は知ることができず、相手の浅い心の意を汲むこともわたしはしない 牧水は引き続き、二人のこころのかけ離れていることを訴えます。 恋の回想 そしてその後の歌 白粉(おしろい)と髪のにおひをききわけむ静かなる夜のともしびの色 俵万智さんは、二人の隔絶を歌いながら、そのあとに2人の交情を歌う歌が置かれてることを強調します。 おそらくこれは牧水の回想なのでしょう。 というのはその後に、 あはれそのをみなの肌(はだへ)しらずして恋のあはれに泣きぬれし日よ という歌があるからです。 さらに遡行して、牧水はまだ、小枝子に指も触れなかった日のことを思い出しているのです。 酒飲まば女抱かば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか さびしさを強調しているようで「しょせん酒を飲んだり女を抱いたりすることで埋められるような、その程度のさびしさではなかったのか」というのが、俵万智さんの解説。 「そのさびしさか」のリフレインは自問自答だと、俵さんは言います。 恋といううるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ来ぬ 恋という麗しいことばで自分をごまかすことに、少し疲れてしまった。 牧水の方は「恋」に違いなかったが、小枝子の方は、夫と子があることを隠していたのです。 小枝子の方はそれは「恋」とはいえない。 そのうちに思いは、自分の「生」全体に及ぶのです。 恋もしき歌もうたひきよるべなきわが生命(いのち)をば欺かんとて 恋も歌も、自分の命そのものを 欺こうとしての物だった。 根底にあったのは、牧水の「さびしさ」であったのでしょう。 小枝子の謝罪を待つ牧水 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詫ぶる子を見む 詫びて来よ詫びて来よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき 二首目は単純な歌ですが、牧水のどうしようもない辛さが伝わります。 そして牧水は、恋を詠む歌の終りに、「恋の終り」を継げます。 つまり、「恋」を題材とする、歌の想念が尽きたところが、歌人にとっての 「恋の終り」であるのです。 ひとりの自由 わが恋の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり 青草によこたわりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ わが行けばわがさびしさを吸ふに似る夏のゆふべの地(つち)のなつかし ここで、牧水は初めて「自由」という言葉を使っています。 愛の回想 きはみなき旅の途なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ かなしきは夜のころもに更ふるときおもひいづるがつねとなりぬる 寝巻に着替える時決まってその日とのことを思い出す、という意味の歌で、着替えの時に、というのが女性のような繊細さです。 恋愛の総括の歌 若き日をささげ尽くして嘆きしはこのありなしの恋なりしかな 秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしや人の忘られぬかな はじめより苦しきことに尽きたりし恋もいつしか終らむとする 五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾日をよろこびとせむ 一日だにひとつ家にはえも住まず得忘れもせず心くさりぬ 恋の終りの後は、もっと深刻な、牧水の心情が表されています。 「忘れがたみ」のこと わがために光ほろびしあはれなるいのちをおもふ日の来ずもがな ほそほそと萌えいでで花ももたざりきこのひともとの名も知らぬ草 この「いのち」というのは、小枝子が妊娠をして、里子に出した子供のことで、その子は病気になったと聞かされていました。 後に養育先で死んだとの連絡があり、このことが、小枝子の思い出と相まって、牧水を生涯苦しめることとなったようです。 牧水を苦しめた恋愛、しかし、この恋愛こそが、牧水を歌人として成長浅瀬たことは間違いありません。 作品を見れば、そのことが心に刻まれることでしょう。 『牧水の恋』俵万智著について 『牧水の恋』は俵万智さんの詳しい解説が一首ずつ短歌に添えられており、牧水の恋愛の軌跡がこれも良くわかるように書かれています。 牧水の初期短歌、「恋愛」が主題の本ではありますが、それだけではない若山牧水の短歌の魅力が堪能できますので、ぜひお手にとってお読みください。

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西行 千人万首(注釈付き)

