吉本 興業 所属 タレント。 吉本興業ホールディングス

吉本興業ホールディングス株式会社

吉本 興業 所属 タレント

吉本興業とYouTuberマネジメント事務所のUUUM(ウーム)が28日、資本業務提携を締結するとともに、吉本興業所属タレントのYouTubeチャンネルを共同で運営していくことを発表した。 今回の提携で吉本所属タレントの約800チャンネルがチャンネル規模の成長や企業タイアップの獲得などに向け、豊富なノウハウを持つUUUMのサポートを受ける。 また、YouTubeチャンネルでのコラボレーションや合同イベント開催、吉本興業のサポートによるUUUMクリエイターのマスメディアでのキャスティング推進など、両社所属の芸人、タレント、クリエイターのバリュー最大化に向け、さまざまな取り組みを実施する。 両社の取り組みによる第一弾としてYouTuber、カジサック(39)ことお笑いコンビ、キングコングの梶原雄太とHIKAKIN(31)のコラボ動画が本日午後6時ごろ公開されます。 スポンサーリンク UUUMと吉本興業が資本業務提携はなぜ・理由は? 「UUUM」を You Tuberが次々辞める(退所・脱退) UUUM株価 昨年12月はじめまで5,470円あった株価が現在(2020年4月10日)時点で2,192円まで下落しています。 もちろん、新型コロナウイルスの世界的な問題で株価が世界的に下落しているのは考慮しても株価が半値以下になってしまっている現状は残念です。 昨年12月に「UUUM」を退所したハイテンションな喋り口と早稲田大学主席の過去を持つことで知られる、登録者数27万人の人気ユーチューバー・ブレイクスルー佐々木さんが激白しています。 ブレイクスルー佐々木がUUUM退所を発表 UUUMを2ヶ月以上前に辞めていたことを明かした佐々木。 理由は「シンプルに俺に合ってないんじゃないか」というもので、UUUMの所属クリエイター・スタッフは根が陽キャであり、約8ヶ月所属していたものの「友達とかひとりもできませんでした」と語る。 また、収益面でもいくつか理由があり、好きではなく参加もしないオフ会に自分の収益の一部が使われているかもしれないことに不満を感じたこと、UUUMを経由しないでも企業案件を多く貰えること、UUUMが間に入ることで断らないといけない案件があったことをあげる。 2月1日には、日本で5位の登録者数を有する大食いYouTuberの「木下ゆうか」(登録者数545万人)さんも退所を発表。 「木下ゆうか」がUUUM退所を発表 関根理紗さんは、看護師として普段は働きながらYouTuberとしても大活躍のクリエイター。 特に美容動画が人気で「雑談しながらメイク」や「フェイスパックレビュー」は代表作品と言って良いほどの人気を誇る。 親近感のある気さくなキャラクターが幅広い世代から支持を集めている 2012年にYouTube活動を開始した関根理紗は、2016年にUUUMに所属。 当時UUUMにいたのは憧れのYouTuberばかりで「内閣に入るぐらい名誉なことだった」と独特の表現をしています。 「ひとつのところずーっといるタイプの人間ではない」という関根理紗は所属当初から「いつかはやめるだろう」という思いを抱いていたとのこと。 自分のYouTube人生の中でのそういう時期っていう感じ、そういうターン で、何かキッカケがあったわけでないそうです。 とはいえ、仕事を手伝ってもらえる友人たちとチームのような体制が構築できたことも背景にはあるようです。 現在社長を務めているという関根理紗は、「鎌田さん(UUUM社長)マジすごいわ」と責任の重さを実感した様子。 しかし「これも勉強」と前向きにとらえているようです。 「ハイサイ探偵団」がUUUM退所を発表 最近本人から発表があったものだけでも9名が退所 2019年12月26日「」(登録者数25万人) 2019年12月27日「」(同36万人) 2020年1月1日「」(同5万人) 2020年1月19日「」(同54万人) 2019年2月20日「」(同38万人) 2020年2月8日「」(同28万人) 2020年3月7日「」(同26万人) 2020年3月19日「」(同46万人) 2020年4月4日「」(同32万人) 出典元:調べ UUUMと吉本興業が資本業務提携はなぜなのでしょうか? UUUMの大物You Tuberから中堅どころまで相次ぐ退所に、株価の下落 高額な事務所維持費など経営状態の資金繰りが大きく影響して、吉本興業に「資本業務提携」というカタチで話が進んでいったのが理由でしょうか? スポンサーリンク UUUMは吉本興業に吸収されるのか? 今回のUUUMと吉本興業のニュース報道は「資本業務提携」というカタチで 吉本興業所属タレントのYouTubeチャンネルを共同で運営して、吉本所属タレントの約800チャンネルがチャンネル規模の成長や企業タイアップの獲得などに向け、豊富なノウハウを持つUUUMのサポートを受けるという事で、 売れない吉本興業所属タレントのYouTubeチャンネルは、UUUM所属の「ヒカキン」や「 はじめしゃちょー」達とコラボすることで、知名度が上がるメリットがあり 劇場・舞台・テレビ界でノウハウを持つ吉本興業側が、今まで手薄だったネット配信・You Tube界のノウハウを吸収し、将来的に独自に展開することも考えられ 得するのは吉本興業、資金提供と引き換えにノウハウを取られてしまうUUUM、 最終的に、UUUMは資金繰りに行き詰まり吉本興業が吸収してしまうのではないかと心配されています。

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タレントマネジメント

吉本 興業 所属 タレント

1961年10月2日 - 2010年2月24日 略称 吉本、よしもと、吉本興業HD 本社所在地 〒542-0075 11-6 : 設立 事業内容 、、劇場などの運営 代表者 () (代表取締役) 資本金 1億円 2015年9月1日現在 発行済株式総数 3900万6803株 2009年3月31日現在 売上高• 連結:488億7108万円• 単独:58億1987万9千円 2009年3月期 純利益• 連結:6億1251万1千円• 単独:28億0173万3千円 2009年3月期 純資産• 連結:450億9002万7千円• 単独:422億1358万7千円 2009年3月31日現在 総資産• 連結:617億3791万6千円• 単独:560億1450万5千円 2009年3月31日現在 従業員数• 連結:610名• 単独:21名 2009年3月31日現在 決算期 毎年 主要株主• 吉本泰三、創業者• 創業者の妻• 元会長、せいの弟• 元会長、正之助の娘婿• 元会長 外部リンク 特記事項: 創業 1912年4月1日、旧吉本興業の設立は1948年1月7日。 吉本興業ホールディングス(よしもとこうぎょうホールディングス、: Yoshimoto Kogyo Holdings)は、(上の本店)とに本部を置く、、、・番組製作、演芸の興行などをグループで行うの。 通称「 吉本」、「 よしもと」。 1912年4月1日の創業以来、2007年9月30日までは日本ので、95年半のもっとも古い歴史を持っていたが、2007年10月1日から持株会社制へ移行し、同社の事業部門は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー、よしもとデベロップメンツ、よしもとアドミニストレーションにそれぞれ分社化され、「吉本(よしもと)」を名乗る芸能プロの歴史は、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに引き継がれた。 現在ので上場廃止、その後TOBで非上場化され、在京・在阪の主要民放局などが主要株主となっている。 と加盟。 概要 [ ] 明治末期の創業以来100年以上にわたり、古くは、・、から、現在の、、、、、、らに至るまで、東西の多くの人気芸人を輩出してきたお笑い界・演芸界の名門。 テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇る。 また戦前は、を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え、戦後はを立ち上げてをスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。 もともとは全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり、戦前は・・吉本で三大興行資本と称された。 東京の二大落語家団体のひとつ、の創設者でもある。 現在は芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。 「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」と言われ、芸能界における絶対的な権威から今や「吉本なしでは、番組が作れない」とまで言われる。 創業者の姓をとり「吉本」と名乗っているが、現在はオーナー経営ではない。 銀行系列は特にないが、旧系のに参加している。 現在もとの関係は続いている。 の大地主として知られ、現在はに高層ビルを構える吉本家(本家末裔の五郎右衛門がオーナーのと、分家の末裔であった晴彦が元オーナーである)とは、資本・人材ともに無関係である。 芸能事務所としては初めて証券取引所に株式を上場したが、「安定株主の下で経営を行いたい」との意向から、2009年9月11日、クオンタムリープ・放送局・創業家資産管理会社など14社が出資する投資会社「クオンタム・エンターテイメント株式会社」(吉本興業の株式を取得および保有することを主たる目的として、2007年4月22日設立。 代表はクオンタムリープ代表の)によるを実施し、株式上場を廃止する方針を発表。 事実上のを実施した。 2019年6月に開催された定時株主総会での了承を得て吉本興業ホールディングス株式会社に商号変更。 歴代社長 [ ] 代 氏名 期間 1 吉本せい 1932年 - 1948年 2 林正之助 1948年 - 1963年 3 1963年 - 1970年 4 林正之助 1970年 - 1973年 5 1973年 - 1977年 6 1977年 - 1986年 7 林正之助 1986年 - 1991年 8 中邨秀雄 1991年 - 1999年 9 林裕章 1999年 - 2005年 10 2005年 - 2009年 11 大崎洋 2009年 - 2019年 12 岡本昭彦 2019年 - 現職 役員 [ ] 役職 役員名 備考 代表取締役会長 大崎洋 ダウンタウンの元プロデューサー、開校時の担当社員 代表取締役社長 岡本昭彦 ダウンタウンの元マネージャー 吉本興業株式会社代表取締役社長、YDクリエイション代表取締役社長 取締役 ・明石家さんまの元マネージャー 取締役副社長 よしもとミュージックパブリッシング代表取締役社長、代表取締役社長 取締役副社長 取締役副社長 MCIPホールディングス代表取締役社長、YOSHIMOTO ENTERTAINMENT TAIPEI. ,LTD. 代表取締役 専務取締役 「」「」などのテレビ番組を制作 よしもとエリアアクション代表取締役社長 取締役 よしもとプロダクツ代表取締役会長 取締役 よしもとアドミニストレーション代表取締役社長 取締役 取締役 吉本興業代表取締役副社長 社外取締役 (原田・西田・向井法律事務所パートナー) 社外取締役 弁護士(パートナー) 社外取締役 教授 社外取締役 創業者 常勤監査役 社外監査役 クロト・パートナーズ代表取締役 社外監査役 弁護士(名川・岡村法律事務所副所長) 社外監査役 弁護士(のぞみ総合法律事務所パートナー) 株主 [ ] 株主名は公式サイトによる。 株主名 保有株式数 保有比率 備考 60000株 12. 始まりは吉本吉兵衛(本名:吉次郎、通称:泰三)・せい夫婦が大阪市天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、経営を始めたことであった。 翌1913年1月には大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に 吉本興行部が設立される。 1915年には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから「花月」 と改名し、花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)を結成。 吉兵衛・せい夫妻は、、の二大勢力の争いが三友派の勝利にほぼ確定していた1921年に、非主流のと提携して勢力を伸ばし、のちに反対派を吸収。 そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「」を買収して三友派も吸収。 上方演芸界全体を掌握することになる。 しかし、1924年に泰三が急性(説もあり)で死去し、若き未亡人せいが経営を背負うことになるが、せいの2人の弟の林正之助が大阪で、林弘高が東京で活躍し、大過なく経営を続けることができた。 その後、時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京などにも展開していた。 初代春団治 当初は当時の林正之助総支配人が「ラジオでタダで芸を聞かせたら寄席に客が来なくなる」として、専属芸人のラジオ(当時の)出演を堅く禁じていたが、1930年12月7日に落語家・初代桂春団治がその禁を破ってJOBKに初出演。 吉本は禁を破った春団治の寄席出演を堅く禁じたが、その後しばらくして春団治が寄席に復活した途端に客が押しかける様子を見て、専属芸人を放送番組に出演させることが結果として自らの営業利益につながることを知り、1934年5月4日にJOBKと吉本は和解を果たした。 1930年には漫才(当時の万歳)専門の寄席小屋「」を開館、当時としては破格の値段10銭という安い入場料で横山エンタツ・花菱アチャコ、・、、・、らが出演し人気を博す。 林田十郎(左)と芦乃家雁玉(右)(1948年) 東京・横浜への進出(大正末-) [ ] また大正末期より、東京・横浜への進出を開始し、1922年1月にはの寄席「川竹亭」を買収して「神田花月」として開場、同年5月には、横浜の寄席「新富亭」を手に入れている(翌年「横浜花月」と改称)。 昭和に入ると、の興行街への進出に本腰を入れ、「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と手に入れた。 1935年11月には東京吉本の本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせている。 また1932年3月1日に吉本興行部を改組する形で 吉本興業合名会社が発足すると、正式に東京支社を開き、林弘高が支社長に就任した。 以後、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる体制が確立する。 同年には「」の名付け親として知られ、のちに同社の社長にもなった橋本鐵彦、1934年(昭和9年)には漫才作者として名高いが入社した。 あきれたぼういず上から、益田喜頓・山茶花究・坊屋三郎(1950年) は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出した。 「浅草花月」オープン時には流行歌手のやタップダンサーのを出演させ、映画を上映し、の「吉本ショウ」を上演している。 専属のバンドと歌手、30人以上のダンサー・チームを抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となり、ここからのちに 、、、による、の元祖「」が誕生した。 「あきれたぼういず」以外にも当時の東京吉本は、柳家金語楼、を筆頭に、、、(元)、、ら多くの東京の人気芸人を専属に抱えていた。 タップダンサーのや、元祖外国人タレント・、喜劇王「シミキン」こと、コメディアンの(の父)、(キドシン)、、(の師匠) も当時、東京吉本に所属していたことがある。 伴淳三郎 東京吉本を率いる林弘高は欧米の視察経験もあり、当地のエンターテイメント事情に明るく、吉本を色物主体の演芸会社から、ジャズやタップ・ダンス主体のバラエティ・ショーを主軸とする興行会社へ近代化させようとした。 ジャズ評論家のによれば、当時東京吉本の文芸部にはやなど多士済々の作家陣が在籍していたが、中でも長年「吉本ショウ」の脚本を手がけていた岩本正夫は、早稲田大学文学部出身で、英語にも堪能であった。 そして松井翠声がアメリカのミュージカル雑誌の切り抜きを始終持ってきては、岩本がこれを翻案し、さらには新しい欧米映画を何度も見てネタを拾っては、脚本を書いたという。 1940年には、をリーダーとして「吉本スイング・オーケストラ」が結成され、浅草花月の舞台に登場するが、これも当時アメリカのショー・ビジネスを見学した林弘高が、ちょうど結成されたばかりであるのコミックバンドを見て感激し、その日本版を狙ったといわれる。 戦前の全盛期(昭和初め-) [ ] またこの時期吉本興業は、スポーツや映画といった演芸以外の分野にも積極的に進出している。 1934年には、の音頭の下、やなどと共同出資して、プロ野球球団の「大日本東京野球倶楽部」(のちの東京巨人軍、現・読売ジャイアンツ)を設立。 林正之助を球団の役員に送り込んでいる。 また1933年には、吉本の社内に映画部を設立。 1935年には、映画会社東宝の前身のひとつである(PCL)と、さらに翌年と提携し、1936年には林正之助が東宝映画配給の取締役に就任している。 こうして横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼ら吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになった。 また、本業の演芸部門でも東宝との合弁企業・東宝演芸を東京に設立し、東京での演芸興行にも一層注力することになった。 