あわれなる 意味

より=格助詞、(起点)~から。 (手段・用法)~で。 (経過点)~を通って。 (即時:直前に連体形がきて)~するやいなや。 率(ゐ)=ワ行上一段動詞「率る(ゐる)」の連用形。 率(ひき)いる、引き連れていく。 参らせ=補助動詞サ行下二「参らす」の連用形、謙譲語。 動作の対象である花山院を敬っている。 作者からの敬意。 どの敬語も、その敬語を実質的に使った人間からの敬意である。 給ふ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の連体形、尊敬語。 動作の主体である粟田殿(=藤原道兼)を敬っている。 作者からの敬意。 さて、(粟田殿は花山院を)土御門から東の方にお連れ出し申し上げなさるが、 晴 せい 明 めい が家の前を渡ら せ 給へ ば、みづからの声にて、手を おびただしく、はたはたと打ちて、 せ=尊敬の助動詞「す」の連用形、接続は未然形。 「す・さす・しむ」は直後に尊敬語が来ていないときは「使役」だが、尊敬語が来ているときは文脈判断。 「給ふ」と合わせて二重敬語となっており、動作の主体である花山院を敬っている。 作者からの敬意。 給へ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の已然形、尊敬語。 おびたたしく=シク活用の形容詞「おびたたし」の連用形、ひどく、激しく (陰陽師の安倍)晴明の家の前をお通りになると、(清明)自身の声で、手を激しく、ぱちぱちとたたいて、 「 帝王 みかど おり させ 給ふと 見ゆる 天変 てんぺん あり つるが、 おり=ラ行上二段動詞「下る(おる)」の連用形 させ=尊敬の助動詞「さす」の連用形、接続は未然形。 「す・さす・しむ」は直後に尊敬語が来ていないときは「使役」だが、尊敬語が来ているときは文脈判断。 「給ふ」と合わせて二重敬語となっており、動作の主体である花山院を敬っている。 晴明からの敬意。 給ふ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の終止形、尊敬語。 見ゆる=ヤ行下二段動詞「見ゆ」の連体形、見える、分かる、思われる。 「ゆ」には「受身・自発・可能」の意味が含まれていたり、「見ゆ」には多くの意味がある。 あり=ラ変動詞「あり」の連用形 つる=完了の助動詞「つ」の連体形、接続は連用形 「帝(=花山院)がご退位なさると思われる天の異変があったが、 すでに なり に けりと 見ゆる かな。 なり=ラ行四段動詞「成る」の連用形 に=完了の助動詞「ぬ」の連用形、接続は連用形 けり=過去の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形 見ゆる=ヤ行下二段動詞「見ゆ」の連体形、見える、分かる、思われる。 「ゆ」には「受身・自発・可能」の意味が含まれていたり、「見ゆ」には多くの意味がある。 かな=詠嘆の終助詞 すでに成ってしまったと思われることだよ。 参り て 奏せ む。 車に 装束 とう せよ。 」 参り=ラ行四段動詞「参る(まいる)」の連用形、謙譲語。 動作の対象である花山院を敬っている。 晴明からの敬意。 奏せ=サ変動詞「奏す(そうす)」の未然形、「言ふ」の謙譲語。 絶対敬語と呼ばれるもので、「天皇・上皇」に対してしか用いない。 よって、花山院を敬っている。 晴明からの敬意。 訳:「 天皇(あるいは上皇)に申し上げる」・「奏上する」 む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 ㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末に来ると「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」のどれかである。 装束(しょうぞく)=名詞、衣服、服装、恰好。 支度、用意。 とう(疾う)=副詞、早く。 「疾く(とく)」が音便化したもの。 せよ=サ変動詞「す」の命令形、する。 (宮中に)参上して奏上しよう。 車に支度を早くしなさい。 」 と言ふ声聞か せ 給ひ けむ、 さりとも あはれに 思し召し けむ かし。 せ=尊敬の助動詞「す」の連用形、接続は未然形。 「す・さす・しむ」は直後に尊敬語が来ていないときは「使役」だが、尊敬語が来ているときは文脈判断。 「給ふ」と合わせて二重敬語となっており、動作の主体である花山院を敬っている。 作者からの敬意。 給ひ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の連用形、尊敬語。 けむ=過去推量の助動詞「けむ」の連体形、接続は連用形。 