その一方で当時三大興行資本と言われた松竹・東宝・吉本のうち、東宝と吉本が急接近したことは、松竹を刺激し、松竹傘下のによる、後述の吉本芸人の引き抜き騒動を引き起こすことにもなった。 ワカナ(初代)・一郎 しかし1939年には、吉本を揺るがす大事件が起きる。 いわゆる「新興引き抜き騒動」である。 松竹が傍系の映画会社新興キネマに演芸部を設立させ、吉本の人気芸人を引き抜きにかかったのである。 その背景には、前述のように当時の三大興行資本のうち、東宝と吉本が急接近したことに松竹が反発したことがあった。 当時引き抜きに応じて吉本から新興キネマに移籍した芸人は、大阪吉本では、漫才コンビの、、など、東京吉本では、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・などであった。 川田が吉本に残留したのは、当時「吉本ショウ」の踊り子・と結婚したばかりであり、その媒酌人を林弘高・東京支社長に引き受けてもらったために、吉本に恩義を感じていたからと言われる。 結局川田は、新たに音楽ショウ「」を結成し、「地球の上に朝が来る」のテーマ・ソングで人気の巻き返しを図った。 またミスワカナの抜けた穴を埋めるために、1942年(昭和17年)、旅回り一座からのちのがスカウトされ、吉本入りしている。 戦時下の苦闘(昭和12年-) [ ] 1937年のの開始、1941年のの開始と戦時下の締めつけの強化は、吉本の展開にも暗い影を投げかけていった。 当局の台本へのが厳しくなり、レビューへの風当たりもきつくなっていった。 1941年には、「吉本ショウ」は「吉本楽劇隊」と改称させられている。 二代目春団治(1949年) 他方で、戦争が泥沼化し、本土へのも始まると、吉本は物的・人的にも大きな打撃を被ることになった。 1945年3月のでは、神田花月と江東花月が焼失。 神奈川県下に所有していた劇場も度重なる空襲ですべて失い、関東地区における吉本傘下の劇場で終戦時に残ったのは、浅草花月劇場、浅草大都劇場、の3館のみであった。 地元大阪でも、相次ぐ空襲で、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した。 また出征していった所属芸人の戦死にも見舞われた。 こうした混乱もあり、吉本興業は終戦直前に花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約を解消するに至った(同時に会社に借金がある芸人についてはその借金を棒引きしている)。 ただし専属契約の解消時期については「戦後の1946年 - 1947年ごろ」とする見解もある。 1946年秋に大阪で行われた主催の落語会にが出演しようとした際、本番直前に会場に林正之助が現れ出演を差し止めた現場をが目撃しているため、この時点でまだ専属契約が有効であったとする評論家もいる。 いずれにせよ、終戦直後の混乱の中での契約解消であったことがうかがえる。 戦災からの復興(昭和20年-) [ ] 終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、映画の製作と上映に活路を見出すこととなった。 そして1948年12月に封切公開された大映映画『大島情話』(主演・監督・)を皮切りに、次々と映画を製作していった。 また所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。 さらに1946年10月には京都で専用のキャバレー「グランド京都」をオープン。 こうしたいち早く時流の流れを読んだ吉本経営陣の読みは当たり、吉本興業の経営は軌道に乗っていった。 1948年1月7日に現在の 吉本興業株式会社が発足している。 1949年5月14日に(現・東京証券取引所)、1961年10月2日には東京証券取引所に上場した。 その一方で、1950年3月14日には創業者の1人であり、芸人に「おせいさん」と呼ばれて慕われた吉本せいが死去した。 一方、林弘高率いる東京吉本は、戦後の1946年10月、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立した。 銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営とともに、デビュー当時ののマネジメントや力道山のプロレス興行を手がけていった。 チエミの場合は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・、母親が喜劇女優・であり、両親ともに東京吉本の所属だった。 さらに1946年11月には、映画会社の前身のひとつ、「」を設立。 東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、『』(主演・、監督・/)など数々の映画を製作した。 また戦後の「浅草花月」は、浅草公園六区のほかの劇場と同様、ストリップやのを上演する一方、引き続き、、、(のちの)ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。 トニー谷(1950年) しかし浅草公園六区の興行街のその後の急速な斜陽化は、「浅草花月」をはじめ多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本をも襲うことになる。 東京吉本こと「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的にはの適用を受けるに至った。 演芸王国の復活(昭和34年-) [ ] 他方、映画館経営を主軸としてきた大阪の吉本興業は、昭和30年代に入ると、テレビの隆盛と映画の衰退を見据えて演芸部門を復活させることになった。 落語や漫才の主力芸人は戦後いち早く演芸を再開した松竹系に取られていたため、コメディを中心にすることにし、それをテレビで中継させて客を呼ぶ作戦に出た。 いわばテレビ時代のビジネスモデルを目指したわけである。 そして1959年3月1日、手持ちの映画館を演芸場に改装してとして開場、演芸再開に乗り出した。 演目は花菱アチャコ主演の「迷月赤城山」であり、うめだ花月開場と同時にテレビ放送を開始したと提携し、同社に舞台中継させた。 当初は所属芸人がおらず、、、、といった東宝系のコメディアンや、、といった既存のスターのほか、の芸人をレンタルしたり東京からの客演で凌いだ。 その後、吉本興業は、直営の映画館を演芸場に改装するかたちで、1962年(昭和37年)にはを、翌1963年にはを開場。 吉本ヴァラエティは、1962年にはと名前を変え、、、、、、、、らスターを続々と生み出していった。 昭和40年代には、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていった。 まず若手落語家のがの深夜番組で人気を得、続く毎日放送の番組「」()「」(テレビ)で、同じ吉本所属の若手落語家・桂三枝(現・6代桂文枝)が人気者となった。 さらにこのころより、・、ら吉本所属の若手漫才師も、「」()「爆笑寄席」()といった番組の出演により、若者の圧倒的支持を受けるようになっていった。 こうした売れっ子芸人でも花月劇場チェーンには欠かさず出演したため、花月劇場の観客動員にも一役買った。 こうしたを多用した手法で、所属芸人とともに吉本自体も急成長していったのである。 一方で特筆すべきは、を看板スターとした「」という日本芸能界初の和太鼓集団を大阪の新しい名物として売り出しに全力を注いでいたことである。 また、あまり知られていないが1972年にヒットした「宗右衛門町ブルース」()を発表したのがうめだ花月であった(当時はコミックバンドの歌謡曲や演歌が流行した)。 このように吉本興業は落語・漫才・コメディの分野で若い人気芸人を次々と輩出していった一方で、ライバルの松竹系のは老齢の重鎮クラスの芸人が多く、世代交代が進まなかったこともあり、昭和50年代に入ると、上方演芸界の主導権は再び松竹系から吉本興業へ移っていった。 特に1980年ので、、・、明石家さんまら吉本興業から全国区の若手人気芸人が続々と出た一方、松竹芸能はを除くと全般的にブームに乗り遅れたことで、それは決定的になったと言える。 以後吉本興業が上方の演芸界を支配する構図が、今日に至るまで続いている。 東京吉本の再興と地方への進出(昭和55年-) [ ] 東京都新宿区新宿にある吉本興業東京本部。 閉校した区立四谷第五小学校の校舎を再利用している。 そして吉本興業は1980年、を所長として東京連絡事務所(のちに東京支社、さらに東京本社に格上げ)を設置、東京吉本の再興にも乗り出した。 1980年代は純粋な東京吉本出身の芸人はぐらいであったが、1990年代以降、吉本が「」「」「」「」「」と次々と東京に劇場をオープンさせたことに加え、吉本総合芸能学院(NSC)の東京校が開校したこともあり、ロンドンブーツ1号2号、、、、、、など、東京吉本出身の芸人が続々と育ち、2000年代あたりからテレビを席巻しつつある。 