基本的に「けむ」は文末に来ると「過去推量・過去の原因推量」、文中に来ると「過去の伝聞・過去の婉曲」。 さりとも=接続詞、そうであっても。 いくらなんでも。 「今は~だとしてもこれからは~だろうと」といった意味。 あはれに=ナリ活用の形容動詞「あはれなり」の連用形。 「あはれ」はもともと感動したときに口に出す感動詞であり、心が動かされるという意味を持つ。 しみじみと感じられる、しみじみと思う、しみじみとした情趣がある 思し召し=サ行四段動詞「思し召す(おぼしめす)」の連用形、「思ふ」の尊敬語。 動作の主体である花山院を敬っている。 作者からの敬意。 けむ=過去推量の助動詞「けむ」の終止形、接続は連用形。 かし=念押しの終助詞、文末に用いる、~よ。 と言う声をお聞きになっただろう(その時の花山院のお気持ちは)、そう(=覚悟の上での出家)であってもしみじみと感慨深くお思いになったことでしょうよ。 「 且、式神一人 内裏に 参れ。 」 且(かつがつ)=名詞、とりあえず。 ともかく、何はともあれ。 さっそく、早くも 内裏(うち・だいり)=名詞、宮中、内裏(だいり)。 宮中の主要な場所としては紫宸殿(ししんでん:重要な儀式を行う場所)や清涼殿(せいりょうでん:天皇が普段の生活を行う場所)などがある。 参れ=ラ行四段動詞「参る(まいる)」の命令形、謙譲語。 動作の対象である花山院を敬っている。 晴明からの敬意。 (清明が、)「とりあえず、式神一人が宮中に参上せよ。 」 と 申し けれ ば、目には見え ぬものの戸をおしあけて、御後を や見 参らせ けむ、 申し=サ行四段動詞「申す」の連用形、「言ふ」の謙譲語。 動作の対象を敬っている。 作者からの敬意。 ぬ=打消の助動詞「ず」の連体形、接続は未然形 や=疑問の係助詞、結びは連体形となる。 係り結び。 参らせ=補助動詞サ行下二「参らす」の連用形、謙譲語。 動作の対象である花山院を敬っている。 作者からの敬意。 けむ=過去推量の助動詞「けむ」の連体形、接続は連用形。 係助詞「や」を受けて連体形となっている。 係り結び。 基本的に「けむ」は文末に来ると「過去推量・過去の原因推量」、文中に来ると「過去の伝聞・過去の婉曲」。 と申し上げると、人の目には見えないものが戸を押し開けて、(花山院の)御後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、 「ただ今これ より過ぎ させ おはします めり。 」と いらへ けりと か や。 より=格助詞、(経過点)~を通って。 (起点)~から。 (手段・用法)~で。 (即時:直前に連体形がきて)~するやいなや。 させ=尊敬の助動詞「さす」の連用形、接続は未然形。 「す・さす・しむ」は直後に尊敬語が来ていないときは「使役」だが、尊敬語が来ているときは文脈判断。 「おはします」と合わせて二重敬語となっており、動作の主体である花山院を敬っている。 式神からの敬意。 おはします=補助動詞サ行四段「おはします」の終止形、尊敬語。 「おはす」より敬意が高い言い方。 動作の主体である花山院を敬っている。 式神からの敬意。 めり=推定の助動詞「めり」の終止形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 視覚的なこと(見たこと)を根拠にする推定の助動詞である。 いらへ=ハ行下二段動詞「答ふ/応ふ(いらふ)」の連用形、答える、返事をする けり=過去の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形 「とかや」= ~とかいうことだ。 ~とかいうことです。 か=疑問の係助詞、結びは連体形となるはずだが、ここでは省略されている。 係り結びの省略。 「言ふ・聞く(連体形)」などが省略されている。 や=間投助詞 「ただ今、ここを通り過ぎなさっているようです。 」と答えたとかいうことです。 その家、 土 つち 御 み 門 かど 町 まち 口 ぐち なれ ば、御道 なり けり。 なれ=存在の助動詞「なり」の已然形、接続は体言・連体形。 「なり」は直前が名詞である時、断定の意味になることが多いが、その名詞が場所を表すものであれば今回のように「存在」の意味となることがある。 なり=断定の助動詞「なり」の連用形、接続は体言・連体形 けり=過去の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形 その家(=清明の家)は、土御門通りと町口通りの交わる所にあるので、(花山院が通る)お道であった。 続きはこちら -.

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