現在、東京吉本は、新宿区新宿(隣)に本社ビルを構え(2008年に神田神保町から移転) 、所属の芸人数、社員数、売上高などから見ても、大阪吉本と肩を並べる存在である。 さらに吉本興業は1980年代末以降、名古屋、福岡、札幌、広島に支社または事務所を続々と開いていき、地方のテレビ局への食い込みを図るとともに、ローカルタレントの育成にも乗り出した。 岡山や仙台のように撤退することになった地方もあったが、そうした地方の吉本所属のローカルタレントの中から、出身の、や出身の、のように、全国区で活躍する者も出てきている。 積極的な事業展開 2005年-) [ ] 吉本興業は、直営劇場を東京に2つ、大阪に3つ、さらにテレビ番組収録用のホールを東京・大阪に各1つ持つにいたり、所属タレントは約800人という陣容になった(2008年秋に大阪にさらに劇場を新設)。 全国に直営劇場・寄席・映画館を47館持ち、所属芸人は約1,300人という戦前の全盛期(1935年ごろ)にはいまだ及ばないものの、依然として総合娯楽産業の雄であることは言を俟たない。 また芸人だけでなく、一般の社員の採用、育成に力を入れている。 さらに、興行以外にも多くの事業を展開していることから「総合娯楽産業の中心」という見方があり、就職先としても人気が出ている。 ただ、「社員になれば芸能人に近づける」という動機での志望者も少なくなく、新入社員説明会には冷やかしの参加者が増えたためか、有料化したこともある。 社員教育は徹底しており、マネージャーはあくまで所属芸人のマネジメントをする人間であって、付き人ではないという考えから、荷物持ちなどの雑用はしないようにと厳命している。 また、弟子を持っている芸人・タレントに対して師匠と呼ぶことも禁じている。 積極的な事業展開が目立つのも特徴である。 2005年には、吉本興業やフェイス、、などが出資する会社として、株式会社ベルロックメディアを米国に設立。 同時に日本法人も立ち上げ、日米でメディアの多様化にあわせ吉本グループのコンテンツを活かした新たなビジネスモデルを構築しつつある。 2010年代以降はやといったサービス向けオリジナル番組の制作・配信を積極的に実施している。 さらに、2007年10月1日には、持株会社に移行し、マネジメント・制作・営業統括部門を「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」、不動産賃貸・その他の事業統括部門を「株式会社よしもとデベロップメンツ」、経理・人事などの統括管理部門を「株式会社よしもとアドミニストレーション」にそれぞれ分社、ファンダンゴを株式交換で完全子会社化し、「株式会社よしもとファンダンゴ」としている。 2008年、お笑い女性アイドルグループ・(YGA)を結成。 のちにメンバー交代にともない正統派のグループへと方向転換した。 2009年、アメリカ大手の(CAA)と業務提携。 また、同年、を協賛開催し、の監督作品を製作・上映。 吉本は従来から、所属芸人が出演する映画の制作は行ってきたが、近年は作品をはじめとした「芸人監督」作品に力を入れている。 2010年には、吉本興業との合弁会社であるが運営し、プロデュースによるが、東京・の、名古屋・のに続く地域アイドルとして大阪・に誕生した。 2011年には「」スタート。 2012年には100周年を迎える。 2014年に映画の製作・配給・宣伝を中心とした業務を扱うを設立。 代表取締役に映画プロデューサーのが就任。 2015年に、洋画の配給に進出することを発表。 第1弾は主演の映画『』で、2016年夏公開予定。 2017年には吉本興業はが行っている「」(SDGs)に参加・提携をして国連が取り組んでいる環境対策の取り組みに参加し、のちにこの活動が認められて「」で特別賞()受賞した。 2018年に、秋元康プロデュース『吉本坂46』結成が発表された。 2018年には、吉本興業はのののと共同出資でとを減らすためのの会社()の(yySA)が創立をした。 2018年(平成30年)3月28日はムハマド・ユヌス氏が来日して吉本とのマイクロクレジットの事業を行うように協力をした。 ほかにムハマド・ユヌス総裁に似たキャラクター・が登場している。 2019年に、BSデジタル放送の新規参入を開始。 2021年に、「 よしもとチャンネル(仮称)」BSデジタル放送開始予定。 税法上の中小企業化 2015年-) [ ] 2015年9月1日付で資本金を約125億円から1億円に減資し、・上の「中小企業」となった(家電大手のは中小企業向けの税制優遇を受けようと検討したが、批判を受けて大企業とみなされる5億円にとどめた経緯がある)。 吉本側は「取り崩した資本金は中長期的な投資に回す」と説明しているが、法人税や法人事業税、地方税の法人住民税、地方特別法人税、中小企業投資促進税制、中小企業等基盤強化税制など数々のメリットがあるとみられている。 なお、ここで言う「中小企業」とはあくまで税法面においてのものであり、税法以外の基準、たとえばなどの基準から見れば減資後も中小企業には該当せず、に分類される。 評価 [ ] 上方演芸界への功罪 [ ] 長く演芸界の中心を担ってきており、多くの上方芸人を育てたこと、関西一円に寄席・劇場・映画館を多数持ち、集客効果を発揮して、周囲の繁華街の発展に寄与したことは、その功績として誰しもが認めるところである。 さらには戦前、を流行らせ、前述の初代桂春団治をめぐる放送番組の件や、京都の松竹と競合すると見るや新興資本の東宝と組んで漫才=と映画を融合させるなど、今日のとショービジネスの関連性をいち早く見抜き、メディアミックスの手法を取り入れて大いに活用し躍進した。 一時は大阪・新世界の通天閣も購入し、隆盛を誇っていた。 とりわけ戦前の吉本の功績としては、漫才の近代化に積極的に取り組んだことが挙げられる。 かつて漫才は「万歳」という表記であり、楽器を持った「音曲万歳」が主流であったが、昭和初期以降、吉本所属の横山エンタツ・花菱アチャコ(1930年・1925年にそれぞれ入社、1930年コンビ結成)をはじめとする演者、秋田實(1934年入社)らの漫才作家により、純粋に話芸のみで勝負するを育て、これを漫才の主流とした。 またそれまでの「万歳」の表記を、現代風に「漫才」と変えさせたのも吉本である。 こうしたしゃべくり漫才化の動きはやがて東京の漫才界にも及び、現在に至っている。 また戦後の吉本の功績としては、伝統的な大阪の流れを受け継ぐ「」とは別に、東京・のアチャラカ喜劇の流れを受け継ぐ「吉本新喜劇」(当初は吉本ヴァラエティ)を結成し、大阪にというジャンルを根付かせたこともある(吉本新喜劇初期の出演者には、、清水金一、木戸新太郎、財津一郎など浅草の軽演劇出身者も多く見られる)。 その後、本場・浅草では軽演劇というジャンルがほぼ絶滅したのに対し、それが移植された大阪では形を変えながらも今日まで続いている。 一方、吉本に対する評価が分かれるのは、に対する功罪である。 とりわけ上方落語界のスターだった初代春団治が1934年に死去したあと、上方落語は一時絶滅寸前にまで衰退したが、その原因は戦前の吉本の漫才重視政策にあるとする関係者もいる。 すなわち、前述のように戦前の吉本は「過度に」漫才に力を入れ、落語を軽視したために、それが上方落語の衰退を招いたと見るのである。 実際漫才の興隆の前に、寄席の出番も減り、落語家からは廃業する者や自ら漫才師に転身する者が当時出てきたことは事実である。 しかし戦前、吉本の幹部社員として漫才重視政策を推進し、戦後は吉本の社長も務めた橋本鐵彦は、演芸評論家・による聞き書きの中で、客を呼べる落語家が減っていったのが真の原因として、吉本が上方落語を衰退させたという説を全面的に否定している。 また東京の演芸評論家であるも、当時の吉本の漫才重視政策が、上方落語の衰退を加速させたことは事実としながらも、当時の上方落語自体にも衰退する理由があり、吉本が上方落語を潰したとまでは言えないと結論づけている。 東京演芸界への功罪 [ ] 「吉本=大阪・お笑い」というイメージも強いが、先述のように、戦前は必ずしもそうではなく、前述の通り東京・横浜にも多くの寄席・劇場・映画館を所有し、柳家金語楼、柳家三亀松、川田義雄ら多くの東京の芸人を専属に抱えていた。 戦後も、デビュー当時の江利チエミのマネジメントを手がけている(彼女の両親も東京吉本所属の芸人だった)。 さらに戦前は球団経営(プロ野球の東京巨人軍)に参画し、戦後も映画会社東映の前身のひとつ、太泉映画を設立するなど、興行資本としての性格も強い(ちなみに戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と呼ばれていた)。 一方、上方の演芸に対してだけでなく、東京の演芸に対しても、吉本は功罪相半ばする。 まず「功」の部分としては、大正末のの際に、被災した東京の演芸界に対して積極的に支援の手を差し伸べたことが挙げられる。 当時吉本の幹部社員が上京して、被災した芸人を直接訪ねて歩き、慰問物資を配って歩いたと言われる。 さらには東京の寄席が壊滅状態となって出演の場を失った東京の芸人を大阪に招き、吉本の寄席に出演させた。 そのために、後年まで「吉本」の名は、当時の東京の演芸界に「恩人」として刻み込まれたと言われる。 さらに吉本自身、大正末に関東進出を果たして以降、柳家金語楼、柳家三亀松など多くの東京の芸人を育て、また東京・横浜に多くの寄席や演芸場を開いた。 とりわけ「浅草花月劇場」など、浅草公園六区の興行街に多くの劇場・映画館をオープンして、浅草の繁栄に寄与した。 演芸評論家のによれば、浅草花月は1935年(昭和10年)にオープンするや否や、浅草公園六区の観客の熱狂的支持を集め、六区の人の流れを変えてしまうほどであったという。 また、あきれたぼういずを育て、東京の演芸にボーイズという新たなジャンルを確立しただけでなく、東京の落語界再編にも乗り出し、落語芸術協会を立ち上げて、今日の東京落語界の興隆の基礎を作っている。 そうしたことを考えるならば、当時東京に進出していた関西系興行資本3社、松竹・東宝・吉本のうち、東京の演芸界に対する寄与という点では、吉本がもっとも大きかったとも言える。 他方、戦後は吉本が東京から一時撤退し、大阪のローカル企業としての色彩を強めていったこともあり、戦前の東京吉本の歴史を知らない東京演芸界の若い世代からは、大阪べったりに見える吉本への批判や疑問の声が飛び出すことにもなった。 たとえば「人気がなければあっさり切り捨てる」という点では「あいつらは戦前から売れねぇと使けぇ捨てるんだよ、ったく冷てぇったらありゃしねぇよ」と著作において批判している。 または江戸笑芸を徹底否定する戦略を打ち出す姿勢を問題視しており、毎日放送がを打ち切ってに差し替えたことに激怒。 絶縁以降は自身出演のラジオ番組・自身が請け負った連載で徹底的に揶揄するほど非難している。 吉本興業のおもなトラブル [ ]• 横山やすし()は1970年に起こしたタクシー運転手傷害事件で長期謹慎、1977年にはタクシー運転手に侮辱行為、1984年には番組出演のドタキャン、1987年には出演者に対する暴力事件、1988年には番組出演キャンセル、および、俳優で息子のがタクシー運転手に傷害事件(この際に一八は吉本を解雇された)を起こすなど、多くのファンを獲得しながらその人気に乗じて多くの不祥事を起こしている。 そして1989年、一八の傷害事件による謹慎からの復帰直後に飲酒運転による人身事故を起こし、ついに吉本から解雇された。 当時の会長であった林正之助はこれまで度重なる不祥事を起こしてもやすしをかばい続け、解雇することはなかったが、この際はついに「もうええ! もうよろし」の一言で、やすしを解雇する決断をしたという。 その後もやすしは細々と芸能活動を続けていたが、1996年にのため死去した。 2006年7月、()が、10代の少女に対して飲酒行為と性的暴行に及んだことが判明。 山本は吉本から解雇となる。 これで極楽とんぼは事実上活動休止となるも、相方のが解散を否定していることもあり、2015年1月からは極楽とんぼの山本圭一として、フリーのお笑い芸人およびラジオパーソナリティとして活動していたが、2016年11月に正式に吉本へ復帰した。 2011年8月、島田紳助の暴力団との交際が明らかになり、紳助は芸能界を引退。 紳助自身は芸能界への復帰の意向はまったくないという。 2012年5月、()の母親が生活保護を不正受給していたことが発覚し、会見を開いた。 契約解除とはならなかったが、仕事が激減することになった。 反社会的勢力への闇営業問題 [ ] 「」も参照• 2019年6月、()がなどのグループが主催する会合に、吉本興業を通さない形でのいわゆる「闇営業」で所属芸人を仲介していたとして同月4日付で同社を契約解除された。 また、入江の仲介とは別に単独で「闇営業」を行っていたとして、も3月末に同社を契約解除されていたことが明らかになっている。 その後、入江の仲介を受けた所属芸人に数回の聞き取り調査などを行い、「反社会的勢力主催の会合であるとの認識はなかった」ものの「会合への参加により一定の金銭を受領していたことが認められた」として、同月24日付で()、(ロンドンブーツ1号2号)、(住谷正樹、)、()、、()、()、、八十島宏行()、常道裕史(2700)、ディエゴ()の11人を当面の間活動を停止し、謹慎処分とした(その後、宮迫と亮以外の人物は同年8月19日に活動を再開した)。 また、他社所属の芸人を通じて「闇営業」を行い、関係者が参加していたとされる会合に出席したことが発覚した真栄田賢()、内間政成(スリムクラブ)の2名に加え、すでに謹慎処分を受けている2700の八十島、常道も同じ会合に参加していたとして同月27日付で無期限謹慎処分とした。 同時期に発覚した所属のも同様のケースで8月末まで謹慎処分となったが、吉本と異なり、マスコミに「ザブングルを吉本芸人と同列に報じないでほしい」とする要請を事務所が行ったことや、コンプライアンスについて徹底した対応、被害者に対する謝罪などが称賛されたとして、引き合いに出された。 その後、謹慎処分を受けていた宮迫が7月19日に吉本興業とのマネジメント契約を解除され、当初は会見の予定が組まれていなかったが、翌20日に田村亮とともに出席して記者会見が行われた。 2人は一連の不祥事に対し謝罪を行うとともに、吉本側の一連の対応をめぐって吉本への不信感を表わした。 また、謹慎が発表された当初、会見の実施提案をめぐって同社の岡本昭彦代表取締役社長から「やってもええけど、ほんなら全員連帯責任でクビにするからな。 それでもええんなら記者会見やれ。 おまえら全員クビにする力があるんだ」と圧力ともとられかねない言動があったことを暴露している。 なお、田村亮も会見で吉本とのマネージメント契約の解除を訴えていた(なお、田村亮に関してはこの時点で吉本側は契約解除については否定している )。 創業者一族と主導権争いの歴史 [ ] 吉本興業の創業者は吉本吉兵衛(通称・泰三)とその妻・せいである。 1912年4月に夫婦で大阪の寄席経営に乗り出してから、吉本の歴史は始まった。 1913年には、吉本興行部を設立している。 吉本せいをモデルにしたの小説「」では、この時期に吉本の経営の采配を振っていたのはせいであり、夫の吉兵衛は道楽者で経営にはまったく興味がなかったかのように書かれている。 しかし矢野誠一の評伝『女興行師 吉本せい』によれば、吉本興行部主人として実質的に経営を指揮していたのは吉兵衛であり、せいはむしろ内助の功に徹していたという。 ともかく、吉兵衛は1924年に37歳の若さで急死し、未亡人となったせいが経営の表舞台に立たされることになった。 しかし吉兵衛存命中の1917年、せいは実弟の林正之助を吉本興行部総監督として迎え入れている。 また吉兵衛死後の1928年には、正之助の実弟となる林弘高も招いて、すでに吉本が進出していた東京・横浜地区の仕事を一任した。 ここに創業家の吉本家に加え、せいの実家である林家が吉本の経営陣に登場してくることになる。 1932年に吉本興行部は吉本興業合名会社になり、せいが主宰者、正之助が総支配人、弘高が東京支社長に就任、ここに大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる図式ができあがる。 しかし戦前の東京吉本に詳しい演芸評論家の小島貞二によれば、当時の東京吉本は、形式的には吉本興業の東京支社を名乗っていたものの、実体は「吉本株式会社」として独立し、弘高が社長を務めていた。 しかもこの「独立劇」自体、弘高と兄の正之助間のトラブルによるものであったという。 1938年には吉本興業合名会社は吉本興業株式会社に改組、せいが社長に就任するが、実際の経営は専務となった正之助が担うこととなった。 戦後の1946年、弘高率いる東京吉本は、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立する。 この独立劇も、弘高と正之助間のトラブルの産物であったかどうかは定かではない。 以後も両社は協力して力道山のプロレス興行を手がけているところから、 この独立劇の背後に骨肉の争いがあったともいえない。 [ ]社史「吉本八十年の歩み」には、終戦後の混乱の中で吉本興業本体の経営を身軽にするために、東京吉本を切り離したという趣旨で書かれている。 1948年、吉本せいは吉本興業の社長から会長に退き、林正之助が社長に就任した。 このころ、せいは、専務を務める正之助に任せている吉本興業の経営を、将来は溺愛する次男(長男・泰之助は2歳で病死)の吉本穎右に継がせる構想を持っていたが、穎右はせいの反対を押し切って歌手のと結ばれ、1女を儲けたあとに1947年に24歳の若さで病死()してしまう。 跡取りに先立たれたせいは前述の通り正之助に社長の座を譲ったあと、穎右の後を追うように1950年に60歳で世を去った。 穎右とせいが相次いで世を去ったことで、吉本興業の実権は名実ともに創業家の吉本家から林正之助社長の林家に移ることになった(会社の株はせいの三女の吉本恵津子が相続)。 1963年、正之助はなどの体調不良を理由に社長を辞任した。 後を継いだのは東京吉本(「吉本株式会社」)を率いる弟・弘高で、彼が大阪に乗り込み、吉本興業の社長に就任した。 しかし同時に弘高は東京吉本の自分の息のかかった幹部社員を連れてきたため、これ以後吉本興業内では、正之助・大阪吉本系と弘高・東京吉本系の社員間で主導権争いが続いた。 弘高は新たに巨大ボウリング場やインドア・ゴルフ場を開いて経営の多角化を進め、吉本の業績を急上昇させるなど、手腕を発揮する。 一方、弘高ら東京吉本系の社員は、当時再開したばかりの演芸部門には冷淡であり、花月劇場を閉鎖しようとさえしたという。 こうした路線に反発して、のちに吉本の社長になる中邨秀雄は、いったん吉本を退社している。 一方、弘高はのちにで倒れ、1970年に再び正之助が社長に復帰した。 正之助の復帰にともない、正之助に近い中邨が吉本に復帰する一方で、弘高・東京吉本系の幹部社員の多くは失脚し、当時幹部の顔ぶれががらりと変わったほどであった。 その後、1973年に正之助は社長から会長に退き、後任に橋本鐵彦が就任した。 1977年には、八田竹男が橋本を継いだ。 両者とも創業者一族以外からの登用である。 しかし1986年に再び正之助が社長に返り咲くが、1991年には正之助の死にともない中邨秀雄が社長に就任、しかし1999年には正之助の娘婿の林裕章が社長を継ぐなど、この時期社長のイスは創業者一族と外部の間で揺れ動く。 最終的に2005年の林裕章の突然の死を受けて、吉野伊佐男が社長を継いで以来は再び外部からの登用が続いており、今日に至っている。 結局吉本は、当初は経営陣の中枢を創業者一族で固める同族企業として出発したが、その中で、吉本せいと林正之助間で姉弟間の、さらには正之助と弘高間で兄弟間の主導権争いを繰り広げてきた。 前者には「吉本家」対「林家」、後者には「大阪」対「東京」という対立軸も加わり、様相を一層複雑なものにした。 いずれの主導権争いでも最終的に勝利したのは正之助であり、その過程で吉本興業の経営の実権は吉本家から林家、さらには同家の正之助直系に移っていった。 一方近年は、独自路線を強める吉野社長以下現経営陣に対して、それを創業者一族離れと見る大株主の林家が批判を強めている。 」というスクープ記事を載せたり、がが暴力団・の威勢を背景に創業者一族を脅しているとの告発記事を掲載と、週刊誌を使って経営権争いを有利に進めるためのリーク合戦をするに至り、注目を集めた。 こうした対立は、老舗の同族企業にはよく見られるパターンとはいえ、その行方が今後も注目されるところである(なお、近年の記事において林家を「創業家」とする記述も散見されるが、前述のように吉本興業の創業家は吉本家であり、林家は厳密には「創業者の妻方の一族」である。 大成土地社長で系列のイベント会社「正和吉本」も経営する吉本公一が創業家である)。 タレントの待遇 [ ] 闇営業問題発覚までは、所属芸人の多くは契約書も交わしておらず口約束すらしない状態が続いていた。 松本人志などは「契約金をもらったこともないし、このままどっかに移籍しても法的には一切問題ない」と語ったことがある。 また、タレントの送迎などをせず、どれだけ売れっ子でもマイカーや公共交通機関を使って移動する。 慢性的にタレントの総数がマネージャーの総数を大きく上回った状態であるため、1人のマネージャーが多くの芸人を兼務しなければならず、結果テレビの第一線にいるタレントであっても十分なマネジメントを受けられない場合が多い。 このため、吉本とは別に個人事務所を設けている者もいるほか、吉本とマネジメント契約を結んでいる人物は、基本的に吉本はキャスティングなどのみに関わっている。 また、2000年代以降は既存の大手芸能事務所(、など)にもお笑いタレントが所属する例が増えたため、それらを引き合いに出して福利厚生の薄さも批判されることも見られる。 ギャラに対して [ ] タレントのギャラ は歩合制のため、若手であまり仕事がない芸人の場合、「銀行の手数料や交通費がギャラより高い」といった現象が起こる。 明石家さんまや島田紳助は「」の替え歌で「 ギャラより高い交通費~」とたびたび歌っている。 このため、若手芸人は仕事が軌道に乗るまでは、本業のほかにアルバイトをすることも多い。 吉本の若手芸人の約半分がアルバイトをしながら生計を立てていることが、「」で明らかになっている一方、親から数十万に及ぶ仕送りを受けている芸人がいることも「」で明らかにされている。 ただし、テレビの出演料(吉本の関係する番組などは除く)、漫才などの賞レースやの賞金、CM出演料などについては 、吉本興業ではギャラ以外でタレントが直接稼いできたお金は全額そのタレントのもとに入るという(ただし源泉徴収はされる)。 ただ、のチャドだけは興行ビザで在留しており、年収200万円以下だと更新が困難になるため例外的に吉本と雇用契約を結んでおり、給料制になっている。 そもそもタレントは芸能プロダクションに「」されること自体が稀で(など一部の芸能プロダクションは給料制のため、ホリプロを代表するであっても長者番付には登場していない。 このことから、吉本とホリプロを比較して一長一短といえる)、タレント自身の芸能活動のマネジメントの一切を芸能プロダクションに「」する「」という形態を取るのが通常であり、吉本もこの形態を取っている。 事務所の影響力による圧力 [ ] 吉本は関西の最古・最大手プロダクションだけではなく日本最大手のプロダクションでもあり、や、などの大手と同様、芸能界に影響力が強いことから専属契約に対する影響力は大きい。 自分の意志で仕事を選べるほどの立場にない売り出し中の所属芸人に対しては雇用関係にきわめて近い拘束性・排他性を持っているほか、表だって吉本興業を離れた者や離反した者には、徹底して仕事を回さないよう芸能界に働きかける(いわゆる『干す』)力を持っており、離れる者は芸人としての生活を諦める覚悟が必要とされる。 その例として、ルーキー新一のように吉本と対立した者、、・コンビのように、東京進出のために反対を押し切って独立した者、横山やすし(横山やすし・西川きよし)や山本圭一(極楽とんぼ)のように、不祥事により吉本との専属契約を解除された者が挙げられる。 特に不祥事を起こして契約解除された者の場合は他事務所と契約する例も皆無に等しく、事実上の芸能界追放となる。 横山やすしのように、契約解除されたあとで他事務所に移籍しても細々と活動することしかできなかったりと、芸能界に戻れたとしてもかつての栄光を取り戻すことはできないケースが多い中、山本圭一のケースは10年間の芸能活動謹慎を経て吉本に復帰した希有な例であった。 不祥事絡みではなく、大平サブローのように単に事務所に反旗を翻しただけのような場合は、厳しい条件を呑んだ上ではあるが吉本興業に復帰した例もある。 なお、吉本興業時代にメジャーデビューを果たせずに契約を解消し、ほかの事務所に移籍したあとにメジャーデビューを果たした芸人と現在吉本興業に属する芸人との共演は可能である(、、、などがいる)。 またメジャーデビューを果たしていても、当時無名に近かったが不祥事を起こした際は数か月間の芸能活動自粛で済んだなどの場合があった。 ほかにのように、吉本に在籍したうえで吉本を離れたあとも吉本の舞台に出演し続ける事を条件に、円満に契約解消した例もある。 前述する通り、売れっ子になれば高額の報酬が得られるため、吉本でメジャーデビューを果たせずに移籍する以外に、吉本から移籍・独立する芸人は少ない。 しかし、労働契約の実態については、所属芸人は原則として各々が「個人事業主」の立場で吉本と契約していることや、契約の内容も前述のとおり自身のマネジメントを芸能プロダクションに委任する「委任契約」であり、「雇用責任」という前提が端からあり得ないため、労働条件などについて司法で争われたことはない。 闇営業問題発覚後 [ ] 2019年に発覚した所属タレントの闇営業問題では、事務所の圧力により会見予定が立てられず、結果宮迫・亮による自主会見に至ったという経緯があったうえ、前述したタレントマネジメント体制のずさんさが原因になっているとの指摘もあり 、後者については吉本所属タレントからを含めた内外から批判が相次ぐこととなった。 は2019年7月24日の定例記者会見の席にて契約書類の不在の件について触れており、「契約書面の不存在は、競争政策の観点から見て誠に問題があると考える」という認識を示している。 これにともない、吉本興業は所属タレントが依頼された仕事をすべて会社に報告することなどを定めた「共同確認書」を作成し、全所属タレントに署名させることを発表した。 上下関係 [ ] 上下関係もお笑い事務所の中では厳しいとされる。 また、先輩後輩関係なく仲のいい芸人は多く(かつてはのように仲の悪いコンビは少なからずいた)、年上の後輩に「さん」付けする芸人も多いなど絶対ではない。 その例として吉本入りの遅かったや年下の先輩と年上の後輩コンビであるなどが挙げられる。 オール巨人、、中田カウスなどのベテランを筆頭としたも根強く残っているが、現在はNSC出身の芸人が多いため、実力はつけたとしても一線で活躍できない芸人がほとんどであり、現在でも師匠を持つ芸人はごくわずかとなっている(師匠を持ちながらNSC入りする芸人もごくわずかだがいる)。 他社との違いを示す顕著な例としてが「は上下関係が緩い。 芸歴は上だけど年下のアンタッチャブルにはタメ口で話している」と話した際に、雨上がり決死隊の宮迫博之は「吉本だったら考えられない」と述べている。 本部・事務所 [ ] 吉本興業本店(大阪市中央区)• 本店・大阪本部(〒542-0075 11-6)• 東京本部(〒160-0022 5丁目18-21) 吉本興業は、・に本社を置き、それぞれ「」「」と呼ばれている。 それ以外に、・・()・に支社、()、、、、()に事務所、に子会社を置き、その中でも東海・札幌・福岡・広島・沖縄は「」「」「」「」「沖縄吉本」と呼ばれて、地元では親しまれている。 吉本の各地方事務所は、それぞれ地元のを所属タレントとして抱えている。 彼らの多くは、ローカル局で製作される地元の番組で司会やレポーターを務めているが、中には地元での圧倒的人気を背景に、東京吉本に移籍し、活躍の場を全国区に移す者も少なくない。 逆に東京・大阪の吉本から地方の吉本へ移籍し、活躍の場をあえてローカルに求める者もいる。 地方の吉本から東京・大阪の吉本へ進出• 、、 (札幌吉本から東京吉本へ)• 、、、、(福岡吉本から東京吉本へ)• 、 (名古屋吉本から東京吉本へ)• (広島吉本から大阪吉本へ) 東京・大阪の吉本から地方の吉本へ移籍• (東京吉本から札幌吉本へ)• (大阪吉本から福岡吉本へ)• (東京吉本から福岡吉本へ) 地方の吉本の中で、もっとも成功していると言われるのが福岡吉本である。 大阪や東京のお笑いを持ち込むのではなく福岡発のお笑いを育てるという方針を当初から徹底しているために、地元のテレビ局の信頼も厚く、今や福岡では朝から深夜に至るまでテレビで福岡吉本のタレントの顔を見ない日はないほどである。 華丸大吉、バッドボーイズ、パンクブーブー以外にも別事務所へ移籍した、など、福岡吉本出身の芸人の全国区での活躍が目立ち、改めて「九州に福岡吉本あり」を全国に印象づけることとなった。 福岡吉本は地方の吉本の中ではもっとも多数の芸人を抱え、大阪吉本、東京吉本に次ぐお笑い界第3極の座を窺いつつある。 また名古屋吉本も直接全国区の売れっ子を出した事はないものの、、、など出身芸人が別事務所へ移籍後に全国区へ出世したケースが見られ、一部で注目されているという。 ロゴマーク [ ] ロゴマークは「吉」の字を丸で囲んだ物であり、2007年10月1日から使用を開始している。 「吉」の字を笑顔に見立てたこのマークは実は二代目であり、初代は四ツの中央に「本吉」と右書きで書かれたもの(吉本が「 花のれん」と言われた所以)。 二代目は昭和30年代半ばに制定されたもので、当初は花月劇場の広告にも用いられていたが、昭和50年代以降は対外的に用いられなくなっていた。 1994年に三代目のロゴマークが制定されたが、これは「 YOshimoto」のYOと笑顔を掛け合わせたデザインとなっており、2007年9月まで使用されていた。 吉本興業とスポーツ [ ] 本業の「お笑い」の影に隠れがちだが、吉本興業はスポーツとの関係も深い。 特にプロ野球とプロレスの草創期には、大変重要な役割を果たしている。 まずプロ野球であるが、1934年の 選抜軍来日を契機に、日本では当時消滅していたプロ野球球団結成の機運が高まった。 これを受け、正力松太郎の音頭の下、吉本興業は、同年に京成電鉄や東芝らと共同出資して大日本東京野球倶楽部を設立した。 そして吉本興業総支配人の林正之助が巨人軍の役員に就任し、球団経営に参画した。 大日本東京野球倶楽部は東京巨人軍への改称を経て、戦後の1947年、読売新聞社の完全系列下に入り、吉本興業との資本関係は切れた。 また戦後のプロレス草創期において、の力士を廃業していた力道山を担ぎ出し、プロレスブームを起こしたのも吉本である。 1953年にアメリカでのプロレス修行から帰国した力道山を迎え、大阪の吉本興業社長林正之助、東京の「吉本株式会社」社長林弘高の林兄弟が、新田建設社長新田新作、浪曲の興行師永田貞雄とともに設立したのが日本プロレス協会であった。 早速力道山を主役にプロレス興行を始めて大人気を博し、特に力道山がと組みと対戦した試合は日本テレビとを通じて全国に中継され話題を呼んだ。 当試合は日本テレビの独占中継の予定だったが、NHKが吉本サイドを通して、強引に割り込んだという逸話もある。 こうしてプロレスブームを背景に、1954年に日本プロレスリング興業株式会社を設立。 社長に新田が、取締役に吉本の林兄弟や永田らが就任した。 以後も吉本はプロレス興行を手がけていくが、やがてプロレス人気に翳りが見え始めたこと、力道山とスタッフの関係が悪化していったことなどもあり、1957年の興行を最後にプロレスから手を引いた。 その後、吉本興業は大阪千日前に西日本最大規模のボウリング場「吉本ボウル」(1964 - 1986年)をオープンさせて、大阪のボウリング・ブームに火をつけたり、その屋上で大規模なインドア・ゴルフセンター「吉本ゴルフセンター」(1965 - 1974年)を経営したりしていた時期もあった。 その後1990年代、マルチ企業への転換を図る中で、再びスポーツの世界に手を広げている。 1996年にはを旗揚げして、再びプロレス興行に参入した。 1999年には、元のが吉本興業社員となっていた関係で、小坂の働きかけで社内にスポーツマネジメント部門を新設し、現役メジャーリーガーであった、(現役引退後は吉本興業の社員として採用される予定である)らを皮切りに、、、スポーツ選手のマネジメントに乗り出した。 また2002年には社会人ラグビーの雄・と、2005年にはプロ野球球団と業務提携し、オリックスのを吉本新喜劇の舞台に登場させたりしている。 2006年には、野球チームを設立し社会人野球に参入することを検討中とも伝えられていた(同年、にも所属していた同社タレントの不祥事もあり、フェードアウトした)。 2007年の夏に大阪ので開催された第11回世界陸上大阪大会のスポンサーも務めた。 現在、吉本はホリプロと並んで多くのスポーツ選手が在籍している。 現在もアメリカの大手スポーツマネジメント会社であると業務提携関係にあるほか、2009年1月5日にはスポーツ関連のコンサルティング会社・スポーツマーケティングジャパン(SMJ)を買収したと発表した。 文学作品に描かれた吉本 [ ] 吉本のお笑いに魅せられ、吉本ファンになった文豪・文学者は少なくない。 は戦前、しばしば大阪の吉本の寄席を訪れているところを目撃されている。 の日記『』を読めば、荷風が戦前・戦後を通じて浅草花月劇場(東京吉本の本拠地)の常連客であったことがわかる。 吉本の幹部社員とも親しかったは、代表作「」の中で、主人公が法善寺の花月(戦前の吉本で、もっとも格式が高かった寄席)を訪れるシーンを描いている。 は、若かりしころ、浅草花月の楽屋に入り浸り、将来小屋の文芸部員になることを考えていたという(『辻邦生作品全六巻3』の付録、月報III『「文芸」の会のころ』、p. 2より)。 吉本そのものを題材にした文学作品にも事欠かない。 もっとも有名なのは、吉本興業の創業者吉本せいをモデルにした山崎豊子の『花のれん』(1958年)であろう。 この作品は第39回を受賞し、翌年監督により、のコンビで映画化されている。 同様に吉本せいをノンフィクションで描いた矢野誠一『女興行師 吉本せい』(1987年)もある。 2017年に放送されたNHKの『』は、吉本せいをモデルとした主人公が大正から昭和期の様子を描いた作品となっている。 他には、浅草花月を舞台に戦前の東京吉本を描いたの『如何なる星の下に』(1939年)がある。 主人公・小柳雅子のモデルは、当時の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子と言われている。 この作品も戦後の1962年になって、東宝で豊田四郎監督により映画化された。 また直木賞作家・の『小説 吉本興業』(1988年)は、戦前・戦後の吉本興業とその芸人たちを描いている。 なお、この本は2017年、前述の『わろてんか』の放送に合わせて『笑いで天下を取った男 吉本王国のドン』と変題され、表紙も一新されて再版された。 吉本の芸人に題材を取った作品も少なくない。 中でも初代桂春団治を扱った、『小説・桂春団治』(1962年)、『桂春団治』(1967年)は有名。 平成期には、戦前の東京吉本のタップダンサー・中川三郎を描いた『ダンシング・オールライフ 中川三郎物語』(1996年)と、同じく戦前、東京吉本のトップスターだった三味線漫談の柳家三亀松を題材にした『浮かれ三亀松』(2000年)が発表されている。 劇場 [ ] 現役の劇場 [ ] 大阪市 京橋花月が入居していたKiKi京橋• (大正時代閉館)• (1944年閉館)• 南陽館• 三友倶楽部• (かつて松竹直営の新花月とは別)• (元第二文芸館)• (浪曲の寄席)• なんば花月(1988年閉館)• (1999年3月31日閉館)• (2010年12月3日閉館、現・):233席• うめだ花月(2008年10月31日閉館)• (2008年11月28日開館、2011年11月30日閉館):500席• (2017年9月25日開館、2019年8月25日閉館):700席 京都市• 京都花月劇場(1987年3月31日閉館)• (上記とは別の寄席)• 神戸市• (1958年閉館)• 吉本海岸通り劇場(1996年 -? ) 東京都 神保町花月• (後の)• 公園劇場• 銀座全線座(1978年閉館。 ただし吉本の経営下にあったのは終戦直後まで)• (1989年3月閉館)• 浅草花月(1985年2月閉館)• 渋谷公園通り劇場(1998年閉館)• 銀座7丁目劇場(1999年閉館)• (2009年4月25日開館、2011年11月30日閉館):445席• (2006年11月4日開館、2015年7月26日閉館):368席• (2007年7月7日開館、2019年12月24日閉館):135席 横浜市• (閉館日不明。 少なくとも1950年代までは営業していた模様)• 川崎市• 静岡市• 名古屋市• 福岡市• (後に吉本ゴールデン劇場へ改称。 2003年閉館) 岡山市• 日本経済新聞 電子版. 2019年6月24日閲覧。 吉本興業ホールディングス. 2019年7月20日閲覧。 当時占いに請っていた無名の落語家のが命名。 弟子のによると、杉は戦時中に東京吉本のレビュー団・「吉本舞踊団」に在籍(ラサール石井『笑うとは何事だ!』、1994年、281-282頁)。 瀬川昌久『ジャズで踊って』、1983年、183-185頁、195-196頁。 『喜劇人回り舞台-笑うスター五十年史』、1958年、168頁。 『上方芸能・笑いの放送史』 、1994年、75-76頁。 シネマトゥデイ. 2014年10月6日閲覧。 2015年10月17日. 2015年10月20日閲覧。 j-cast 2015年8月1日• サービス業の場合、資本金5,000万円超または従業員数100人超の企業が中小企業基本法上の「大企業」と規定されている。 香川登志緒『大阪の笑芸人』、1977年、171頁。 矢野誠一『女興行師吉本せい-浪花演藝史譚』、1987年、126-127頁。 矢野誠一『女興行師吉本せい-浪花演藝史譚』中央公論社、1987年、74頁。 小島貞二「東京吉本ラプソディ」『ザ・よしもと大解剖』、1988年、59-60頁。 ハフィントンポスト、2015年1月25日• wedge 2011年9月12日• ガジェット通信 2012年5月25日• スポーツ報知. 2019年6月11日. 2019年6月30日閲覧。 - 吉本興業ホールディングス株式会社(プレスリリース)2019年6月24日• - 吉本興業ホールディングス株式会社(プレスリリース)2019年6月27日• - 吉本興業ホールディングス株式会社(プレスリリース)2019年6月27日• 東洋経済オンライン 2019年7月2日. 2019年7月5日閲覧。 - SANSPO. COM 2019年7月20日• - 日刊スポーツ 2019年7月21日• - 産経ニュース 2019年7月22日• - 日刊スポーツ 2019年7月22日• 小島貞二「東京吉本ラプソディ」『ザ・よしもと大解剖』 読売新聞社、1988年、60頁。 吉本興業とタレントの間には雇用契約は結ばれていないため、上は「給与」ではなくタレント一人ひとりが「」であり、吉本からは事業収入 報酬 を受け取っていると解釈される。 プロダクション人力舎のように、一部プロダクションの中には、その賞金を数割程度会社側が取り込む場合が多い。 ただし、賞レースの賞金も同じ率だけ持っていく特徴もある。 毎日新聞 2019年6月25日• Yahoo! ニュース 2019年6月26日. 2019年6月28日閲覧。 アサヒ・コム. 朝日新聞社. 2019年7月24日. 2019年7月24日閲覧。 朝日新聞 2019年7月13日. 2019年7月14日閲覧。 『』2007年10月11日放送分• 芸人を廃業して故郷で別の仕事をしていた時に福岡事務所開設の際に声が掛かり芸人活動を再開した(2011年3月7日「田中企画」での発言)。 竹中功『わらわしたい-竹中版・正調よしもと林正之助伝』河出書房新社、1992年、136頁。 [ ] - 大阪日日新聞・2009年1月17日• 中でも氏のお気に入りは、「十銭漫才」で有名な寄席小屋「南陽館」であった(秋田実『大阪笑話史』、1984年、109頁)。 戦前、東京吉本の企画制作部のスタッフだった旗一兵の指摘による(旗一兵『喜劇人回り舞台-笑うスター五十年史』学風書院、1958年、135頁)。 参考文献 [ ]• 著『吉本興業の正体』 、 、2007年(平成19年) 関連項目 [ ] ウィキニュースに関連記事があります。

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【吉本興業】所属芸人やタレントの序列ランキング!有名な大物達の派閥グループとは?|sugar news

吉本 興業 所属 タレント

(、、、)• ミス・バージニア (元祖外国人タレントとされる)• マーガレット・ユキ• ミミー宮島• (元)• 松井翠声• 谷口又士 (トロンボーン奏者兼「吉本スイング・オーケストラ」リーダー)• (染団治は会長)• 姫宮接子• 関志保子(「吉本ショウ」に在籍。 後に夫人)• (キドシン)• 吉本株式会社(1946年 - )• 吉本興業東京本社(1980年 - )• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (・)• (宮地謙典・森本英樹・大川知英)• (・)• (・)• (・・)• (・)• (・・)• (・)• (・)• (久保田かずのぶ・村田秀亮)• (・)• (・)• (・)• (吉田サラダ・横山きよし)• (・)• (高木晋哉・池谷和志)• (・)• (・)• (片岡正徳・浜口裕章)• (・)• (村上健志・亘健太郎)• (岩橋良昌・兼光タカシ)• (・)• (・おたけ・太田博久)• (・・)• (長田庄平・松尾駿)• (じろう・長谷川忍)• (橋本直・鰻和弘)• (山内健司・濱家隆一)• (・)• (後藤淳平・福徳秀介)• (・)• (多田智佑・桑原雅人)• (・)• (・)• (・)• (まひる・よしこ)• 「東京吉本ラプソディ」『ザ・よしもと大解剖』 、1988年、59-60頁。 戦後、のを長年務めたによれば、戦前の東京で一流の寄席と見なされていたのが、四谷の喜よし、神楽坂の演芸場、芝の恵智十、神田の白梅と神田花月だったという。 『聞書き・寄席末広亭』 、2001年、190頁。 は評伝『女興行師 吉本せい』において、金語楼も戦前に引き続き戦後も、東京吉本に所属していたと記述しているが、詳細は不明(矢野誠一 『女興行師 吉本せい-浪花演藝史譚』 中央公論社、1987年、88頁)。 幼少時にアメリカから来日。 後にチャキチャキの東京弁を使いこなす金髪美女として芸能界の人気者となる。 その後東京吉本に入り、日本髪着物姿で、日本舞踊を踊る様が、戦前の浅草花月の名物となった。 (昭和16年)の日米開戦前後にアメリカに帰国。 戦時中は、長年の日本滞在経験を生かして、米軍の情報活動にも協力したという(旗一兵 『喜劇人回り舞台-笑うスター五十年史』 学風書院、1958年、180-181頁)。 戦前に活躍した日系二世でハーフの少女歌手兼タップダンサー。 1928年(昭和3年)12月・生まれ。 1933年(昭和8年)来日。 1935年(昭和10年)11月、6歳にして浅草花月劇場こけら落とし公演にタップダンサーとして出演。 金髪を振り乱して踊る可憐な姿は「日本の」「舞踏界のお人形」と言われ、人気を博した。 日英仏語に堪能だったという。 戦前の少女歌手兼タップダンサー。 1930年(昭和5年)横浜市の電気商の娘として生まれる。 6歳頃から浅草花月の「吉本ショウ」に少女役として出演。 喜劇とタップを演じた。 当時の浅草花月のプログラムには、「吉本ショウ出演のミミー宮島は、通学のため、平日朝の一回だけ休演させて頂きます」と記されており、小学校に通学しながら連日夜までの興行を務めていた。 1940年(昭和15年)に、「」を日本で初めてレコーディングしたことでも知られる。 戦後はとスター・ダスターズなどで歌った(・ 『日本ジャズの誕生』 、2009年、109頁)。 2013年8月22日閲覧。 『青春は築地小劇場からはじまった-自伝的日本演劇前史』 、1994年、210頁。 生没年不明。 1931年を卒業し、に入社。 社会部、学芸部記者を経て、1938年東京吉本に入社。 45年、に移り、50年には新芸術プロダクションの製作部長に招かれる。 57年新芸プロをやめ、フリーの芸能評論家に(砂古口早苗 『ブギの女王・笠置シヅ子-心ズキズキワクワクああしんど-』 、2010年、99-100頁)。 1932年2月東京品川生まれ。 1953年国文科中退。 東京吉本のラジオ部に入り、製作の仕事に携わる。 54年、文芸部に移り、57年退社。 フリーの演劇プロデューサーを経て、吉田事務所を設立。 、、、などのマネジメントを手掛けた。 74年6月急逝( 『舞台人走馬燈』 、2009年、186-188頁)。

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